エピローグ
『3A』とだけ書いてある表札の部屋のドアを、軽く三回ノックする。すると
「はあい」
という細い声が聞こえてくる。
これが合図で、田川祐介はその部屋のドアノブを掴む。
鍵はかかっていない。
ドアを開けると、見慣れた1LDK。
入るとすぐに、キッチンに立つ彼女の後ろ姿が見えた。
「ちわ」
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
未だに言い慣れていない様子の祐介に、彼女がふきだす。
「なんだよ」
「ううん。何だかかわいいなーって」
ケタケタ笑う。年上の余裕に、祐介は「ちえっ」と口を尖らせる。
彼女――ミサトはよく笑う。
茶色く肩までの髪を後ろにまとめ、割烹着のような大きめの生成のブラウスに、黒いスパッツを履いていた。伸びる手足は長くて細い。出会った頃は背が高く見えたが、彼女が痩せ型で姿勢がよかったからだろう。
「あ、これ……」
祐介は自分が持っていたスーパーのレジ袋を差し出した。
中にはサツマイモが二本と、彼女が好きな銘柄のビール六缶一セット。そして白ワインが一本。
「ありがと。しまっておいて」
「ほい」
祐介はビールのセットをばらして中に詰め込んだ。ワインは瓶入りの酒類をストックしている棚に置く。
(サツマイモはどうするんだっけ?)
しばしサツマイモを掴んだまま立っていると、
「それは冷蔵庫に入れちゃダメ。新聞紙にくるんで、ストック箱のところに入れておいて。お願いね」
と、声が掛かった。冷蔵庫の横に、野菜を入れているカゴがある。野菜を包むための古新聞紙も、そこに入れてあるのだ。
何度聞いても、なかなか憶えられない。
「了解」
「ありがと」
サツマイモを古新聞で包みながら、彼女が構っている鍋を覗き込む。サツマイモの金色が見えた。
「あ。けんちん汁。おれ、コレ好き」
「んふふ」
ミサトの含み笑い。
「? 何?」
「私、ほんとはけんちん汁ってキライだったの」
「えっ」
予想外の言葉に、祐介は愕然とした。
「あのね、昔お金が無かった頃に、冷蔵庫に残っていた野菜を何でも入れて食べたのが始まりだったのよ。だから貧乏くさくてキライだったの」
「マジ?」
「マジ。でもたまたま作ったあの日、ユースケ君がおいしそうに食べてくれたのを見て、また頻繁に作ろうと思ったの」
初めてミサトの作った食事を食べた時のこと。祐介が彼女の料理に救われた日のこと。
「まさかサツマイモが入っているのは……」
「だってこの時期、サツマイモって安いじゃない?」
「なるほど」
複雑な表情の祐介に、ミサトは笑う。
「でも、おいしいでしょ?」
清田リサは時々祐介にちょっかいを出して来るが、女優としての仕事が忙しくなってきている。端役ではあるが、大河ドラマ出演が決まったとかで、彼女の実家は大騒ぎらしい。
「オオゲサよねー」などと悪態をついていたが、まんざらでも無さそうだった。
祐介の階下に住むワンは、その後ミサトにアプローチするのかと思いきや、学会で知り合ったロシアからの留学生とあっさりと恋に落ちた。一度マンションに連れて来た際に紹介されたが、ワンの二倍はあろうかと思われるボリュームの女性で、笑顔がチャーミングだった。勉強はどうしたんだと、祐介はワンに会う度に突っ込みたくなる。
祐介の元相方である佐竹孝一は、その後発表した新譜の評判がよく、相変わらずライブチケットを取るのが難しい状態らしい。空きの少ないスケジュールの中でも時々祐介と飲みに行くが、気が弱いのは相変わらずで、祐介を失笑させている。
祐介の母親は全快し、祐介に頻繁にメールを寄越すようになった。
「見舞いに行ったくらいでいい気になりやがって」と祐介はあまり返事をせずにいて、それを最近ミサトに叱られた。
ミサトの息子は、イギリスで勉学に励んでいるらしい。時々中国語でミサトにメールを寄越している。そのメール内容をミサトに見せられるが、もちろん祐介には読めない。
田川祐介は今もライブハウス『うさぎ小屋』で楽器メンテナンスやPAのアルバイトをしているが、最近作曲の仕事が増えてきている。
孝一が演奏した彼の曲が売り出され、ダウンロード数がしばらく上位に入っていた影響だろう。リサの所属劇団の音響担当とも知り合い、練習に時々顔を出している。にわかに忙しくなってきた。
しかし毎日のギターの練習は欠かさない。
いつか自分の曲を、自分の演奏で聴かせたいから。
ミサト――加賀見さとは、相変わらず自宅で仕事をしている。
祐介は今も仕事帰りにミサトの部屋に寄る。
彼女の作る夕食を食べるためには、約束事が六つ。
・ドアを三回ノックする。チャイムは絶対鳴らさないこと。
・ケータイの電源は切っておくこと。もしくはマナーモード。
・冷蔵庫の中身を減らした時は、きちんと補っておくこと。
・彼女の仕事は、決して邪魔しないこと。
・クロはかわいがること。
・おいしいかそうでないかを、ちゃんと口に出して言うこと。
最近、それにもうひと項目追加された。
・帰ってきたら「ただいま」と言うこと。
「ニャアン」
甘えた声を出しながら、ミサトの愛猫クロが祐介の足もとにやってきた。何度来ても人間の食べ物を与えられることは無いのに、その不屈の精神には毎度感心する。
「さ、準備できたよー」
明るい声で祐介を誘う。テーブルの上には茶碗に盛られた白米と、漬け物、ブリの照り焼き、そしてけんちん汁。
「いただきます!」
ふたりの声が重なる。
そして、たのしい晩ごはんの時間が始まった。
(了)
ミサトさんちで晩ごはん ハットリミキ @meishu0430
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