第7話 そして、ミサトさんちの晩ごはん3
頭の中がいろんなことで一杯になっていた。
しかし周囲は静かな夜。
自転車を押しながら、祐介は家路を歩いていた。
いつものように自転車を走らせて帰ってもよかった。が、今はそうしたい気分だった。
孝一の音が、ずっと耳に残っている。それがこぼれ落ちないように、しっかりを地面を踏みしめながら歩いていた。
一方、ミサトのことも気になっていた。
息子と無事に再会できただろうか。
その息子は何をしに来たのだろう。
彼女は息子に手放したことを非難されていないだろうか。
――今、あの部屋でひとり、泣いていないだろうか。
一刻も早く駆けつけたい。
けれど怖くもある。
複雑な気持ちを抱きながら歩く。それでもやがてマンションが見えてくる。ツタが這う古い建物、メゾン・ド・ムジカ。
時刻は午前一時。見ると、三階の部屋の灯りが点いている。仕事から帰ってくる時に見えるその部屋は、ミサトの部屋だ。
(……起きてる)
予想通りではあったが、緊張してきた。
自転車置き場に愛車を停め、コンクリートの階段を静かに昇った。
ふだんなら疲れている時にはきついと思う三階も、今夜ばかりはあっという間だ。祐介はミサトの部屋の、ドアの前に立った。
躊躇した。だが起きているのは明らかだし、今日この日に寄らないというのは冷たいような気がしてならない。
大きく深呼吸をした。一回、二回……三回目でむせそうになって焦った。
(……よし)
覚悟を決めた。そしていつものノック。
コン、コン、コン。
「はあい」
細い声の返事がすぐ返ってきた。これだけでは彼女の機嫌がわからない。ただ泣いてはいないようだった。
「ちわ」
「ん、おかえり」
「えっ……あ、はい。た、ただいま」
“おかえり”。言われ慣れていない言葉に戸惑った。
靴を脱いで部屋にあがる。ミサトはキッチンに居た。コトコト何かを煮ている音がする。
(あ、この匂い……)
祐介はこの匂いを知っている。
「食べる?」
「う、うん」
「手を洗ってきてね。うがいもした方がいいかも」
いつもの空間のようにも感じるが、違和感があった。祐介は急いで洗面所に向かい、言われた通りに手洗いとうがいをした。
彼が洗面所を出たと同時に、ミサトはコンロの火を止めて鍋の蓋を開けた。ふわっと立ちのぼる湯気に、ゴマ油の香り。彼女のけんちん汁。
「おむすびもあるけど」
「あ、ああ、欲しいな」
彼女は電子レンジの中から、握り飯が二個載っている皿を出してきた。海苔の代わりに一個は黒ゴマ、もう一個は白ゴマがまぶされている。中身は焼き鮭に、昆布の佃煮。いつもの握り飯。
「私もけんちん汁だけいただいちゃおうかな」
祐介にはけんちん汁と握り飯二個、ミサトにはけんちん汁だけの食卓。ふたりはダイニングテーブルの差し向かいに座る。祐介の足下には、彼女の愛猫クロもスタンバイ。しかし人間の食べ物を与えたことは一度もない。諦めの悪いヤツだと、祐介はいつも思う。
「それじゃ」
「うん」
「いただきます!」
ふたり揃って手を合わせた。いつもの儀式。
祐介は早速椀を両手にとり、端に口を付けて汁を飲んだ。
「……はー、うまい」
静かに息を大きく吐き出した。サツマイモが煮くずれ、味噌の塩っ気と芋の甘みが混ざり合っている。祐介はこの感じが好きだ。そんな彼の様子を見て、ミサトは満足げに微笑む。
(……いつも通りだ)
何も変わらないいつもの食卓。
「うん、やっぱりコレうまいわ」
「そう」
「おれ、好き」
大根、ニンジン、長ネギ……今日はコンニャクも入っている。そしてサツマイモ。
黒ゴマの握り飯を掴み、ガブッとかぶりつく。ほろっとほどける鮭の塩加減が絶妙だ。
「これもおれ、好きだ」
「そう」
「あっ。でさ、今日すごいことがあったんだよ。あのさ、おれの元相方のコーイチがさ……」
祐介は言葉を止めた。
対面のミサトの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
笑顔で、箸と椀を持ったまま――
「……あ、ごめ……」
ミサトは椀と箸をテーブルに置き、それから右手で自分の涙を拭った。
「ミサトさん」
「あ、違うの。か、悲しいとか、そういうことじゃ、なくて」
もう一度、涙を拭う。しかし涙は、彼女の腕に伝ってすべり落ちる。コロコロと転がり落ちる。
「あの、ね。あの子とユースケ君、同じことを、言ってた、のよ」
涙が止まらない。
「これを出したら、“やっぱりコレ、うまい”“おれ、コレ好き”って……」
ミサトは両手で顔を覆った。
「あ、あの子、お、憶えてたの……私との晩ごはん……私の、作ったごはん……!」
彼女の息子は、憶えていた。
幼い頃の食卓を。
ミサトは嗚咽しながらそう叫んだ。涙と喜びで顔をくしゃくしゃにしながら。
祐介は食べかけの握り飯を皿に置き、席を立った。そして彼女の横に空いていた椅子を寄せて腰掛け、ミサトの頭を強引に抱き寄せた。彼女は驚いたような表情をしたが、抵抗しなかった。
「当たり前だろ。忘れるわけないよ」
ミサトは子どものように、しゃくり上げて泣いている。その頭をやはり子どもにするように撫でる。
「おれだって憶えているから。ここで晩メシ、初めてごちそうになった時のこと」
祐介の腕の中で、ミサトが何度も頷く。
(手放したくない)
そう思った。
それが彼女の作る食事なのか、この“晩ごはん”の時間なのか、それとも彼女自身なのか――。
答えなら、祐介の中にすでに出ていた。
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