第6話 そして、ミサトさんちの晩ごはん2

 コトコトと鍋が奏でる音だけが、キッチンに響いている。

 室内は適度な緊張感に包まれており、彼女の愛猫クロも、空気を読んでか息を潜めていた。

 ミサト――加賀見さとは、鍋を見守りながらダイニングテーブルのいつもの席に着いていた。

 ふと時計を見る。午後六時二十七分。

 そろそろだ。

 心臓が痛いくらいに早く打つ。

 ここ、メゾン・ド・ムジカの場所は少しわかりづらい。けれど住所をインターネットブラウザの検索窓に入れてしまえば、駅からの道順がすぐさまわかる。それでもわからなければ、電話をしてくるだろう。

「そちらにうかがって、よろしいデスカ?」

 拙い日本語、青年の声で、電話の向こうで彼はそう言った。

 四歳のあの日まで、使っていたはずの日本語。話せるようになってからは、母やミサト以上におしゃべりな子だった。

 なのに今は片言。この年月の重さを感じずにはいられない。彼の自分に対する丁寧語も、自分との距離を思い知らされた。

 だがそれに傷つく権利など自分には無い、と言い聞かせる。

 なかなかチャイムは鳴らない。

 何故彼女がチャイムを鳴らされるのを嫌がるのか。それは、あの日のことを思い出すから。

 息子をあの家に渡したあの日のこと。

 散々遊ばせて、疲れて眠ってしまったところだった。

 ふだんは倹約ばかりの生活で、それまで連れて行ったことの無かったテーマパークにふたりで行った。

 写真を撮った。その写真は、今も寝室の引き戸に貼られている。テーマパークのキャラクターの帽子をかぶって、息子はうれしそうだ。

 いつもより早く眠ってしまった息子を、父親の母――息子にとっての祖母が引き取りに来た。あの時のチャイムは、まるで心臓を打ち抜くかのように響いた。

 奪うように自分から息子を抱き上げた来客は、北京語で「あなたとはこれきりということで」と言った。

 その時点で深く後悔した。

 自分のしてしまったことの大きさに、激しくおののいた。

 だが、遅い。手の中にいた体温は、もう戻ってこない。

 目が覚めた時、あの子は泣いただろうか。

 背はどのくらい伸びただろうか。

 やはりあの子の父親に似ているのだろうか。

 何故、今、自分に会いに来るのだろうか。

 手放したことを罵られるのだろうか。


 ――自分を恨んでいる?


 ピンポーン。


 あれだけ嫌いだった、それでいて待ちこがれていたチャイムが鳴った。


 *


 その日のライブハウス『うさぎ小屋』の客入りはそこそこ良かった。久しぶりの営業だった。

「あ、ユースケ。みやげあるからな」

 機材のメンテナンスを終えた祐介に、マスターの宇佐原が賄いの一杯を出しながら言う。

「 “ちんすこう”でしょ。遠慮しときます」

「ミサトさんにお裾分けすればいいじゃないか」

 一時間ほど前にライブが終わり、店はバー営業に切り替わっていた。出演者は先ほど帰り、店内は数名の常連客が寛いでいる。

 祐介は時計を見た。二十三時。

(もうとっくに帰ってるな……)

 この日、ミサトの息子が彼女を訪ねて来ると聞いていた。

(十八歳か……)

 彼女の部屋に貼られていた写真の一枚を思い出した。テーマパークではしゃでいる母子。

 息子も、彼女に対して思うところはたくさんあるだろう。彼女を恨んでいるかもしれない。

 どうか、ミサトが傷ついていることになっていませんように――。そうグラスの氷を見つめながら、祐介は祈った。

(結局、夕飯は何を作ったんだろ?)

 そこも気になる。そして、それを彼女の息子が受け入れたかどうかも。

「ユースケ、今日ってこの後何か用事あるか?」

 宇佐原に声をかけられて、祐介は我に返った。

「? いいえ」

「そっか」

 本当ならすぐに帰って、ミサトの部屋に行きたかった。が、いつものマスターと違うと直感した。妙にそわそわしている。これから起きることにドキドキしている少年のように。

(……何を企んでいるんだ?)

 宇佐原は時折子どもじみたことをしでかす。油断ならない。

 店のドアが開いた。

「おっ、いらっしゃい」

「えっ?」

 店で飲んでいた常連客がざわめいた。

 入ってきた人物を見て、祐介は思わず立ち上がった。

「コ、コーイチ……」

 佐竹孝一だった。

 彼はひどく申し訳なさそうな表情で、祐介に対して会釈をした。それから宇佐原に近づいた。

「急にすみません」

「いいさ。今夜は特別ライブだ」

 宇佐原のその言葉を聞いて、一部の客から歓声が上がった。

 アコースティックギターのケースを抱えていた孝一はステージに上がり、自らセッティングを始めた。かつては孝一とここのステージで演奏をしていたから、どこに何があるのかを熟知している。

 祐介は孝一にかける言葉が見つからず、彼と宇佐原を交互に見た。宇佐原の笑顔は「いいから、黙って見ていろ」と語っている。

(何をやるんだ?)

 何をする? 準備をしているのだから、演奏だろう。

 では、何を演奏するのか?

 セッティングが終わったらしい。孝一が話し出した。

「えっと、佐竹孝一です。あの、突然で申し訳ないけど、お時間いただきますね」

 祐介は呆然として立ち尽くしていたが、宇佐原に肩を軽く叩かれて再度椅子に腰をかけた。演奏が始まるのだ。

(……え?)

 彼の奏でる一音目から気がついた。

 このシチュエーションで演奏される曲と言ったら、これしかない。

 祐介の作った曲。CM曲として作った曲で、土壇場で孝一の作った曲に取って代わられたもの。孝一から使いたいと頼まれていた曲――それが、孝一のギターから流れてきていた。

(……おれのデモテープのまま、やってる)

 すぐに気がついた。それが祐介には意外だった。あの部分は彼ならこんなアレンジをつけるだろう。ここはこんな風に変えて弾くだろう。そう想像できた箇所が、祐介が書いたそのままに演奏されている。

(でも……)

 違う。

 自分が弾く曲と、孝一が弾く曲。同じ譜面を見ながらなのに、何故もこうも違うのだろう。

 これがセンスというものなのだ。と、祐介は知っている。

(……ちくしょ……)

 店内にいた全員が、曲を聴いていた。だから静かに、心の中だけで毒づいた。

 こんな決定的なことをしやがって。これでおれは、この曲をヤツが演奏することを認めなきゃいけなくなったじゃないか。

 だが、同時に湧き出すこの誇らしさは何だろう。

“くやしい”と“うれしい”が複雑に絡み合っている。

 自分が好きで作った服を、自分が着る以上に着こなされている。

(やっぱ、コーイチだよ)

 彼に奏でられ、曲が悦んでいるように聴こえた。

 完敗だった。

 そして、この結果がまさしく自分が願っていたことであることを、祐介は認めざるを得なかった。

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