第5話 そして、ミサトさんちの晩ごはん1
「……何だよ、おれは行くって言ったろ?」
『ユースケ?』
違う!
田川祐介はガバッと跳ね起きた。そして自分が持っている携帯電話の液晶を見ると、そこには“佐竹孝一”とあった。
(やっちまった)
てっきり清田リサだと思っていた。寝しなに話をしていたから。
彼女主演の芝居のチケットを取り置いてもらっていたが、母の手術と重なったためにキャンセルをした。事情が事情であるためリサは快諾したが、その代わり千秋楽のチケットを用意された。
チケットは二枚。祐介とミサトのふたり分。
なんとなく気が進まなかった。
芝居に行くこと自体ではなく、ミサトと彼女の部屋以外で会うということが。
だから断っていたが、そんな理由はリサには話せない。『もうちょっと頭冷やしてから考えなさいよね!』と怒ったリサに電話を切られて、会話を終えていた。
『もしもし?』
受話器の向こうから、不安そうな声が聞こえてきた。孝一は昔から気が弱い。
「……悪い、間違えた。何?」
自分が狼狽えているのを見透かされないように、ぶっきらぼうに応える。
『話があるんだ』
「話?」時計を見ると、十一時。カーテンから漏れてくる灯りが眩しいから、午前中。「……何の?」
『できれば直接話をしたいんだけど』
「電話じゃだめなのか?」
『……』
煮え切らない。まったく心当たりが無い祐介は気分が悪いが、電話の向こうで涙目になっているひょろ長い男のことを思うと、自分が意地悪しているように思えてきた。
『あ、あのな……この間の曲……』
「ん?」
『ユースケが作った曲、メディアAの仕事のCM曲……』
思い出した。祐介の曲に決まっていたのに、土壇場で孝一の作った曲にすげ変わった件。
「ああ、あれがどうした?」
『あの曲を、やらせて欲しいんだ』
「え?」
『もちろん、クレジットはユースケで出す。けれどやるのはおれに任せて欲しいんだ』
「……」
思いも寄らない申し出に、言葉が出なかった。
『ユースケ?』
「えっ……」
孝一の真摯な声に、我に返った。
「あ……あの、少し考えさせて欲しい」
『ああ、そうだよな。事務所との契約の話にもなるし、そうだよな』
「あ……ああ」
うれしくないわけではない。
むしろ自分の作った曲をプロのミュージシャンに使ってもらえるということは、望んでいたことだ。けれど、
(何だろう……この何だか足りない感じ)
喪失感。
『それじゃしばらく考えてみてな。また電話するよ』
「ああ」
『いきなり電話してゴメンな。ありがとう』
「……」
孝一は何度も詫びと礼を言いながら電話を切った。
(こういうところは変わんねえよな……)
ふと、孝一に対する怒りがまったく湧かないことに、気がついた。
(……まあ、ヤツに対して怒ったって仕方ないし)
孝一に不義理なことをされているわけではない。それはわかっている。
(おれに余裕が無かっただけ)
ひとり放り出されて、ただただ不安だった。
しかし慣れた。
ひとり外で働いて、ひとりねぐらに帰る。
その間にミサトの部屋で食べる夕食、それがどれだけ自分の慰めになっているか。
単なる夕食の提供者でしかなかった隣人が、自分にとってひとりの大事な女になってきている。これは認めざるを得ない事実だが、本当にそれでいいのか、何度も自問する。
本名と、今の仕事。そしてかつて子どもがいたかもしれないこと。それ以外、自分は彼女のことをほとんど知らない。
だから知りたい。
しかし、知ることを怖いとも思っている。
何故怖いのだろう?
カチャン。
隣室のドアが開く音がした。
(ミサトさん?)
「んしょ、よいしょ」と、何やら大荷物を運んでいる声がしている。どうやら外出先から戻ってきたところらしい。スーパーのレジ袋のこすれる音がしている。
(客でも来るのかな)
珍しい。ミサトは宅配を利用していることが多い。スーパーに出ることもあるが、エコバッグひとつで済む量しか買わない。割高になっても消費できる分しか買わないから。
パタリとドアが閉まる音が響く。思えばこの時間帯に彼女を訪ねたことは無い。ドアをノックすれば、快く受け入れてくれそうな気もしたが、新しい彼女をまた知ってしまいそうな気がしてやめた。
*
「うわ」
開口一番、驚きの声が出た。
この日の仕事が終わり、マンションには午前零時に辿り着いた。
祐介はいつものようにミサトの部屋に寄った。
「うわって何よ。うわって」
テーブルの上を見て思わず出た感嘆詞。
ミサトのリビングのテーブルは、九〇センチ四方ほどの大きさで、ふたりでの食卓では少し大きめくらいのもの。ワンを交えて三人で囲んでもさほど手狭にはならない。
その木目のテーブルに、所狭しと料理が載っている。
「いや、だって、すごい量じゃん」
「つい作り過ぎちゃって……」
ふと見ただけでも、海老のチリソース煮、春巻き、春雨サラダ、鶏の唐揚げの甘酢あんかけ、麻婆豆腐が見て取れた。あと祐介が名前を知らない料理が二、三品。
あまりの量に、いつもおこぼれを狙って来る猫のクロが興奮して、テーブルの周りをグルグル走り回っている。
「これから客でも来るの?」
「ううん。こんな時間に来ないわよ」
「ワンさんも来るとか?」
「呼んでもいいけど……」
関係ないらしい。くどいくらいの確認に、ミサトが鬱陶しそうな顔をした。機嫌を損ねる一歩手前。
「食べるの? 食べないの?」
「あっ、食べる食べる!」
このままではおあずけになってしまう。祐介はあわてて手を洗いに行き、それから席についた。
「いただきます」
「い、いただきます」
皿が多すぎて、どれから手をつければいいのか悩む。
「満漢全席だね」
「本物の満漢全席なんてこんなもんじゃないわよ。百種類を越える料理を、数日間にかけて食べるのが満漢全席」
「へ、へえ……」
とりあえず、海老のチリソース煮をレンゲで小皿に盛った。海老はなかなかに立派なもので、口に入れて咬むと、きちんとパコンという歯応えがした。
「うまい」
「そう?」
(ん?)
ミサトの反応がおかしい、と思った。
うまいか否かを言うのは、ここで食事をする上での約束事。「どう?」と答えを促されることは多々あったが、回答に「そう?」と聞き返されたのは初めてのことだった。
次に春巻きを取った。「あ、これがタレね」とミサトに小鉢をすすめられたが、まずそのままで一口囓ってみた。パリッと香ばしい音。中身は春雨にシイタケ、タケノコ、長ネギと挽肉。うまい。
(でも、普通にうまいってだけかな……ん?)
気が付くと、ミサトが自分を凝視していた。
「な、何?」
「え……、あ、おいしいかなって思って」
「あ、うまいよ。うん」
「ほんと?」
「ああ」
(何だ? この雰囲気……)
確かにおいしいのだが、リラックスできない。
次に麻婆豆腐に行ってみた。レンゲで小皿に取り、それから口に運ぶ。
「これもおいしいよ」
聞かれる前に言ってみた。
「本場の麻婆豆腐と比べたらどうかな?」
「はあ?」
それは祐介が聞かれたところで、答えられる話ではない。
「そういうことは、ワンさんに聞かないと」
「ごめんなさい……」
どう考えても、様子がおかしい。
「ミサトさん、どうかした? なんだかおかしいぜ?」
「え? おかしいって、どこが?」
「どこがって……」
気まずい沈黙が流れた。が、ミサトがすぐに小さなため息をついた。
「ごめん。近々来客があって、何を出そうか迷っているの」
「そうだったのか。向こうの人?」
海の向こうの隣国を指して、“向こうの人”と聞いた。ミサトはコクンと一回頷いた。
「それじゃ何を出せば喜ぶのかって、ワンさんに聞いた方がいいんじゃね? おれじゃ参考にならないと思うよ」
そう言うと、ミサトは落胆したような顔になった。
「それもそうよね……ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいいけどさ」
そっか、この夜の食卓は自分のためではなく、別の誰かのための食卓だったのか。
(――あれ?)
気持ちが沈む。
不愉快だ。
しかしこれまでの夕食も、別に祐介のためだけに用意されていたわけではない。あくまでもおこぼれ。
(彼氏が来るのかな?)
中国に留学していたことがあったと言っていた。今だって中国語絡みの仕事をしているわけだから、華人の恋人がいたっておかしくはない。
祐介はふとあの写真を思い出した。奥の部屋にまだ貼られているであろう、母子の写真。
(あの子どもの父親とか……)
「やっぱり作り過ぎちゃったわね。ワンさんに少し持って持って行こうか。トキさんにも」
ミサトは自嘲気味に笑いながら言った。そんな彼女に、祐介はまだあの写真のことを聞けないでいる。
*
その劇場は、祐介が住んでいる街から私鉄で十数分行った駅近くにある。
利用者の多い私鉄二線が交差する駅で、近隣に大学や専門学校、また小劇場、ライブハウスが多い。土日ともなると、若者や観光客が駅前商店街を埋め尽くす。
この日も日曜日であったせいか、駅前の人通りがいつもに増して多かった。
「うちの音楽担当者に紹介するわよ」
行くつもりの無かった公演だったが、結局はリサのこの一言に負けた。どんなものでも音楽の仕事が欲しい。繋がりが欲しい。
それなのに行くのを躊躇していたのは、「ミサトさんと一緒においでよ」と言われていたからだった。
結局、祐介はひとりで出向いていた。
ミサトには声をかけることができなかった。
あの“満漢全席”の夜から数日経ったが、その間彼女の部屋を訪れていない。顔を合わすと、誰が来るのか? あの子どもは今どうしているの?と、聞いてはいけないようなことも聞いてしまいそうだったから。
駅から歩いて数分のところに、その劇場はある。一応“小劇場”の括りではあるが、歴史のある劇場で、知名度は高い。小さな劇団ではとてもではないが、一週間も公演できない。劇団“インソムニア”の規模が伺えた。
マチネ開場五分前。劇場前は客でごった返しており、近隣に迷惑をかけないように、劇団の若手団員がチケットの整理番号順に客を並ばせている最中だった。
「お客様、整理番号は何番ですか?」
祐介は係員に声を掛けられた。
「あ、清田リサの招待なんですけど」
「では、あちらの関係者入口で受付をお願いします」
見ると閉まっている正面入口のすぐ隣にも小さな出入り口があり、“関係者入口”と貼り紙があった。長蛇の列で開場を待つ観客の視線をなんとなく感じながら、祐介は関係者入口に向かった。こちらはひとりふたり並んでいるだけだった。
女性の後ろに並んだ。その女性はかわいらしいブーケを持っており、それをテーブルの上に置いてからノートに署名していた。
(ん?)
つい覗き見してしまった。するとそこには、きれいな字で“加賀見さと”と書かれていた。
「ミサトさん?」
「えっ?」
ミサトだった。
「え……なんで?」
「なんでって……リサちゃんにお呼ばれしたからだけど……」
祐介に言っても埒があかないと思い、直接ミサトに声をかけたのだろう。おかしいことなど何も無い。
受付の係員に促され、彼女は急いで残りを書き、中に入って行った。祐介も急いで署名をし、続いた。
ミサトが待っていた。
髪はきちんとセットされ、化粧も派手ではないが施されていた。服はロングスカートの、グレーのスーツ姿。いつもよりは年嵩に見えた。
すっぴんに、肩までの髪を後ろに束ねるだけ。大きめのシャツにスパッツかトレンカというラフな格好の彼女しか見たことが無かった祐介は、しばらくミサトに目を奪われていた。
彼女とあの部屋以外で会うのは、初めてのこと。
「ジロジロ見ないでよ」
「あ、ごめん」
ミサトが顔を真っ赤にして怒って……というより拗ねていた。
「いや……化粧してるの初めて見たから」
「それもそうね」
一般の開場も始まり、どっと客が劇場内に流れ込んで来た。祐介たちは係員に案内され、客席の一部に設けられた関係者席に座った。なんとなくの流れで、祐介はミサトの右隣に座った。
ミサトが受付でもらったプレスシートを読み始めたのを見て、祐介も自分のを見始めた。
何を話していいのかわからない。
(ふだんの食事中は何を話してたっけ?)
思い起こしたが、たあいないことだらけだったように思う。
食事の内容。その日仕事であったこと。雨降りの日なら雨の量。雪の日なら凍結した路面で滑った回数。暑い日ならば「暑い」と言った回数。帰宅する時に出ていた月の形――
(どうでもいいことばっかりだ)
そうは思ったが、何故それを今話せないのかが自分で不思議だった。
*
舞台は大盛況のうちに終わった。
最後は観客総立ちでのカーテンコール。出演者の中でも一番背が低いはずのリサは、それでも目立って輝いて見えた。
「リサちゃんに声をかけなくてよかったの?」
「メールしとくよ」
「そう」
そう言いながら、ミサトも持ってきたブーケを直接渡すことはせず、劇団員に託していた。
ふたりは自宅最寄り駅まで戻ってきていた。
千秋楽の幕が下りると、どちらから言い出したというわけではないが、同時に出入り口に向かった。そして並んで駅まで歩き、並んで電車に乗った。
マチネだったから、終わって最寄り駅に着いた時点でまだ夕方六時すぎ。陽はすでに落ちていた。
そしてこれもどちらから誘ったわけではないが、最寄り駅前の古い居酒屋に入った。狭いカウンターだけの店で安い。祐介は時々ワンを誘って、ここを訪れる。
ふたりは一番奥に並んで座った。
「今日はライブハウスの仕事じゃなかったの?」
「日曜だけど、営業自体が今日は休みなんだ」
年に一回、宇佐原の店とその妻経営のカフェとの、合同の社員旅行がある。祐介は母のこともあったが、そもそも社員じゃないからと、最初に誘われた時に遠慮していた。
「ユースケ君とこういうところに来るのは、初めてよね」
「だね」
今日はすべてが初めてのことばかり。
瓶からグラスに注いだビールで、小さく乾杯した。
「んー、おいしい」
そう言いながら幸せそうに笑うミサトは、早くも頬を赤く染めていた。彼女は酒に弱くはないが、赤くなるのが早い。
一方祐介は、ビールの味がよくわからなかった。
ひどく緊張していた。
すぐ側にある笑顔が、あの子どもと映っている写真と重なって見える。
「はい、お待たせ」
年季の入った女将が無愛想に注文した皿を出してきた。マグロのぶつ切り、焼き鳥数本、ポテトサラダ。「いただきます」といつもの挨拶をしてから、箸を出す。
「リサちゃん、突き抜けたわね」
うれしそうにミサトが言う。
これまで祐介は、リサの芝居をまともに見たことが無かった。一度だけ誘われて見に行ったこともあったが、ほとんど眠ってしまって憶えていない。
だが今回は没頭した。それはリサの演技力だけではなく、芝居の内容のせいでもあった。
喜劇だった。主人公は専業主婦になりたい女性。夫の仕事も順調で、別に働かなければならない理由はない。だが、どうしてもどうしても社会に出て働く方向に行ってしまう。そこがおもしろおかしく描かれていた。
祐介は自分に置き換えて考えていた。
自分は演奏者でありたい。なのに、それでは認められない。今だって需要があるとすれば曲だけ。練習ならいくらでもする。しかしそういうことではないのだ。
「自分が好きで選んだ服が、こーんなに似合わないものだったなんて……か」
突然ミサトがつぶやいた。劇中のリサが扮する主人公のセリフ。祐介も覚えていた。
まるで、自分と音楽について言われているようだったから。
孝一からは何度も電話が来ていた。電源を落としていたが、観劇中もやはり着信があったようだ。孝一は伝言を残したりはしない。
自分がすんなり「いいよ」と言えればいい。それで孝一は喜ぶし、自分にも金が入り、その上名前を売ることができる。
だが。
「私も、母親になりたかったんだけどな」
「えっ」
ミサトを見ると、穏やかな笑顔の横顔だった。
「ユースケ君、見たんでしょ? 写真」
祐介の顔を見ないまま、ミサトが問う。祐介は逡巡したが、大きくガクンと頭を上下させた。それを横目で見て、彼女はクスッと笑った。
「私ね、二十二の時に子どもを産んでるの」
欲しかった答えが、あっさりと得られた。
しかし聞きたくなかったという気持ちも、まだ強い。
何の言葉も出てこない。思いつかない。
そんな祐介に構わずに、ミサトは続けた。
「北京留学中に彼と出会ったの。将来一緒になる約束をして、気がついたら私は身ごもっていて。すぐに結婚できるかと思ったんだけど、彼、ちょっと大きな家の跡継ぎでね。反対されたのよ」
反対されても、腹の子どもは日増しに大きくなっていく。結局彼女は煮えきれない恋人に見切りをつけて、帰国を選んだ。
「彼は追ってこなかったわ……。私はこっちで暮らしていた母の元で、息子を生んだの」
これから先は誰も頼りにならない。母だってまもなく年金生活になる。ひとりで息子を育てる決心をしたミサトは、伝手を頼って翻訳の仕事にありついたのだった。
ところが在宅で且つフリーの仕事というのは、多くの人が思っている以上に厳しい。次から次へと迫る締め切りを守らなければ、次の仕事は来なくなる。
「それでも子どもはお構いなしに熱を出すし、ケガもする。母も手伝ってくれたけど、末期の肝臓がんが見つかっちゃってね」
母に子どもを預けられなくなった。近隣に親戚もいない。自分で面倒を見るしかなく、それで思うように仕事が進まなくなったことに、毎日イライラした。
子どもではなく、仕事が彼女の生き甲斐にすり替わっていた。
「でもうまい話があるもので、その時彼……子どもの父親の家から連絡があったの」
「……なんて?」
「彼が、交通事故で亡くなったって」
祐介は息を呑んだ。
「さっきも言ったけど、彼の家は上海ではちょっと知られた資産家なの。けれどひとりっ子の彼に死なれてしまって……どうやって突き止めたのかはわからないけれど、私が彼の子どもを産んだことを知ったのね」
子どもは四歳になっていた。保育園には入れたが、それでも大量の仕事をこなすには時間が足りない。そこへ「子どもを引き取りたい」と来た。
「ミサトさん、子どもを……」
渡したのか?と最後まで聞けなかった。それではまるで責めるような言い方になってしまう気がしたから。
「あの家の跡取りというのは、もう将来を約束されたようなもの。衣食住に苦労はしないどころか、最高の教育を受けられる。一方私は仕事に没頭できるし、いいことづくめなの。ちょっと報酬が入るのが遅かったからって、おかずが一品減って、あの子にひもじい思いをさせることもなくなるのよ」
どこかで聞いたような話。
(ワンさんだ)
子どものためを思って、妻に言われるがままに離婚に応じた。彼が子どもを諦めた下りに、よく似ている。
ウフフっとミサトは笑った。
「ひどいでしょ?」
彼女の微笑みは、自嘲だ。
「あの子をあの家に渡したことについて、後悔はしていないわ。おかげでこの秋からイギリスの大学に通えるほど、優秀に育ったというからね」
(息子が大学生?)
思わず頭の中で計算した。
これまで年齢不詳だった隣室の料理上手な女性が、“アラフォーで、子どもを手放した過去のある中年女”になった。考えようによっては、マイナス要素ばかり。
だが。
(そんなことは、どうでもいいだろ)
細かい計算をしていた自分が、ばかばかしくなった。
祐介は彼女の横顔を見つめた。それに気が付いたミサトが照れくさそうに、そして言い訳をするように言った。
「私、ユースケ君にあの子の面影を見ていたのかもしれない」
「おれ?」
夕飯を振る舞ったことの理由だと、すぐにわかった。
好き嫌いを許さず、“いただきます”“ごちそうさま”の挨拶を徹底させる。まるで子どもへの躾だった。
そして食事中の会話は、まさしく、家族団らんのそれではなかったか。
だから、祐介には居心地がよかった。
同時に、子どもを手放した罪悪感に苛まれてきたミサトも、救われていたのかもしれない。
「だからリサちゃんを連れて来た時、息子が恋人を連れて来た気分だったのよね。おもしろくなかったわ」
笑いながら言うミサトに、唖然とする。それで怒っていたのか。
「それだけ?」
「え? それだけって?」
自分が何を聞きたかったのかがわからなくなった。自分が息子扱いされていたことが不満だったのか、それとも。
「あ、ごめん。でも、確かにミサトさんはお袋みたいだったよ」
わざと笑いながらそう言ってみて、自分の言葉に傷ついている自分に気付く。
あれだけ彼女を恋愛対象ではないと、思い込んできたのに。
ミサトはウフフと小さく笑っていたが、それが途切れる頃に大きく息をついた。
「結局、私には母親はムリだったけどね。でも、母親でいたかった。いつもそう願っていたのよ」
「……」
彼女は祐介の顔を見た。そして穏やかな赤い顔で言った。
「付き合ってくれて、ありがとうね」
ミサトのその言葉が、どういう意味なのか。
この日のこの食事のことか。それとも、一緒に夕食を共にした“親子ごっこ”か。
祐介も彼女を見つめたが、彼女の笑顔は何も答えてはくれなかった。
「いらっしゃい」
ふらっと入ってきた客に、女将が声をかけた。それをきっかけに、ふたりは互いから目線を逸らし、そして黙り込んだ。
*
勘定を払って外に出ると、肌寒かった。
口から漏れる息が白い。
「たまにはいいねー、外食も」
一歩前を歩くミサトが、大きく明るい声でそう言った。だが祐介は返事をしなかった。ただ、目の前を歩く年上の女を見ていた。
「ユースケ君は最近どう?」
突然振り返ったミサトが、明るく尋ねてきた。
「おれ? どうって……」
「曲、書いてる?」
「あ、うん」
時折もらえる作曲の仕事。大きなスポンサーが付くようなものはまだ無いが――少し前に孝一に持って行かれたわけだが――、ありがたく大事にこなしている。
孝一から打診されていることについては、ミサトに話していなかった。なんとなく、快諾した方がいいと言われそうな予感がしたから。一方で彼女がこういうことに口を挟むタイプではないとも思ったが。
ミサトは祐介の顔を見ながら続けた。
「じゃ、ライブは?」
「え?」
孝一とのユニットを解散させてから、一度しかしていない。その時の客が少なすぎたから、次の予定を立てられずにいる。
「予定は無いよ」
「あら、残念」
また前を見て歩き出した。
残念。そう言われたことがうれしかった。
(そうだ。おれは自分で演奏したいんだ)
曲を書き、それを自らが演奏する。そんなミュージシャンになりたいのだ。
それなのに作曲ばかりの仕事。孝一からも“お前の演奏はいらない”と言われたのと等しく感じていた。
「――あのね、ユースケ君」
前を見たままのミサトが再び口を開いた。酔っているためか、少し声が大きめだ。
「何?」
「あの子……息子がね、私に会いに来たいって、言ってきたのよ」
「えっ」
「夏のあたりにね。イギリスに行く前にって最初言って来たんだけど、その時は私、断ったのよね」
それは。
「ほら、合わす顔無いじゃない?」
ワンとの三人で餃子を作った頃ではないか?
「それにあの子、今では英語と上海語しか話せないと思うのよ。私は英語が片言だし、北京語と上海語ってビミョウに違うし……」
言い訳を並べるミサト。しかし言葉を並べれば並べるほど、逆に彼女が自分で傷ついていっているように見えた。
断った時、彼女はどんな思いだったろう。
なぜ逃げるような真似をしなければならないんだろう。
自分をふがいなく思っただろう。
その自分に対するイライラを生地に込めたり、わざと明るい口調で語ったりする彼女が、祐介をたまらなくさせる。
「でも私、おかあさんに会いに行けって、ユースケ君に言っちゃったのよね」
「あ……」
病にふせっていた時の心細さから出た言葉だろうが、それで自分の本意に気付いた。自分の子どもに会いたくない母などいない。
ひらひらと夜道に舞うミサトの手先を見ながら、祐介は病室で握った母の手を思い出した。無意識だろうが、握り返してきた母の手。
「そうしたらさ、なんか上海に戻る用事があって、その際に日本に寄るんだって。数時間しか滞在できないみたいだけど、うちに来るって言うのよ」
「もしかしてこの間の満漢全席って……」
「そう。あの子に作ろうかなって思っていたの」
何を作ろう。
あれにしようか。
これにしようか。
考えながら、あんな品数になってしまった。
ミサトは饒舌になっている。うれしいのと怖いのと半々。それが祐介にもよく伝わってくる。手術前の不安でおしゃべりになった母を連想した。
「でもどれもありきたりの中華だったでしょ。決まらなくてね。いっそのこと、外食や出前も有りかなって思い始めたんだけど……」
「ダメだよ」
ピタリとミサトの足が止まり、祐介を振り返った。
祐介は両手をジャンパーのポケットに入れたまま、そこに立って彼女を見ていた。
「ミサトさん、ちゃんと母親じゃん。ちゃんと息子のコト考えてる。母親してるじゃん。もっと堂々と会ってもいいと思うぜ」
目の前のミサトと、自分の母親。何がどう違うのか、祐介にはわからない。
一緒に暮らすだけが親子じゃないはずだ。
「ミサトさん、いつものメシを作ってよ。一日を終えて、ねぐらに帰ってきてさ、あんなにホッとする時間無いよ」
手放したくない、大事な時間。
「……」
「息子さんにもさ、その時間を作ってやんなよ」
ただの隣人である自分が味わうことができるのに、彼女の子どもが味わえないのはおかしい。
無表情で祐介を見ていたミサトの表情が、徐々に強張っていった。口を真一文字にギュッと締め、眉間に皺を寄せて、怒ったような困ったような顔で祐介を見つめている。
それは、涙を我慢している顔。
(……これも、初めて見た顔だ)
祐介は怯まずに、じっと彼女を見つめ返した。
なあ、ミサトさん。母親っていう服も今着てみたら、案外似合うんじゃないか?
そんな思いをこめて。
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