第4話 ユースケのたまみそ

 ライブハウス『うさぎ小屋』。

「ねえ、いいじゃん。その日時間あんなら、来てよ」

 この日は三連休の最終日。人気のある出演者の日で、盛況だった。ただし始まるのが少し早かったのと、翌日は仕事だという客が多かったせいか、わりと早い時間からバータイムになっていた。出演者がすでに店から出ていたこともあり、店内はおしゃべりに花が咲いて帰り損ねている客と、バータイムが目的の客しかいなかった。

 マイクなどの機材を片付けていた田川祐介を待っていたのは、清田リサだった。

 劇団インソムニアの看板女優の座を短期間で奪還した彼女は、自分も出演する次回公演作のフライヤーを『うさぎ小屋』に置いてもらうべく、立ち寄っていた。

「あー……何も予定が入らなければな」

 フライヤーを見ながら、苦虫を潰したような顔で祐介はつぶやいた。誘われた初日である二十四日は、今のところ予定が無い。フリーターとしては何か仕事を入れたいと思っていたところだが、何も無い。それを見透かしているように、リサが粘る。

「どうせ何も無いじゃーん。おいでよ」

「うるせえよ」

「あ、おれ行きたいな。マチネある?」

 マスターの宇佐原が割って入る。“マチネ”とは演劇用語で、昼間の公演をさす。一方夜の公演のことは“ソワレ”という。

「初日はソワレだけだけど、その翌日ならありますよ」

「お。二十五日なら行けるかな」

「その日のマチネなら、チケットまだあると思います。おさえときます?」

「ああ、頼む。ヨメの分も頼むわ」

(相変わらず仲いいねー)

 宇佐原は愛妻家で知られている。娘ふたりが就職や留学で家を出てからは、夫婦で仲睦まじく暮らしている。

 妻はライブハウスとは駅を挟んだ反対側で、カフェを経営している。祐介も会ったことがあり、おだやかでやさしそうな夫人という印象だが、宇佐原は頭が上がらないらしい。

「で、ユースケはどうすんの?」

「えっ」

「行っておけよ。最近インソムニアは人気なんだぜ。ここで行っておいて、音楽スタッフとかと繋ぎとっておけばさ、この先いろいろお得だぞ」

 宇佐原が突然生臭いことを言う。しかしそういったチャンスが大事なのはわかる。インソムニアには専属の音楽担当がいるが、劇中挿入曲や、オペラを手掛ける時に使ってもらえれば、祐介にとっては大きなことだ。

「じゃ、ユースケの分は二十四日のを確保しておくわね。……あ、ミサトさんのはどうする?」

「へ?」

 リサと祐介は、一夜を共にした仲だ。ミュージシャンとしての祐介のファンだったリサは、だから彼と結婚することを目的に暴走していた。その頃彼女が恋敵と認識したのが、ミサトだった。

 事態が丸く収まってからは、祐介の知らないところでふたりは交流していたらしい。

「さ、さあ?」

「んじゃ、とりあえず二枚確保しとくわ」

「えっ、でもそんな勝手なこと……」

 そこでリサはキョトンとした顔をした。そういう表情をさせると、彼女は本当にかわいらしく魅力的だ。

「なぁに、ユースケったらまだミサトさんとシテないのぉ?」

「ばっ!」

「なあんだ。私、とっくにミサトさんと“姉妹”になっていたんだと思ってたのにー」

 舞台俳優だけあって、リサは声の通りがすばらしくいい。おそらく店の中で一番遠い席にいた客にも聞こえていただろう。狼狽えた祐介を尻目に、宇佐原がリサに尋ねた。

「なに、リサちゃん。もうユースケのコトは諦めたの?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけどね」ニヤリと小悪魔のように微笑んで祐介の顔を覗き込む。「今はお芝居の方が楽しいからね。こっちの方まで手が回らないのよ」

 祐介は何も言い返せなかった。ニヤリと笑うリサがひどく魅力的に見えてしまったことは、さすがに言えない。

「リサちゃん、がんばってるもんな」

 宇佐原が褒めると、リサは照れた。

「そんなこと無いですよー。でも今度の公演はウチの親も来るんで、ちょっと気合い入ってるかも」

(えっ?)

「あっ、もうこんな時間。帰るね」

 リサの親が彼女の芝居を観に来る?

(仲直りしたのか?)

 彼女は親を煙たがっていたはずだ。 

「おや、もう帰るのかい?」

「明日も早くから稽古なの。じゃあマスター、フライヤーよろしくね」

 ふたりに背を向けて店から出て行くリサは、全身がキラキラと輝いているように見えた。

 祐介はフライヤーに視線を落とし、チケットが有名なプレイガイドでも売られていることに気がついた。

 リサは挽回した。 

 あの直後、脇役として出演した公演が大成功をおさめたというのを、祐介は宇佐原から聞いた。演劇雑誌にも小さい記事ではあったが、“ヒロインを喰う実力派女優、開花”と紹介されていた。自分に結婚を迫っていた頃から、そんなに経っていないはずなのに。

「マスター」

 カウンターの中に居た宇佐原に、三十代と思しき女性客が声を掛けてきた。

「最近の佐竹孝一君、すごいですねぇ」

 彼女に背を向けて座っていた祐介は、心臓が止まるくらい驚いた。

「ああ、そうだね」

「今、彼のライブのチケット、取れないんですよー」

 CMソングが売れた。決まっていた祐介の曲を押しのけて決まった、孝一の曲。

 祐介も関わった曲だったのに。

「前にはここでもライブやってたじゃないですか。孝一君だけピンで、ここで演ったりとか無いですかね?」

「いやー、無いねぇ。ウチの規模じゃ無理だよ」

 祐介と離れて以来、孝一は『うさぎ小屋』を訪れてはいない。ここに祐介がいることを知っているからだろう。

「もうひとりのコ、何て言ったっけ? あのコはパッとしなかったけど。演奏が月並みっていうのかな……」

 グサリ。

 女性客は、目の前の男がその“もうひとりのコ”だとは気付いていなかった。

「いい曲作ってたんだけどな。それじゃ、おやすみなさい」

 女性客はそのまま帰っていった。祐介はなかなかショックから立ち直れない。宇佐原は、

「いい曲作ってたって、言ってたじゃないか」

 と、苦笑しながら祐介の肩を叩いた。

(なんだろうな……)

 すべてから、置いて行かれている。

 孝一やリサ。そしてワンも離婚して、ひとりで歩き出した。皆、前を向いて歩いている。自分だけが足もとを見つめながら立ち尽くしている……。

 すべてにおいて中途半端。

 音楽で食っていくと言いながら、ライブひとつできない現状。孝一をいつまでも許せない自分。

 さらにミサトへの思い。

(ああ、加賀見さん、だっけ)

 次々と明るみになっていくミサトの正体に、正直戸惑いを隠せないでいる。そんな自分が気持ち悪かった。

「ユースケ、もうそろそろ看板だから」

 宇佐原が声を掛けた。気分が沈んだままのユースケは、それでも「ごちそうさまでした」とつぶやいて、席を立った。


 *


『うさぎ小屋』から出ると、空気がひんやりとしていた。

(夏はどこに行っちまったんだろうな)

 いつの間にやら十月を過ぎている。周囲だけでなく、年月までもが足早だ。

 そんなことを感じていると、マナーモードにしていた携帯電話が震えた。

(うっ)

 液晶に出た名前を見て、祐介は躊躇した。

“田川啓介”、祐介の兄からの電話だ。だが出ないわけにはいかない。

「……はい」

「よう、ユースケ。元気にしてるか?」

 しばらく会ってはいない兄だが、いつも通りの声だった。

「元気だよ。で、こんな時間にどうしたの?」

「こんな時間にって、お前のケータイがなかなか繋がらないからいけないんだろうが」

 それもそうだ。

「ああ、悪かったよ。で、何?」

 兄と論争してもたいていは勝てない。だからさっさと用件を聞き出そうとする弟の魂胆がわかったのか、啓介は小さく笑った。しかしすぐに声の調子を整えて言った。

「あのな、お袋が入院することになったんだ」

「え?」

 祐介の頭の中が、一瞬にして真っ白になった。

「来週だけどな。東西医科大学附属病院……ほら、親父が尿管結石で行ったことがある病院」

 中学生くらいの時のことだが、憶えていた。夜中に激しく苦しみ始めた父のために、救急車を呼んだ。家族全員が心配で、翌日学校を休もうとしたら、父親自身に激しく叱責されたあの時の――いや、そんなことはどうでもいい。

「そこはわかる。なんで母さんが?」

「初期の子宮がんだよ」

「えっ! がん?」愕然とした。

「だから初期の。実は春先に見つかってな。他に転移していないかどうか、ずっと検査していたんだ。とりあえず見つからなかったから、患部だけを切除する手術を受けるんだ」

 祐介は張り詰めていた神経が緩むのを感じた。転移が無い……どうやらすぐに生死に関わる話ではないらしい。

「ああ、よかった」

 兄の言葉に安堵した。最近の医学は発達しているとはいえ、やはり“がん”という言葉は心をざわつかせる。しかし兄は機嫌が悪そうに続けた。

「よかったじゃねえよ。お前、たまには顔出せよ」

「えっ」

 言葉に詰まる。

「おれも仕事でなかなか行けないから、嫁に頼ってるんだけど、アイツだって仕事と育児でてんてこ舞いなんだよ。それなのに、なんで実の息子であるお前が何もしないんだって話」

「おれだって仕事が……」

「お前、今何やってんだよ?」

「……」

 答えられなかった。

「病院は付き添いが必要ないし、一日中いる必要はない。婦人科の病室だから、余計に長居はできない」 

「ならおれが行かなくても義姉さんだけでもいいじゃないか」

「祐介、お前今自分が何言ってんのかわかってるのか?」

 ドロップアウトした自分だが、それでも兄はそれまでと変わらず接してくれていた。その兄から初めて聞かされた冷たい声は、祐介の心臓を凍らせた。

「二十四日だ」

 黙りこんだ祐介にしびれを切らしたのか、兄はぶっきらぼうに日付を言った。「その日の午後一時に手術だ」

 その日はリサが祐介とミサトのために、チケットを確保した日だ。

「あ、でもおれその日は……」

「いい加減にしろ!」

 目の前に居ない兄の怒りに、祐介は肩をすくめた。

「簡単な手術さ。だが全身麻酔するのに、血圧に問題のあるお袋は事前にいろいろ検査だのあってな。もう明日から入院するんだ。お前、いいから一度くらいは見舞いに行け」

「え……けど……」

「まだそんなこと言っているのか。後悔してからじゃ遅いんだからな。いいか、わかったな」

 兄は怒ったまま一方的に言い渡し、電話を切った。祐介は深夜の路上で、携帯電話を持ったまましばし呆然としていた。

(……でもすぐどうにかなるわけじゃないんだろ?)

 母は五十七歳だ。還暦にはまだ遠い。

(オオゲサなんだよ、兄貴は)

 兄に対して怒りが湧いてきて、ブツブツ言いながら家路についた。何だってあんなに怒鳴られなければならなかったのか。

(そもそも突然連絡してきて、頭から何なんだよ。自分だってヨメさんに任せてるくせに……)

 兄が一流企業で責任ある立場にあることは知っている。

(おれは部下じゃねーっつの。だいたい兄貴は昔からそうだ。正論で固めればおれが何も言えないの知ってて卑怯だよ。親父に守られてるもんだから、いい気になりやがって)

 子どもの頃から比較されてきた。特に父親の長男贔屓はひどいものだったと思う。その頃の愚痴まで出てきた。

 マンションが見えてきた。

(このままじゃ気がおさまらないな)

 下階のワンでも誘って飲みに行こうと思いついた。ミサトの部屋を訪れるほどの回数ではないが、時々ワンと飲んだりしている。

 この夜は気が荒れている。ミサトにはそんなところは見せたくない……が、

(あれ?)

 二階まで上がり、ワンの部屋のチャイムを鳴らしたが、反応が皆無だった。ドアの向こうに、人がいる気配もない。

(あ、そうだ。ニューヨークだ)

 思い出した。ワンは前日から、学会参加のために渡米しているのだった。

(なんだよ、ついてねえな)

 意気消沈しながら、三階までの階段をゆっくりのぼる。

 通りからはワンや自分の部屋の窓は見えないが、ミサトの部屋は眺めることはできる。マンションに入る前に、彼女の部屋の灯りがついていることは確認していた。深夜だが、彼女にとっても祐介にとっても、まだまだこれからの時間。

(お邪魔しようかな)

 祐介は、ミサトの部屋のドアを三回ノックした。

「……はあい」

(ん?)

 ミサトの返事が、歯切れ悪そうに聞こえた。

 祐介はいつものように鍵の掛かっていないドアを開け、「ちわー」と言いながら入っていった。ふんわりとした暖かい香りがした。

(これは……)

 米の匂い。炊飯をしている時の匂いだ。だが、キッチンの炊飯器は沈黙している。

「おつかれさま」

 ミサトはキッチンのガスコンロの前に立っていた。

 ガスコンロには鍋がのっており、それがコトコト音を立てて煮えていた。

「えっと、どうしたの?」

「なにが?」

「え……いや」

 なんとなく、ミサトの顔色が悪いように見えた。が、笑顔の彼女の表情に怖じ気づいて、何も言えなくなった。

「お粥炊いてるの」

「お粥?」

“煮ている”のではなく“炊いている”なのだなと、どうでもいいことに祐介は感心した。確か母もそう表現していたなー……母のことを電話で聞いたせいか、ふだん思い出さないようなことも思い出している。

「炊いてるって言っても、お米からじゃないんだけど、余っていたご飯で作ってるんだけどね」

「ふうん」

 その差はわからない。母親はもっぱら後者で作っていたようだ。だから、米から直接粥にできることも祐介は知らなかった。

 それまでソファの上で丸くなっていたクロが、一回体を伸ばしてから降りて、祐介の足もとにすとんと降り立った。

(なんか……おかしいよな)と思う。

 空気が。

 別に機嫌が悪いわけでは無さそうだ。しかしさっきの笑顔が自然ではないように見える。その上足もとのクロが、「なんとかしてくれ」と自分を見上げているように思えてならない。

「おかずがね……」

 弱々しいつぶやき。

「おかず?」

「うん。おネギと塩だけのお粥なんだけど、たくあんと塩昆布、梅干しくらいしかないかな……あ、鰹節があったわ」

“鰹節”という単語を聞いて、クロがミャアと鳴いた。

「十分じゃね?」

「そう? いつもなら鮭とかタラコとかあったらよかったんだけど……ちょっとね」

「ちょっと?」

「なんか食べたくなくて」  

(ああ、そうか)

 納得した。ミサトは体調を崩している。

 相変わらずコンロの前立っているミサトは、よく見ると寒そうに震えている。

「ミサトさん、ひょっとして具合悪い?」

「え?」

 祐介を見る目が潤んでいる。間違いなく熱がある。

「寝てなきゃマズイだろ」

「うーん、大丈夫よ。でもおかずが……」

「いいから。これだけでもおいしく食べられるだろ」

「うん……」

 不服そうだ。

 粥ができたらしい。ミサトがコンロの火を止めたが、彼女を制して祐介が鍋をテーブルへ運んだ。

「いいから座ってなよ」

 ここ数か月で、熟知している冷蔵庫の中身。彼女がつぶやいた食材すべてそれぞれが、小鉢に入って冷蔵庫に入っていた。それらをテーブルの上に並べ、食器棚から椀とレンゲを出した。

「ユースケ君、すっかりうちを知り尽くしてるね」   

 ミサトがにへらと笑う。うれしそうに。

(確かに)

 これまで彼女が出来ても、その冷蔵庫の中身など覗く機会など無かった。ミサトに対してもはじめの頃は遠慮していたが、最近ではほぼ毎日立ち寄って、この部屋の冷蔵庫を開けている。

 しかし、祐介が入ったことのない部屋もある。1LDKの「1」の部分。玄関から入ってすぐに「DK」があり、その奥に「L」が続く。そこの隣に六畳間がある。そこにだけは入ったことが無かった。おそらくは寝室として利用されている部屋だ。彼女の恋人でも無い限り、用事がある部屋ではない。

 ふとそちらを伺うと、ふだんは締め切られている引き戸が開いていた。

 見ないようにしたが、寝室を覗くことと冷蔵庫を覗くことにあまり差が無いように祐介には思えてきた。

「それじゃ、いただきましょうか」

「うん。食べたら寝なよ。いただきます」

「はいはい、いただきます」

 土鍋の中では、米が艶々と輝いている。確かに祐介にとっては淡白すぎる。しかしいただくものに文句は言えない。

「……あっ」

 思い出した。

「ん?」

「おれの実家で粥の時に食べていたもので、“たまみそ”ってのがあるんだけど。知ってる?」

「たまみそ?」

 実家で粥を食べた時は、焼き鮭や焼きタラコ、油揚げを焼いたもの等、これで胃腸に本当にやさしいのかと訝るほど、おかずが山ほど出ていた。その中で家族に人気があったのが、それだった。

「知らない」

「やっぱ?」

 これまでいろんな人に聞いてみたが、知っている者はいなかった。

何度かインターネットで検索をしてみた。が、出てきたのが別物ばかりで、おそらく“たまみそ”という名前も本当の名前ではないのかもしれないと思っていた。その名で呼んでいた母は、もともと物の名前を適当に言うことが多い。

「味噌味のタマゴなんだ」

「……生卵を味噌漬けにしたの?」

「違う。そうだな……スクランブルエッグの味噌味?」

「フライパンで炒めて、味付けにお味噌?」

「あれ?」

 考えてみると、どうやって作るのか知らない。そしてミサトが知っているとしても、熱があるのかボーッとしていて思考が要領を得ない。

「それ、お母さんのオリジナル?」

「オリジナルかどうかわからないけど……そういや誰もそれを知らなかったからそうなのかも」

「それじゃ、本人に作り方を聞けばいいんじゃない?」

「……」

 その通りだ。しかし。

 黙った祐介に察したのか、ミサトは小さく息を吐いた。

「どうせしばらく実家には帰ってないとか、そういうんでしょ。リサちゃんみたいに」

「え……あ、まあ……」

 祐介は歯切れが悪い。

「でも彼女、今度の公演にはご両親も呼ぶって言ってたけどね」

 リサはリサ。自分は自分だ。

「……なんか今日はお袋の話ばかり出るな」

「ん?」

 愚痴を言いたくなった。

「なんか入院したらしくてさ。見舞いに行けって兄貴から電話があって」

「えっ!」

 ガチャンと大きな音を立てて、ミサトは食器を置いた。

「ミ、ミサトさん?」

「ダメじゃない、行かなきゃ!」

「あ、いや、大丈夫なんだよ。大したことないって言ってたし、手術って言っても簡単なものらしいし」

「手術!」

(しまった)と思った。火に油を注ぐとはこのことか。

「あ、だからおれが行かなくても兄貴と兄貴の嫁さんがいるから……」

「そういうことじゃなくって……!」

「!」

 自分で出した大声に、それまで保っていた体力が目減りしたらしい。座ったまま、ミサトはグラリと上体を倒した。

「ミサトさん。大丈夫?」

「あ……ごめんなさい、大丈夫……」

「大丈夫じゃないだろう? 片付けておくから、ちょと横になってろよ」

 ミサトは無言で立ち上がったが、フラフラしている。祐介はそんな彼女の肩を抱き、奥の六畳間へ向かった。思っていた以上に彼女の肩は細い。祐介の鼻腔のすぐそばに、彼女のこめかみがあった。ほんのりと甘い香りがする。

(熱いな……)

 熱が高いようだ。まだ体が震えている。

 初めての部屋へは、あっさりと入れた。照明は点けなかった。すぐにベッドに辿り着き、彼女を横たわらせて蒲団を掛ける。粥を作り出すまでは寝ていたのだろう。枕元に体温計や、すでに暖かくなった氷嚢が置いてあった。

(冷やすか)

 祐介はその氷嚢を取り、部屋から出ようとした。

(――え?)

 その部屋の引き戸に、写真が数枚貼られていた。

 暗い部屋の中だが、窓の外にある街灯のおかげでよく見えた。

 ある母子の写真だった。

 一枚は若い女性が赤ん坊を抱いて微笑んでいる。

 その女性の母親と思しき中年女性と三人で写っているものもあるが、基本は母子ふたり。母親は髪型が変わったり、その色が変わる程度で変化は無いが、子どもは別人かと思うほどに変わっている。目も開かない赤ん坊の頃のものや、コロコロとした丸い瞳をして、頬を母親にキスされているもの。小さな靴を履いて、すっくと立ち上がっているのを母親に支えられているもの。桜の木の下、どこかの保育園の入園式と思しき写真――。どれも笑顔だ。

 どこの母子だ? ――いや、わかっている。

(ミサトさん?)

 今よりもずっと若く、髪の色も明るいが、その母親は紛れもなくミサトだった。

「ユースケ君……」

 背後から声を掛けられ祐介は、驚愕のあまり飛び上がりそうになった。見たことを咎められると思ったのだ。

「なっ、何?」

 だがミサトがつぶやいたのは、予想外のことだった。

「お母さんに会いに行ってあげて」

 祐介は返事に窮して黙ったが、ミサトは返事を待たずに眠ってしまったようだった。少しもしないうちに、スーッスーッと小さな寝息が聞こえてきた。

 もう一度、写真の中のミサトを見た。

 これまで見たことの無い笑顔だと、祐介は思った。


 *


 この日は朝から快晴だった。

 平日昼間の電車の中は、のんびりした空気が漂っているように祐介には感じられた。

 車内は数名の高齢者と赤ん坊を抱いた若い母親、あとどこかへ商談しに行くのか、中年のサラリーマンが間を開けて座って新聞を読んでいた。

 ふと自分がこの中ではどんな風に見られるのか気にはなったが、(まあ、フリーターだよな)とすぐに答えが出た。ジーンズにTシャツ。下手をすると無職に見えるかもしれない。

(求職中なのは変わらないけど)

 無職ではない。けれど正社員で働いているわけではなく、アルバイトや作曲などの突発的な請負仕事。

 しかし世間一般の親世代は、無職もフリーターも一緒くたにする。

「祐介。アンタ、いつまでフラフラしているつもり?」

 家を出てからしばらくは、それでも実家に顔を出していた。父親は自分には声を掛けない。その分、母親が口うるさい。

「もう三十に手が届くんだから、しっかりなさい。ホラ、アンタの幼馴染の晋平ちゃんなんか、もう課長さんになったっていうのよ!」

 祐介は、課長が何歳くらいでなれるものかを知らない。そもそも年齢で決まることではないということも、よくわからない。

「それに中学の時の付き合ってたコ……留美子ちゃんだっけ? もう二児の母なんですってよ!」

 ああ、いたね、そんなコ。バレンタインに告白されて、ちょこっと付き合った。半年くらいで別れたけれど。

 子どもたちは成長すれば地元を離れるが、親たちはそのままそこにいることが多い。だから、いつまでも子どもたちの人間関係が生きていると思い込んでいる。

「関係ないだろ」

 何度も言ってきた。人は人、おれはおれ。だがそう言うと、「アンタがいつまでもそんなだからでしょうに!」と、ヒートアップする。

(……このまま帰ろうかな)

 怖気づいた。

 祐介は、母が入院している病院に向かっていた。

 母は翌日に手術を控えている。兄に聞いたところによると、父は海外出張中で不在らしい。

(オヤジらしいよ)

 毒づく。昔から父はそうだった。家庭を顧みない。

 そんな父を見て育った兄は、逆に愛妻家だ。「奥さんを甘やかしすぎなんじゃないのー?」と母が嫉妬するほどに。

 父と会わなくて済むとわかり、祐介は母を訪ねることにした。

(おれが行ったって、何もできないけど)

 一度行っておけば、兄の気も済むだろう。見舞いの品も、手術前日から絶食だというから何も用意していない。花はすでに山ほどあるから持ってくるなと、兄から言われた。

 視線を車窓から車内に戻した。

 赤ん坊を抱いた母親。年のころ二十代半ばくらいの若い母親が、スリングで抱いた我が子に、笑顔で何かを話しかけている。祐介はそれを見て、ミサトの部屋で見た写真を思い出した。

(あれ、ミサトさんがいくつくらいの時なんだろう?)

 そもそも、今、彼女がいくつなのかを知らない。

 ふとサラリーマンの読んでいたスポーツ新聞の見出しが目に入った。とある大物芸能人同士の離婚の記事だった。そこから連想する。

(バツイチなのかな。子どもが今一緒に暮らしていないってことは、別れたダンナに取られたとか)

 サラリーマンが新聞のページをめくった。今度は数日前に地方で起きた、大きな交通事故の続報だった。飲酒運転の車が、幼稚園に通う集団に突っ込んだという悲劇。

(それとも、まさか……)

 恐ろしい想像になってしまい、慌てて首をブンブン横に振った。

 単なる隣人で、料理上手の中年女性ミサトが、“加賀見さと”という名前の、中国語翻訳家だった、という事実がわかっただけでも、まだ戸惑いが消えない。

 ただただ、狼狽えている。

 そこへ新たな発見……しかも子どもがいたかもしれないという事実は、祐介には刺激が強すぎた。

(ひょっとしたら、妹さんかお姉さんの子どもかもしれないけど)

 だが「お母さんに会いに行ってあげて」の一言は、熱にうなされていたとはいえ切実に聞こえた。

(気になるなら、聞いちまえばいいんだよな)

 そうは思う。

 しかし聞く勇気が無い。


 *


「そちらの受付票に今のお時間とお名前、患者様とのご関係をご記入の上、左手のドアからお入りください」

 婦人科は五階にあった。エレベータから出ると目の前にナースステーションがあり、左右のドア、左手の方を案内された。右手ドアには“産科病棟”とあった。

(出産の患者とそれ以外とで分けているのか)

 病室の母を見舞う隣のベッドで、赤ん坊に乳をやっている経産婦がいるという状況は避けたかったから、安堵した。

 それでも甘ったるい香りが漂っているような気がした。奥の方から赤ん坊が泣く声が聞こえてきて、そこで思い出すのはやはり若い頃のミサトが抱いていた赤ん坊――。

(あれは男の子だったか……)

 青っぽい服を着ていたから、そう思った。だが定かではない。

 ナースステーションで案内された母の病室は、五〇五号室。

 女性しか患者のいない病棟なせいか、ジロジロ見られているような気がした。ナースステーションでも“次男”と書くまでは、受付の女性の態度が硬かった。中年に手が届きそうな齢の男が、ひとりで平日の日中に訪れることは、あまり無いことなのだろう。

 なんとなく足音に気を付けて、それでもそそくさと五〇五号室を探した。さほど時間を要せずに見つけた部屋は、ドアが開放されていた。入口に掲示されていた二名分の表札には、母の名前しか無い。

 そっと覗き込むと手前のベッドは空いており、カーテンも開けられて白いベッドにたたまれた毛布と枕がきちんと置いてあった。そしてその奥――カーテンに囲まれて中が見えなくなっているベッドからは、かすかにテレビの音がしている。

 もう一度表札を見た。『田川真佐子』。母の名前で間違いない。

「失礼します……」

 遠慮しながらそう言って、中に入った。

「母さん」

 カーテンの外から声を掛けてみた。しかし返事は無い。

「母さん?」

 もう少し大きな声で、再度声を掛けてみた。だがやはり返答は無い。

 耳を澄ますと、寝息が聞こえた。眠っているのだろう。

 いつまでもそこに立っているわけにはいかない。躊躇したものの、祐介はカーテンを開けることにした。カーテンに手を掛け、そして――

「!」

 ギョッとした。

 そこに寝ていたのは、体から管をたくさん生やした老婆だった。

(え? 母さん?)

 老婆……に見えたが、紛れもなくその顔は母だ。

(ばあちゃん……じゃないよな)

 そんなことを考えてみたが、母方の祖母は祐介が子どもの頃に他界している。目の前で寝ているのは、自分の母親だ。髪は半分くらいが白髪になり、化粧っ気の無い顔は白く、皺が深くて頬が少したるんでいる。 

(えっと……)

 迷ったが、母のベッドの脇に置いてあった丸椅子を見つけ、そこに腰を下ろした。母の枕元には病院で設置しているテレビがあり、つけっぱなしになっていた。ドラマのようだったが、それを見ながら眠ってしまったらしかった。

 祐介はもう一度、まじまじと母親の顔を見た。

(そういえば最後に会ったのって、いつだった?)

 この年の正月は帰らなかった。その前は顔を出したが、父親が在宅していたからろくに話もせずに帰った。

(一年くらいか?)

 それが長い時間なのか否かはわからない。ただ、

(見ないうちに老けたな……) 

 と思った。まだ還暦前なのに。

 ベッドの脇から、母の手先が見えた。手首から点滴をしているらしく、透明な液を運ぶチューブが出ている。よく見ると、その管の中の液体には血が混ざっていて、それがなんとも痛々しい。それを見て祐介は顔をしかめた。

 突然、その手先がピクッと動いた。

 祐介は思わずその手を掴んだ。何故自分がそんなことをしたのかよくわからなかったが、掴まないといけないような気がした。

 すると母の手が祐介の手を握り返してきた。それをきっかけにしたようで、母の目がゆっくりと開いた。

「あ……」

 祐介は一瞬逃げようと思ったが、母の手にしっかり掴まれていた。母の視線がゆっくりと動き、やがて祐介を捉えた。

「――あら」

 乾いた唇から、息が漏れるような声が出た。かすれてはいたが、確実に母親の声だ。

「どうしたの、祐ちゃん」

「どうしたのって……」

「あなた、仕事があるってお兄ちゃんが言ってたのに」

「夕方からだよ。起きるんじゃねえよ」

 上体を起こそうとする母をあわてて止めた。何本も点滴が入っていることを忘れていたのだろう。「あ、そうだったわね」と思い出したようだった。

(兄貴のコトも“ちゃん”かよ)

 思わずふきだすところだった。兄は祐介と身長が変わらないが、三十代半ばにしてすでにメタボ体型だ。そんなオッサンを捕まえてちゃん付けとは、つくづく母親というのは無敵だと思う。

「顔色いいわね」

「えっ」

 見ると母が自分の顔をジッと見て微笑んでいた。

「ちゃんとご飯食べてるのかしらーって、いつも心配だったのよ。アンタ、好き嫌い多いし」

「んなことねぇよ。最近は何でも食ってるよ」

 魚でも野菜でも何でも。すべてミサトの作る料理ではあるが。

「あら。いいひとでもできたのかしらね」

「!」

 自分の顔が赤くなるのを感じた。違う。断じて違う。違う――はずなのだが。

「ち、違うよ。それより大丈夫なのかよ」

 話題を逸らした。

「ねえ。まさかがんになるなんて思わなかったわー。幸い転移とかはしてなかったんだけどね」

「明日、手術なんだろ?」

「あら、お兄ちゃんから聞いた? そうなのよ。最初にポリープが見つかった部分を、ちょこっと切るだけなんだけどね」

「そうなんだ」

「それよりは検査の方が大変だったわー。MRIだの全身PET検査だの、お金はかかるし面倒だし、もうねー……」

 母が饒舌なのはいつものことだが、これは恐怖の裏返しなのかもしれないと、急に祐介は悟った。

 母はずっとこうだったのだろう。子どもの頃兄が引きつけを起こして病院に運ばれた時、父が結石でやはり救急車に乗った時など、母はマシンガントークでくだらないことばかり言っていた。

「もう、アンタが落ち着くまで死ねないってのにね」

 お鉢が回ってきた。祐介の苦虫を潰すような顔を見て、母がうっふっふと笑った。

「明日は来ないでいいからね」

「え?」

 もとよりこの日だけのつもりだった。

「だって全身麻酔でヘロヘロになってるもの。お母さん、恥ずかしいわー」

「でも」

「大丈夫よ。薫さんや啓太郎ちゃんも来てくれるし」

 兄の妻と、その子ども。

「そうか」

 不意に静寂が訪れた。近所に小学校があるのだろう。子どもたちの声が、遠くから聞こえた。

「……うるさいと思われるかもしれないけど、アンタも早く好きな人と一緒になって、責任を背負って生きていきなさい」

「……」

 いつもの説教とは少し異なっていた。就職しろだの落ち着いた仕事をしろといつもは言ってくるのに。

(遺言みたいだ)

 そう思った。

 自分のその想像に、寒気がした。それが不安そうにしていると見えたのか、母が笑った。

「心配しなくても大丈夫よー」

 しかしその言葉と同時に、兄の言葉も思い出された。

『後悔してからじゃ遅いんだからな』

“後悔”って何だろう? 

 考えるまでもない。

 さっき掴んだ母の手は、いつでも掴めるものではない。

「お母さんも年なんだからさ、そろそろ落ち着かせてよ」

「何言ってるんだよ」

 ふざけて舌をペロッと出しながら言う母に、やはりぶっきらぼうな態度しかとれない。不安で胸がいっぱいになっていたが、それを勘付かれたくはなかった。祐介は一回大きく深呼吸して続けた。

「……母さん」    

「なあに?」

「あのさ」

「?」

「“たまみそ”の作り方を教えてくれる?」


 *


「インフルエンザじゃなかったんだね」

 そう言うと、ミサトは微笑んだ。

「そうなの。ホッとしちゃった」

 少し熱が高い状態が続き、不安になって病院に行ったのだという。風邪だとの診断。

「ここ最近、締め切りが厳しかったから疲れていたのかも」

 それでもまだ全快していない。ミサトは寝間着にカーディガンを羽織り、ソファに座っている。その膝の上ではクロが心地よさそうに丸くなっている。

 一方、祐介はエプロンを着けて、キッチンに立っている。

 粥は炊飯器で炊いている。最近の炊飯器はおこわや粥が炊けるものが多い。

 準備したのは、味噌と顆粒のかつおだし、そして卵を四個。

 小さめの鍋に、湯を一センチほど入れ、それに顆粒だしと多めの味噌を溶かす。煮立ってきたところに卵をすべて割り入れ、あとは大きめのスプーンでかき回す。ただそれだけ。

 すべてに火が通りきらないうちに、ガスを止める。それでも焦げやすいから、ミサトの鍋ではなく、自分の家のものを使った。

「似たようなもの、友達が作ったのを食べたことあるわ。確か砂糖とか酒とか醤油も入れたりするの」

「へえ」

「でもこれも簡単でおいしそう」

 器にあけ、テーブルに置いた。それから炊飯器から粥をよそい、佃煮や海苔も出して、ただそれだけの食卓。

「なんか不思議な感じ」

 席に着くミサトが照れくさそうに言う。

「そう?」

「誰かにご飯作ってもらうの、ほんとに久しぶりで」

 どのくらいひとり暮らしをしているのか知らなかったが、外食をしないとそうなるのだろう。

「それじゃ、いただきます」

「いただきます」

 心底ありがたがっている様子で、ミサトが両手を合わせた。それからたまみそをレンゲでよそい、自分の粥にのせて食べた。

「……うん、おいしい!」

「あ、ほんと? よかった」

 自分も食べてみたが、確かに母の味になっていた。

「あー、あんなのテキトーよ、テキトー」

 教えてもらっている時、母がそう言って笑っていた。そして意地悪そうにニヤリと笑み、

「彼女に教えて作ってもらいなさい」

 と言った。何て言って否定したかは憶えていないが、祐介の顔が真っ赤になったのは確かだった。

「これだけで何杯でもいけちゃうね」

 ニコニコしながらミサトはおいしそうに食べる。この人との食事は本当に楽しいと、祐介は思う。

「あ。ミサトさん、明日はおれ来られないんだけど、大丈夫?」

「うん、もう大丈夫。仕事?」

 祐介は一回食卓から顔をそむけ、一回咳払いをした。そしてうやうやしく告げる。

「明日、お袋の手術なんだ」

 ミサトは椀を持ったまま、しばしキョトンとしていた。が、すぐに満面の笑顔になった。

「いってらっしゃい」 

「うん」

「無事に終わるの、祈っているわ」

「うん。ありがとう」

 気恥ずかしい。

 母の見舞いを拒否していたのにこの変わりよう。からかわれるのではないかとも思ったが、それは無かった。何よりもミサトの笑顔がまぶしく見えて、祐介は視線を逸らして食事を続けた。

『アンタも早く好きなひとと一緒になって、責任を背負って生きなさい』

 突然母の言葉が思い出された。

 それと同時に、目の前のひとがいとしく思えてしまい、祐介は狼狽えて一気に椀の中身をガバッと口に放り込んだ。

 熱かった。

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