第3話 ワンさんの餃子

「今さらそんなこと言われても……」

 彼、田川祐介は困惑していた。

 玄関先で、小柄な老婦人と話していた。

 このメゾン・ド・ムジカが近隣の小学生から “オバケ屋敷”と呼ばれている要因のひとつは、確実にこの女性だと、祐介は信じている。

 小柄ではあるが、横は祐介の倍。黒いセーターに黒いロングスカート。いつもエスニック柄のエプロンをしており、首にもインド綿のストールを巻いている。ちなみにこれは夏仕様で、冬はモコモコのファーになる。

 顔は皺が多いが、鼻や頬、二重あごのあたりがテカテカしている。 モジャモジャの白髪は、所々紫に染められているが、腰の近くまでと長い。その上日本人離れした風貌なものだから、“オバケ屋敷の魔女”と、子どもたちから畏れられている。

 彼女の本名は小柳トキ。今年喜寿に届く、このマンションの所有者である。祐介とは大家と店子の関係だ。

「まあね、アタシもそう思うんだけどネ」

 トキは困ったという顔をして、細く皺だらけの指を下に向かってさした。つられて祐介も下を見る。当然ながらコンクリートの床しか見えない。

「下に越してきた人が、うるさいって言うからサ」

「そんな……」

 祐介がこの古いマンションに暮らして、かれこれ五年になる。

 トキと彼のアルバイト先のマスターである宇佐原が飲み友達であり、その伝手で紹介してもらった。

 そうでないと、彼のような立場の者はなかなか部屋を借りることができない。他バンドのサポートや作曲などの仕事での収入もあるが、今現在はアルバイトが主な収入源。いわゆるフリーター。不動産屋はそうでもなかったが、この部屋と決めても大家がいい顔をしないことが多かった。

 このマンションは、年号がまだ昭和の頃に建てられたらしい。世の中にそんな建物は山ほどあるが、外見も中身も年季が入っている。

 ところが、意外と音が漏れない。

「昔は音大生で埋まっていたのよ」

 と、祐介はトキから聞いたことがある。確かに歩いて十五分ほどのところに音楽大学がある。すでに鬼籍であるトキの夫が音大生向けにこのマンションを建てたのだと、かつて宇佐原が話していた。

 ここの『メゾン・ド・ムジカ』も、音大にあやかって付けられた名称だという。

ただし今ではこのマンションに音大生は住んでない。今時の学生たちはどんなに家賃が安くとも、“オバケ屋敷”と揶揄されるような物件には住まないらしい。

 今回トキが祐介の部屋を訪れたのは、下の階の住民が苦情を言ってきたからだという。

「ドスンドスンうるさいヨ!……ってね」

 どうやら外国人らしい。トキは片言っぽく言った。

(そんな大きな音は出してないんだけどな)

 歩く時の物音には留意している。苦情を言われるとするなら楽器だろうが、日中ならともかく夜間にアコースティックギターは弾いていない。エレキギターにしている。

 アコースティックギターはそれだけで結構な大きな音を奏でられるが、エレキギターは各種エフェクターなどをシールドで繋ぎ、最終的にギターアンプに通すことによって、初めて音が外に出る。

 しかしいくら楽器可の物件と言えど、アンプから出る大音量に周辺住民は黙ってはいないだろう。だから自宅で練習する時やデモテープを録音する時は、アンプには繋げない。エフェクターからミキサーを通して、ヘッドホンで音を聴く。

 ところがその音は、スタジオなどでアンプから出る音に比べると、 “おもしろくない”という欠点がある。デモテープ録音にはそれでもかまわないだろうが、普段の作曲や練習の時などは、スタジオほどとはいかなくとも、“いい音”で弾きたい。

 そこで祐介は、エフェクターとミキサーの間に “真空管プリアンプ”という機材を使っている。アマプロ問わず多くのミュージシャンが使っているが、これを間に挟むことで音が格段に良くなる。

 特別高価な機材ではないが、ピンからキリまである。中には自作する者もいるが、祐介は伝手で値段が張る物を割引で購入した。

 これで周囲に音で迷惑をかけることなく、祐介は自室で思い通りの“いい音”を鳴らしての練習や録音ができる。

 それだけ周囲への音漏れに気を配っているつもりだった。

「ちょっと神経質な人みたいでねぇ。ワタシもうるさいことはあまり言いたくないんだけど。ま、気にとめておいてネ」

 それじゃねと、トキはドスドスと足音を立てて帰っていった。

(そう言われてもなぁ……)

 ここに住んで以来、初めての騒音クレームだった。


「気分悪いな!」

 わざと声に出して言ってみた。が、思ったよりもスッキリとした気分にはなれなかった。

 自室に入ろうとドアを蹴飛ばしてみたが、勢いよく開いたドアは近くに設置していた国内有名メーカーのアコースティックギターをスタンドごと倒してしまった。

「うわっ!」

 それが、そばにあったカスタム品のアコースティックギター数本を次々と倒す。何本かのギターを巻き添えにしての将棋倒しは、最後にフェンダーのストラトキャスターに大きな音を立ててぶつかって止まった。

 ちなみに安いものや中古などがほとんどだが、現在もローンを返している最中の楽器もある。

「ああっ……何なんだよ、まったく……」

 楽器の無事を確認しながら、祐介は大きくため息をついた。

 この日は他にも嫌なことがあった。

 曲作りの仕事だった。クライアントと打ち合わせを重ね、それなりのものを丁寧に創りあげた。コンペで自分の曲が勝ち抜いたという連絡が来て、喜んだのも束の間――結局採用されたのは別人の曲だった。

 こんなことはよくある。ギャラはすでに振り込まれていたし、黙って納得しようと、諦めていた。

 しかし採用された曲を聞いて、彼は愕然とした。

聞いたことがある曲だ。間違えようが無い。

佐竹孝一。かつて祐介と一緒にユニットをやっていた男の曲だ。

 しかもその曲は、いつかふたりで出すアルバムに入れようと孝一が作ってきた曲だった。それをふたりで編曲した。

元々孝一が作った曲なのだから、ユニットが無くなった今、彼自身がそれをどの場面で使おうが、彼の勝手でしかない。

 しかしどうにも納得がいかない。

 理由は簡単。これは嫉妬だ。

 こういったことを考える度、自分という男の小ささを思い知らされる。

「あーっ、こんちくしょー!」

 ベッドに腰掛けて、両手で自分の頭をワシャワシャとかき回す。もちろん、それでスッキリするわけもない。

 今回の作曲の仕事は、祐介にとってはこれまでにない規模の仕事だった。CMソングであり、聴く対象がこれまでの比ではない。これが話題になれば、事実上のプロデビューになったかもしれない。

「アマにも声を掛けてるんだって。ユースケ君も作曲するってマスターから聞いてさ。どう?」

 と、アルバイト先のライブハウスに月いちで出演しているシンガーソングライターから教わった。

 ライバルは多かったが、祐介の曲は数回の選考に残った。

「もう田川君ので決まりだと思うんだけどね」

 クライアントも笑顔でそう言っていた。

 数日後、その笑顔を曇らせながら「スポンサーが急にこれをって言い出して……」と言って持ってきたのが、孝一の曲だった。

 コンペに何曲出されていたかは知らされなかったが、数十曲はあったろう。その選考をまるっと無視して、すでに人気ミュージシャンであった孝一の曲に決まった。

(フェアじゃねえな)と思う。

 だがこの業界ではそれを言っても意味がない――わかっているのに、繰り返し考えてしまう。ずるい、と。

(……もう忘れよう)

 気分が腐ってきた。

 祐介は立てかけてあるアコースティックギターを手に取った。

(いっちょ、やるか)

 こういう時は、好きな曲を思い切りかき鳴らすに限る。

 が。

(……そっか)

 トキの用事を思い出した。騒音問題。

 彼はエレキに持ち替えた――が、すでにやる気を失っていた。

(あ、そうだ)

 ひらめいた。

 こういう時は、隣室を訪ねるのが一番。

 時刻は夜の七時すぎ。多くの家庭はちょうど夕飯時。いつもはもっと遅い時間に行くが、この時間に行ったことが無いわけではない。

 料理を手伝うのも気分転換になる。料理はまったくやったことがなかった祐介だが、ミサトは喜んで手伝わせてくれる。失敗しても、怒られることはない。

 アポイントメントは必要無い。数日前に宇佐原からもらった白ワインを手に、祐介は廊下に出た。そしてまずは、隣室のノックを軽く三回。

(……あれ?)

 まったく反応が無かった。

 もう一度、叩いた。やはり返事は無い。

(なんだよ、留守か。ついてないな)

 良くないことが続く。

 隣室のミサトの部屋で食事をするようになって数か月が経つが、留守だったり就寝したりして返答が無かったのは、数えるほどしかなかった。

 祐介は肩を落とし、自室に戻ろうとした。――が、何やら聞き慣れない音が聞こえた。


 ドン ドン ドン

 ダン ダン ダン


 ドアの向こうから聞こえてくる。

(何の音だ?)

 何かを打ち付けている音。餅つきの音に似ていた。

 祐介は音を立てないように、ドアノブを捻った。もし留守や就寝していれば、ドアは開かない。しかし、ドアノブは動いた。

 こんなことはこれまで無かった。

(まさか鍵をかけないで寝ちまったとか……)

 室内は明るかった。先ほどから聞こえていた音が、さらに大きく激しく、クリアに聞こえる。さすが楽器可の物件だけあって、音がほとんど外に漏れていない。

「み、ミサトさん……?」

 何故か小声になったが、何かを叩きつけている音の方が大きくて届いていない。

 祐介はこっそりとドアの中に入った。そして玄関からダイニングキッチンを覗いた。

 のれんの向こうに、彼女がこちらに背を向けて立っていた。何やら作業中。そこへ、普通の音量で声をかけた。

「ミサトさん?」

「ひゃっ!」

 飛び上がらんばかりに驚くミサトを見て、祐介は初めて自分が不法侵入をしていたことに気が付いた。

「なんだ、ユースケ君か」

 笑顔でホッとしていたミサトを見て。祐介もホッとした。

 祐介はミサトが自分を呼ぶ時の、“ユースケ君”という音を気に入っている。

 ミサトは十中八九、自分よりも年上だと思う。祐介がこの時点で二十九歳だから、彼女は三十代……四十代はいきすぎか。若かったとしてもせいぜい自分と同い年だろうと、彼は思っている。

 思っているだけなのは、当人に聞けないから。

 名前だって“ミサト”ということしか知らない。これが苗字なのか名前なのかもわからない。

 初めて彼女を「ミサトさん」と呼んだ時のことを、今でも祐介は思い出せる。あの時の彼女の顔は、少し驚いていた。だから、名前の方を呼んだのだと祐介は思った。苗字でなく名前を呼ぶということは、特別な間柄に許される特権だと思うから。

(けど苗字知らないんだから、しょうがないだろ)

 だから、「み、ミサト?さん?」とおかしな呼び方になってしまった。

 だが彼女が笑顔になった。 “ミサトさん”と呼んでいいのだ、と本人に了解をもらった瞬間だった。

 それ以上のことを知りたい気がする。

 しかし必要ないような気もする――

「ミサトさん、何してんの?」

 安心して問いかけながら、彼女が手にしているものを見た。テーブルの上にあるものに触れていた。白く、丸い物体……。

「えっ、ああ、これ?」

 ミサトはそれを持ち上げた。餅のように見えたそれは、彼女の胸元あたりまで上げられたが、持っている手からデロリとこぼれ落ちそうになっていた。

「これね、パン生地」

「え?」

「パン生地。これをこねていたわけ」

 そういえば周囲に少し変わった香りがしていた。あとで知ったが、これはイーストの匂いだった。

「パン……」

 何でまた、と続けたかった。しかし彼女が何を作ろうが彼女の勝手なわけで、おこぼれをいただく彼に発言権は無い。

「まだ発酵させてないから、これは食べられないけどね」

 祐介はガッカリした。今日は夕飯にありつけないのか……

「ユースケ君、今日仕事は?」

「今日はオフ」

「昨日焼いたカンパーニュ……らしきものならあるけど。それとシチューがあるから、ご飯にする?」

「やった!」

 思わず子どものような反応をすると、ミサトもうれしそうにニッコリと微笑んだ。

 ミサトはこねていた生地をボウルに入れ、ラップをかけてキッチンの端に置いた。それから手早くテーブルを片付け、夕食のセッティングを始めた。

「煮込んでいてよかった」

 ミサトがホワイトシチューをよそう。大きなニンジン、玉葱、ジャガイモ、鶏肉がゴロゴロ入っている。祐介は大きく切ってあるニンジンが苦手だが、そこは諦めて食べるしかない。前に残したことがあったが、えらい剣幕で叱られた。

 それに食べてみたら、食べられないほどではなかった。

 そしてブレッドケースから丸いパンを取り出した。直径二十センチほどの、大きなパン。中央に、十字の切り込みが入っている。

「初めて焼いたから、おいしくできたかどうかわからないけど」

 ミサトはそう言うが、コンビニでしかパンを買わない祐介には、カンパーニュがどんなものなのかがまずわからない。パンだということも、現物を見て初めて知った。

「あ、白ワインもらったんだ」

 祐介は自分が持っていたワインの瓶を思い出した。

「あら、ウレシイ。開けちゃいましょうか」

 ミサトは酒が好きだ。これまで試したのは、ワイン、ビール、バーボン、ウイスキー、そして焼酎に紹興酒。キッチンの一部にたくさんの自家製果実酒の瓶が並んでいる棚があることを、祐介は知っている。

 そして、驚くほどに酒に強い。おそらくは祐介よりもはるかに。

「それじゃいただきましょうか」

「ういっす。いただきます」

「いただきます」

 ワイングラスで乾杯した。それから切り分けられたカンパーニュを食べてみた。表面はパリッとしていたが、中は普通のパンの歯ごたえ。

「本当はもっとライ麦を入れたり天然酵母を使ったりするんだけどね。テキトー、テキトー」

 彼女が作った物について言い訳じみたことを話すのは、珍しい。(よほど自信が無かったのかな)

 そう思ったが、これはこれで美味だ。

「これ、うまいよ。ところで、なんでまた突然パン作り?」

 ふと頭に浮かんだことを口にしてみた。

 しかしその途端、ミサトの表情が強張った。

(えっ。おれ、地雷踏んだ?)

 そう思ったが、ミサトは躊躇しながらニッと笑って、

「う、うん、ちょっと焼いてみたくなってね……」

 そう言って、グラスの白ワインをクーッと空けた。

(なんか触れない方がいいみたいだな)

 冬に自分とリサという女との痴話ゲンカ?に巻き込んだ時は、ひと月ほどドアに鍵がかけられていた。食生活がひどく乏しくなったのはつらかった。栄養だけでなく、心まで痩せたように思う。

 部屋でひとり、コンビニで買ってきたパンを齧る生活には、もう戻りたくはない。ミサトの逆鱗に触れないよう、祐介は黙って食事を続けた。


 *


 その日は、宇佐原の店での仕事しか予定になかった。

(なんか暑くなってきたな……)

 店には午後四時頃に入ればいい。いつもはギリギリまで寝ている祐介だが、予想外の蒸し暑さに目が覚めた。

 外を見ると、雲ひとつない青空。初夏というには少し早い暦だが、そう言っても差し支えないと思うほどの陽気だった。

 早めに起きた形になったが、スッキリしていた。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ラッパ飲みをする。その後、出勤するまでやることが無い。

(曲でも考えるか……)

 先日、作曲仕事で嫌な目に遭ったばかりだが、それでも続けるしかない。祐介は書きかけの楽譜と筆記道具を確認し、エレキギターを手に取った。そしてヘッドホンを――

(あれ)

 耳を塞ぐ瞬間、小さな音に気がついた。  

 とん とん とん

 たん たん たん

(何の音だ?)

 外からと思い、窓の外に意識を集中させたが違うらしい。部屋全体に小さく響いているようだ。

 先日の、ミサトがパン生地をこねる音にも似ているが、その割には音が遠いし、儚い。ピアノの高音を叩いているような音にも聞こえる。近所でピアノでも弾いているのかもしれない。

(嫌いな音じゃないな……)

 心地よい音を楽しみながら、先日食べたミサトの焼いたパンのことを思い出した。最近は食卓にパンが出てくることが多い。

(ミサトさん、そんなにパンが好きだったのかな)

 そろそろパンには飽きてきた。それを言うにはどう言ったらいいか……ミサトの機嫌を悪くさせずにリクエストする方法は――と、思考が音とはまったく関係ないことに及んだ時、自分の部屋のチャイムが鳴った。

(ん? 誰だ?)

 ギターをスタンドに戻して、対応しようと腰を浮かせた。しかし待ちきれないのか、来訪者は部屋をガンガンとけたたましく叩き始めた。

「なっ、何だ?」

 祐介は玄関まで急ぎ、ドアスコープで来訪者を確認した。

 男が立っていた。ドアスコープで見える高さに、男の額があった。浅黒く、痩せた男。記憶に無い人物だが、眉間の皺の深さから相当怒っていることが伺えた。相手の正体について考えている間に、再度ドアを激しく叩かれた。

(なんだ、こいつ?)

 知らない男から攻撃されていることについて、恐怖よりも怒りが勝った。祐介は怒りに任せ、鍵を開けてドアを勢いよく開けた。すると、ゴチンという鈍い音と同時に、

「アイヤッ!」

 という声が聞こえた。ドアに近いところに立っていた来訪者が、額をぶつけたらしい。ドアの前では、小柄な男がさらに上体を折って小さくなり、額を両手で押さえて震えていた。

「あ、ヤベ。す、すんません」

「な、ナニするね!」

 男は折っていた体を、すっくと伸ばした。それでも祐介よりも頭ひとつ小さい。額の一部を真っ赤にして、涙目でプルプル震えながら睨んでくる男に、祐介は混乱していた。

「な、何なんですか、アンタ」

「アナタ、物音うるさいヨ!」

 すぐに、大家のトキが言っていたクレームを思い出した。

「ドッスンドッスン、やかましネ!」

 そして片言の日本語。この男が、下の階の住人のようだ。

「いや、あの、おれ、何もしてないんですが」

「何もしてないコト、ないネ! うるさくて勉強できないヨ!」

(学生?)

 Tシャツにジーンズ姿だが、どうみても自分よりも若くは見えなかった。肌の感じとか、髭の濃さとか、髪の生え際などが。そして何よりも、左薬指に指輪をしている。

「けどおれ……」

「イイネ! これ、警告! 守られないんだったら、出るとこ出るヨ!」

 下階の住人はそう言い放って、とっとと行ってしまった。取り残された祐介はポカンと立ち尽くした。

(なんだ、あいつ)

 一方的にがなり立てられ、一方的に去られた。腹が立つ。

 祐介は男のしていた指輪を思い出した。派手なものではなく、よく妻帯者がしているのを見かけるが、それと同じようなものだった。

(夫婦で暮らしてるのか?)

 このマンションの間取りは、一フロアに1LDKと1DKの二戸のみ。二階も同じだと聞いたから、祐介の真下に住むこの男の部屋も1DKのはずだ。

 外国から夫婦でやってきて暮らしているのだろう。家賃が安く、そして狭いここの1DKで……。

(でも確かめもせずに怒鳴るんじゃねえよ)

 ようやっと我に返ってドアを閉めようとした時、向かいの部屋のドアが開いた。

「あっ、ミサトさん」

「どうかしたの? チャイムの音がしたけど……」

 不安そうにキョロキョロ見回している。祐介の部屋のチャイムを、自分の部屋のものと勘違いしたのだろう。チャイム音が嫌いな彼女が確かめに廊下に出ようとしたところ、今度は祐介が見知らぬ男に怒鳴られていた。

「あ、何でもないよ。大丈夫」

「そう?」

 ミサトがかわいそうなくらい怯えているように見えたから、祐介は咄嗟に何事も無かったように振る舞った。彼女に笑顔が戻った。

「ねえ、餃子作るんだけど、今日これから仕事?」

「餃子?」

 祐介の脳裏に、フライパンの中でジュウジュウと焦げ目を作った餃子が思い浮かんだ。実家では手作り餃子を食べることもあったが、もう十年くらい帰ってないからご無沙汰だ。

「今日は『うさぎ小屋』。二十三時には上がれると思うけど」

「それじゃ、そのくらいに焼き上がるようにしておくから」

「マジ? やった!」

 さっきまでのイライラがどこかに消えていた。

「皮から手作りしたからね」

「へえ!」

 パンに飽きたなどと下手なことを言う前に、メニューが変わった。

(楽しみだな)

 仕事帰りに寄ることを約束し、ふたりはそれぞれの部屋のドアを閉めた。その頃には、祐介は下階の男のことなど忘却していた。


 * 


 携帯電話が鳴った。

 祐介は携帯電話を目覚まし代わりにしているが、それは着信だった。この日は何も予定が無く、アラームをセットしていなかった。

 部屋の中は明るい。しかし寝起きでよく周囲が見えない祐介は、手探りで枕元に置いた携帯電話を探し、表示をよく見ないまま電話に出た。

「もしもし……?」

「ユースケ?」

 遠慮がちに話す声に、一気に目が覚めた。佐竹孝一だった。

 祐介は上体を起こした。

「……何か用か?」

 一瞬の躊躇の後、ぶっきらぼうに言った。

「あ……あのな、この間のメディアAって会社のCM曲……」

 すぐに思い出した。自分の曲にほぼ決まっていたのに、孝一の曲にすげ変わっていた件。ベッドから見える窓の外は快晴なのに、気持ちの中に暗雲がたちこめてきたのを感じた。

「あれか。あれがどうかしたのか?」

「いや、おれのに変わったっての、さっき知ったんだ」

 祐介は心の中で舌打ちをした。見え透いた嘘をついて!

「それがどうかしたのかよ?」

「あ……本当はユースケの曲で決まってたって聞いてたから、なんか……」

「だから何なんだよ」

「いや……その……」

(なんだってコイツ、こんななんだよ?)

 一八〇センチ以上もある男なのに、こんなに気が弱い。眉毛だって弱々しく、漢字の八の字。何かを言いたげで、でも言えないでいる様子の孝一に、祐介はイライラが募った。

「何だよ。おれは寝てたんだ。切るぞ」

「あっ、あの曲、勝手に使ってゴメン!」

 今度こそ、本当に舌打ちをした。

「何だよ、それ」

「あれ書いた時、ユースケにもいろいろ手伝ってもらったのに、クレジットも入れられなくて……おれもまさかあれを見つけられて採用されるなんて思ってなくて」

「そんなことで謝るんじゃねえよ」

「でも、ユースケの曲の方がいい曲だったのに……」

 怒鳴りそうになるのを、なんとか堪えた。

「無名のおれなんかの曲より、人気ミュージシャンの曲って方がいいんだろ。もう切るぞ」

「あ、ユー……」

 相手の返事を待たずに、電話を切った。

(……何だよ……)

 あの日、目の前で、目を真っ赤にしながら謝罪していた孝一を見上げた。その時のことを思い出した。

 みじめだ、と思った。

 孝一に追い抜かれたこと。もう手の届かないところに、彼がいること。そんな彼に心配されたこと――

(おれの曲の方がよかったって、そんなお世辞……)

 そして卑屈になっている自分。

 再度、ベッドに横たわった。時刻は午後二時。午前六時に寝たから十分に寝過ぎていて、もう目を瞑っても眠れなかった。


 とん とん とん

 たん たん たん


(また聞こえてきた)

 小さく、響くように聞こえてくるこの音。

「とんとんとん、たんたんたん……」

 リズミカル。

(小気味いい音)

 金属音に似ている。だが耳に触るような尖った音でなく、柔らかさがある。美しい女性が、チェンバロを弾いている光景を連想した。

 とん とん とん

 たん たん たん

(ふん、ふん、ふん。ふん、ふん、ふん)

 何かのメロディーが生まれそうだった。祐介は目を閉じたまま、頭の中で音を組み立て始めた。

 そこへチャイムが鳴った。

(誰だ?)

 忘れていた嫌な気持ちが蘇った。動くのが面倒で、居留守を決め込もうとしたが、さほど経たないうちにドアが激しく叩かれ始めた。

「またアイツか!」

 先日、謂われのないクレームを付けてきた下階の外国人だ。一気に頭に血が上った祐介は、ベッドから跳ね起きて足音荒く玄関に向かった。下手すると殴りかかりそうな勢いだ。

「何だよ、うるせえな!」

「アイヤッ!」

 まただ。何も考えずに勢いよく開けたドアに、男は額をぶつけた。今度もまた額を両手で押さえながら、しゃがんで痛みに堪えている。祐介はなんだかばかばかしくなり、「……何ですか?」と男を見下ろしながら聞いた。

「何ですかじゃないネ! またうるさくして……!」

「おれじゃないっすよ」

 しゃがんでいた男が、すっくと勢いよく起き上がった。額のぶつかった部分が真っ赤になっているが、祐介をがっつり睨みつけている。

「嘘言わない!」

「はあ?」

「真上からドンドン響いているネ! そしたら真上のアンタに決まってるヨ!」

 しかし祐介には心当たりがない。

(まさかあの音?)

 時々聞こえてくる、あの小さな音。

「ドンドンドンドン、けたたましいね!」

 あれはそんな音ではない。もっとやさしい音だ。

「近所からとかじゃないのか?」

 面倒になって敬語をやめた。周囲は住宅街だ。ピアノを所有している家もあるだろう。

「チガウね! 絶対上からきてる音ネ!」

「おれじゃないって言ってんだろ。いい加減にしろよ」

「あの音やめてくれるまで、抗議するヨ!」

「あーっ、まったくー……!」


「ちょっと、うるさいんだけど」


 ふたりの男の言い争いが、ピタッと止まった。

 男の背後のドアが開いていた。そこから機嫌の悪そうなミサトが覗いていた。おそらく、その男が鳴らしたチャイムで機嫌を損ねているのだろう。

「ミサトさん」

「……」

 男はミサトを見て、ポカンとしている。

「何したの?」

「いや、この人が言いがかりをつけてきてさ……」

「言いがかり? チガウね! 私、この人に迷惑かけられてるヨ!」

「だから間違いだって……」

「間違いチガウ!」

「うるさい!」

 また堂々巡りになるところを、ミサトの怒る声が遮った。男ふたりが怯えて彼女を見ると、眉毛を逆八の字にした彼女。しかしすぐに破顔した。

「まあ、イライラしないで。……ちょっと手伝わない?」


 *


「お邪魔しまーす」

「お邪魔シマス……」

 ミサトの部屋に入るのに慣れている祐介と、初めて入るのに怖じ気づいている男。ミサトの飼い猫のクロは、初めての訪問者に警戒してソファ裏に隠れた。

「あ」

 ミサトがキッチンに向かったから、男性陣もそのままついて行った。下階の男はオドオドしているが、慣れている祐介は、ダイニングテーブル上の光景にすぐに気がついた。

「あ、それ……」

「そう。また餃子の皮を作ってたの」

 その単語に大声で反応したのは、下階の男だった。

「ジャオズ!」

「な、何だよ?」

 ミサトは覗き込むようにして、男の顔を見ながら尋ねた。

「あなた……ニー、ヂョングオレンマ?」

 キョトンとする男性陣。だが男は狼狽えながらも、「シー、シー!」と顔を上下に振り始めた。

「え……ミサトさん、何話してんの?」

 日本語ではないということしか、祐介にはわからない。

「中国語」

 納得した。額をドアにぶつけた時などに「アイヤ!」などと言っていたから、そうなのかとは思っていた。

「王(ワン)です。ワン・シュエチー、いいます」

 初めて男の名前を聞いた。

「ミサトさん、なんで中国語しゃべれるの?」

「え? だって私、翻訳家だもん」

「えっ」

 突然、ミサトとの間の何かが壊れた。

「向こうの書籍の翻訳が主な仕事なのよ。通訳もできるけど、いろいろ大変だから今はやってないわ」

「へー……」

 彼女と知り合って半年以上が経った。一緒に食事をする回数はもう数えていない。なのに彼女の仕事を、この時初めて知った。

“ミサト”と呼ばれる女性の正体のひとつを、知ってしまった。

 パリンと音を立てて壊れたような感触。

 壊れたのは、祐介とミサト、ふたりの間にあった幾枚ものガラスのベール、そのうちの一枚だ。そのベールを作っていたのは、他の誰でもない。祐介ではあるが。

「アイヨー、こんなところで母国語を聞けるなんてウレシイネ!」

 ワンの声が一オクターブ上がった。さっきの不機嫌さは微塵もない。

「ワンさん、どちらのご出身?」

「私、シーアンね」

「そうなの」

「えと……ミサトさん? 貴女はどちらかに留学したりとか?」

「北京に一年間だけいたことがあるわ」

「そうですか!」

 祐介への遠慮であえて日本語で話しているのだろうが、それでも祐介はふたりの会話についていけていない。北京は知ってはいたが、“シーアン”は知っているような知らないような。

 それよりも、これまでふたりの間にあった壁が、(彼にとっては)突然の闖入者によって簡単に打ち壊された。それが何とも悔しい。

 黙っている祐介に気が付いたのか、ミサトが「あ! そうだった!」と少し大きめの声を出した。

「餃子の皮をね、今練っている最中なのよ。賞味期限近い強力粉と薄力粉、全部入れたらすっごい量になっちゃってね。でも両腕が筋肉痛で、なのにこの量でしょ。もしこの後予定が無ければ、手伝ってもらおうかなって思って」

「あー、なるほ……」

「まーかせて!」

 ワンが祐介を遮り、シャツの袖をめくり出した。

「あ、そうね。西安出身のワンさんなら、餃子のエキスパートね」

「もちろんネ。手を洗わせてもらうよー」

 ミサトに案内され、ワンが鼻歌を歌いながら洗面所に向かった。

「シーアン? で、餃子?」

「西安という中国の都市があるの。餃子はそこの名物料理なのよ」

「へー」と感心した声を装いながら、そこまで興味はない。

 祐介は自分も洗面所に行き、ワンと入れ替わりにそこで手を洗った。洗面所の鏡の中にうつる、自分の顔を見た。

(なんだ、このツラ)

 すっきりしない顔。さきほどすれ違ったワンの、ニコニコと晴れやかな顔とは真逆だった。

(なんなんだ、アイツ!)

 気持ちのモヤモヤを、ワンに対する怒りに置き換えた。この気持ちを何と言っていいのか――

 キッチンに戻ると、すでに始まっていた。

「……へ?」

 ワンがイキイキとしていた。ダン!ダン!と小気味よい音を立て、激しく生地をこねている。その手さばきは、初めて見る祐介にも達人のものだとわかるほどだった。

「すっごいわねぇ。さすが!」

 ミサトは感心しながら手を動かしていた。

 祐介も仲間に加わった。

 いつものダイニングテーブルに、専用のシートが掛けてあり、そこで作業が行われていた。まずは強力粉と薄力粉を混ぜたものに、熱湯を加える。それをまとめていく。粉が着ていた黒いTシャツについてしまう。

「うわっ、ニチャニチャしてる」

 生地がまとまらない。祐介は指や手のひらにこびりつく生地に四苦八苦した。

「最初はそうなのよ」

 一方ワンのこねている生地は、あっという間にまとまっていた。それも腹立たしい。しかしそうこうしているうちに、べたつきは残るものの、ボウルの中で生地がまとまり始めた。

「へえ……」

 これはなかなか力のいる作業だ。いつの間にか無心になっている自分に気付いた。

「ほんと、イライラモヤモヤしている時は、粉をこねるのが一番だわー」

 ミサトが爽快そうな顔で言った。額には汗が滲んでいる。

(ミサトさんがイライラ?)

 彼女が不機嫌になったのを見たことが無いわけではない。これまで何度も怒らせている。それでも彼女がイライラするのは珍しいことのような気がした。

「ミサトさん、パンの生地をこねる時もこんな感じ?」

「もっと激しいわよ。投げつけたりするからね」

 そういえばここ最近は粉をこねる系の料理が多かったような気がする。


 ダン!


 ひと足早く、ワンがまとまった生地をシートに打ち付けた。ぶわっと周囲の粉が巻き上がる。

(び、びっくりした)

 何度も何度も練る、打ち付けるを繰り返す。まもなくミサトの手の生地もまとまったらしい。


 ドン ドン ドン

 ダン ダン ダン


 はじめはバラバラだったふたりの音が、やがて同じリズムを刻み始めた。

(ん?)

 手を動かしながらしばらく考えていたが、祐介はあることに気が付いた。


 ドン ドン ドン

 ダン ダン ダン


(……リズムが同じ?)


「あ!」

「へっ?」

 突然大きな声を出す祐介に、ミサトとワンが手を止めた。

「あっ、いや、ちょっとそのまま作業してて!」

 ふたりにそう言って祐介は玄関に駆け出し、それからいったん自室に入った。


 とん とん とん

 たん たん たん


 高く儚いかわいらしい音。

(よしっ)

 祐介はそれを確認してからまた外に出て、二階に下りた。

 二階は祐介たちの住む三階とドアの色が違うだけで、レイアウトは同じ。祐介は自室の真下……ワンの部屋のすぐ前に立った。

 そして部屋のドアに耳を付けた。


 ドンッ ドンッ ドンッ

 ダンッ ダンッ ダンッ


(やっぱり)

 祐介が自室で聴いていた音とワンが聞いていた騒音は、ミサトの出していた音だった。

 しかしワンの部屋で聞こえているであろう音は、祐介が部屋で聞いていた音よりも、またミサトの部屋で直接聞く音よりも大きく響いて聞こえていた。念のためにその対面の、ミサトの部屋の真下に当たる部屋のドアにも耳を当ててみた。何も聞こえない。

(これは、どういうことなんだ?)

 防音設備のあるマンションだから、自分の部屋に届く音があの小さいものになるのは納得できた。しかし何故ここでは元の音よりも大きくなるのか――。

 祐介はミサトの部屋に戻った。

「ユースケ君、どうしたの?」

 祐介の行動の意味が、ミサトにはわからない。

「ミサトさん、まず一分間こね続けて。で、その後一分間止めて、それからまた始めてくれないか?」

「え? あ、うん、いいけど」

「で、ワンさん、ちょっと来な!」

「へ?」

 祐介は作業中だったワンの手を止めさせ、ふたりでまた二階に降りた。

「ど、どうしたネ?」 

「ちょっと部屋に入れてくれないか?」

「?」

 納得しない顔のまま、ワンは鍵を開けた。――が、その時点ですでに音が聞こえていた。

「あっ」

「あのさ、アンタがうるさいっていうのは、この音だろ?」

 ワンはあわてて自室内に入り、祐介もそれに続いた。ワンの部屋は香辛料っぽい香りがしていた。玄関先に中国語の書かれたダンボールが二、三個積み上げられており、その狭くなった玄関に男ふたりで立った。


 ドンッ ドンッ ドンッ

 ダンッ ダンッ ダンッ


 共有スペースには何の音もしていなかったのに、玄関に入った時点でひどく音が響いていた。音というより地響きに似ている。

 ワンは驚いて、音がしてくる方向である天井と、祐介の顔を交互に見た。これが祐介の出している音ではないことが、ワンにもようやく理解できたようだ。

 途中、音がやんだ。おそらく祐介がミサトに頼んだ一分間が過ぎたのだろう。祐介とワンはそのまま無言で待っていた。

 そして音がやんでから、およそ一分後。


 ドンッ ドンッ ドンッ

 ダンッ ダンッ ダンッ


「アイヤー!」

 ワンが驚きの声を漏らした。

 おそらくこれは、鉄筋の伝わり方の妙。そんなこともあると、建築系のアルバイトをしていた時に聞いたことがあった。ミサトの部屋で出した物音と振動が、何故か斜め下の部屋であるワンの部屋に、強く響いてしまっていたらしい。

「なっ?」

 清々しいほどの笑顔で、祐介はワンを見た。

 ワンはその顔を見上げて、まだ呆然としたままだった。


 *


「ごめんなさい」

 ミサトがワンに対して丁寧に謝罪した。

「そんな、頭を上げてクダサイ」

 両手を振って恐縮するワン。それを(お前、おれにはあんなに強攻だったじゃねえか)と、内心憎々しげに祐介は見ていた。しかし自分ももう、ワンに腹を立てたりなどはしていない。

 本日のメニューは、水餃子。

 先日は焼き餃子だったが、フライパンでは一回に焼く数に限度があるし、ワンが食べ慣れている方にした。

 案の定大量に出来上がった。三人が囲むテーブルの中央、大皿に山のような餃子が湯気を立てていた。

「いただきまーす!」

 子どものように元気に挨拶をする祐介とミサトに、ワンは「?」の浮かんだ顔をする。彼の故郷にはこの挨拶の習慣がない。日本にはあるとは知ってはいたが。

「最近では日本人でも“いただきます”言う人減ったヨ。ふたり、ちゃんと言うネ」

 それに対して、子どもに諭すようにミサトが言う。

「当たり前でしょ。おいしいご飯にありつけることに、まずは感謝よ」

 祐介はそこまで考えていなかった。ミサトがやっているからやっていた。強いて言えば、彼女の作る料理にありつけることへの感謝か。

「イイネ。それじゃ私も、イタダキマス!」

 ワンがふたりを真似て両手を合わせて言い終わるのを待って、三人同時に大量の水餃子に箸を伸ばした。

「あっち!」

「熱いから気をつけて」

 熱さも何のその。この香りには勝てない。

「うっわっ! プリップリ!」

 祐介がたまらず声をあげる。ミサトとワンの瞳も輝きだす。

 生地はこねたり寝かしたりしている間にきちんと育ち、火を通すとモチモチの食感となっていた。

「おれ、水餃子って食ったことなかったけど、うまいね」

 その声に、ミサトの目が細くなる。

 中身は先日の焼き餃子と変わらない。特売の豚挽肉にニラ、キャベツ。若干のおろし生姜を入れている。ただそれだけの具材。

 それも皮に合わせて大量に用意した。生地を寝かしている間に、それを三人で懸命にこねたのだ。肉はこねればこねるほど粘り気が出てくるということを、祐介はこの日初めて知った。

「皮から手作りする餃子がこんなにうまいなんて、思わなかったよ」

 先日の焼き餃子ももちろん美味しかった。小麦粉を溶かした湯で蒸し焼きにしたら、羽根がついた焼き餃子になる。焼き色のついた面はパリッとしていたが、皮はモチッとしていた。それが何ともおもしろかった。

「私の国では皮から手作り、当たり前ネ」

 自慢げにワンが言う。

「さすが本場だな」

 祐介がそう言うと、ワンはフフッと笑った。まるで仲のよい友達のように笑い合うふたり。ほんの数時間前まで、険悪に怒鳴りあっていたというのに。

「本当に見事な手さばきだったわ」

 感服したミサトがそう言うと、ワンは顔を赤らめて照れていた。

「私の父サン直伝ネ」

「母親じゃなくて?」

 祐介の中では、台所仕事はまだ女親の仕事だ。

「昔から共稼ぎの家庭が多いから、両親とも料理する家が多いのよ。私の知っている家庭でも父親が生地を打つ家が多かったわ」

 ミサトが祐介に解説した。「へー」と相槌を打ちながら、祐介は箸を止めない。

「私の父サン、炒め物もおいしいし、煮物もうまい。でも何よりも餃子が上手だったネ」

「すごいな」

「父サン大学教授で、母サンは医者だから、どしても父サンの方が時間あるネ。でもふたりともやさしくて大好き」

 満面の笑みを浮かべ、満足そうに餃子を口に運ぶワン。

 なんの臆面もなく両親を好きと言えるワンに、祐介は何とも言えない感情を抱いた。気恥ずかしいのと羨ましいのとが混ざったような。

 祐介はしばらく実家に帰っていない。音楽で食べていきたいと言った時から、父は祐介のことを空気のように扱っている。母親は時々メールや食べ物を送ってくるが、返事を返したことがない。好きか嫌いか聞かれたら――

(どっちだろう?)

 好きではないと思う。

 けれど嫌いかといえばそれも違うような気がした。そういった分別を付ける必要のない存在。そういうものだと祐介は思う。

 今はただひたすら鬱陶しい。親というのは子どもが安定した世界で生きることを望むものだと、さすがに祐介も理解できる年齢にはなってきた。だがだからといって「早く就職しろ」「早く結婚しろ」と会う度に言われると、さすがに気が滅入る。

「ワンさん?」

 ミサトが突然ワンに呼びかけた。

 考え事をしていた祐介も我に返った。見ると、さっきまで笑顔で水餃子を食べていたワンが、無表情で黙り込んでいた。

「お、おい、どうした?」

 喉でも詰まらせたか。祐介も声をかけた。それでやっと気が付いたのか、ワンはバツが悪そうな顔をした。

「……ゴメンネ。ちょっと思い出してたヨ……」

 再び箸を動かし始めたが、明らかにゆっくりだ。

「私、留学で日本に来てるヨ。奥サンと子ども、置いてきてるネ」

 指輪で既婚者だというのは察していたが、妻も同行しているかと思っていた。指輪は手を洗った時に外したのか、左手薬指には指輪がはまっていなかった。

「お子さん、いるんだ?」

 ミサトが話を掘り下げた。

「リーリーっていうネ。まだ二歳ヨ。男の子。私に似て、とってもカワイイヨ!」

 ここは笑いどころかと思ったが、とてもそんな雰囲気ではない。ワンの表情がすぐに曇ったからだ。

「……私、父サンのような国立大学の大学教授になりたい。だから日本でさらに勉強してるケド……奥サン、離婚したい言い始めてる」

「え?」

 ミサトと祐介、同時に驚きの声をあげた。

「奥サン、外資系企業に勤めてるケド、そこの上司にプロポーズされてる。リーリーのことも可愛がってくれてるて……」

「なんだ、そりゃ? そんなバカげた話があるか!」

 祐介の声が荒くなった。夫が家族のために外国でひとり勉強中に、自分は職場の上司と不倫? 許されることではない。

「デモ……」

 祐介とは正反対に、ミサトは痛みに耐えるような表情で黙って聞いている。

「私、今、お金ほとんど無いネ。でも奥サンの上司、お金持ち。彼女もお金持ちだけど、だからリーリーのために別れてくれって……」

 ここ数日間の妻からのメールは、すべて離婚要請だった。

 ひとり外国で勉強しに来ていて、心を許せる友もいない。そんな中唯一の心の安らぎになるはずのメールが、そんな内容だった。それで心がささくれないわけがない。

(だからコイツ、イライラしてたのか……)

 部屋に怒鳴り込んできた時の彼の表情を思い出した。誰にでもいいから当たり散らしたい、そんな顔。

 おぼえがある。祐介自身だ。

 ワンは笑顔のまま話し続けた。

「その人と暮らせば、リーリーに最高の教育ができるネ。外国で暮らすこともできる。私とじゃ無理。だからリーリーのために別れてくれって言ってる」

 それは卑怯だ、と祐介は憤った。息子のためと言われてこの男が折れないわけないだろう。まだ彼の人となりを熟知しているわけではないが、そう思った。

「それは事実ネ。考えてみたら、私独身の方が勉強進むネ。これから学会でエラくななれば、若くてかわいいオネーチャンも寄ってくるネ」

 無理やり笑顔を作って言うワンに、(いや、それはどうだろう?)と思いながら、祐介は言うのを堪えた。

「ああ、ゴメンネ、こんな話……食べないと冷めるヨ!」

 微妙な雰囲気にワンは慌てて祐介とミサトに餃子を勧めた。「そうね……」「そ、そうだな」など言いながら、食事を再開した。少し冷め始めていたが、それでもうまい。

「うん、やっぱうまいわ、コレ」

「ね。あ、ビール足りてる?」

 なんとなく賑やかさを演出しようとしたが、やはりワンは無言だった。しばらく微笑んだまま、自分の小皿の水餃子を箸で弄んでいた。そこでポツリとつぶやいた。

「オイシイでショ、私の餃子」

 ふたりはうんうんと頷いた。それを見たワンは満足そうだった。

「私、この餃子を息子に教えたかったネ。これからの彼にはそんなことは必要ないかもしれないケド。これを食べさせたかった、これを一緒に作りたかっ……」

 声が詰まった。見るとワンは俯き、肩を震わせている。

 やるせないなと、祐介は思う。

 ふとミサトを見ると、彼女は泣き出しそうな顔で小さく微笑んでいた。まるでワンをやさしく見守るように。

 彼の心の痛みがわかるように……そんな風に祐介には見えた。


 *


「あのネ、非常に申し訳なかったです」

 ワンが頭を下げた。突然謝られたものだから、祐介は仰天した。

 彼の部屋がある二階。ミサトの部屋から出て、祐介とワンはふたりきりになった。

「えっ、えっ……」

「すっごくイライラしてたヨ……あの音をミサトさんが粉練ってる音だと知っていれば、もっと楽しかったと思うネ。なのに真上のユースケさんが出してる音だってカン違いして怒鳴って……私、恥ずかしい」

 真摯に謝ってはいるが、自分よりはミサト優遇か。そう思ったものの、自分もそうだろうから祐介は黙って小さく首を横に振った。

 あの後も、ワンと少し話した。彼は二十七歳。祐介よりも二歳年下だった。祐介でも知っているほどの国立大学の大学院で、物理学を専攻している。

「いいよ、気にすんな。おれもイライラしてたからさ」

「ユースケさん、何イライラしてた?」

「え?」

「私、オイシイもの食べて、全部話したらスッキリしたヨ」

「そっか、よかったな。おれはいいんだよ。くっだらないことさ」

 妻子と別れる決心をした彼に比べれば、たぶん、ずっと小さいことだと思った。

「粉練るのも楽しかったし、気が晴れたよ」

「アレ、無心になるネ。私の父さんも、仕事で嫌なことあったら、黙々と練ってたヨ。でもできた餃子をおいしいって食べると、笑顔ネ」

(そういうものなのか)

 ふとさっきのミサトの言葉を思い出した。「私もイライラしていた」と言っていた。彼女もいろいろあるのだろうが、その原因が気になった。

「でもミサトさん、いい人ネ。あの人、恋人とかいないのか?」

 ミサトのことを思い浮かべたのがばれたのかと思った。

「えっ、恋人?」

 いないとは思う。しかし知らない。恋人がいるような女性が、祐介のような男を部屋に入れるかを考えると、それは無いと思う。

 だがわからない。

(おれのこと男として見てないってこともあるよな)

 思い起こせば、まるで子どものように叱られていることが多い。

「それに、“ミサト”ってラストネーム、ファーストネームどっちネ?」

 また言葉に詰まった。そんな様子を見て、ワンは怪訝そうな顔をした。

「ユースケさん、彼女のコト、何も知らないネ」

 グッサリ。

 傷つく理由は無いはずなのに、しっかり傷ついた。

「てっきり彼女、ユースケさんの恋人だと思ったネ。でもそんな様子なら、私にもチャンスがあるというわけネ」

 ワンの顔が、ニヘラと歪んだ笑顔になった。

「ばっ、お前っ……」

「それじゃまたネー」

 意地悪そうに笑いながら、ワンは自室に入っていった。

 祐介はしばらくそこに立ち尽くしていたが、自分が二階まで降りてきた理由を、手に持っていたタッパーで思い出した。水餃子をトキに持って行くように、ミサトに頼まれたのだ。

(まったく何だよなー、アイツ……)

 付き合ってみれば憎めない男だが、こればかりは無視できない……が、すぐに「なんでだ?」と自問する。別にミサトに恋愛感情を持っているわけではないのに――たぶん。

(でもおもしろくねえもんは、おもしろくないんだ)


 大家であるトキの部屋は一階。

 すでに深夜に近いが、「たぶん起きてるから、大丈夫よ」とミサトが言っていた。自分よりもトキとの付き合いが永いのだ。

 チャイムを押すと、「ハアイ」と奥から声がして、ドタバタと何かを落として歩く音も聞こえてきた。

(どんな汚部屋なんだよ……)

 何があるのか自分でもわからないという。それもトキが“魔女”と呼ばれる所以のひとつ。

「待たせたわね、田川君」

 腰をさすりながらトキが出てきた。

「え?」

 名乗る前に誰かを当てられたことに驚いた。

「今電話もらったのよ。お裾分けでしょ?」

「あ、そうスか。これ、水餃子ですけど」

「あらあ、まあまあまあまあ」祐介が差し出したタッパーを見て、目をまん丸くして喜んでいた。「ああ、粉を練っていたのね」

「なんでわかるんスか?」

「ここね、おかしな音の響き方をするのよー。鉄筋のせいだと思うけど、真下じゃなくてね、斜め下にひどく響くのよねえ」

 祐介は脱力した。

(だったらもっと早くそれをワンに教えてよ……)

 しかし目の前の老婦人は元気だ。

「ありがとね~。加賀見さん、お料理上手だからねぇ」


「えっ」


 祐介の耳に、初めて聞く苗字が入ってきた。

「ん?」

 その祐介の驚きが、トキには理解できない様子だった。

「今、なんて……」

「え? 『お料理上手だからねぇ』って……」

「いや、その前」

「『ありがとね~』って」

「違う、その後!」

 トキは眉間に大きな皺を寄せて悩んでいたが、すぐに明るい笑顔になった。

「『加賀見さん』?」

「そう、それ!……って誰?」

 トキはぽかんと口を開けた。そして祐介を労うように言った。

「田川君、大丈夫? 加賀見さんはアンタの、隣の部屋の、お嬢さんよ?」

 初めてミサトの苗字を聞いた。

 彼女は表札を出していないから知らなかった。知る必要もなかった。

「加えるに、賀正の“賀”、それから見るで“加賀見”さんね」

 漢字まで説明してくれたが、祐介は動揺のあまり漢字を思い浮かべられないでいた。

「加賀見さとさん。平仮名で“さと”さんね」

「か……かがみさと……さん?」

「そうよ~。ミサトって、あだ名みたいよ」

 気が付いたらフルネームまで聞かされていた。

 これまで知りたくなかったわけでは決してない。

 けれど聞いたらマズイような気がしていた。

 知ってしまったら彼女が、“ひとりの女”として形成されてしまうから。

 それで当たり前なのだが、これまで祐介の中では「隣の部屋で暮らす、料理上手の人」というだけの存在だったのだ。

 今日だけで彼女の仕事とフルネームを知ってしまった。これから彼女の年齢や過去を知ってしまったら、自分がどうなるか祐介は不安だった。

 惚れちまったらどうしよう――と。

「田川君?」

 そして今ならわかる。


 さっき、洗面所で抱いたモヤモヤした気持ち――これは、嫉妬だ。

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