第2話 リサのブリ大根

 実は彼、田川祐介には恋人がいるらしい。

 ――ということを、祐介は第三者から聞いた。


「なんだよ、お前。リサちゃん、かわいそうだろうが」

 ライブハウス『うさぎ小屋』のマスター・宇佐原が、ため息混じりで祐介を責めた。

(そう言われても)


 祐介はスタジオミュージシャンや、ひとのバンドへのサポート、また簡単な作曲などの音楽関係の仕事を時々もらってはいるが、それだけでは生活できない。アルバイトは必須。

『うさぎ小屋』は、彼の住んでいるマンションから徒歩十五分ほどの駅近くにあるライブハウス。ビルの地下にある小さな店で、客は最大で三十名ほどしか入らない。出演者もソロからトリオくらいまでの規模が多い。

 祐介は週に五日はここで仕事をしている。楽器や機材のメンテナンスやPAの真似事が主な仕事。時給は決して高くはないが、時々演奏もさせてもらえるし、ライブ後のバータイムには酒をおごってもらえるのがうれしい。

 マスターの宇佐原は、かつてプロのミュージシャンだった。テレビに出るような活動はしていなかったが、知る人ぞ知るバンドでベースを弾いていた。彼の所属していたバンドのアルバムは何枚か出ているが、どれもリイシューが何回も編まれ、オリジナルはネットオークションなどで高額取引されている。

 バンドはすでに解散しているが、店に飾ってあるバンド時代の宇佐原の写真を見ると、さぞもてたろうなと祐介は思う。

 今では白髪交じりの長髪を後ろでひとつにまとめ、少し猫背の穏やかな初老男性で、昔のワイルドさは無い。しかし今は今で人気があり、宇佐原を目当てにバータイムに通ってくる客もいる。

「お前、もてるだろう? リサちゃん、心配なんだよ」

 宇佐原はそう言いながら、困ったような顔をして笑った。おそらくリサから、愚痴をやまほど聞かされたのだろう。

「全然もてませんよ」

 ハンサムな宇佐原と違って、祐介の顔は整っていなくも無いといった程度。身長も一七五センチで特別高くもない。謙遜ではなく、もてた記憶があまり無い。

演奏技術だって、残念ながら惚れさせるほどではない。確かにユニットで活動していた頃は、満員とは言わないがそこそこに客が入っていた。客は比較的おとなしめで、見た目は三十代以上の女性が多かった。それなりに出待ちの女性ファンなども居たのだ。それが解散しただけで八割方が消えたのは、さすがにショックだった。

 その後ソロでライブをやらせてもらってはみたものの、他のバンドとの対バン形式でなければ、客など片手で数える程度。

 清田リサはその中でも稀少な、祐介を目当てに聞きに来ていたファンだった。ある小劇団に所属している女優だというリサは、祐介がユニットでやっていた頃から積極的にアプローチをかけてきていた。

 リサは身長一五〇に満たず、細くて顔も小さい。顔立ちや立ち振る舞いがかわいらしく、若く見える。彼女の実年齢を聞いて、思わず大声で驚いてしまったほどだ。

 告白されたこともあるが、ちょうどユニットが解散する頃で、彼は恋愛どころではなかった。そもそもそんな感情を彼女に持つことなどは無い。それでも大事なファンだし、据え膳食わぬは何とやらで……誘われるまま彼女をおいしくいただいてしまった、なんてこともあったものだから、話がこじれている。

 最近のリサは、アルバイト帰りに『うさぎ小屋』に立ち寄り、閉店時間まで粘っていく。

「ねえ、今日泊めてよー」

 昨夜、リサがそう言い出した。これは毎回のことで祐介は「はいはい」と適当に流している。

リサが祐介の態度に腹を立てて「帰る!」と帰って行くのがいつものパターンなのだが、最近は変わってきている。

「そろそろユースケと一緒に暮らしたーい」

 彼は人でないものを見るような目つきでリサを見るが、まったく怯まない。とりあえず聞こえないふりをした。

(“そろそろ”って何だよな)

 まるで、これまで愛情を育ててきたような言い方。

 宇佐原がグラスを拭きながら続けた。

「リサちゃん、もう二十七だもんな。普通のOLなら結婚を夢見るお年頃だし」

 どうやらリサは、雄介と結婚したがっているらしい。

 祐介は二十九歳。周囲の同世代を見るとすでに結婚している者や、子供がいる者も多い。

「けど普通のOLじゃないし。あいつ、映画に出る女優になるって言ってたじゃないスか」

「まあな。でも売れな……今の状況も疲れるみたいだぜ?」

“売れない女優”と言おうとして、宇佐原は言葉を換えた。

(だからおれにどうしろと?)

 そう思いながら、祐介は黙っておごりのウィスキーを飲んだ。ワイルドターキー十二年。この店は宇佐原の趣味で、アルコールメニューが本格的でかつ豊富にある。

「最近は稽古とかもさぼっているみたいだな。あそこの主宰が愚痴っていたよ。看板女優の座も、若いコにとられたばっかりだってのにって。あっ、そういや今日何かの番組に出るって言っていたな。もう始まったかな?」

 経歴のせいか仕事柄か、宇佐原は顔が広い。リサが所属している劇団の主宰と付き合いが長いらしい。散々愚痴を聞かされたのだろう。苦笑いしながら店の片隅に置いてある、小さなテレビをつけた。

「確かテレ東だったような……」

 深夜番組。化粧の濃い女たちが水着ではしゃぎ回り、あまり有名ではないお笑い芸人たちにちょっかいを出されていた。

「あ……」

 宇佐原と祐介は同時に絶句した。

 ちょうど画面にリサがが登場したのはよいが、それがビキニのブラジャーを外されたシーンだった。ポロンと、祐介にとっては見覚えのある乳房がこぼれる。

『イヤァン』

……

「んんっ」

 しばらくの後、祐介は意味無く咳払いをして、それを合図に宇佐原は黙ってテレビを消した。

「……イヤんなる気持ちもわかるな」

「はあ」

 リサがアップにされたのは、顕わになった胸だけだった。あとは他の名もないタレントたちと一緒くた。

 自分が自信を持ってやっていることが、十把一絡げにされることの切なさや悔しさは、祐介もわかっていること。

 けれど、ソレとコレは別の話だとも思う。


 *


「なんだこりゃ?」

 その晩、かなり遅くなってから部屋に帰った祐介は、ドアノブに掛けられたレジ袋を見てつぶやいた。

 見覚えの無いスーパーのレジ袋の中に、タッパーが入っているのが見える。恐る恐るそれを手に取って中身を見ると、タッパーの上にメモがのっていた。

『ブリ大根つくりました。食べてね。リサ』

(うわ。来たのかよー?)

 部屋には一度しか入れていない。

 ピンク色のかわいらしいメモ帳は、中学校か高校の頃にクラスの女子たちが使っていたなという、どうでもいいことを思い出した。

(蛍光ピンクのボールペンなんか、今時使うヤツがいるのか)

 二十七歳が使うのは、少し痛いと思う。

 彼はドアノブからレジ袋を外し、鍵を開けて中に入った。前にリサに部屋の鍵が欲しいと言われたことがあるが、もし渡していたら、こうして料理がテーブルの上に置かれるのかもしれない、と想像した。いや、本人も待っているだろう。祐介は身震いした。

 部屋は冷え切っていた。

(さみーな……)

 こういう時、誰かが部屋に待っていたらいいなと思うこともあるが、リサはゴメンだと思う。嫌いではないが、他人の領域にズカズカ入り込んでくるタイプの女は苦手だ。

(そういうのとやっちゃったおれが悪いんだけど)

ファンヒーターを点けたが、暖かい要素が一切無い彼の部屋は、なかなか暖まらない。

 ぐぅと、腹が鳴る。

(そういやコレ、ぶり大根って言ったっけ?)

 祐介はレジ袋から、タッパーを取り出した。

「うえっ!」

 思わず声が出た。

 タッパーは半透明のもので、ギッチリと料理が詰め込まれていたが、ブリの眼球がハッキリと見えた。

「あー……びびった……」

 何の音もしない寒い空間で、しばしブリと見つめ合ってしまった。珍しく心臓がバクバクと激しい。

(アイツ、なんでこんなの持ってきたんだ?)

 手料理で男を落とそうとしていることは想像できた。しかし彼がリサに「ブリ大根が好き」と言った憶えは無い。

 そもそも、好きではない。

 実家の母親もそんなに回数は作ってはいなかった。苦手だったらしく、その上家族があまり食べなかったせいか、作らなくなったようだった。

 祐介は仕方なくタッパーの蓋を外し、代わりにラップをかけて、電子レンジで温めた。ブリとは目を合わせないように。

(……あ、このにおい……)

“匂い”と言うよりは、“臭い”。

 独特の魚臭さが、周囲にたちこめる。

 魚の生臭さが、祐介は苦手だった。若い頃は魚自体が苦手だったが、最近は “隣人”がおいしい魚料理を食べさせてくれるから、だいぶ食べられるようにはなっていた。

(魚って、生臭くなく調理できるもんなんだな)

 魚の背骨の外し方も教わった。細かい骨を取り除きながらの食事は面倒であったが、骨に近ければ近いほど味わい深く、しかも食べ終わった後の達成感はすばらしい。

「うへえ」

 だがそれはダメな匂いだった。

それでも一応、彼はあたたまったタッパーにそのまま箸を突っ込んだ。

ガチン。

すぐに魚の骨に当たった。身を探しても、極端に少ない。大根を食べようにも、濃い色が表面についてはいるものの、やはり中まで箸が通らない。

(下茹でしてねえのか)

“隣人”――ミサトが料理をする様子を思い出した。

 ミサトについて、祐介は彼女の手料理の味くらいしか知らない。

(ああ、あれうまかったな。昨日食べたヤツ)

 大根とがんもどきの煮物は、作る時から見ていた。

 まず彼女は米を研ぎ始めた。そしてその研ぎ汁を鍋に入れ、水のうちから切った大根を入れて茹で始めていた。ミサトからは“下茹で”だと聞いた。

 大根が茹で上がると、彼女はだし汁に茹で上がった大根と、油切りをしたがんもどきを入れて煮始め、それから割と短時間で出来上がった。

 何故その手順を踏まないといけないのかは知らなかったが、だし汁がしっかり大根に染み渡り、とても美味だった。

(あれ、また食べたいな……)

 祐介はテーブル上のブリ大根を見ないフリをして、ミサトの料理を思い出していた。


 *


 翌日、祐介は仕事を終えると、まっすぐ隣の部屋に寄った。

 いつのまにか、それが当たり前になっている。

 最初のけんちん汁の夕餉の翌日だった。詫びと礼のために、ちょっといいワインを奮発して持って行った。一般的な夕食の時間よりも遅かったが、それがちょうどミサトの夕餉の最中だった。

「ちょうどいいわ。食べていく?」

 その声に彼自身よりも速く反応したのは、腹の虫だった。ミサトの部屋のドアを開けた途端に流れてきた、醤油系の煮物の香り。空腹だった祐介には抗う術が無かった。この日は肉じゃがだった。

 その日から、都合の合う時のみだが、祐介は彼女の部屋で夕食をとるようになった。ミサトは在宅の仕事をしており、本来夕食は深夜なのだそうだ。祐介が帰る時間とほぼ合致しており、

「ちょうどいいじゃない」

 ということになった。

(いいのか?)

 とも思ったが、いろいろ考えるのが面倒になった。

(まあ、ひとりで食べるよりはいいか)

 一食代浮くのも、正直助かる。さすがに時々酒やちょっとした食材を差し入れるが。

アポイントメントを取る必要はない。午前二時頃に寄っても、彼女が起きている時は大丈夫。彼女の食事が終わっていても、残り物があれば出してもらえ、そしてたいていは何かにありつける。

 この前日のように、寄らなくてもいい。毎日という約束はしていない。寄らないことによって、彼女が機嫌を損ねることもない。

 アポイントメントは必要無いが、決まり事がいくつかある。

 まずは、ノックを軽く三回。インターホンもあるが、それは使わない。彼女の部屋は、鍵がかけられていない。

「はあい」

 この声が、在宅して起きている証拠。彼は無遠慮にドアを開ける。声がしなければ、自分の部屋に帰るだけ。

「ちわ」

「ん」

 いつもの短い挨拶。

ミサトはガスコンロの前に居た。祐介をチラリとだけ見て、すぐ鍋に視線を戻した。鍋は蓋が開いていて、醤油系の香りが漂っている。

「今夜は何?」

ミサトに持ってきたワインを見せながら、鍋を覗き込んだ。シリコン製の落としぶたが、中身の正体を隠している。

 記憶にある匂いだった。肉系ではなく、魚介類の――

「ブリ大根よ」

 彼女はそう言いながら、誇らしげに落としぶたを取り上げた。

(よりによって、ブリ大根かよ)

 ガッカリした。だがそれを口に出してはいけない。作ってもらったものについて文句を言った時の彼女は、かなり怖いのだ。

結局リサのブリ大根は、大半が生ゴミとなった。食材に対しての罪悪感はあったが、途中で気持ち悪くなった以上は仕方ない。もともと食べられるところが少なく、大根だけを頑張って食べた。

 しかし。

(あれ?)

 鍋の中身は、想像と違っていた。

 べっこう色の一口大の大根と薄切りの生姜、そしてやはり一口大になったブリの切り身が入っている。

(アラじゃないのか?)

 リサが“コレが目玉!”と言わんばかりに入れてきたブリの目玉も見あたらなかった。

「ミサトさんは、アラで作るんじゃないんだ」

 料理についてのコメントは、決して“普通と違うからオカシイ”というニュアンスを滲ませてはいけない。“普通と変わっていてオモシロイ”という感じで言えば、ミサトは機嫌を損ねない。

「あれ? あなたに作るの、初めてだっけ? アラだと食べるのが面倒だからね」

(へえ)

 ミサトのような料理上手こそ、アラを使って本格的に料理をするのかと祐介は思っていた。

 実際彼女は顆粒だしを多用するし、カレールーも市販のものばかり。それを知ってはいるものの、思いこみというものは恐ろしい。

「手、洗ってきて」

「うぃーっす」

 いつものやりとり。

 彼女が器に盛りつけたブリ大根を、洗面所で手を洗い終えた祐介はテーブルに運んだ。

 魚の匂いはしていたが、あの“臭”の字が合う嫌なものではなかった。迷わず「うまそう」という言葉が出る。飴色に輝く大根とブリの切り身は、祐介の食欲をそそった。

 ミサトの愛猫クロが、テーブルのそばでスタンバイしている。味の濃い人間の食べ物は絶対にもらえないのに。

「じゃ、いただきましょうか」

 ダイニングテーブルの上には炊きたての白米と、車麩と長ネギの味噌汁、なめ茸の掛かった豆腐、そしてブリ大根が揃った。

「いただきます」

「いただきます」

 ふたりとも丁寧に手を合わせた。ここで夕食にありつくためには、この儀式が必須。

「ブリ、小さな骨が残っているかもしれないから、気をつけてね」

 そう彼女は言ったが、祐介は躊躇無くブリの切り身を口に放り込んだ。

「んー……」

 口の中で、魚肉の繊維がほどけた。味がしっかり染み、それでいて脂がしっかり残っている。白米によく合う。

「うまいねぇ、コレ」

 自然に賞賛が出た。

・おいしいかそうでないかを、ちゃんと口に出して言うこと。

 という決まり事がある。はじめの頃は照れがあったが、この頃では素で言えるようになった。

「よかった」

 ミサトは満足げに微笑んだ。その笑顔が意外とかわいらしいと、時々祐介は思う。

(でも、恋愛感情とかじゃないんだよな)

 だがうまいものを食べた時の、ささやかな幸せを感じられるようになったのは、彼女のおかげだと知っている。

 大根も食べてみた。芯まで染みた大根は口の中で一瞬に溶けた。

「うんめ~」

 そんな祐介を見て、ミサトはニコニコしている。

 足下では、クロが恨めしげに祐介を見上げていた。


 *


「何、浮気?」


 ライブハウス『うさぎ小屋』。

 この日のライブ出演者たちが帰り、自分の仕事を終えた祐介はいつものように宇佐原から酒を奢ってもらっていた。

「え? そ、そんなんじゃないっスよ」

 宇佐原の疑惑を、彼は慌てて否定した。宇佐原も本気で言ったわけではなく、苦笑いだった。

 ミサトとのことを、祐介はこれまで他人に語ったことは無かった。

 非常に骨の折れることだから。女の部屋を訪れて、彼女の手料理を食べると言うと、たいがい体の関係もあると思われる。

(そうなるんじゃないかな?)と、実は祐介も何度か思った。

 しかし彼にとってのミサトという女性は、性的な意味で“女”ではない。

女性らしくないというわけではない。

けれど尊敬する先生や、先輩……もっと身近に例えるならば、姉や母親に性的魅力を感じることは無いだろう。それと同じ。

(友達ってことか?)

 ただの女友達なら、酔った勢いで……ということもあるだろう。

 そういう意味なら、ミサトと彼との間の壁はもう数ミリ厚い――ような気がする。

(これって、宇佐原さんなら何て言うだろう?)

 ふとそう思い、ミサトが作ったブリ大根の話を、宇佐原にしてみた。その返事が予想以上に普遍的だったから、祐介は少々落胆した。

「今朝、駅前でリサちゃんに会ったんだよ」

「へえ」

 宇佐原は面識のあるリサの方に感情移入をしているのかもしれないが、好きでも嫌いでもない女の話題を出されても困る。体の関係があったというのに冷たいと自分でも思うが、祐介にとってはどうしようもない。

「ブリ大根をユースケの家に置いてきたけど、何の連絡も無いって、ブーたれてたよ」

 祐介は礼を言っていなかった。連絡をしても酷評をしてしまいそうになるから、躊躇していたのだ。

「もらっておいて連絡をしていないのはおれが悪いッスけど、あれはちょっとホラーでしたよ。アラは生臭いし、タッパーに目玉が透けて見えたし。第一おれ、ブリ大根ってそんな好きじゃないんスよ」

 本人には言えないことを、宇佐原にぶつけた。宇佐原はリサと祐介の双方からの愚痴に飽きたのだろう。うんざりしている声で言った。

「けど、ミサトさんとやらのブリ大根は、うまいんだろ?」

「ま、まあ……」

なんでこんなことで責められなければならないのか、理不尽を感じ始めていたその時だった。


「ミサトって誰?」


 店は“閉店”の看板を出してはいたが、数名の常連が店内でまだ飲んでいる最中だった。しかしまさか彼女が来ていたとは気が付かなかった。

 背後を見ると、リサが般若の表情で立っていた。

「リ、リサ……」

「ユースケ! ミサトって誰?」

「えっ」

「誰よ、誰のことよ!」

 彼女のあまりの剣幕に、タジタジとするしかない。

「だ、誰って……」

「私のブリ大根は好きじゃないのに、その女のは食べられるんだ。 何それ?」

 どこから聞いていたのか。

 宇佐原は慌ててカウンターから出てきて、「まあまあ」とリサの肩に触れようとしたが、彼女にその手をピシャリとはねのけられた。

 リサの白い顔は真っ赤になり、眉間に皺が深く刻まれている。

「連れて行きなさいよ」

「はあ?」

「その女のところに連れて行ってよ!」

 こんなに小さい体なのにどこからエネルギーを出しているのだろうか。売れないとはいえ、さすが女優。店の中にいた者全員が振り返るほどの声量で、彼女は叫んだ。

「そのブリ大根を作るのがうまいっていう、ミサトとかいう女のところに連れて行きなさいよーっ!」

 祐介はすっかり呆然としたままで、彼女の迫力にただ頷くだけだった。


 *


 祐介は、太ももの上にクロを抱いたまま、身動きとれないでいた。

 クロは、その名の通り全身真っ黒。小柄だからてっきり子猫だと思っていたが、飼い主のミサトによるとすでに十歳を超えているらしい。調べてみたところ、猫の十歳は人間の七十歳に相当する。

 いつの間にか彼にすっかり懐いているこの猫は、飼い主によると本来人見知りが激しいとの話だが――と、祐介は今考えなくてもいいことを考えていた。

 そうでないと、神経がもたない。

 彼はミサトの部屋にいた。

 この部屋のキッチンでは、女ふたりが奇妙な空気を作っている。

 クロは祐介の膝の上から、ふたりのうちの一方――リサを、しっかり警戒していた。“ミサトの敵”だと認識しているらしい。尻尾がふくらんでいる。

「下茹でって、米の研ぎ汁を使うんじゃないですか~?」

 リサの嫌みったらしい声が、祐介の血の気を引かせた。

「だって、今お米は炊かないもの」

 しかしどんなにリサが小馬鹿にした声を出しても、ミサトは変わらなかった。しれっと返事しながら、米びつからほんの少しだけ米を取り出した。

 結局、リサのあまりの迫力に負けて、祐介はミサトの部屋に案内してしまった。

 なだめて、とりあえず自分の部屋に入れようとしたものの、隣室が在宅していることに気付いたリサが、ミサトの部屋のチャイムを勝手に鳴らしてしまったのだ。

 チャイムに呼ばれて出てきたミサトは、ひどく不機嫌だった。

 何が原因なのかは知らないが、彼女はチャイムの音が嫌いなのだという。初めてこの部屋でけんちん汁を食べた翌日、チャイムを鳴らした祐介は叱られた。それ以来チャイムではなく、ノックをするようにしている。


「ブリ大根、作ってよ!」

「はあ?」

 ここに来る前に、彼らは二十四時間営業のスーパーに立ち寄っていた。そこでリサが買ったのは、ブリのアラと大根だった。

 リサはスーパーの袋をミサト宅のダイニングテーブルの上にどっさり置いて、恋敵に挑戦状を叩きつけた――つもりになっていた。が、当然ではあるがミサトは困惑していた。

「……何なの?」

 不機嫌なまま祐介に聞くものの、彼はしどろもどろになっている。そこへリサが割り込んだ。

「ユースケをたぶらかしたブリ大根、作ってみせてよ」

 ミサトは再度祐介を見たが、その表情は単なる不機嫌から憤怒に変わりつつあった。祐介の背筋に悪寒が走る。

「ご、ごめんなさい、こんな夜中に。仕事もあるだろうから、明日、時間があったらでいいんで……」

「ユースケ!」

「うるさいな! いや、作らなくていいよ。おれら帰るから! ほんとうにごめんなさい!」

 彼は抵抗するリサの腕をムリヤリ掴んで、ミサトの部屋から出ようとした。だがミサトはレジ袋の中身をチラリと見て、

「ま、いいや。ちょっと時間かかるわよ」

 と言った。

「え……」

 呆然とする彼の手をはずし、リサはフフンという顔で腕を組み、仁王立ちでミサトを見た。

「お手並み、拝見させてもらうわ」

(お前、何者だよ……)

 祐介は膝から崩れ落ちた。


 ミサトはまず大根を輪切りにし、皮をむき、片方の面に包丁を入れる。それを水の入った鍋に入れて、点火。下茹でを始めた。彼女はその鍋に、米びつから取り出した米をひとつまみ、生のまま入れた。

「これでいいのよ」と、ミサトは穏やかに話し始めた。「米の研ぎ汁をとは言うけど、米炊かなきゃ研ぎ汁なんて出ないでしょ。そういう時は、生米でもいいの」

「そうだったんだ……」

 意地悪な小姑やお局を演じるが如く文句を言っていたリサは、いつの間にかおとなしくなってミサトの手元を見つめていた。

「なんでお米を使うか、知ってる?」

 ミサトはリサに問いかけた。

「……知らない」

「お米のデンプンに、アクや苦みが溶け出すのよ。大根の青臭さとかもね。さて、これでやわらかくなるまで、三十分ほどかな?」

「そんなに? それじゃお湯から茹でればよかったのに!」

「根菜類は、水から茹でるものなの。芯まで熱が入るのに時間がかかるから、全体均一に火を通すには、ゆっくり温度を上げていく必要があるのよ」

 見事な論破。何も言えないでただ驚いた顔をしているリサを横目に、ミサトはブリを取り出した。大根を処理するよりも前に、ザルにあけたアラに、塩を振ってあった。

「めんどうだなぁ」

 彼女はため息混じりにそう言いながらも、手早くザルにアラをあけて、水で洗い出した。そして他の鍋で湯を沸かし、アラをその熱湯にくぐらせると、別に用意していた氷水の中にそれを入れて、また洗い出した。

「そんなに洗ったら、ボロボロになるじゃん」

 見かねたのかリサがそう聞いたが、ミサトはアラから目を離さずに言った。

「ちゃんと血合いやウロコを取らなきゃ、生臭さの原因になるからね。ま、あまり長くやると、うまみも抜けちゃうけど」

 冬。いくら部屋の中が暖かいからとはいえ、ミサトの手先は真っ赤で、水の冷たさがうかがえた。

 それからキッチンペーパーの上にアラを並べ、水を切る。そうこうしているうちに三十分ほど経ったらしい。ミサトはフォークで大根の火の通り具合を調べた。

 茹で上がった大根をザルにあけ、さらにそれとブリを鍋の中に並べ、調味料を入れて煮始めた。

「さて、と」

 ミサトは落としぶたをかぶせてから、リサに向かった。リサは少し怯えたように構えていた。

「あなたはどうやって作ってるの?」

「私?」

「すっごく生臭かったよ」

 思わず祐介が割って入った。女ふたりから同時にキッと睨まれたが、続けた。

「だ、大根も煮えてなかったし、その大根にだって生臭さが染みてたよ」

 ミサトは彼の話を聞いて、しばし考えた。

「大根が煮えてないのは、下茹でが甘かったんでしょ」

「でもっ、ちゃんとお米のとぎ汁で煮たもん!」

 リサが慌てて否定する。

「お湯が沸いてから入れたんでしょ? それで茹であがらない状態で出したんじゃないかしら」

 リサは記憶を掘り起こしている様子だった。

「で、でも、どうせブリと煮ることになるんだしぃ……」

 さっきまでの強気はどこにいったのか。珍しく滑舌悪く、モニョモニョと言い訳をし始めた。

「あと、ちゃんと血合いを取らなかったんでしょ」

「……」

 確かに「そんなに洗ったら」と驚いていた。多分、そこは手を抜いたのだろう。

「……だ、だって水が冷たかったし、あんまり続けるとアカギレができるしぃ。生姜とかお酒とか入れて煮れば、生臭いの無くなるかなって思ったんだけど……ちゃんと本見て作ったのにな……」

 リサが本のせいにし始めた頃、鍋が吹き上がった。ミサトはコンロの火を調節して、そのまま煮続けた。

「本を見ながらだろうが何だろうが、下ごしらえってのはきちんとしないと」

「でも、そんな時間無いし……」

「だったら作らないで、外に食べに行けばいいじゃない」

「……」

 言い返せず、リサは黙った。悔しそうな表情だ。

「あなた、“インソムニア”の清田リサさんよね」

「へっ?」

 リサは虚をつかれた顔をした。ミサトの発した単語が、祐介の耳には一度ではすんなり入ってこなかった。

「イン……ソ?」

「インソムニア。元は“不眠症”って意味だけど、芝居のことを考えると夜も眠れないっていう人たちの劇団。私、この人のお芝居、観たことあるわ」

「あ……そう……なんですか……」

 先ほどまでの勢いはどこへやら。リサはしゅるしゅると小さくなっていた。祐介でさえ知らないでいたリサの所属劇団名を、ミサトがあっさり当ててしまったのだから、無理もない。しかも観に行ったことがあるという。

「女優ってさ、演技とか歌とか、まったく経験の無い人でもできるの?」

「は?」

 祐介とリサは同時に声が出た。何の話になるのかわからない。しかしお構いなしに、ミサトは祐介だけに問いかけた。

「ギターは? ギターを始めた人の多くが最初につまずくコードがあるって聞いたことあるけど」

「Fだ」

「そう、それ。でもあなたは練習して、できるようになったんでしょ?」

 遠い昔のこと過ぎて、すっかり忘れている。指が引きつりそうになりながら、必死に練習した少年の日々を思い出した。

 彼が頷くのを確認してから、ミサトはリサに向き直った。

「芝居もそうでしょ。発声とか動きとか、練習して身につけることがあるでしょう?」

「な、何が言いたいの?」

 困惑したリサがそう問うと、ミサトは少しだけ宙に向かって息をつき、それから笑みを浮かべて言った。

「どんなことにも、“下ごしらえ”って大事だと思わない?」

「下ごしらえ……」

「芝居も音楽も、誰かにお金払ってもらって見てもらったり、聞いてもらったりするもんでしょ。そのためには練習って絶対するわよね?」

 その通り。ミサトの言うことに、祐介はただ首を上下に動かすだけだ。

「下ごしらえを怠ったものってのは、どんなものでもまずいのよ。ひと様に賞味していただく資格の無いものなの」

 彼女はそう言いながら、鍋のフタを取った。醤油の香ばしい香りとブリの脂の香りが、ふわりと拡がった。

 リサは耐えられなくなったのか、怒鳴りだした。

「あっ、アンタに何がわかるのよ!」

「何もわからないわよ」

 想定外の返答だったらしく、リサはきょとんとした。

「お金払って見てくれるお客さんに見せたいのは、努力なの?」

 ミサトは笑顔を見せてはいるが、おそらく怒っている。

「それじゃとっとと女優なんてやめて、料理の腕を上げて、この人のヨメにでもなった方がいいわ」

 リサは険のある、しかし泣き出しそうな表情になった。

 図星すぎて言い返せないのだ。

 リサだってわかっている。

 劇団に入団した頃は、誰よりも早く稽古場に出て、発声練習をしていた。

 そのまじめさと、やはり見た目に華がある彼女は、まもなく舞台に立てるようになった。

 すぐにファンがついた。演劇雑誌の表紙を飾ることもあった。

 そうなると飲み会などの付き合いが増え、朝起きられなくなった。

 稽古も遅れるようになったが、ファンが多いから、公演メンバーから外されることはなかった。それがリサを増長させた。

 しかし、そんなものは長く続かない。

 すぐに彼女を脅かす、若い才能が出てきた。

 そしてリサのファンだった客たちも、簡単に彼女を裏切っていく。

 それを責めることはできない。誰だって磨き抜かれた才能を見たい。

 沈黙を破ったのは、どうしてでブリ大根だったの?」

「え……」

 予想外の質問だったらしい。リサは逡巡しつつ、答えた。

「私のお母さ……母の出身地の郷土料理なの。それで父を射止めたって聞いて……」

「ああ、富山なんだ」

 ブリ大根がどこかの郷土料理だったなんて、祐介はまったく知らなかった。

「お母様は? ご健在?」こくりとリサが頷く。「それじゃ教えてもらえばよかったのに」

「え、母に?」

「うん」

 当たり前のように頷くミサトを見ながら祐介は、彼女が自分の親とは円満なまま生きてきたのだと想像した。

(親のコトで苦労してないヤツの言い分だよな)

 リサはしばらく実家に帰っていないと聞いている。会う度に、女優になるという夢を咎められるからだと。まじめに働け、早く結婚しろ、早く孫を見せろ……おおよそ多くの親が子供に願う内容だろうが、会う度に言われると煩わしい。祐介にはその気持ちがよくわかる。

 祐介自身も、しばらく実家には帰っていない。

 実家は埼玉県内にあり、東京都内のこのマンションからはさほど遠くはない。

 しかし親に会いたくない。

 父はすでに祐介の存在を無かったことにしている。母は時折メールを寄越すが、うるさいことしか書いて来ない。

 兄がひとりいて、彼とだけ時折メールのやりとりをする。ライブにも来てくれた。 だが親の期待通り東京大学を出て、エリートサラリーマンになり、その上妻子を食べさせることができている兄に、祐介は少なからず引け目を感じている。

 だからリサに共感した。だから求められるままに、彼女を抱いた。

 これは愛情ではなく、同情だった。

「お母さんが作っているところを見たことはない?」

 無言のままのリサに、ミサトが問いかけた。

「……無い」

「そう。でもお父さんを射止めるくらいおいしいブリ大根を作っていたんでしょ? 自分でもおいしいと思っていたから、この人に作ったんでしょ?」

 ミサトは祐介の顔を見ないまま、ぞんざいに彼を指さした。リサは戸惑いながら、小さくコックリと頷いた。

「一度くらい教えてもらった方がいいかもね。きっと……ううん、絶対下ごしらえをきちんとしているはずだから。おいしく食べてもらうためにね」

「……」

 リサはジッと、ブリ大根を煮込んでいる鍋を見つめていた。

 しばらくの沈黙の後、クロが飽きたと主張するかのように「ミャア」とひと鳴きした。 

「とりあえず、食べない?」

 ミサトは鍋の蓋を開け、そうリサに尋ねた。しかしリサは首を横に振った。

「私、帰ります」

 ひどく静かな、けれど何かの決心を持った声だった。

 祐介は驚いた。彼女のそんな美しい声を、初めて聞いたから。

「そう」

 ミサトはそばの棚から大きめのタッパーをふたつ出してきた。そのひとつに出来上がったばかりのブリ大根を入れて、材料を入れてきたレジ袋に入れて、リサに差し出した。

「持って帰って。ファンからの差し入れってことで」

 リサは驚いた顔をしていたが、遠慮なくそれを受け取って、頭を下げた。

「夜分に突然お邪魔してすみませんでした」

 彼女が自分の感情とどう折り合ったのかが祐介には理解できなかったが、ミサトはちゃんとわかっている顔でリサを見ていた。

 この夜、祐介が初めて見た、ミサトのやわらかい笑顔だった。


 *


 リサが出て行き、ドアが閉まるパタリという音を確認してから、祐介はミサトに謝罪を始めた。

「ほんっと、ごめん! こんな夜中に連れて来ちゃって」

 しかし彼女はもうひとつのタッパーに、黙々とブリ大根を詰めている。

「あ、あのう……、ミサトさん?」

 空気が冷たいことに、祐介は気がついた。彼女はタッパーの蓋を閉め、彼に無言で突き出した。

「へ?……ええっ?」

 彼がタッパーを受け取ると、ミサトは彼をムリヤリ玄関に向かわせ、背中をグイグイ押した。抵抗しようとすればできたが、思った以上に彼女の力が強く、彼は押されるままに外に押し出された。

「ちょっと、ミサトさん!」

 ドアが閉められ、ガチャリという施錠音がした。

(……怒ってる……)

 こんな夜中に無礼な女を連れて、突然「ブリ大根」作れ!だなんて言われれば、誰だって怒る。と、祐介は諦めた。

「ひっ!」

 渡されたタッパーから透けて見える、アラの目玉部分がギョロリと祐介を睨む。


 その後しばらく、ミサト宅のドアには鍵がかけられていた。

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