第1話 ミサトさんのけんちん汁

『3A』とだけ書いてある表札の部屋のドアを、軽く三回ノックする。すると、

「はあい」

 という細い声が聞こえてくる。

 これが合図で、田川祐介はその部屋のドアノブを掴む。

 鍵はかかっていない。

 物騒だと注意したことがあったが、彼女は「何かあったら、その時が寿命でしょ」と、軽やかに笑うだけだった。

 ドアを開けると、見慣れた1LDK。

 そこからキッチンが臨めるが、そこには誰もいない。

 木の家具が多く、本のにおいがする。

 いつも通りに奥の部屋――寝室はドアが閉まっており、その手前に彼女は居た。リビングの角に設置されている机で、パソコンに向かって慌ただしく手を動かしている。

 音楽もラジオも流れていない。部屋の中は彼女のキーを叩く音だけが響く。そばのリビングのソファでは、彼女の愛猫のクロが退屈そうに大きくあくびをしていた。

「ちわ」

「んー」

 祐介が挨拶をしても、彼女は彼を見ようともしない。返事もぞんざいで、冷たく聞こえる。

 これは、彼女の仕事がキリのいいところまで行っていないという証拠だ。祐介もそれをよく知っていて、決して邪魔はしない。

 勝手知ったる他人の家。祐介はキッチンに入り、断り無しに冷蔵庫を開ける。

 自分が飲むためのビールを一缶取り出し、代わりに買ってきた六缶一セットをばらして中に詰め込んだ。ワインは瓶入りの酒類をストックしている棚に置く。

(サツマイモはどうするんだっけ?)

 しばしサツマイモを掴んだまま立っていると、

「それは冷蔵庫に入れちゃダメ。新聞紙にくるんで、ストック箱のところに入れておくの。後でやるから置いておいて」

 と、声が掛かった。冷蔵庫の横に、野菜を入れているカゴがある。そこには野菜を包むための古新聞も用意してある。

 彼女の方を見ると、まだパソコンに向かっている。

 相手にされようとされまいと、祐介は気にしない。

 逆にこの“もてなしされていない感”がたまらなく好きだ。

 彼女がパソコンに向かっている姿を、洒落た絵画を鑑賞するような心持ちで眺める。それだけでいいツマミになる。祐介は缶ビールを開けた。

 ふとキッチンのコンロの上を見ると、赤い鍋が乗っていた。

(おっ)

 フタを開けて覗いてみると、大き目にぶつ切りにされた大根やニンジン、長ネギ、油揚げ、そしてサツマイモが鍋の中にひしめき合っていた。

「それ、あたためてね」

 また彼女の声が飛んできた。やはりキーボードに向かったまま。

 祐介は“yes”の意味で「うい」と、大声にならないように遠慮がちにつぶやいて、点火した。早く食べたいから、つい火を強くしてしまう。

「弱火で」

 素直に火を小さくした。この部屋での彼女は、“絶対”だ。決して逆らわない。 

 赤い鍋にやさしく触れるくらいの青い炎。それを見ながら、祐介は彼女がキーボードを叩く音を聴く。

 この部屋の、この時間の空気が好きだ。

 ここではふたりの間だけの約束事が守られていることも、楽しい。


・ドアを三回ノックする。チャイムは絶対鳴らさないこと。

・ケータイの電源は切っておくこと。もしくはマナーモード。

・冷蔵庫の中身を減らした時は、きちんと補っておくこと。

・彼女の仕事は、決して邪魔しないこと。

・クロはかわいがること。


 守れと書き出されたものを彼女から押しつけられたわけではない。自然とできた約束事だ。だがこれさえ守れば、祐介は赤い鍋の中のものを食べることができるのだ。


 彼女の愛猫クロが完全に起きたのか、ソファの上で一回伸びてからストンと床に降り立った。そしてフローリングにチタチタという小さな音を立てながら、祐介のそばに寄ってきた。

 キッチンが温かくなってきた。

 冷えていた鍋が温度を上げてくると、ほんのり香ばしい香りが漂いはじめた。

(ゴマ油……)

 もう一度鍋のフタを取ると、表面にセピア色の油の玉がいくつも浮かんでいる。

 味噌仕立てのけんちん汁。

 祐介が最初に食べた、彼女“ミサトさん”のメニューだ。


 *


「ありえねーだろ!」

 その日、田川祐介はかなり荒れていた。


 友人を誘って、飲みに行った。

 飲まなければやっていられなかったのだ。

「ほんと信じられねえよ」

「そうだな、ユースケは悪くない。悪いのはコーイチだ。ところでそろそろ終電が出るからおれは……」

「だろー? ひどいよなー! 親友だと思ってたのによ」

「あのな、おれ、明日朝から会議なんだよ……」

「会議? それと友だちとどっちが大切なんだよ?」

 相当声が大きくなっていたらしく、横に座っていた客が顔をしかめ、店員が注意に来た。友人がペコペコ謝っていたが、祐介はお構いなしだった。

「もういい加減にしろよ。お前は仕事が夕方からだろうけど、おれは朝早いんだよ」

「なんだよ、この社畜が!」

 かなりの暴言を吐いたらしいが、もちろん憶えてはいない。だが友人は気を悪くしたのだろう。

「もう手に負えないから、部屋の外に置いてきちまったんだよ」

 後日そう言われた。

(真冬でなくてよかった……)

 ただし夜はだいぶ冷えるようになっていたから、どのみち危なかった。

 とにかく友人は、大トラになって暴れた後に眠ってしまった祐介を持て余し、それでも親切に彼をマンションまで運び、部屋のドアに寄り掛からせて帰ってしまった。

 だが、その友人は彼の部屋を間違えていた。

 祐介の部屋もその部屋も、表札に名前が書かれていなかったから無理もない。 


 祐介が住んでいるのは、構造だけで言えばマンションだ。

 名称は、『メゾン・ド・ムジカ』。“ムジカ”とはイタリア語で音楽を意味する。音楽を生業としたい祐介は、この名称をかなり気に入っている。

 しかし築が古く建物の周囲をツタがはっているために、近所の小学生からは“オバケ屋敷”と呼ばれている。それには一階に住む大家の見た目も関係していると、祐介は思っている。

 建物は三階建て。一フロアに二世帯しかない。東側の1LDKと西側の1DKの部屋が、玄関で向かい合う形になっている。建物全体の坪数はさほど広くはない。

 祐介の部屋は最上階である三階の西側の部屋。

 だが友人は東側のドアに彼を寄り掛からせてしまったのだった。

 その部屋に“彼女”が住んでいることを、祐介は知らなかった。

 引っ越してきたのは彼の方が後だが、今時の引っ越しには挨拶など必要ないと聞いていたために、省略したのだった。


「ニャッ」


 突然、冷たい肉が祐介の頬をピタリと叩いた。何か硬い小さな刃物のようなものが、皮膚に少しだけ刺さったような感触も。

 同時にズキンと頭痛がした。喉もはり付くように渇いている。

「ニャッ」

 もう一度、同じところを叩かれた。

(にゃ?)

 目を開けると、すぐそばに黒く小柄な獣がいた。

(なっ)

 よく見ると、丸っこい猫だった。その緑色の瞳が、「お前、何者だ?」と問いかけるように覗き込んでいる。その猫が祐介の顔をパンチしていたのだ。その際に、爪が少しだけ刺さっていたらしい。

(え?)

 天井は知っている素材と色。

 しかし違う。自分の部屋ではない、と直感した。

(ここ……どこだ?)

 光や空気で、やはりそこが自室でないことを察した。その証拠に、まず彼の部屋には猫はいないし、彼が横たわっていたソファが彼のものではない。

 そして何よりも、彼の部屋はゴマ油のにおいなど決してしない。

(ご、ゴマ油?)

 頭痛と折り合いをつけながらゆっくりと上体を起こすと、顔のすぐ横にいた猫がぴょんとそこから飛び退いた。

 

「起きた?」


 周囲を見回す前に、声が掛かった。

 聞き覚えのない、女の声。少し低くて落ち着いている。

 自分がいる部屋を見回してみる。天井と壁紙の柄は、確かに彼の部屋と同じだった。

 だがやはり知らない部屋だ。彼の部屋よりも広く明るく、そして何よりもそこから見えるキッチンに立つ女性を、彼は知らない。

 その女性の背が高く見えたのは、細身で且つ姿勢が良かったからだろう。肩までの茶色い髪を後ろにまとめ、割烹着のような大きめの生成のブラウスに、黒いスパッツを履いていた。伸びる手足は長くて細い。

「んー?」

 祐介がすぐ返事をしなかったせいか、彼女はこちらを向かないまま不機嫌そうな声を出した。

「あっ、す、すみません、起きました」

「ハイ」

 返事に満足したらしい。

(な、なんだよ。お袋じゃあるまいし……)

 反射的に謝ってしまったことに、自分で納得がいかなかった。大の大人が叱られたということに、なけなしのプライドが揺らぐ。

その時それまで彼に背を向けていた彼女が、キッと振り向いた。

 ごく普通の、すっぴんの女性だった。

 特別美人でも、その逆でもない。少し神経質そうに見えるだけ。街で見かけたとしても、何の興味も持たないだろう。

 年齢は見た目ではよくわからなかった。ただしその落ち着いた振る舞いから、特別若いわけでないことが想像できた。

 祐介が確実に起きたことを確認した彼女は、再度鍋に向かった。フタを開けたらしく、フワッと湯気が立ちのぼる。

(あー……なんか、懐かしいにおい……)

 どこで嗅いだにおいだろう? 定食屋? 元カノの家? それとも実家?

 自分の置かれた状況を忘れてのんきににおいを楽しんでいると、少し非難めいた声で彼女は話し出した。

「隣の部屋の人よね、多分」

「は? おれ?」

「3B」

 祐介の部屋番号だ。

「あ、はい」

 彼女は大きなため息をひとつ、ついた。

「ここね、3Aなの」

「え?」

「あなたね、私の部屋の前で寝てたのよ」

「へ?」

「クロが騒がなかったら気が付かなかったわ。下手したら凍死してたわよ」

「……」

 自分の手柄と自慢げに、「ニャッ」とクロという名の黒猫がまた鳴いた。

「部屋を間違えてますよーって言ったら起きたけど、何でだかうちにグイグイ押し入って来るんだもの」

 愕然。なんたる失態。

 見たところ、他に住人はいなさそうだ。ということは、女性のひとり暮らしの部屋に自分は強引に入り込んだわけで、通報されても仕方ない状況だったらしい。叱られてプライドを揺らしている場合ではない。

「……も、申し訳ありませんでした……」

 それまでソファの上であぐらをかいていた祐介は、座り直して土下座した。しかし彼女はそんな祐介を見ていない。

「もう食べられるかな?」

 彼女の注目の先は鍋の中。蓋を開けると再びふわっと白い湯気がのぼり、祐介のいる場所まで味噌とゴマ油の香りが漂ってきた。彼の胃腸がそれに反応する。

 彼女はそれを大きめの椀によそい、盆の上に載せてソファの祐介のところまで運んできた。

 彼は彼女の顔を失礼にならない程度によく見た。色白に見えた肌は少しくすんでいるし、目元にほんの少しだけ皺がある。すっぴんの女性を見たことが久しぶりであるせいか、祐介は驚いた。

(けっこうオバサンか?)

 それでもまだ肌に張りがあるようにも見える。

 女性の年齢は本当にわからないといつも思う。この場合は、遠慮も手伝っているのかもしれないが。

(まあ、どっちでもいいよ)

 彼女が年上だろうが年下だろうがどちらでも構わない。ただひとつ言えることは、彼女の見た目が祐介の好みではないということだ。

「はい、どうぞ」

 彼女が差し出した椀を、戸惑いながらも受け取った。湯気が祐介の顔を襲う。

「み、味噌汁?」

「けんちん汁」

 椀の中をよく見ると、大根やニンジン、長ネギ、コンニャク、油揚げ、そして何やら芋のようなものが入っていた。具が大きく、表面にはゴマ油が作る油玉が浮いている。

 これは、祐介の知っているけんちん汁とは異なっていた。

「……ふつうは、醤油じゃねえ?」

 ふっと口から出た。言っておいて、自分で驚いた。

 祐介は怖々と彼女を見たが、目の前で明らかに機嫌を悪くしていた。目を見開いて、眉間に皺を寄せている。まさしく“ムッ”とした顔。

(こ、こええ……)

 彼は、見知らぬ他人……女性の部屋に無理やり押し入り、そこで彼女の好意によって出された料理について文句をつけた。これ以上に失礼なことはあるだろうか。 

 それに気付いた祐介は青ざめた。が、彼が謝罪するよりも先に彼女が口を開いた。

「あんたんちのふつうなんか、知らない。これが、私んちのふ、つ、う!」

 ずいっと、祐介に向けて箸を一膳差し出した。思わず素直に受け取る。

思っていた以上に子どもっぽい態度に(なんだよ、このオバサン)と忌々しく思ったが、納得もした。“ふつう”など、十人いれば十通りある。

「す、すみません」

 謝ることができたが、時すでに遅しという感が拭えない。思い出してみれば、確かに昔アルバイト先の賄いで食べたけんちん汁は味噌仕立てだった。自分の母親が醤油仕立てで作っていただけで。

(弱ったなー……ん?)

 彼はまた、椀の中に見慣れない食材を見つけた。

「これ……」

「あ、それはサツマイモ」

 それは、皮が剥かれていたからわからなかった。大き目にぶつ切られた大根やニンジン、長ネギ、油揚げに混ざって、金色のサツマイモが顔を出していた。これまで彼が食べてきたけんちん汁には、サツマイモは入っていなかった。

「え、サツマイモ……無いだろ」

「何ですって?」

 彼女の眉間に再度皺が寄ったことで、祐介は自分がまた失言をしたことに気がついた。室内の空気が、一気に張り詰める。

(けんちん汁って言えば、里芋だろ?)と思ったものの、この状況、今の立場でそれを口に出す勇気は無い。

「なによ、いらないの? サツマイモは今が旬なのよ。ゆっくり煮ているから、甘くておいしいのよ」

 祐介が気に入っていないことに気付いたのか、ひどく気分を害した彼女はサツマイモのおいしさに重きを置いて怒っている。少しずれている。

 それに彼は実は甘いものが苦手なのだが……やはり言えるはずがない。そばでやはりムッとしたような顔に見える猫が、祐介を睨んでいる。多勢に無勢。

「い、いただきます……」

 彼は観念して椀を口元へ運んだ。

(どうせサツマイモは少ししか入ってないだろうし、飲み込んでしまえば……)


 *


 弱火で長いこと煮ていた鍋からは、小さくコトコトという音がしていた。そろそろ食べる頃合いだ。

「私も食べよ。おむすびもあるけど?」

 ようやっとひと段落ついたらしい彼女は、鍋からけんちん汁をよそおうとしていた祐介に声を掛けた。

「あ、欲しい」

「OK。手洗った?」

「あ、ごめん」

 自分の部屋かのように、祐介はスタスタと洗面所に赴き、きちんとハンドソープを使って手を洗う。

 そこへ電子レンジの扉を開ける音がした。

 彼女はおむすびを前もって作ると、ラップをかけずに何故か電子レンジの中に入れっぱなしにする。夏場はさすがに冷蔵庫に入れるが、それ以外の季節は電子レンジだ。「何で?」と一度聞いたら、「私の母がそうしていたから」とだけ答えていた。

(そう言えば、お袋もそうしてたな)

 意味が無いと思っていたが、ラップを使わずに、埃がかからずに済むところといえば、電子レンジの中も有りだろう。入れてはいけないという決まりも無い。

(ミサトさんて、いくつなんだろう?)

 未だに知らない。

 親が同じようなことをする世代だから、自分と同じくらいに思う。けれど女性に年齢を聞くのは失礼だし、これまでも必要ないから聞かなかった。時々聞きたい衝動に駆られるが、それだけで確かめる度胸は無い。

 その上、祐介は彼女の本名も知らない。

 尋ねるタイミングを逸した。表札には何も出ていない。大家に聞くのも、なんだかおかしい気がして聞けないでいる。

 一度食事中に、彼女宛に電話がかかってきた。その相手が声の大きな女性で、彼女のことを“ミサト”と呼んでいた。だから祐介も彼女のことを“ミサトさん”と呼び始めたが、彼女が何も言わなかったのでそう続けている。

 電子レンジの中には、握り飯が四個入っていた。すでに深夜零時を過ぎていたが、彼女も毎日この時間に夕食を摂っているらしい。祐介が帰宅する時間とかち合うから、ちょうどいいのだという。「ひとりで食べるよりはいいでしょ」

 彼女は冷蔵庫からタクアンの入った小鉢も出してきて、リビングのテーブルに置いた。このテーブルは正方形の四人掛けで、キッチンを背にした方にミサト、その対面に祐介が座る。これもいつの間にか決まっていたこと。

 握り飯は二種類がふたり分。

「おっ。おれ、コレ好き」

 海苔の代わりに一個は黒ゴマ、もう一個は白ゴマがまぶされている。祐介の言葉に、彼女は満足そうに微笑んだ。

 各々が定位置に座り、夕食の時間が始まる。

「では、いただきます」

 ミサトと夕食を摂るようになってからついた習慣だ。

 最近ではひとりでの食事でも言うようになった。しかし複数で食事する時に重なる「いただきます」を、祐介は気に入っている。音的にとても美しいと思う。

 けんちん汁の入った椀に口を付けた。

 ゴマ油の香ばしい香りと、味噌のしょっぱさとコク、そしてざらりと煮崩れたサツマイモの甘みが一緒に入ってきた。

「――んめえー」

 ホッとする甘さが、疲れた体に染みこむ。

「さつまいもは、今が旬だからね。ゆっくり煮ているから、甘くておいしいのよ」

 彼女は以前と同じことを言って、静かに微笑んだ。


 *


「!」

 初めてそれを食べたその時、祐介は言葉を無くした。

「どう?」

 絶句している彼の顔を、彼女は覗き込んだ。

「え?」

 すぐ目の前に彼女の顔。やはり若いのかどうかがわからない。そしてどんな意味の質問なのかも、さっぱりわからない。

「だから、どう?」

「どうって……」

 なかなか欲しい回答が出ないせいか、彼女は苛立ち始めた。

「もーっ、おいしいかまずいかを聞いてるのよ!」

「あ……」

 彼は言葉を探した。

 うまいかまずいかと言ったら、これはうまい部類だと思う。そしてあたたかい。ゴマ油の香ばしい香りと、味噌のしょっぱさとコク、そしてざらりと煮崩れたサツマイモの甘み――


 祐介は荒れていた。


 十年以上一緒にやってきた親友が、ソロでメジャーデビューを果たした。

 ギターふたりでユニットを組み、インストゥルメント中心の楽曲を演奏してきた。

 路上での演奏から始まり、やがてライブハウスでできるようになった。最初は片手ほどしかいなかった客も、ライブハウスの席をほぼ埋めるくらいにはなっていた。

 さらにメジャーレーベルから声が掛かり始めていたのに、祐介は置いていかれてしまった。

 ふたりとも二十九歳。デビューには遅いくらいの年齢だ。三十を超えると諦める者も多い。このチャンスを逃すと、音楽だけで食べていくということが難しくなるだろう。なのに。

 だが、祐介にもわかっていた。

 ふたりでこのままやっていくことの限界を。

 親友の力を一番知っているのは自分だ。その力をさらに生かすことができるのがソロであるということも、わかっていた。

「ユースケ、ゴメン」

 泣きそうな顔でそう言われた。自分よりも背が高い親友にそんな顔で謝られた時、ひどく居たたまれなくなった。

 だから顔を背けて、そこから逃げた。

 そこで「いいさ、気にすんな」と言えれば、自分はラクになれたのだと知っていた。

 しかし言えなかった。

 取り残されるのが怖かったから。

 自分を置いて行く友人が憎かったから。

 それが後で自分を苦しめることになるとは、思わなかった。

 ギターをフルボリュームで弾きまくっても、酒を浴びるように飲んでも、すべてが祐介をがんじがらめにするだけだった。


 それが簡単にほどけていった。

 そんな温度と甘さだった。 

 思い出した。昔、父親と衝突して、家を飛び出した。

 しかし結局兄に捕まって、自宅へ連れ戻された。父は出張でいなかったが、母親が待っていた。

「お腹すいたでしょ」

 家出したことを責めずに、母は食事の支度をした。そこで出された味噌汁が妙にうまかった。

 安心。あれによく似ているような気がした。 

 あの頃は十代の生意気盛りであったし、目の前に母と兄がいたから、憮然として食べていた。しかし今回は堪えないと涙が出そうだった。


「だーかーら!」

「はっ、はい?」

 不機嫌全開の彼女の声に、全身でビクッと震えた。幸い椀の中身はこぼさずに済んだ。

「おいしいかまずいか聞いてるの!」

「へっ……あ、お、おいしいです」

 少し鼻声になっていたことに気付かれたか、気になった。しかしそんなことは彼女には興味がなかったらしい。

「よろしい!」

 彼女は最高の笑顔を祐介に見せて続けた。

「おかわりあるからね」


 *


「おかわりあるからね。お先にごちそうさま」

 雑談をしながらの団らんの後、自分の分を食べ終えた彼女はまたパソコンに向かった。

 祐介は黒ゴマでまぶしてある握り飯を手にとって割った。中からは、大きな焼き鮭がボロリと出てきた。大きく口を開けて食いつくと、黒ゴマが口の中でプチプチ弾けておもしろい。先に食べた白ゴマの方は、昆布の佃煮が入っていた。

「よく噛んで食べてねー」

 すかさず入る注意に、祐介はむせそうになる。

(お袋かよ)

 苦笑い。祐介の決まり悪そうな表情がわかるのか、彼女はフフッと笑った。

(あれからもう一年近く経つのか)

 けんちん汁の中の、形の残ったサツマイモをつつきながら、彼は彼女・ミサトの部屋で過ごしてきた夕食の時間を想った。 

 彼女とはセックスどころか、キスだってしたことないし、抱き合ったことなんかも当然無い。

 本名、年齢、出身地、恋人がいるのかどうかも知らない。彼女も祐介については音楽をやっている以外は何も知らないだろう。

 彼女について知っているのは、顔と住まいと、作る料理だけ。

 なのにふたりは、同じ鍋の料理を一緒に食べている。

「ごちそうさま。おいしかったよ。ありがとう」

「んー」

 彼女はすでに自分の仕事に戻っていた。祐介は食べ終わった椀と皿、そして箸をシンクへ運び、洗いながら思い出していた。作ってもらったからには、片付けは自分の仕事。これもいつの間にか習慣になっていたこと。

 すぐそばで、彼女が他のことをしている気配を感じながら食べる夕食。会話が無くとも、これはこれでいいと思う。

(そういや、約束事はもう一個あったな)


・おいしいかそうでないかを、ちゃんと口に出して言うこと。


 約束事は、これで六つ。

 これらをいちいち守りながら、祐介はミサトの家を訪れる。

 どうして毎回自分の夕飯まで用意してくれるのか。 

 この居心地のよさが何なのか。

 いくつもの謎は、手つかずのままで。

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