終章

 終章

 あれから一年が経過した。

 人間は簡単に忘れる。

 元公安の捜査員、葛木恭矢によるニッタミ襲撃事件は忘れられることはなくとも、最早多くの人々にとっては遠い昔のことのようになっていた。

 ニッタミ本社の爆破事件。それに伴うニッタミ関係者殺人事件。そして現役衆議院議員我来賢一郎襲撃という二〇〇〇年代始まって以来のテロとも言える事件は結局のところ犯人不明のまま風化されようとしていた。葛木恭矢という名前は一度も世に公表されることはない。おそらく二度と。

 さしもの零課においても、ニッタミ本社爆破という派手な事案を報道規制させるわけにもいかなかったようで、一応の監視下の元、今回の一連の事件は白日の下にさらされることとなった。

 一体誰がこのようなことを。人間のすることではないという犯人を糾弾する声。いやニッタミなんてブラック企業だからこれぐらいされて当然だろうという声。犯人を特定できなかった警察の捜査能力に対するバッシングも猛烈なものだったがそれも一ヶ月の間のことで、ワイドショーと週刊誌はまたいつものように、旨味の無くなった話題は吐き捨て、誰が離婚し誰が結婚したかという下世話な話題を取り上げるのに必死になった。

 一方、壊滅的な状況となった的場組は香川会に見捨てられる形でそのまま瓦解し消滅となった。

 数少ない生き残りである的場組幹部、金庫番の前原はその腕を買われ同じ香川会系の組織からヘッドハンティングを受けたが全て断ったという。

 あの日、恭矢が的場組本部へ向かう中、彼を出迎える形で一番最初に接触したのは前原だ。これまで恭矢と共に過ごした中で彼の過去と事情を汲み取ろうとせず、そのことを後悔しながらも「馬鹿な真似はよせ」という言葉しか出なかった。恭矢は無視する形で出迎えてきた前原を殺害はせずに昏倒するだけに終えた。後は目覚めれば全てが終わった後だったという。

 事件のしばらくした後、津田は前原と再会する機会があった。「これからどうするんだ」と尋ねると、前原は極道から足を洗って田舎に帰るつもりだと答えた。ただでさえ細身の体だったがさらに頬がこけていたことを憶えている。

「津田さん。俺は思うんですよ。恭矢は本当に我来に狂わされたんだと。でなければ俺も恭矢に殺されていたし、それにあいつはこう言ったんですよ。俺を気絶させながら『あんたには世話になったから』と」

 一方、一時期は共に捜査を協力した一課の高根と木戸の所存も心配の種ではあった。成田に尋ねてみたが「まあどうにかやっている」とのことらしい。とはいえ国外出国は禁止され、当分は監視の身にあるという。きっかけこそは彼らからもたらされたものだったが、近いうちに会って詫びの一つでも入れなければ。「彼らにも来て欲しかったんだよねー」という成田に呆れる他なかったが。

 襲撃されたニッタミはと言えば、高騰していた株価はストップ安まで崩落。多額の赤字を出しかなりの店舗数を畳むことを余儀なくされ、またこれを機とばかりに今までの黒い経営ぶりと強引な手腕に対する批判が取り沙汰された。叩けるものは全て叩くという日本人らしいマスコミとネットの動きは殺された我来の近親者と関係者にまで及び、特に我来礼二の素行と薬物使用が暴露された際には清勝館学園へのいやがらせが激化した。また岡安大毅に至ってはまるで死人に鞭打つが如くの批判に晒され、版元は岡安の著作物を全て取り扱いを停止するに至らせた。

 とどめは週刊文久で連載が再開された暴露記事の中で葛木美奈子による不祥事が、実際は我来と堀田による陰謀だったということが明らかとなると、ついにはニッタミに対する世間のバッシングは実力行使に出るものまでも現れた。ちょうどニッタミ系列の飲食店に異物混入騒ぎが多発したのはこの時であり、因果関係は偶然と言い難い。

 この事態に対し、ニッタミは新ブランドの飲食店の設立。新ブランド発表も特に会見や発表会など行ったりはせず、ブランドからニッタミの名を撤廃するなどしてマイナスイメージを新ブランドから隠蔽を図り、どうにか持ち直すことができた。

 清勝館学園は相変わらずの低迷振りではあったが、我来礼二の同期で卒業生の一人に著名なアーティストが現れるとその人気にあやかり、こちらも経営的にもイメージ的にも回復を図ることができた。

 我来礼二は遺体で発見された。我来賢一郎は要求通りにしていたにも関わらず殺害されたということになるが、「ま、そりゃそうなるよねー」とは成田の言だ。

 人は簡単に忘れる。憎しみすらも。

 あれだけ取り沙汰されたニッタミの黒い経営ぶりのイメージも人々から薄れ、時の内閣総理大臣によるTPP妥結の裏でひっそりと残業代ゼロ法案が密やかに可決されたのは同時だった。この法案も一定の職種と年収取得者を対象としているらしいが、いずれ若年層にその手が伸びるのも時間の問題だろうというのは、成田の言である。

 あれから一年が経過した。人は簡単に忘れる。後悔すらも。

 我来賢一郎は参院選への出馬を公表した。

 人は簡単に忘れる。反省すらも。


 新宿駅西口。広大なロータリーの一角が異様な熱に沸き立っていた。

 一台の選挙演説車を中心とした人だかり。

 その中の片隅、目立たない位置に津田を含めた零課の要員たちは配置されていた。

 演説車の車体の足場には三人の男が大勢の見物客相手に笑顔と大手を振りまいていた。一人は我来賢一郎本人。そしてもう一人は与党党総裁にして現職内閣総理大臣の高山。

 その二人が見守る三人目の男はマイクを持って芝居がかったようにがなりたてていた。真っ黒に日焼けした肌とサイドを刈り上げ残った天頂部を金色に染め上げた男。スーツを着込んでいるもののギラついたストライプのそれは、明らかにまともな代議士かあるいはその関係者のものとは思えなかった。

(なにあれ、変なの。死ねばいいのに)

 任務のヘッドクォーターを務める成田のあからさまに不快そうな声が無線で飛んでくる。確かにTPOを全くわきまえていない頭の悪そうな様相だ。感心できたものではない。

 津田は後にニュースで知ることになるのだが、金髪の男は今流行の男子ボーカルダンスグループのメンバーであるらしく、彼目当てに我来の街頭演説へ足を運んだと思われる女性の姿もちらほらと見受けられた。金髪はどうやら清勝館学園のOBであるらしく、我来を先生と呼称していた。しかも何やら、両者は教え子の関係にあるように振る舞っている。理事長が直接教える立場だったかどうか知らないが、どうやらあの金髪は我来の思想にいたく入れ込んでいることが聞いてわかった。

 なるほど。どうやらあの金髪は我来の洗脳の成果物というわけか。一言一句が我来のそれと同じように癪に障ると津田は舌打ちした。

 半年前の事件からひと通りニッタミと我来の所業については調べてみた。葛木恭矢を肯定するわけではないが、調べれば調べるほど反吐が出るようなサイコパスか何かとしか思えなかった。あれならヤクザ組織のほうがまだ筋が通ったものがあると、元マル暴らしい感想も抱いた。

 生きてちゃいけない人間は確かにいる。津田の奥底に沈んだ成田のかつての言葉が、波紋を生み津田の精神へとその波を及ぼしていく。

 金髪がひと通り我来の素晴らしさを陶酔しながら演説していく。それが終わると我来から見て右手の方へ移動し、我来へとマイクを渡した。我来がマイクを受け取ると、笑みを振りまき大手を振る。

 そして、ついに演説を開始しようと声を発しようとしたその時だった。

 一つのかすかな風切音と共に金髪が右太ももを両手で押さえながらその場で倒れこんだ。選挙カーの下、聴衆から見れば靴紐か何かを結ぶためにしゃがんだといった具合にしか見えない。我来は何事かと下を向いて覗き込む。金髪の右足が真っ赤に染まっていた。鮮血と抉り出された肉の色とで、我来の足元は血の赤で溢れていた。

 目の前の光景から事態を把握するまで、数拍。そこから我来が悲鳴を上げるまで一拍。

 だが、我来は悲鳴を上げることも叶わなかった。

 再びの風切音と共に、我来の頭部の半分は血煙を上げて砕け散った。

 砕けた頭蓋と飛び出した眼球が宙に舞う。

 飛び散った血飛沫と脳漿が見物客の顔面にへばりつく。

 悲鳴と怒号が銃爪となり西口一帯はパニックに陥り、津田たちは緊急事態へと移行する。

 残された高山の身の安全はSPが確保するだろう。零課を含む他の公安の面々に課せられた役目は周辺の封鎖と狙撃位置の特定、可能であればスナイパーの追跡だ。

 津田が辺りを見れば怒号と悲鳴の中で一部、スマートフォンを取り出してカメラを向けている者たちがいた。ある者はSNSに投稿し、ある者は通話を始める。手段は数あれど、皆一様に目の前で起きた〝エンターテイメント〟に花を咲かせていた。

 人が目の前で死んでいるんだぞ。がなり立てたくなる気持ちを抑え、津田は南口方面へと駆け出していく。インカムでの無線ではヘッドクォーターを務める成田の指示する声が飛んでいる。その声はどこか弾むものと笑みが孕んでいた。

「なんでそんなに笑っていられるんだ!」

(これが笑わずにいられるかよ!恭矢だよ!こんな芸当できるのは恭矢しかいない!あいつ、やっぱり生きてたんだ!フォウ!)

 エキセントリックな男だとは思っていたが、まさかここまでキているとは。津田が舌打ちする。とはいえ、成田の言うことは妥当だった。

 この期に及んでニッタミに仇なすような者が他にいるのか。死体が上がっておらず、先ほどのような事態が起きたのならば、それはきっと奴の所業だ。

(金髪は右足を撃たれ、我来は右側頭部を狙撃された際に左に倒れこんだ。ならばスナイパーは京王、小田急百貨店から新宿南口方面、ヨドバシカメラ周辺へとポジショニングしているはず。南だ。甲州街道に合流する十字路、ルミネ周辺を徹底的に封鎖しろ!)

 言動こそは奇怪だが判断と指示は的確だ。だからこそ零課という暗部の長などというポジションに就けられるのだろう。薄気味悪くて仕方がないが。

 西口から南口、東京都庁方面にかけて大勢の警官とパトカーが疾走しばらけていく。制服警官、スーツ姿の刑事、津田もその中の一人として全力疾走していった。左にルミネが見えてくると、右の横断歩道を渡る。いくつかの分かれ道を長年の刑事の勘とも言えるべきもので選び突き進んでいくと、やがて二股に分かれている大型ビルが見えてきた。都庁である。休日では特に用がある人間は少ないはずだが、今日に限っては選挙演説があるためかそれなりの人の数であった。津田が足を止め、周囲を見渡す。汗が一気に吹き出し額に流れるそれを手の甲で拭う。自分と同じように都庁方面へと向かってきた制服警官がちらほらと見受けられた。だが、それだけだった。この辺りにそれらしき姿は見えない。再び津田は駆け出す。

 都庁前の高架下を走っているその時だった。津田の携帯が勢い良く震え始めた。津田が携帯を開き液晶画面を見ると、非通知と表示されていた。

 確信に近い嫌な予感がした。携帯電話を握る拭ったはずのその手に再び汗が滲みだす。自分に非通知で電話をかけてくるような人物にあてがないかと言われれば、そうでもないからだ。覚えのある声がするだろうと、心の備えとともに親指で通話ボタンを押し込む。

「誰だ」

 津田が問う。しばしの沈黙の後に、予想通りと言うべきか、あるいは驚くべきかとも言える声色が答えた。

(つまらない幕引きだった。我ながら満足いかない)

 忘れるはずのない、忘れたくとも忘れられない者の声だった。

「……貴様」

 そう呼びかける津田の声は自分でも驚くほどに低く沈んだ冷静なものだった。

 わかっていた。全てを理解していた。我来が射殺された直後から、無線で成田の歓喜にも似た声を聞く前から、その顔、その声が脳裏にあった。自分に電話をかけてきた声の主も、我来を狙撃した張本人も。そして、その男が今どこにいるのかも。最早、二人の間に余計な言葉を挟み込む必要も隙もなくなっていた。

(俺があのまま終わるわけがないでしょう。美奈子を傷つけた奴とそれに与する人間は皆殺しだ、と)

 津田が道路の方へ振り向き前を見据える。都庁前の地下へ潜る形となっている高架下、片側二車線の広い道路を隔てた反対側の歩道。休日の新宿の人混みの中でも、その男ははっきりと確認できるほどに浮いていた。男はスニーカーにジーンズ、スカジャンを羽織り変装のためか眼鏡をかけていた。全体的に薄汚れた様相。肩には大きな楽器ケースを担いでいる。おそらくその中に凶器であるスナイパーライフルを隠し持っているのだろう。新宿でなくとも没個性的な様相だが、湛える雰囲気とその目は遠くからでもはっきりと異質なものであると認められた。

 風に吹かれて伸ばしっぱなしの前髪からその双眸が覗く。度のついていないレンズ越しのその瞳は深淵の色をしていた。

 悪鬼。そんな言葉が津田には思い浮かんできた。

 いや、最早鬼などという想像が可能な範囲でくくれるものではない。深淵を覗き込みそして踏み込み穢された瞳の色は同じく深淵の色をしている。深淵を覗き込んだことで深淵に覗きこまれ、深淵に踏み込んだことによって深淵に踏み込まれた者。半年前にニッタミに関わる者と的場組を皆殺し、そしてたった今、大勢の衆目の元、内閣総理大臣の目の前で選挙立候補者を射殺した、二〇〇〇年代始まって以来の日本人テロリスト。

「葛木恭矢ァ!!」

 津田が叫ぶ。その男の名を。叫ばれた男は背を向け、ただ静かに新宿の混沌の中へと消えていく。津田は大急ぎでその男の方の反対側の歩道へと向かったが、その時には既に悪鬼の姿は新宿の雑踏の一つへと溶けこんでいた。

 津田の携帯が再度震える。画面にはショートメッセージが表示されていた。

「まだ終わってない。ようやく始まったばかりだ。俺は止まらない。この国を、この世界を、道連れに地獄に叩き落とすまでは」

fin

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復讐の軌跡 defiler of inferno 桃李 @tohri_kazu

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