第四章 堕落正義

 第四章 堕落正義

 長い一日が始まった。大田区大鳥居、海を臨むニッタミ本社ビルの一階部分が吹き飛んでいた。

 その日、全てのチャンネルは炎上するニッタミ本社ビルを映していた。レポーターはわざとらしい悲鳴に近い大声で、勝手な憶測を情報番組スタジオにのたまう。

 高根と木戸は唖然とした表情でモニターを眺めていた。

 一報が届けられた我来賢一郎は怯懦した。昨今、自分の関係者ばかりではなく娘にまで手を下した魔の手がついに自分の肩に手をかけたのだ。

 成田は笑みが抑えられず、腹を抱えて笑っていた。それを見た津田は狂っていると脂汗を滲ませるしか他はなかった。

 恭矢は一階部分が炎上しているニッタミ本社ビルを双眼鏡で覗きこんでいた。

 お手製の焼夷爆弾ではこの程度か。贅沢を言うなら、C4の一つか二つが欲しかった。

 ポケットに入れていたスマートフォンが震えだしたのはその時だった。画面を見れば番号は非通知。だが、大方誰がかけてきたのかは予想できた。

 零課だ。悪趣味が服を着て歩いているような相棒だった男からの、久方ぶりの会話だ。

(もしもしもしもしー、恭矢ー?ひっさしぶりー。元気してたー?してるよねー。ニッタミの本社ビルでボンバーマンとか何一人でエキサイティングしてんのさー。僕も混ぜてよー)

「……司か」

 相変わらずだと内心でつぶやく。

 恭矢は知っていた。この男のちゃらついた道化にも似たこの言動は、全て芝居であることを。その一方で、本人も芝居をしたくて芝居をしているわけではないということも。

 そうしなければ、この男は内に秘めうごめく今よりも醜悪なえげつなさを隠し切れないからだ。だがそれは逆に、この男は自らの醜悪さを自覚し、それをコントロールできているということにもなる。

(そうだよ。零課の伝説的な特殊要員葛木恭矢の頼れるバディ、成田司とは僕のことさっ!)

「バディ組んでたのはそんな長い期間じゃないだろ。村木と組んでた時のほうが長かった」

(そういう釣れないこと言わないでよー。内容の濃い任務を共にしたのは僕のほうじゃん。例えば北の連中と……)

「それで何の用だ。お前も察しているように俺は忙しいんだ」恭矢が成田の言葉を遮る。

(あぁ、ゴメンゴメン。じゃ、単刀直入に言うね。僕の元に帰ってきなよ。今なら全部チャラにしてあげるし、なんならテキトーな難癖つけて我来も殺させてあげるしさ)

「何のつもりだ」

(再雇用だよ。ほら、ウチが慢性的に人員不足ってのは知ってるでしょ。今月もさ、二人が使い物にならなくなって三人が自主退職しちゃって)

「一ヶ月で五人か。ニッタミに負けないぐらいのとんだブラック振りだな」

(耳に痛いよー。ま、その通りだね。ブラックなのは、人を使い捨てだと考えているのは企業もこの国も同じさ。それは今に始まったことじゃない)

 成田の言葉に一つ息を大きく吐き、恭矢は「それで」と次を促す。

(人を人とも思わない。それがこの国のあり方だ。先日、内閣総理大臣からお墨付きをもらったんだよ。我来の生死はどうでもいいから、葛木恭矢をどうにかしろって)

 一トーン落ちた成田の低い声。

(これから、君の力が必要なんだ。我来を認めたこの国と人間が嫌いなんだろ?僕と一緒にこの国を変えていこう。力づくでさ、老害どもが作り上げた時代錯誤の、気に入らないものをぶっ壊していこう。僕と恭矢の二人ならそれができる)

「ゲバラとカストロ気取りか」

(かっこいいよね。もちろん、君がゲバラで僕がカストロ)

「断る。俺は革命の戦士なんて上等なものじゃない」

(どうしてさ?)

「俺は別にこの国を変えていこうなんて気は毛頭ない。ただ殺していきたいだけなんだ。そしてお前と組むつもりもない」

(そっか。それじゃしょうがないよね)

 成田の声はなんら感慨も含まれていない、呆気無いものだった。

(でも最後に一つ、本当に月並みで下らないことだけと訊いてもいいかい?)

「なんだ」

(君が今までに殺してきた人間にも家族がいたはずだ。ましてやニッタミの社員の大半は一家の大黒柱だったりするよ。残された家族の憎しみは君に向けられたというわけだ)

「それがどうした」

(言うねぇ。遺された家族がもし君のことを突き止めて復讐しにきたらどうするのさ)

「俺に憎悪が向けられてやがて復讐しに来るのであれば、それは至極当然のことだ。無論、タダで殺されてやるわけにはいかないが。我来に与した者の家族であれば、最初からその時点で俺の敵だ」

 暴走、という一語がその時成田の中でよぎった。それと同時に成田はこの件に関わってから初めての一抹の不安を覚えた。この男は憎悪に取り憑かれている。例え我来一人を殺し、復讐を遂げたところでこの男は最早止まることはあるまい。そんな男を自分たちの技術で御しきれるのか。

 この男は我来を殺した後には新たなターゲットを探し、彷徨うだろう。それは我来に関係した者を皆殺しにするまで終わらない。恭矢の銃口が我来を擁立した現職の総理大臣に向けられるのは時間の問題だ。やがて恭矢は日本国そのものに対し銃口を向ける。

(恭矢、それでは憎悪の巡りあいは終わらなくなる)

「なら憎悪で溢れ返させればいい。巡り合いも何もなくなる」

(君の気持ちはわからんでもない。僕だってこの国はでっかいでっかい糞の上にそびえ立っているとしか思えない。だけどまだだいぶマシな方だ。海の外へと目を向ければこの美しい国とやらは、まだ表面上だけは美しいことはわかる。中身はもうだいぶ臭いけど、それでも外国と比べればまだまだマシだ。そして僕はこの糞みたいな美しい国は気に入らないけど。この国は地獄だがまだ浅いほうだ。だから恭矢、君がこの国を作り変えるために壊すのではなく、ただの道連れに滅ぼそうというのであれば僕は君を止める)

「お前に止められる筋合いはない」

(恭矢、気に入らないからといって滅ぼすことはない。変えていけばいいんだ。僕と君ならそれができる)

 その言葉は成田の本心だった。一人の友人として、上司として、彼がこれ以上、自傷に似た行為で滅んでいくのは忍びない。彼を利用したいというのも本音だが、

(だから君は僕のもとに帰って来い。君はこんなことで自分を痛めつける必要なんてないんだ。君は我来みたいなクズどもとは違う。伝説的な存在なんだ。だというのに、こんなことしたら君はあんなゴミ虫と同じくらいに品位を貶めることになる。でも僕の元ならそんなことない。ブラック企業なんてものは長期的に見れば国益を損なって私益を貪っていくだけの国賊だ。そんな連中、いくらでもこっちで殺す理由を用意できる。国益を守るという理由で我来を殺せる)

「しつこい男は嫌われるぞ」

(もう謗法から嫌われてるよ)

 しつこいのはどっちがだと成田は焦りと苛立ちを内へと抑え込み、いつもどおりの道化じみたちゃらつきを全面に押し出そうとする。

「お前、今、焦ってるな」だが相手にはそれすらもお見通しであったようだ。

 ならば、もう取り繕う必要などもない。

 交渉とも言えない交渉ではあったが、決裂。ならば残る手段は力づくのみ。

 変な打算をめぐらした所で力技でねじ伏せられる。

伝説の特殊要員、葛木恭矢とはそういう男だ。

(ならば、こちらにもそれ相応の対処をさせてもらう。君の気持ちはわからなくもないが、やってることは明らかな国家への反逆だ。本来なら重罪にあたるところだけど、内閣総理大臣殿の指示もある。君をもう一度零課に置くことを処分とした)

「何が指示だ。司、お前が適当に言いくるめただけだろうが」

(だから君を僕のものとする。嫁さんへの悔恨すらも感じられないくらいに、君を今度こそキリングマシンでも人形にでも仕立て上げる)

 成田は宣言した。非道に打って出ても、恭矢を手元に置くと。

「例えお前の元に下ったからといって、俺が大人しくしていると思うか?」

(そこはホラ、技術の進歩って日進月歩って言うしさ。ジェイソン・ボーンも真っ青な奴があるんだよ~)

 自分で言っておきながら、今さっき覚えた不安を拭うことなど出来ない。わずかな動揺すらも悟られまいと成田は集中力をフル動員させる。やっぱり恭矢、君はすごいよ。この僕に対してここまで攻めこむなんて。

 恭矢はフッと鼻を少し鳴らしながら笑みを浮かべる。

「やれるものならやってみろ」

(言ってくれたねえ)成田の語気に狂気じみた笑みが現れたのを恭矢は耳で感じた。

(伝説の再来を楽しみにさせてもらうことにするよ)

「……司、それは違う」

 恭矢が否定する。恭矢はかつての相棒を昔のように下の名前で呼んだ。

「俺はお前が言うような伝説なんて、大それたものじゃないよ。他の連中と同じように壊れそうになるのをずっと堪えられただけだ。あいつが、美奈子が傍にいてくれたからこの国の罪に身を浸しながらも、俺は人であり続けられた。だけど美奈子はもういない。我来賢一郎が、お前たちが、俺が守ってきたはずのこの国が、美奈子が笑顔でいることを許さなかったらだ。勝手な理由で連中は、この国は、俺が愛する人を、美奈子を否定した」

(知ってる。ちゃんと僕は知ってたよ。君が好き好んで人殺しなんてやるようなサイコ野郎じゃないってこと。ずっと嫁さんのために歯を食いしばって過ごしてきたことも)

「美奈子を否定し、傷付けたこの世界を、俺は認めない。許さない。否定してやる。そのために司、俺はもう伝説にでも鬼にでもなってみせる」

(できれば僕の元に戻ってから鬼でも伝説にでもなってほしいんだけどなあ)

 もうこれ以上交わす言葉はない。決定的な仲違い。そしてこの別れが今生の別れになると共に、敵対の始まりであることも。そして例え成田の恭矢の身柄確保という本懐が成し遂げられたとしても、もう二度と元の間柄には戻れないということも。

「なあ、司。最後に教えてくれないか。俺はどうするべきだったんだ。答えなんかあるのか。模範解答はあったのか?」

 成田はその問に答えることはできず、無言を返答とした。どうするべきなのだろうか。愛する人を理不尽な目に遭わされても、泣き寝入りがベストであるというのか。そんな答えは糞食らえだ。だが、ならばどうするべきなのだ。

 恭矢はもう一方の手の中にあるプリペイド携帯のエンターキーを押し込んだ。

 正解などない。ならば――

「これが俺の答えだ」

 ニッタミ本社社屋三階が吹き飛んだ。


 僕は最初から知っていたよ。僕はちゃんとわかっていたよ。周囲から伝説などともてはやされても、結局は君も一人の弱い人間だということを。もちろん僕も。

 僕はずっとこの国の暗部の中で生きてきた。別段、零課に入ってからのことじゃない。生まれてからずっとこのかた、この国の後ろめたいものに触れられながら生きてきた。恭矢のような人間が消えていくのをずっと見せつけられながら。

 だから、あの日から消沈している君を見ているのが辛かった。人生の伴侶をあまりに理不尽な理由で失ったことで、かつての輝きが失われていくのが僕も悲しかった。

 君が傷つくのが見ていられなかった。

 君を僕のものにしかった。僕は君を守りたかったんだ。

 君は怒りも悲しみも感じないキリングマシンになればいい。僕であれば、そうさせることができる。それが恭矢に対する救済だと信じて疑わなかった。

 僕は君を救ってあげたかった。

 だけど、それは僕の思い上がりだったようだ。それはどうやら恭矢の思うところではなかったようだ。彼は全てを抱え込んでいくと決めたようだ。怒りも悲しみも。それらが自らを灼き尽くすとわかっていながら。その果てで何が待ち受けているかも。

 やっぱり君はすごいよ、恭矢。僕なんかじゃ、到底並び立つことはできない。

 ほんの少し胸の内に澱んだ苦いものとともに成田は受話器を置いた。

「フラれちゃった」

 成田は苦笑いとともに肩をすくめてみせる。それと同時に傍のモニターはニッタミの本社社屋の三階部分が爆発した瞬間を映し出していた。

「あ、あんたまさか葛木のことを挑発したんじゃないだろうな」と津田が剣呑が表情を成田に向ける。

「したつもりはないよ。結果的にはそうなっちゃかもしれないけど」

 モニターにはもうもうと煙を上げるニッタミ本社社屋が生中継で映っている。新たに三階部分が吹き飛ばされ、現場とその中継クルーは大混乱へと陥っていた。

 成田が部屋を見渡すと、要員たちは既にいつでも動ける準備を終えいてた。彼らに対し成田が言い放つ。

「改めて確認しよう。我来の命はどうでもいい。僕らの目的は恭矢の身柄の確保だ。生きたままね」

 津田にとっては意味不明としかとれない成田の号令に、要員たちは「了解」と何ら疑問も示さず承知の返答をした。

「なんなんだよ、そりゃあ……」

 ただ一人、津田はその号令に返答をせずに、疑念を向ける。

「恭矢の復讐は好きにさせる。我来は恭矢の身柄を確保させるための餌だ」

 そう津田に言い放つ成田の表情に、いつものちゃらついたものは一切ない。

 我来を見殺しにする。それがこの国の意向であると。

「あんたは葛木恭矢の復讐を見逃すっていうのか」

「こないだ言ったでしょー?恭矢を再リクルートするって」

「ふざけるな。本気か。奴はこれまで何人も理不尽な理由で殺してきた挙句、たった今、無関係なニッタミの社員を大勢殺しているんだぞ。そんな人間をもう一度雇うって、何を考えているんだ!」

「恭矢が零課でこれからもたらすであろう功績のほうが、我来をはじめとしたニッタミに勤める人間の命より遥かに価値がある。彼らは尊い犠牲だったねー。我来にもそうなってもらうけど」

 何を言っているのかわからない。同じ人間の言葉なのか理解できない。コミュニケーション不全。こいつは一体なにを考えている。

 我来は首を巡らし周りを見渡す。自分以外の特殊要員たちは成田の言葉に対しなんら疑問を持っていない様子だった。それどころか津田に対し猜疑の視線を向けている。異質なのは成田ではなく自分なのか。

「我来賢一郎は立派な国賊だよ? これから四十年近くで二億ほどの生涯賃金を稼ぎ経済効果を生み出す予定の親御さんたちが苦労して二十二年くらいかけて育ててきた若くて優秀な人材を、たった一年か二年、たった百万か二百万で潰して使い物にならなくする。これは立派な国策と資本主義に対する妨害行為にして売国だ。その上労働力を外国へ求めるんだからね。平和法治国家日本国という〝組織に対し悪影響を及ぼす有害物質(ディファイラー)〟だ。そしてそんな〝ディファイラー〟を力づくで潰していくのが僕達零課の役割なんだよ」

「だけど、それでも踏みとどまるのが人間ってもんだろ! 一線ってもんがある。超えちゃならない一線を超えたならもう奴は鬼か化け物だ。そんな鬼をあんたが鎖でつないで飼いならすっていうのか! そんな馬鹿げた話があるか!」

「鬼か……」その言葉の意味を噛みしめるように反芻する。

「確かに恭矢はもう鬼か化け物だよね。あんなにむごい手口で何人も人を殺して平然としている。でもね、鬼っていうのは自分が成ろうとして成れるものじゃあないんだ。鬼っていうのは、その人間に周りの人間が寄ってたかって傷つけて、なじって、罵って、そうすると化け物一丁ができあがるって具合だ」

 伏せていた双眸を改めて津田へ向け直した。

「恭矢を鬼にしたのは、我来賢一郎、堀田雅徳、そして我来を公人として擁立した今の現政権与党とそいつらに投票した国民全員だ。そうじゃなきゃ、恭矢は僕らよりほんのちょっとだけ殺しの技術が優れているだけの、仏頂面だけどちょっとお茶目なところのあるお嫁さん大好きな一人の男だ」

 成田のその声のトーンに先ほどまでの飄々としたちゃらついたものは一切削がれていた。その双眸も津田を突き刺すような鋭いものとなっている。

「恭矢を鬼にしたのは、この国だ。この国の人間が一人の鬼を産んだ」


 都内のマンションの一室、その玄関の前に恭矢はいた。外観だけでも常人には手が出せない類の住まいだということが見て取れるほどのものだ。表札には〝我来〟の文字が彫られている。

 エントランスはオートロックであったが、恭矢からすればどうということはない。いざ部屋のピッキングとりかかろうとドアの把手に手をかけると、すんなりと回った。これにはさしもの恭矢ですら、ほんの僅かに目を見開いた。とはいえ余計な段取りが省けたことには変わりない。恭矢は遠慮なく玄関へ入り込んだ。

 室内は明かりは何一つ点いていなかった。だが、大音量の激しい音楽がくぐもって玄関先にまで漏れている。そして異様だったのは充満している臭いだった。その臭いに思わず鼻を手で覆う。薬物のものと判断したが、具体的に何かは判別できなかった。

 コカインや覚醒剤を炙ったものとも、大麻などとも違う、嗅いだことのない臭い。火薬の類では決してないことはわかる。となると、所謂危険ドラッグという代物だろうか。

 懐からサプレッサーを装着したグロックを抜くと、忍び足で足音一つ立てず気配を殺して室内を探索する。ひとつひとつの部屋の扉に耳をそばだてていった。

 その中から一つ、一際音漏れの音量が大きい扉へと辿り着く。激しい音楽とともに男女の嬌声が入り交じっている。ここだ。恭矢はそっとドアノブに手をかけ、扉を押した。

 音も無く僅かに開いた扉の隙間から中を覗きこむ。

 中の光景を目にして、恭矢を呆れ果て思わず鼻を鳴らしてしまった。

 ベッドの上で二人の男女がまぐわっていた。男が下で女は上。その傍のソファでは煙草を片手に呆けていた。いや、煙草ではない。一律に工場で製造された市販のものではなく、葉を雑に紙で巻いただけのお手製のものに見えた。部屋を充満している異臭の正体はそれだ。おそらく、ドラッグの類だろう。

 まぐわっている二人に視線を移す。女に乗られている男の方はおそらく我来の長男、我来礼二。六実から手に入れた写真や裏で出回っていた卒業写真と見比べても、別人のように肥え太っている。一応、顔の黒子の位置から同一人物だと判断はできた。

 見下げたものだ。自分の姉が殺され、父親の会社がとんでもないことになっているにも関わらず、この乱痴気騒ぎか。所詮、親がゴミなら子もゴミか。

 もういい。見るに耐えない。さっさと済ませてしまおう。恭矢は扉の隙間からグロックを構えると、まずはその銃口を傍のソファでドラッグをくゆらせている女に向けトリガーを引き絞る。サプレッサーによって抑えられた鈍い破裂音とともに、弾丸が女の頭蓋を砕いた。壁紙が血飛沫に染まる。

 傍の女が射殺されてもすぐには気付かない二人に呆れつつも、恭矢はすぐさま狙いを変え我来礼二に跨っている女の脳天を撃ち抜く。そのまま扉を勢い良く蹴り開け、部屋へと侵入した。

 死体となった女を突き飛ばし、我来礼二の髪の毛を引っ掴むとそのまま床へと引きずり下ろした。ここに来て我来礼二はようやく事態を把握し始めたようだ。だがその理解が追いつく前に恭矢はその顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばした。

 蹴飛ばされて転がり、うつ伏せになった我来礼二の脂肪まみれの背中に両足を乗せ、ゆっくりと体重をかけながら歩く。やがてその片足を頭に乗せてねじり上げながら、もう一方の足を床へと下ろした。

 ふと傍らに落ちていたビニールの正方形のパッケージを見つけた。一見コンドームか何かに見えたが毒々しいカラーリングで所々にドクロがデザインされている。既に開封されており、手に取ってひっくり返してみるとはらはらと褐色に乾燥された葉が落ちてきた。

「これは」

 呆れを意味する恭矢の嘆息。危険ドラッグ。若い構成員たちの手っ取り早いシノギだと聞いていたが、恭矢は実際に現物を見るのは初めてだった。見るからに体に悪そうだ。純度の高い覚醒剤ならまだしも、これではどんな効用が出るのかわかったものではない。

「危ないなあ。クスリをキメながらハメるのは大層気持ちいいと思うが、やめておいたほうがいい。特に純正なものじゃなくこんな混ぜ物じゃ本当に死ぬぞ」

 手を広げ肩をすくめながら「俺が殺したがな」と続けた。

「な、なんですかあんた……」腫れ始めた顔を上げて、恭矢を見上げる。

上がった脳天を再び踏みつけねじり上げながら恭矢は言った。

「君には人質になってもらう」


 的場組本部にはニッタミ本社社屋の爆破の報を受けて、我来の身柄が保護されていた。

 幹部、兵隊を全員呼び寄せたいところだったが、痛いことに半分ほどを福岡へと出張に向かわせていたのだ。緊急の招集をかけたが、早くても半日はかかる。

 そしてもう一つ、大井と我来、そして前原にとって憂慮すべきことがあった。

 我来の私的な身辺警護を任されていた葛木恭矢の消息が不明であるということと、我来の長男、我来礼二との連絡がつかないことだ。

 本来であるならば、的場組は我来賢一郎とともに息子である礼二の身柄を保護しようとしていた。だが生来の放浪癖が致命的なタイミングの悪さで表れていたのだ。

 息子の礼二はお世辞にも優秀とは言える人間ではなかった。死んだ長女である我来聖子はまた別の意味で、父の権力を笠に好き放題やってきたという。自分の目の届く範囲であった清勝館学園に在籍していた時であれば近くで事細かに指示できたものの、大学に入学してからは連日の乱痴気騒ぎを引き起こしていた。そんなどら息子に対し、我来は会社を継がせるつもりは毛頭なく、自分譲りの帝王学を修めた我来聖子にその座を継がせようと考えていた。息子にはとりあえずお飾りのポストに座らせるぐらいで十分だ。

 だがその長女も先日、無惨な姿で殺された。となれば、自らを継げるのは、そのどら息子でしかない。しかし、そのことを理解していないのか姉が殺されたにも関わらず、相も変わらず我来礼二は好き放題にやっていた。ここらで一つ、その身を以って再教育をしなければ。自分の得意分野だ。そう思っていた矢先に、今日のこの現状である。

 自身の私的な身辺警護についていたよ用心棒、葛木恭矢の消息についても心配であった。

 昨今続いていた我来の周辺人物の連続殺人がついに恭矢へと及んだか。一連の事件の犯人が我来の近親者を狙っているのであれば、我来の私的な身辺警護を務めていた恭矢も狙われる理由は十分にある。

 そして先ほどのニッタミ本社社屋の爆破だ。多数の人間の出入りのある一階部分ならまだしも、社員しか入れない三階まで爆破されたのなれば、犯人は我来本人へと危害を加えることができるほどの能力の持ち主だ。

「おい、まだ葛木と先生の息子さんには連絡がつかないのか」

 大井が険のある声を前原に浴びせる。それに寸分も動じることなく「若い連中も走らせて捜索中です」と答えた。声は平静を装っていたが、携帯を握るその手には滲んだ汗が溢れていた。発信履歴にはもう恭矢の携帯の番号しかない。

 一体、どうしたというんだ恭矢、と不安の声を胸中に漏らす。奴の身に何かあったのか。仮にそうだとするならば、今までに殺害された人物と同様にニュースなり何なりになるのではないのか。前原は再び発信履歴から恭矢の携帯へと電話をかける。だが返ってくるのは、電源が入っていないという旨の自動音声のみだ。

 我来の携帯の着信音が鳴り響いたのはその時だ。

 慌てて携帯を取り出し液晶を覗きこむ。画面には息子の名前が表示されていた。

 ようやくか、とわずかな憤りを覚えながら通話を始める。

「礼二か。今どこにいる」

 だが返答はない。わずかに空気が揺れる音だけがスピーカーから聞こえてくる。

「ふざけるのもいい加減にしろ礼二」

 苛立ちとともに険のある声を飛ばす我来。

 だが、その時だった。

(ぎゃあああああああああ!!)

 けたたましい悲鳴が耳朶を叩く。我来は思わず携帯を耳から離すが、すぐさま何事かと問いかけた。大井や前原も含めた周囲も何事かと泡立つ。

「どうした礼二!何が起こっている!」

 まさか、既に息子も一連の事件の犯人によって……。

 スピーカーには我来礼二のものと思われる嗚咽混じりの悲鳴が続いている。それが喘ぎ声だけとなった時にもう一人の声が我来に問うた。

(我来礼二くんの親御さん、我来賢一郎さんでよろしいでしょうか)

 我来賢一郎はその声に聞き覚えがあった。

 地を這うような低い声。

「く、葛木、恭矢……!」


 全裸にさせて両足を折り両手親指を結束バンドで縛り椅子に拘束した我来礼二に向き合うように、先程までの乱痴気騒ぎの臭いと湿り気が残るベッドに腰を下ろして恭矢は我来礼二からぶんどった最新機種のスマートフォンに耳をあてていた。我来賢一郎の同様する声ごしに的場組本部が泡立ち始めるのがわかった。

 大きな物音のあと、通話に出たのは我来賢一郎ではなく的場組組長の大井であった。

「葛木だな! 一体何がどうなっている。お前は無事なのか」

 はて、と恭矢の中に疑問が生まれる。今、大井はこちらの身を案じたようだが、もしや連中は今まで自分と連絡が取れなかったことを、一連の殺人事件に巻き込まれたと考えたのだろうか。

 その結論に行き着くと、恭矢は笑いをこらえられなかった。「くくっ」と低く喉を鳴らすと次に吐息で笑い次第に堪えきれず笑い声を声に出す。電話越しにあちらにも聞こえていることだろう。

「大井、あんた、俺が一連の事件に巻き込まれとでも考えていたのか」

(そ、そうだが……)

 大井はそこでようやく全てを察した。今の恭矢の言葉とタメ口の口調。大井の腹わたは一瞬で煮えくり返る。

(く、葛木、貴様、まさか!)

「そうだよ、ようやく気づいたか」

 頓馬にもほどがある。この男は関係者に危害を加えていた男を、あろうことか心配してくれていたようだ。思わず侮蔑の意味を込めた笑いが止まらない。

「我来の関係者を殺して回ってきたのは、この俺だ」

 ゆっくりと、物分かりの悪い馬鹿に諭すように真実を告げる。あとは聞くに堪えない罵詈雑言だけがスピーカーから聞こえてきた。わずかに耳を話、「お前に用はない。我来賢一郎を出せ」と要求するが、あちらは全く聞く耳をもたない。

「いいから替われって」

 だがこちらの言葉は全く聞くつもりはないらしい。相変わらずスピーカーから聞くに堪えないような罵倒が響いてくる。

 仕方がないので恭矢は我来礼二の折れた足を蹴り上げた。

 人のものとは思えない悲鳴。まるで豚だなと思いながら、恭矢はスマートフォンを痛みに叫び声を上げている我来礼二の方へと向けた。

 ひとしきり悲鳴を聞かせたところで、再びスマートフォンに耳を当てる。どうやらようやく黙ってくれたようだ。

「聞こえますか? 我来賢一郎先生をお願いします」

 ごそごそとした物音のあと、(替わったぞ。私が我来だ)との返答がきた。

「お前が我来賢一郎か」

 ようやく、ようやく、手をかけたぞ、貴様の肩に。

 恭矢は零課時代にも感じなかった緊張感と高揚感を感じていた。

 追い詰めたぞ、我来。

 逸る気持ちを抑え込みながら恭矢は口を開いた。

「ひとまずのこちらの要求は、貴様がその場にとどまり続けること」

(貴様、息子はそこにいるのか! 何がどうなっている! 一連の事件も貴様の仕業だというのか!このようなことをしてタダで済むとでも)

 我来の罵りの途中で、その言葉を遮るように恭矢は我来礼二の足を踏み捻る。

 そして悲鳴を聞かせるようにスマートフォンを我来礼二へと向ける。

(き、貴様、息子に何をしている?息子は無事なんだろうな)

「こちらの話を聞け、カス」

(か、カスだと……!?)

 ふざけるな。ニッタミ総裁にして現職国会議員である自分に向けて、そんな程度の低い雑言を向けるか。だが反論をしようにもさらに大きくなった悲鳴に口をつむぐしか他はなかった。

「さっさと黙れ。出ないとお前の息子が一生車椅子生活になるんだが」

 息子に何かしらの危害が加えられていることは明らかだった。だがこのままでは何も対処はできない。現状では電話の向こうの恭矢の言葉に従うしかない。

「清勝館学園の英語教師、葛木美奈子についての一連の騒動は覚えているな」

(し、知らん。覚えていない……)

 この男の厚顔無恥、蒙昧さはここまで極まったものなのか。怒りと同時に呆れも生じてくる。改めて、この男は殺さねばならない。恭矢は強く思う。

「返事が違うだろ」

 恭矢は寸分の躊躇もなく足に力を込めた。

「ぁぁあああああああああああ!!」

 顎を上げ体全体をガタガタと揺らしながら悲鳴をあげる礼二。そして、そちらの方向へスマートフォンの通話口を向けた。

「いい加減、今のお前の立場がこれで理解できたはずだ。覚えてないなら思い出せ。自分が理事長をやってる学校で校長が不正を起こしたんだ。その問題が大きくなり、自分にも影響が出ることを恐れて、若手の教師に責任転嫁させたんだろ。覚えていないはずがない」

(どうすればいい。何が要求なんだ)

 先ほども言っただろう。呆れたように恭矢は深くため息をつく。

「別に金銭など要求しているわけではない。俺はただ、お前に会いたいだけだ。俺の妻を自殺に追いやったゴミクズどもの親玉に。そこでじっとしていろ。それまで美奈子のことについて思い出せ。でなければ、わかっているな」

(……)

 その無言を了承と受け取った恭矢は通話を切り、スマートフォンをそこらに放った。かしゃんと乾いた音ともにスマートフォンが割れた。

「君のお父さんは要求を飲んでくれたよ」礼二に微笑みかける。

 我来礼二は苦悶の中に安堵を見出し、深く息をついた。良かった。これで助かる。

 恭矢は寸分の淀みの無い流れるような動きでグロックを礼二へ向け、それが当たり前のことのように脳幹へ二発発砲した。


「大井さん、やはりここは警察にも出てもらったほうが……」

 我来が提案する。隠そうともしない不安の声が周囲に伝播し、若い構成員を泡立たせる。

 大井とて極道の一員だ。ましてやかつては武闘派であり警察とも張り合っていたことを自負している。だがそれは、ただのいち構成員だった時の話であり、今は一つの組織を束ねる大親分にその考えは通じない。伝播した不安で最早若い構成員たちが使い物にならなくなったことを感じた大井は、ため息とともに携帯を手にした。組織のトップに立っている以上、面子と実、どちらを優先させるかという分別をつけられなければならない。

 しかし懇意にしている津田は先日なぜか公安部へと急遽異動になったという。何ら挨拶も無しというのは津田らしくない。一応〝入江智之〟と名乗る後継人は紹介されたものの当の本人は無礼なことに挨拶一つも寄越してこない。

 津田から指定された番号にダイヤルをかける。コールの後、どこかへと転送された。

(あいあい、もしもし?的場組のボスの大井さんですね)

 電話に出たのは若い男と思しき声だった。一声聞いただけでもチャラついた軽い口調に大井は幾分かの怒りを覚えた。

「貴様が入江智之か」

 険のある声で大井が尋ねる。挨拶も寄越さず、こんなふざけた態度を取っているのなら、この場にいたら刺してやるところだった

(いーえ、我々は公安警察の者です)

 告げられた言葉に大井は思わず「何!?」と声を出した。

「公安とはどういうことだ」

(いえね、ちょいと葛木恭矢に関しては事が大きくなったものでしてね、本庁の刑事部だけでは対処しきれなくなりまして。それにほら、我来先生、現職国会議員でしょ?そうしたらもう、我々でなければ対処できませんよ)

 問題が大きくなっている。選挙が控えた前でこの惨状だけでも致命的だというのに、

(我々も先ほどのニッタミ本社爆破については既に把握できております)

 あーそれと、と成田が言葉を続けた。

(そういやそれ以前に何でおたくら我来とつるんでるんですかね。大方、次回の衆院選で色々やらかすつもりですか?)

 電話ごしのその言葉に大井は返す言葉もなく、しまったと焦りを抑えこむことしかできなかった。

(まあ今日日、選挙で現金(実弾)が用いられないことはないですし? 我々としても一々その程度のことに構ってはいられないんですがね。で、我来総裁もそちらにおいでで?)

「ああ、そうだ」

(承知しました。では我来先生に代わってもらえますか?)

 大井が我来にスマートフォンを手渡す。「公安の方です」と告げると、我来は目を見開いて驚いてみせた。もう既に事態はとてつもないことになっている。これでは選挙活動に影響が出るではないか。我来は恐る恐るスマートフォンを耳に当てた。

(初めまして、公安部の成田と申します。葛木恭矢から何か要求などはありましたか?)

「今のところは、私がこの場にとどまり続けることだ。まだ要求はあるみたいだが、私と我来先生に会った時に言うらしい」

(オーライ。では葛木恭矢の要求には従うようにしてください。決して反抗の意志は見せないこと)

「そんな!? 何をされるかわかったものではないんだぞ」

 我来の悲鳴にも似た叫びに、成田は舌打ちする。

(うっせーな、カス。黙ってこっちの指示に従えや。でなけりゃ面倒なことになるだろうが)

 またカスと言われた。それに誰に口を聞いているつもりなんだ。我来は怒りと驚きに歯噛みする。どうして自分がこのような目に遭わなければならないのだ。

「このままじゃ、私は奴になぶり殺しにされるだけだぞ。そ、そうだ。これはお前たちに言いたくなかったのだが、羽田に国外に避難するために飛行機をチャーターしたんだ。私が羽田につくまでの護衛をするんだ」

(そう早急に大規模な警備体制はとれません。こちらとしても出来る限りの努力はしますが。そういやそちらにSPの方はおられませんか?)

 いるわけないだろう。こちらはヤクザの本拠地に身を潜めているんだぞ。そんなところにSPなんぞ動向させられるものか。

(なるほどなるほど。何かSPをつけられない理由でもあるのでしょうか?)

 この男、わざとやっているな。我来が歯噛みする。何をモタモタしているんだ。

「そんなことは今関係ないだろう!いいから四の五の言わずに、私が羽田に向かう途中でお前たちと合流させろ!」

 抑えられない苛立ちがついに声となってあらわになる。

(それはできません。もしそのような動向が葛木恭矢にバレてしまえば、事態は更に大変なことになります。仮に市街で葛木恭矢と遭遇すればどのような事態になるかは想像に難くないでしょう)

 言われれば、確かに通話先の成田の言うとおりだ。人の集まる市街で遭遇でもすれば、騒動というレベルではなくなる。そうなれば自分の次の選挙における影響は計り知れない。

 確かにこの男の言うことにも一理ある。

(いいですか。必ずそこで待機しているように。どうせ兵隊も集めてるんでしょう。すぐ向かいますから)


「さて、それじゃみんな、羽田に向かうよ」

 パンパンと手を叩きながら、周囲の要員たちに指示を出す我来。その声に要員たちを包む空気が、彼らの双眸が、意識が切り替わる。

 ただ一人、津田を除いて。

「ちょっと待て、たった今的場組の本拠地に救援に行くって言っただろ」

 津田が慌てた口調で指摘する。確かに我来の目的地は羽田空港だが、それは自分たちと合流してからの話だ。どうして我来を保護しない。

「どうせこらえきれなくなって、飛び出していくよ。あんたが言う刑事の勘ってやつ?」

 成田は言いながら指をこめかみに当てる。心底相手を馬鹿にしたような表情を津田に向けながら。

「ま、正直こちらが恭矢とまともに真正面からぶつかりたくないだけなんだけどね」

 津田には成田の言っていることがにわかに理解できなかった。

「そんな手前勝手な都合で……!」

 津田のその言葉に成田はいつもの飄々としたものを潜め、津田をやぶにらみする。

「あんたさ、この間の座学で散々教えてきたよね。あんたそんなに頭が悪いわけじゃないと思ったんだけどなあ」

 確かにこれまでの座学において零課の成り立ちや習わしなどを研修してきた。その中でも、これまでに退官した優秀な要員についての講義もあった。彼らがどのように活躍し、どのような功績を上げてきたか。

 そして、彼らがどれだけ危険な存在であるかということも。

 退官した零課の警察官には無期限の出国停止処分と、しばらくの監視体制に置かれる。

 しかし唯一、その監視の目から逃れたのが葛木恭矢だという。

「恭矢とまともにぶつかれば、いくら零課の特殊要員でも無傷じゃすまない。下手をすれば要員の三分の一は死ぬ。僕も、あんたも下手をすれば死ぬ。葛木恭矢はそれ程にデタラメにやばい奴なんだよ」

「それはこっちの都合だろうが! さっきから聞いてりゃ好き勝手甘いこといいやがって」

 津田の怒声に、さしもの成田もついにその眉に深い皺を寄せた。そして刺のある声音で言葉を返す。

「そうだね。こっちの都合だ。でもこっちの都合を考えるのがまず先じゃないのかな。軍隊だってそうだ。味方を救出する際もまず救出する側の部隊の安全を優先する」

「俺たちが軍隊じゃねえ。警察だ。零課だろうが何だろうが、それは変わらねえだろうが」

 それは最早、切り捨てるあるいは見捨てるも同義。零課は、こいつらは、この男は、警察官としての挟持もないのか。国益というものは、それほどまでに優先すべきものなのか。

 津田が怒りを露わにし、鋭い視線で成田を睨みつける。

 成田はその視線に呆れたように、深くため息をつく。

 そして、大きく息を吸い込み、逆に津田を睨み返し、怒声をを張り上げた。

「ウチはただでさえ慢性的に人員不足なんだ! それにここにいるみんなは、他に居場所がないからこんな糞溜めに流れ着いたんだ! 物見遊山で覗きこんできたあんたと違ってな! でもここにしか居場所が無いのに、みんな永くはここにいられない!みんな善人だから、良い奴だから、良心の呵責とやらで自分で自分を傷つけていく。そしてどこかしらを病んで去っていく。ハードオプション続きだ、一生ものの怪我だって絶えない。だからそういうのを少しでも減らすために、ボスである僕がそういうのから少しでも遠ざけて、僕が出来る範囲で、彼らを保護してやらなくちゃならないんだ!どこかのブラック企業の総裁や、この国の馬鹿な政治屋たちとも違ってなぁ!!」

 成田は津田の顔の左側を右手で掴みあげた。とっさのことに何が何だかわからないといった疑問を浮かべる津田。そこにはいつもの飄々としたものは一切ない。

「確かに超えちゃならないラインってのは存在するよ。でもね、その超えちゃいけないラインを超えなきゃやってられないのがこの国なんだよ」

 ふざけたことを。沸騰した頭が冷静さを欠き、津田は反撃に出ようと成田の胸ぐらを掴んだ。だがそれに対応するように成田が津田の腕を払いのけ、逆に津田のスーツを掴み上げると公称一七〇センチの矮躯が一八〇センチオーバー、体重が九〇キロ近くある津田の巨体を一本背負いに伏した。

 津田は床に叩きつけられ、受け身も取れずに肺の中の空気が無理やり吐き出され、酸欠の金魚のごとく口をパクパクさせ痛みに身悶えした。酸欠の涙目の中で津田は成田を見上げる形となる。まるで恭矢と初めて会ったあの時と同じように。

 脂汗にまみれた津田の顔を、ニヤついた顔で成田は見下ろす。

「あれあれぇ? もしかして、僕のことデスクワークしかできない頭脳労働担当とのでも思ってた?」眼前の成田が津田の総てを侮蔑し切った笑みを浮かべる。

「甘く見ないでよ。恭矢が塗り替えるまで戦技訓練の成績は僕がトップだったから」

 咳き込みながら津田が身を起こす。敵意に満ちた目を成田に向けるが、それすらも自身にとっては賛辞が何かとして受け取っているのか、成田は先ほどと同じような嫌らしいニヤついた表情を津田へ返した。

「ちょうどいい機会だ。君には零課の流儀を最前線で知ってもらわなくちゃならない。ついてきな」

 傍を見ると、いつのまにかスーツから市街戦用の迷彩服姿になった来栖が立っていた。

「あんた、運がいいな」津田を立ち上がらせながら来栖が言う。

「なにがだ」としゃがれた声で津田が返した。

「室長と一緒に前線に出ると、絶対死なないし、怪我ひとつしない」

 ばかばかしい、という吐き捨てたかったが、喉が言葉を紡いではくれなかった。


 恭矢が的場組と我来に提示した条件は二つ。

 的場組本部に必ず我来の身柄を起き、恭矢と対面させること。

 的場組本部に訪れた恭矢に対し、指一本でも触れないこと。

 それが人質となった我来礼二の身柄の介抱の条件のうちの二つだった。

 さもなくば、六実から奪ったUSBメモリを即刻主要新聞各社とネット上にバラまき、我来礼二を殺害する。

 そして組の誰もが「葛木は殺る気」だと勘付いていた。

 だが、運の悪いことに的場組は早急に十分な対応が取れずにいた。

 兵隊などの人員を福岡をはじめとした各地に派遣しており、すぐに守りを固めることができなかった。集められた兵隊は若い構成員を中心にわずか三十人程度。構成員以下の不良くずれも呼ぶべきかとも思案されたが、組随一の武闘派である吉田の「これで十分だ」との声に大井は素直にその進言を受け入れることにした。確かにいかに元公安の刑事といえども三十人に囲まれれば何をする気もなくなるだろうし、例え何かをしでかそうとも数にものを言わせて対処できると踏んでいた。

 そしてその三十人の兵隊と吉田、大井と我来が的場組本部の畳敷きの大広間で目的の人物を待ち構えていた。

 やがて、外がにわかに騒がしくなり始める。

 大広間のふすまが開かれる。

 若い兵隊に囲まれている中に、一人の男の姿があった。

「葛木……恭矢……」

 恭矢は我来の顔を認めると、満面に破顔一笑する。笑顔というよりも狂気そのものを表した表情に、その場にいた全員が固唾を呑んだ。

 恭矢は大広間を見渡した。大井と我来は奥の出入口の傍に位置取っている。なるほど、何かあればすぐに退散する魂胆か。下種め。

 中央には吉田が腕を組んで陣取っている。脇には白鞘が刺されており、おまけに袴装束ときたものだ。滑稽で仕方がない。

 そしてかき集めてきただろう兵隊がおよそ三十人。 

 的場組は今全国各地に構成員を出張させているはずだ。今さっきで招集をかけたところで集まるはずがない。

 数年前に北朝鮮の工作員を皆殺しにした時とほぼ同数。練度の差からしても、当時と比べればどうということはない。装備は今回のほうが心もとないが、懸念事項にはならない。

 問題は我来だ。ゴチャマンが始まれば一目散に逃走するだろう。手早くこの三十人を捌けるかどうかだ。

 あるいは逃げられないようにすればよい。

 今日や懐からくしゃくしゃに丸めたメモの切れ端を畳の上に放った。

「そこの住所に我来礼二がいる」

 兵隊の一人がそれを拾い上げようとするが、恭矢はグロックを抜いて銃口を向けて制止させる。それと同時に他の兵隊も各々の銃を抜き恭矢に向けるが、当の恭矢は何ら気にする様子も見せず言葉を続けた。

「こちらの要求を告げる」

 銃口と同期していた視線を、我来に向けて言い放った。

「我来賢一郎、まずは謝罪しろ」

 名を呼ばれた我来がびくりと身を震わせた。

「な、なにをだ……」

 我来の震えた声に恭矢は眉をひそませた。

 この男はこの期に及んで、未だ自分がどのような所業を積んできたのか、なぜ自分が追われているのかすらも理解もしていないのか。こんな男に美奈子は自殺に追いやられたのか。

「まだわからないのか。堀田によるTOFEL試験の不正の責任を美奈子に転嫁させたのは、貴様だろうがぁ!」

 TOFEL、不正、堀田、美奈子、松宮美奈子。

 聞き覚えのある単語と葛木恭矢の放つ殺意からもたらされる恐怖が、ようやく我来の思考を鋭敏にさせる。思い出した。

 堀田がTOFELの得点率を上げるために行った不正。それはまだよい。一番の懸念事項はその悪影響が自分に及ぶかどうかであった。校長が不正を行ったとあれば、大きな問題となることは避けられない。そうなれば自分の世間に対する評価というものが危うくなる。だから、若手の教師にその責任を転嫁させた。そうすれば自身に及ぶ悪影響はやわらぐだろうと考えたからだ。

 我来がおののく。たかがその程度のことで、これまでに数人を殺し、社屋を吹き飛ばしたというのか。

 我来にとっては、〝その程度〟のことでしかなかった。自分の下に就いている者など、自分に都合の良い存在に過ぎない。奴隷。その奴隷が一人死んだ程度のことで、ここまでのことをするのか。奴隷の分際で……!

「たかがそんなことで……!」

 我来が思わず言葉を漏らす。恭矢もそれに反応し、初めて怒声を張り上げた。

「たかがだと! たかがそんなことだと! この期に及んでまだふざけたことを言えるのか。美奈子が、あいつがどれだけ苦しめられたか考えたことはなかったのか!」

「ふざけているのは貴様のほうだ、葛木恭矢! それよりも貴様自身のこれまでの行いを振り返ってみろ。これはれっきとした国家に対する反逆だ! 私は現職の国会議員だぞ! それも与党の! 私がこの国を動かしているのだ! そのような人間である私に危害を加えてみろ!国が黙ってはいない! ましてや公安も貴様を追っているというのだ!たかが女一人のことで、貴様は国を敵に回したのだぞ!」

 自分の組織にいる部下のことなど路傍の石程度にしか思わず、それどこか捨て石にする傲慢さ。他人の尊厳を踏みにじり、虫けらのように扱い、そしてそれを何ら気に留めることもない。確かにこれは、成田も「殺していい」と宣い、自分を釣るための餌にすることもできる。 

「もういい。もう喋るな」

 これ以上の問答は必要ない。奴にとって、美奈子の件はその程度のことだったんだな。

「国なんぞ俺には関係ない。美奈子を傷つけた国なんぞ滅べばいい。美奈子以外、全部いらない……」

 戦闘を、開始する。

「我来賢一郎、お前を殺す」

 兵隊に向けていた銃口を恭矢は躊躇なく我来へと向けた。

 動いた銃口に対し、咄嗟に兵隊の一人が身を挺し、我来へと放たれた銃弾の盾となった。

 舌打ちをしながら恭矢は、一人目、とカウントする。

 咄嗟のことにその場にいた全員が、ほんの僅かの間だが呆け、そして怒号とともに恭矢に銃を向ける。だが、そのほんの僅かの間でも恭矢には十分すぎる猶予だった。

 恭矢はすぐ隣にいた兵隊の背中をナイフで刺し、捻じり上げる。肋骨の隙間を縫うように肺に突き刺さった刃は即座に絶命へと至らせた。二人目。そしてそのナイフの柄を持ち手にし、刺し殺した兵隊を自分の前方へと持ってこさせ盾のように用いた。

 一斉に向けられた銃口から放たれた銃弾はかつての仲間だった肉の盾に阻まれ、恭矢に命中することはない。

 それどころか怒号の中で始まった戦闘は混乱をもたらし、素人の銃撃によって同士討ちがいくつか見受けられた。

 同士討ちで倒れたのは三人。だが致命や即死ではないだろう。生きたままでは何をされるかわからん、きっちりトドメを刺さなければ。恭矢は痛みに伏せているその三人に銃口を向け銃爪を引き絞る。三人、四人、五人目。

 銃だけ持ってはしゃいでいたならず者たちに屋内におけるコンバットシューティングという概念など持ち合わせているはずもなく、そのほとんどが身を隠す場所を確保する前に恭矢を撃ち殺そうと躍起になっていた。フレンドリーファイアは続き、兵隊どもがようやく銃撃を控え始めたのは、先ほどの三人を含めた十人ほどが味方に撃たれた時のことだ。とはいえ、身を隠す場所がないのは恭矢も同じ。肉の盾にも限界はある。味方に撃たれて悶えてる兵隊どもを手早く射殺すると、残弾を撃ち尽くす前にグロックのマガジンをリロードする。リリースしたマガジンも放置せずにポケットに突っ込んだ。タクティカルリロード。これで十人。残り二十人。

 兵隊どもは接近戦に切り替えたのか、各々に銃をしまい込み、匕首やナイフといった得物を取り出す。中には金属バットまで持ち出す者もいた。

 ここからがようやく本番。どうやらこの間に我来と大井は奥へと退避したようだ。

「殺してやるぞ我来! 殺してやる! 生まれてきたことを後悔させてやる! お前の全てを否定してやる!」

 ナイフ片手に突っ込んできた一人に対し、死体の盾を蹴り飛ばしぶつけて怯んだ隙に頭部を二発撃ち込み吹き飛ばす。十一人目。

 殺意が恭矢に殺到する。

 匕首を突き出してきた兵隊を、横に受け身をとって回避し、すぐさまその太ももを撃ちぬく。痛みに膝をついたところで顔面に銃口を向け銃爪を弾いた。十二人目。

 さらに追撃と言わんばかりにもう一人がナイフを腰だめに構えて突進してくる。恭矢は落ちた匕首を拾い上げながら身を翻し、回転し、ハンマーを振り下ろすように右手のグロックのグリップで突進してきた男の後頭部を強く打ち付ける。後頭部を打たれて倒れたところを恭矢は流れるような動きで発砲し、次に備える。十三人目。

 へっぴり腰で突き出されたナイフの切っ先に呆れながら、そのナイフをグロックの銃身でナイフをはたき落とす。左手に持った匕首でカウンターでまず腕を裂き、その次に脇の動脈を斬ってから羽交い締めにする形で盾にする。突っ込んできた敵の一人が誤って盾にした男を刺す結果となった。とどめ、とこめかみにグロックを突きつけ、撃つ。十四人目。

 盾にした男を突き飛ばし、刺してきた兵隊ともども、ひるんで棒立ちしている兵隊どもを射殺していく。十五、十六、十七人。

 マガジンの残弾は数発。確認せずともしっかり把握している。

 リロード。マガジンを片手でリリースさせる。その時に右手前方に銃を構えた兵隊を視界の隅に捉えた。だが左手に持つ匕首を警戒してむやみに突っ込んでは来ていない。

 この期に及んでまだ同士討ちも考えずバカスカ撃ってくるか。舌打ちとともにグロックを手放す。グリップからマガジンが滑り落ち銃身と分離しながら、畳の上を滑っていく。左手に持った匕首を右手に持ち替え、振りかぶる。投擲された匕首の切っ先は銃を構えていた兵隊の喉笛に突き立った。十八人目。

 無手となったこと好機とみたのか、恭矢を囲んでいた一人がナイフを順手に持ち突進してくる。恭矢はそれを当たり前のことのように淀みない動きでいなし、その兵隊のナイフを握る拳を両手で掴むとその兵隊の左胸へ押し込み、自分で握ったナイフで自分の胸に突き立たされる形になった。十九人目。

 自分で自分の胸を刺された間抜けの胸ぐらを掴み、その死体を背後から迫っていた兵隊どもに投げつける。怯んだ隙に恭矢は首に匕首を立たせている兵隊の元へ駆け寄り、手に握っている銃をぶんどる。

 奪った銃はリボルバーだった。なんだってこんなものを。正直趣味じゃないが、四の五の言っていられない。背後に接近してきた二人は死体を投げつけられ怯んだ隙を、大口径のリボルバーで風穴を開けられた。こんな扱いにくい代物でやっていられるか。恭矢は一人につき三発ずつ撃ち込もうとした。二十、二十一人。

 だが五発目を撃ったところで、また別の存在を視界の片隅に認識した。反対側の壁際で頭を抱えてうずくまっている若い構成員。その一人に恭矢は見覚えがあった。茶髪の、確か、名前は何だったか。その男に最後の一発が残ったリボルバーの銃口を向ける。

「やめっ!葛木さん、俺ですって! 頼むから撃たないで……!」

 部屋の隅で身を小さくして隠れるように怯えてる一人の若い構成員。命乞いも全く気に留めることもなく大口径の風穴をあけた後で、恭矢はその男の名前が確か八柱と言ったことを思い出した。二十二人目。

 最年少の無抵抗になった兵隊が命乞いを下にもかかわらず殺されたことに激昂したのだろうか。敵の猛攻は止まらない。

 前方に突出してきた兵隊が両手に持った鈍器――金属バットを横に振り回す。その金属バットが胴を打ち付ける。脇腹の傷口に衝撃が響く。

 だが振りぬかれる前に脇でバットを挟み捕えた。

 肋骨の一本ぐらいくれてやる。脇で捕えたバットを捻り上げて奪い右手で持つと、バットを奪われた敵の脳天を殴り返していく。昏倒した敵の肩を踏みつけ動きを封じ、何度も何度もバットで頭部を打ち付けていく。鈍い音とともに頭蓋がみるみる変形していった。

 肉を打つ音。骨が砕ける音。それらの音に血の水音が混ざり始める。

 おぞましい。恭矢に捕らえられた仲間を助けに斬りかかろうとしてきた兵隊も思わず顔を青くし身動きができなくなった。何度も何度も仏頂面のままバッドで男の顔を打つ。何度も。はじめの一撃ではまだ罵倒していた男も二撃、三撃と続くと命乞いを始め、やがて何も言わずに痙攣するだけになった。

 最後の一撃を振り下ろし、恭矢は踏みつけていた足をどける。こひゅーこひゅーという異常な呼吸と痙攣だけを繰り返す男。自分を取り囲む敵はこの世のものとは思えないものを見るような目をして顔を青くしていた。何を呆けているんだ、と恭矢は思った。この程度のことヤクザでもやっているんじゃないのか。違うのか。

 ならば、と恭矢は足元で痙攣している男の喉に右足を乗せてゆっくりと体重をかけていった。最早悲鳴ですらない、人のものとも思えないうめき声を漏らしながら、ごきりという音とともに男は絶命した。まるで対峙している敵全員に対する見せしめのように。

 あとは何ていうことはなかった。目の前で人を人とも思わない所業を見せつけられれば、恐怖が体と思考を縛り上げる。二十三人目。

 余裕を持った動作で恭矢は新たなナイフを抜く。タントーブレード。日本の短刀を参考にしたタクティカルナイフである。

 そして、来いと言わんばかりに恭矢は指をくいくいと振る。来ないのなら、こちらから殺るぞ。

 とりあえずと言わんばかりに振るわれるナイフや匕首を全て紙一重で回避すると突き出された腕を掴みあげ、もう一方の手で肘に逆方向への掌底を打ち込む。ナイフが取りこぼされたことを確認し、タントーブレードで相手の脇といった動脈部分を狙い澄まし斬り裂いていく。そして素早く後ろに回り込み首を極めて、羽交い絞めにする。

 腕が動けなくなったことをいいことに、恭矢はまるで見せつけるようにタントーブレードで羽交い締めにした兵隊の胸を突き刺していく。何度も。何度も。心臓と肺に届かない程度の絶妙な力加減で、何度も。何度も。

 最早、残った兵隊の継戦の意志は折れていた。目の前でギリギリ死なない程度に痛めつけられる仲間をただ見るしかない。

 つまらん、と内心で呟きながら恭矢は羽交い絞めにした兵隊の頸動脈を掻っ捌く。動脈からの鮮血が噴き出す。視界を覆うほどの多量の血液が畳に染みていく。二十四人目。

 その血しぶきの中から恭矢の姿が現れる。半身が紅蓮に染まる。今度は恭矢から突進してきた。

 血で鈍らになったナイフを斬っては換え、斬っては換えていく。右手がスペアのタントーブレードを引き抜き逆手に持つと、弧を描くような腕の振りで向かってくる敵を斬りつけていく。

 味方が残り少なくなったことで残った兵隊も必死になってきているのだろう。斬りつけられたところで怯む様子がなくなった。

 ならば、と恭矢はナイフとともに突き出された腕を掴む。その腕を膝で蹴り上げ、折る。

 そして、その折った腕を持って兵隊を引きずり回した。折れている腕がぐにゃぐにゃと曲がっていくと兵隊は激痛に悲鳴を上げる。

 残った兵隊に見せつけるように折れた腕を乱暴に振り回す。そして折った腕を五分の力でブレードを当てていく。

 対峙する兵隊は攻撃に出あぐねていた。

「おともだちを見捨てる気か?」

 恭矢の煽るような言葉に一人の兵隊が激昂し、ナイフを腰だめに構えて突進する。

 恭矢は折れた腕を引き上げ、引きずり回していた兵隊を無理矢理自分の前に立たせると、突進してきたナイフに対する盾にした。二十五人目。

 しまった、という顔を浮かべる突進してきた兵隊。その致命的な隙を見逃すはずもなく、肉の盾を放り、突進してきた兵隊の髪を鷲掴みにし自分の傍へと引き寄せるとブレードを下から上へと斬り上げ、顔面を斬り裂いた。二十六人目。

 前方から鉄パイプがこちらの顔面に向けて横に振るわれる。顔を引くも躱せないと判断した恭矢は肘で鉄パイプの打撃を受ける。右手に痺れが走るが問題は無い。

 手応えは感じたのにダメージが無いことに驚くその顔面を掴み上げる。指が目に食い込む。そのまま床に引きずり下ろし、左胸を一刺しする。二十六人目。

 だが心臓から引き抜く際にわずかながら刃が引っかかる。血で刃が鈍らになってきているのだ。結局、タントーブレードを引き抜くことなく手放すことにして、恭矢は次の兵隊の相手をする。

 考え無しに突っ込んできた兵隊のナイフをいなし、その腕を掴み上げる。そしてナイフも手放せないようにその手を掴むと、ナイフが兵隊の喉元へ突きつけられるように、その手を押し込んでいく。

「やめっ! やめてくれ……!」

 命乞いに一片も耳を傾けず、恭矢は素早く片手で相手の頭を掴むと喉元に刃が突き刺さるように、その頭を押し込んだ。二十七人目。

 こひゅー、こひゅーと異様な空気の漏れる音とともに二十七人目が倒れたその視線の先、銃を構えた二人の兵隊が視界に入った。

 上等だ。まだ戦う意志はあったようだ。味方という障害物が少なくなったところで飛び道具を使うのは、この場では良い判断だ。

 だが、相手が悪かったな。相手が悪いだけだ。

 ジャケットの裏地に仕込んでいたスローイングダガーを二本取り出す。一本は親指と人差し指で刃をはさみ保持する。もう一本は人差し指と中指で刃をはさみ保持。

 腕を下から上へと振るいアンダースローの要領で一本を投擲。回転しながら放たれたダガーは兵隊の胸に命中。二十八人目。

 返す腕で今度はオーバースローでもう一本を投擲する。放たれたダガーは喉元に命中。二十九人目

 残り一人。

 その姿は前方には見えない。

 虎視眈々と狙っていたのだろう。背後から殺意が認められる。その判断は妥当だ。

 だが、相手が悪かった。それだけだ。

 背中へと突出された刃をたやすく回避すると、その一連の動作の勢いを利用して突き出されたナイフを握る腕を掴み、足元をすくって地へと叩き伏せる。

 横になった兵隊の上へ跨がり、腕を捻じり上げ肩を無理矢理外す。ジャケット袖の下に仕込んでいたプッシュダガーを手のひらへと滑り出させ、グリップを握りこむ。

 悲鳴上げる兵隊のその頸動脈にダガーを突き刺し、えぐった後に引き抜いた。噴水のように動脈から鮮やかな赤が噴き出し、恭矢の顔が紅に染まる。

 これで三十人目。

 全滅。

 ゆっくりと立ち上がりながら恭矢は周囲を見渡す。目についたのは血の赤と自らが築いた死体のみだ。

 いや、もう一人、なんかいた。吉田だったか、吉本だったか。名前は思い出せない。どうやらその場に突っ立って恭矢の殺戮をただ眺めていることしかできなかったようだ。どうして、先ほどの乱戦に交わらなかったのか。所詮は小物か。恭矢はそう判断する。

 恭矢はちらと畳の上に転がっているグロックを見遣った。この男の戦闘技術がどれほどお粗末なものだったとしても、グロックを拾いに向かってリロードを済ませる間に自分を斬り殺すことは可能だろう。故に恭矢は放ったグロックを捨て置くことにした。

 右手のプッシュダガーとベルトに挿してある小型のシースナイフと大ぶりのトレンチナイフ。全身に仕込んだナイフもこれで打ち止めだ。どれも日本刀を受けるには心許ないし、新たにナイフを抜く間に吉田は踏み込んでくるだろう。

 だが、なんら問題はない。

 吉田が白鞘を抜く。磨きぬかれた刀身が鈍く輝く。怯懦する己を鼓舞するかのように、声を張り上げて叫んだ。

 恭矢は右手のプッシュダガーを投擲する。

 それが死合の合図となった。

 吉田は投げつけられたダガーを払う。恭矢は最後のナイフ、小型のシースナイフとトレンチナイフを引き抜き突進する。

 狙いは懐。密着状態なら刀は振れない。右手のトレンチナイフを振りかぶる。

 だが、恭矢の目論見は外れた。恭矢から見て左側から、吉田が逆袈裟の形で白鞘を振るってきたのだ。その斬撃を左手のシースナイフで受ける。その勢いを借りて、恭矢は右方向へと受け身をとった。

 考えを改める必要があると恭矢思った。右手に僅かな痺れ。この吉田とかいう男、的場組一の武闘派を掲げるだけのことはある。殺し合うにしても頭は回らないが直感的な要素、本能や嗅覚といったものだけは優れているようだ。

 さてどうするか。恭矢は何度かフェイントをかけながら考えを巡らしていく。

 ナックルガードに指を通しているため、斬撃を受けても弾き飛ばされるようなことはない。だが、徐々に右手の感覚が薄れていくのが感じられた。斬り結ぶ回数を重ねれば、いずれ使い物にならなくなる。

 幾度、斬り結んだか。既にトレンチナイフを構えている右手が痺れ力は入らない。それどころか脇腹の傷口が開いたのか、右半身に再び鈍痛が走るようになっていた。これ以上は無理。最早有効に用いることは出来ないと判断した恭矢は、そっと右手手の平を開くとトレンチナイフをその場に落とした。そして右手を軽く振ってどうにか血を巡らせた後に左手に持っていたシースナイフを右手に逆手で持ち変え、左手を添える。

 おそらくこれが最後。二人はそう察し、そして互いに踏み込んだ。

 刃が重なるごとに肌が泡立つ。

 吉田が上段から白鞘を振り下ろす。

 恭矢は身を捩り、回避する。その勢いのままナイフを吉田へと突き立てようとした。

 しかし、それは叶わなかった。

 斬撃を回避された吉田は逆に自らの身をぶつけてきた。刃が届く前に恭矢が筋肉の塊に弾き飛ばされ、さらに丸太のような太い蹴りを叩き込まれる。

 蹴り飛ばされるも受け身を取る恭矢。

 そこにトドメとばかりに、吉田が怒声とともに再度、上段から白鞘を振り下ろしてきた。

 だが刃が恭矢を斬り裂くことはなかった。

 恭矢の眼前で止まった白鞘。刀身は恭矢の両の手の平で力強く押さえつけられとまった。吉田が押しても引いても微動だにしない。

 傍には投げ捨てられ血の海に沈んでいるシースナイフ。

 白刃取り。

 吉田の意識は刀をどうにかすることに集中されている。恭矢は全身の膂力を込めて、隙だらけの吉田の下半身を蹴りあげた。

 悲鳴にもならないくぐもったうめき声とともに、吉田が腰を折る。おそらく実の一つや二つ砕けただろうが、それでも意識を飛ばしていないあたり、この吉田という男はあながち本当の武闘派とも言えるのかもしれない。だが、そのようなタフさも最早無意味だ。

 吉田の柄を握る手が緩んだところで、恭矢が白鞘を奪う。刃を躍らせながら柄を握ると、そのまま吉田を袈裟斬りにした。鎖骨にぶつかり刃が欠けたか折れたようにも思えたが、構うことではない。

 吹き出る鮮血を全身に浴びながらさらに逆胴に一閃する。

 今度こそ吉田が倒れる。大きく痙攣する吉田の右肩を足で踏みつけると、その左胸にまっすぐ白鞘を突き立てとどめを刺す。確かな肉の感触。

 びくんびくんと吉田が二、三度大きく痙攣すると、それきり動かなくなった。その様子に恭矢はどことなく中学生のころの理科の実験を思い出した。

 畳にまで到達した白鞘の刀身は歪んでいた。

 静寂。自分の荒い息と耳鳴りと心臓の鼓動しか聞こえてこない世界。

 恭矢は周囲を見渡した。

 畳敷きの大広間は紅蓮に染まっていた。畳が吸いきれないほどに血が溜まっており、幾人かの構成員たちが沈んでいる。襖と壁一面に赤い飛沫が染みとなっており、最早地獄の様相と化していた。

 生臭さと鉄の香りの混じった空気がなんとも言えない。だがどこか懐かしいとも思えた。

 恭矢は血に濡れていない畳の上に放置されたグロックを見つけ、それを拾いに向かう。歩く度に血溜まりが水音をたてていく。血しぶきで紅く染まったグロックを拾い上げ、特に気に留めることもなくジャケットに押し付け血を拭う。スライドを何度も引き、動作を確認する。問題は無い。懐からマガジンを取り出し、リロードを済ませた。

 ふと、八柱だったか何だったかの死体が目に止まった。前原の部下だったこともあってか、自分にも随分懐いていたようだが、おかげでアリバイ工作に利用しやすかった。

 自分を慕っていた若い男。自分が撃ち殺したその男の死体を見て、恭矢は何故だか笑みが零れた。唇の両端が釣り上がった笑顔から笑い声も堪え切れなかった。血に染まった手の平で顔を多いながら、大きく肩を揺らす。

 自分でも理由がわからない。論理的などではないとわかっている。が、笑みが堪えられなくてたまらない。

 そもそも人の行為に論理など最初からある筈はないのだ。仮に人間性とやらを定義するのであれば、そこに論理性などというものが立ち入る隙間など存在しない。

 なぜならば、論理性などというものがちゃんと存在すれば、美奈子は傷つけられずに済んだのだから。美奈子が自ら命を絶つ道理などないのだから。美奈子が追い詰められたその原因に、論理性などというものは一切介在しなかったのだから。

 全ては我来が狂っているのだから。言葉など、理由などは所詮は後付に過ぎない。

 そしてその我来の狂気を許容しているこの世界もまた、狂っているのだ。

 総てに論理性など介在せず、人の行いに狂気が孕み、それが誰かを傷つけているのだとしたら……。傷つけられて生まれる憎悪という感情だけは確かなものだと言える。疑うことのみが確固たる存在であることを定義した哲学者のように、憎悪することもまた確固たる存在の証明であるのだ。

 ならば俺はその憎悪だけを信じよう。愛する人を傷つけた我来への憎悪。その我来の存在を許すこの世界への憎悪。

「許さない。美奈子を傷付けた全てのものを俺は滅ぼしてやる。まずは我来だ。その後はこの国そのものだ」

 恭矢はグロックに新たなマガジンを装填するとスライドを引き、初弾をチャンバーへと送り込んだ。


 地下駐車場を我来と大井が慌てふためいて走っていた。二人とも取るものも取りあえず本部の屋敷から逃亡を図ろうとしていた。重要な書類や金券などは前原が回収していくという手筈にはなっているが、どちらの車に乗るかで迷い、結局我来のクラウンマジェスタで逃亡を図ることにした。

 目的は羽田空港。先ほどプライベート便をチャーターした。本来ならば我来は息子とともに国外へと避難するつもりであった。衆議院選は棄権することとなるが。次の参議院選の頃にはほとぼりは冷めているであろうというのが我来の算段である。

 銃声を聞かなくなって幾分かが経つ。恭矢は仕留められたのか、あるいは恭矢が仕留めたのか。希望的観測をする二人ではない。自分たちを殺しに来た男は今もこちらに迫ってきている。

 クラウンマジェスタの運転席に飛び乗った我来は震える手でスターターを押す。エンジンが唸り、ギアをドライブへとセットした。

「何をやっている早く! 奴がやってきてるんだぞ!」

 札束や証券、重要書類の詰まった重いバッグを引きずりながら助手席に乗るのに手間取っている大井に我来は罵倒する。ギアはドライブに入っているため、クラウンマジェスタは僅かながら既に動き出している。

 銃声が轟いたのはその時だった。

 二発の銃声とともに助手席の乗り込もうとしていた大井がドアへともたれこんだ。

 それを見た我来が目を見開き、アクセルを踏み込んだ。急発進で後輪が空転した後、クラウンマジェスタは出口へと一目散へと走り去っていた。

 薄闇から一人分の影が現れる。葛木恭矢がグロックを掲げながら、悠然とかつ早足で歩み寄ってきていた。

 その双眸は最早、人間のものではない。

 走り去っていくクラウンマジェスタへと向けて恭矢は片膝を付き、精密射撃体勢で発砲する。が、リアガラスめがけて放たれた銃弾は貫通せず、わずかに亀裂を入れるだけで終わった。何度発砲しても結果は同じだった。

 防弾ガラスか。舌打ちをしながら、狙いを小さくなっていくタイヤへと定める。

 しかし、銃爪を弾くまでには至らなかった。

先ほど開いた脇腹の傷口の痛みに思わず呻き、身を捩る。大量とまではいかないものの、触れてみれば出血が見て取れた。このまま動き続ければ遅かれ早かれ行動不能になるのは目に見えていた。

 手に持つグロックは銃弾を撃ち尽くしたのかスライドが後退したままとなっていた。残弾を把握する意識を回せなくなっている。

 まだだ。まだ終わっていない。まだ為すべきことを為していない。倒れるのはその後だ。頼む。それまで持ちこたえてくれ。

 気力を振り絞り、どうにか立ち上がる。全身に灼熱が駆け巡る。ことを成し遂げるまででいい。それまで葛木恭矢という意識と肉体が稼働すればそれでいい。

 傍を見ると背中を撃たれた大井が横になって痛みに呻いていた。恭矢はグロックのマガジンを交換しながら、大井の元へと歩み寄る。

「ま、待て!待ってくれぇ!」

 まだ声を上げる余力は残っているようだ。そこを恭矢はもう一発、足へと撃ち込む。

「き、貴様ァ……!」

 うめき声を上げながらこちらを見下ろす恭矢を睨みつける大井。だが自らの方へと向いた顔を恭矢はボールのように蹴り飛ばした。

「一度だけ聞く」

 恭矢は大井にのしかかり首根っこを掴むと、そこへ銃口を押し付ける。

「お前ら、どこへ逃げるつもりだった」

「葛木、貴様よくも!」

 大井が反抗の姿勢を見せると、躊躇なく首へと押し付けていた銃口をふとももへと向けて引き金をひいた。銃弾は大動脈を貫き、血が溢れ出る。

「さっさと処置しなければ死ぬ箇所だ。言え」

 悔しさと激痛に歯噛みしうめき声を漏らす大井。それに苛立ちを覚えた恭矢は構わず首を掴んでいた手に力を込める。

「は、羽田だ! 奴は国外へ逃げようとしたんだ!」

 これはまた、面倒なこととなったな。国外逃亡か。そう思いながら恭矢は立ち上がりながら、大井の頭を踏みつける。

「これでいいだろ! ちゃんと話したんだ! 見逃してくれ!」

「誰が正直に話せば見逃すと言った」


 本庁捜査四課の本郷は焦燥と怒りに駆られていた。

 的場組に明るい津田が突如公安警察へ異動という度し難い事態が起きたことは百歩譲ってまだいいとして、その津田の後継とされた〝入江智之〟などという人物が実際には存在しないということはいったいどういうことだ。担当部署や事情のわかる者など皆無で、上にあたってみても「知らん」の一点張りで通される始末だった。

 そのため、的場組襲撃の報を受けての初動が大幅に遅れることとなった。責任の在処が不透明なまま貧乏くじを引かされた結果となった本郷は、只々頭を抱えるしかなかった。警官隊を引き連れ的場組本部へ赴いた時には既に事態が発生した後であり、銃声が聞こえるやいなや、本郷はすぐに「執行!執行だ!踏み込め!」と大声を挙げ、警官隊を突入させた。

 だがこれが判断ミスとなる。焦って本部周辺を包囲させずにそのまま警官隊を突入させたため、地下の駐車場から一台のクラウンマジェスタが飛び出してきたのをみすみす見逃してしまう羽目となった。小さくなる白いクラウンマジェスタを見送りながら、本郷は地駄を踏むしかなかった。予め受けた数少ない情報により、去りゆくクラウンマジェスタに我来が乗っていることは判断できた。

 混乱する中でどうにか現場指揮を建て直し、包囲班と突入班とで分けることが出来た本郷だったが、途中で聞こえてきた二発の銃声に身をすくめ思考停止に陥ってしまった。それは警官隊も同じであり、身を低くさせたまま本郷に指示を仰ぐような目を向けてくる。動揺する本郷にそこまで気が回ることはなく、現場は再び静かなパニックへと陥る。

 そして今度は地下の駐車場からけたたましいエンジン音が鳴り響いてきた。

 突入した警官隊からは、的場組の構成員と思しき人間が全滅しているとの無線を受けた。ならば今、駐車場でバイクを盛大に吹かしている人間は一体誰になる。いや、誰であろうと関係はない。自分たちは今、この場にいる人間の身柄を拘束するためにいるのだ。なんとしてでも止めなければ。

 だが相手は自分たちの思惑を遥かに凌駕していく。地下駐車場から猛スピードで突進してきたバイクは軽くジャンプをすると途中に駐めてあった一台の乗用車へと乗り上げ、ジャンプ台として利用しさらに大きく飛翔した。

 包囲する警官隊の遙か頭上を飛び越え、タイヤを滑らせながら着地した。包囲していた警官隊はそのスタンドプレーにただあんぐりと口を空けて見上げるしか他はなかった。

 本郷はドライバーの顔を視認することができた。ノーヘルでバイクに跨っているその姿に見覚えはある。津田から紹介され、途中で中止となった捜査一課との捜査会議でも挙げられていた男。

 葛木恭矢。元公安の捜査官。

 恭矢は片足を地に着かせながら、バイクを旋回させクラウンマジェスタが走り去ったと思われる方向へ向ける。警官隊の方へ一度ちらと視線を向けると、特に感慨も無さそうにアクセルを吹かし、我来を追うようにその場を走り去っていった。

 小さくなるバイクの後ろ姿を見送りながら、本郷は手近にいた警官の首根っこを引っ掴み、自分の元へ寄せると耳元へと囁いた。

「いいか。俺たちは奴らがこの場を去った後に現場に到着した。いいな?」

 上がいい加減な態度と仕事で押し付けられた事案だ。まともに付き合っていられるか。何を言われてるシラを切ってやる。


 首都高速湾岸線を一台のクラウンマジェスタが駆け抜ける。法定速度を遙かに超過し、巡航車線と追い越し車線とを行き来しながら、幾多の車を追い抜いていく。

 運転席の我来は既に恐慌状態へと陥ってた。全身が脂汗にまみれ、既にまともな思考は削ぎ落とされている。最早、いかに早く空港に辿り着きチャーター機に飛び乗ることと、どうしてこのような現状に陥ったのかということしか頭にない。

 葛木恭矢と言ったか、あの男。その妻である葛木美奈子なら確か覚えにある。若い内は理不尽を味わうのも仕事だと考えていたが、自殺するようなことになるとは。当時の我来は反省や後悔よりもまず、事後処理などの面倒さと葛木美奈子の弱さに苛立ちを覚えた。その程度のことで、どうしてそこまで追い詰められるのか。

 どうしてこうなった。どうして自分がこのような目に遭わなければならない。どいつもこいつも自分の足を引っ張り、手を煩わせる。

 我来の疑問はやがて自分を追い詰めたと勝手に思い込んでいる他者への怨恨となる。

 クソ、糞、糞っ!クズどもめ。役に立たんゴミであるどころか、この私に危害を加え歯向かうだと?そんなふざけた道理などあるものか。度し難いにもほどがある。貴様ら如きが生まれてきた理由など、この私に使われる他に何がある。その役目さえ果たすどころか、この私に泥をかけるような真似など断じて許さん。死んで詫びろ、葛木恭矢。無論、ただでは殺さん。生まれてきたことを後悔させるほどに、貴様を苦痛の中に陥れてやる。手始めには貴様の妻だ。葛木美奈子の尊厳と死をさらに辱めてやる。豚にも劣るクズめが。私の時間と意識を奪いおって。万死に値する。この国に私以外を奉る道理などない。私以上の存在などいない。私以外の万物事象に何の意味がある。潰す。私に従わず敬ず奉らない者は全て潰す。生ゴミ以下の価値にしてやる。

 我来はいつだってそうしてきた。自分と敵対するものは、財力、権力、腕力、考えられるだけの全ての力を用い潰してきた。自らがどこであっても、いついかなる時でもそのヒエラルキーの頂点であらねばならなかったからだ。

 だが、今回ばかりは相手が悪かったということに、我来賢一郎は未だ気づくことは無い。

 葛木恭矢は敵と見なした存在を、逃がしたことは一度足りとも無い。


「さ~て、ようやく追いついた」

 零課の所有するヘリが首都高湾岸線の上空を飛行する。成田の目下には我来のクラウンマジェスタが見えていた。

 交通規制をかけ、羽田空港へと続く湾岸線には既に交通規制がかけられ、今はクラウンマジェスタ一台しか見受けられない。

 成田はインカムをかけ、無線を起動させた。

「あろあろ~、もしもし~、公職選挙法違反の我来先生元気してる~?」

(な、だ、誰だ?)

 相手は我来だった。おそらくフリーハンズ通話で奴と通信しているのだろうと津田には見て取れた。そして我来の声には最早怯えの感情しか含まれていない。

「公安ですよ。上見てください。ヘリが見えるでしょ。今こちらで我来先生を護衛しています」

 護衛という建前の追跡だけどね、と成田がぺろっと舌を出す。

(だったらなんでヘリ一機だけなんだ。どうして応援が来ないんだ!他の警察はどうした?)

「あんたが勝手に的場組本部から抜けだしたからでしょーが。待機してればちゃんと保護してやったのに」

(ふざけるな!あんな状況で待機などできるか!)

「今急いで、そっちに向かってるから」

 嘘だよ、とインカムのマイク部分を握って塞いでまた舌を出す。確かに、遥か後方には応援のパトカーが存在しているが全て零課の人間であり、彼らの目的も我来の保護ではなく成田たちのバックアップに過ぎない。

「それと、追い越し車線走り過ぎだ。法定速度もぶっちしてんじゃねえかてめー。減点な」

(今そんなことを言ってる場合か!)

 それもそっかーとおどけてみせる成田。

 インカムから我来の喚き散らす声が聞こえているが、それを全て無視し真下を見下ろす。

 クラウンマジェスタは羽田へと疾走していく。だがその追手であるはずの存在は見えない。

「さてこうなると我来が羽田にタッチダウンを決めるか、恭矢がインターセプトするか見ものだね」

 言いつつも、成田は内心に若干の焦りを感じていた。このまま我来が羽田へゴールインとなれば、我来は餌という役割を果たさずに終わる。さすがに羽田空港そのものを封鎖するというわけにもいかないからだ。そうなれば恭矢の存在も公となり、その処遇についても危ういものとなる。

「どうしたんだよ恭矢、我来をぶっ殺すんじゃなかったのか」


 我来はちらとルームミラーに視線を投げる。

 後続車は見えない。ふと見渡せば、高速には自分以外の車両がいないことに気づいた。

 あの公安め、ようやく交通規制をかけてくれたか。

 我来は深く息をつき、つかぬ間の安堵を感じた。

 その時だった。

 中央分離帯越し、一台の車両も存在しないはずの対向車線を疾走する一つの影とすれ違った。何事かという疑問と、まさかという疑念に我来は思わずサイドミラーに視線をやる。だが中央分離帯によってその姿は見えない。

 我来はアクセルを踏み込む。タコメーターが振りきれ、エンジンが悲鳴を上げる。

 まさか。まさか……。まさか……! まさか!

 そしてそのまさかが現実のものとなる。我来が先ほどまで憎悪の対象にしていた存在が、再び絶対的な死をもたらす恐怖の存在として、その姿を再び顕現させる。

 中央分離帯を飛び越え、一台の二輪が姿を現した。着地した後にそのまましばらくウィリー走行を続ける。顔はまだ見えない。だが、そうでなくてもその二輪に跨っている人間が誰なのかは容易に想定できた。

 二輪に跨がり、ゴーグル越しにこちらを見据えている男。自分を殺すために、疾走してくるペイルライダーの死神。バイクの前輪を着輪させると、ノーヘルのその死神の容貌が現れる。

 葛木恭矢。

 我来はさらにアクセルを踏み込む。だがタコメーターは上がりきっており、エンジンはこれ以上唸りを上げることはない。

 そうこうしている内に、あっという間に二輪がクラウンマジェスタの真後ろへとついた。

 恭矢のバイクは車線変更し外側の車線へと移る。加速し、そのまま左斜め後方に位置し並走する形になった。

 死神とミラー越しに目が合った。


「やっぱすごいよ恭矢は!いつだって君は僕の考えを上回っていくんだ。これじゃ我来もゲームオーバーだね」

 成田の言葉に頷くと、来栖は後部座席からスナイパーライフルを掲げ前へと移動してきた。その腰には複数のアタッチメントが装備されていた。ヘリの機外へと身を乗り出しランディングギアへと腰を下ろす。ランディングギアとアタッチメントを接続し身を固定させた。背負っていたスナイパーライフル〝ヘッケラーコッホ MSG90〟を構え、スコープを覗き、狙撃態勢を整えた。整えたとは言っても、状況は最悪だ。海の近いため風は強く湿度も高い。標的は動いている上、機動も不安定。こちらも動いているし何より揺れの酷いヘリだ。しかも二脚を立てることもできず、依託射撃態勢が取れない。条件は最悪だ。

「やってやるさ」

 来栖は自分自身に言い聞かせる。どんなに悪条件であろうと、課せられた責務を確実に果たす。それが自分の仕事だ。零課随一のスナイパーの座が泣く。

 真上からの我来への狙撃。極力致命にはならない部位への銃撃。それが不可能であれば射殺。

 湿度、風の要素による三角関数の数式を瞬時に解き、距離換算、ヘリとクラウンマジェスタの相対速度、さらにはヘリの揺れをも考慮し導き出された結論に従い、来栖はレティクルを定める。照準は我来のクラウンマジェスタのタイヤ。例え、防弾だとしてもライフル弾は防げまい。目的は我来の救出ではなく、葛木恭矢の身柄の確保なのだから。

 全ての要素は整った。あとはただ祈りながらトリガーを引き絞るだけだ。南無三、と声にならない小さな声で叫び人差し指を動かした。

 銃口から吐き出されたライフル弾はクラウンマジェスタへと直撃した。だが命中箇所はタイヤではなく、後部座席だった。我来は咄嗟に加速したのだ。そのまま恭矢のバイクへと幅寄せしていく。

「あのアホたれ。何のつもりだ」と成田が苛立ったように言う。 

 接近に気付いた恭矢だが抜け出すのが遅く、そのまま外壁とクラウンマジェスタに挟み込まれる。恭矢は足でクラウンマジェスタを押しのけようとし、窓ガラスに発砲するが全て無駄に終わる。外壁と擦られるバイクの斜体が火花を散らしていく。

「あの馬鹿!やりやがった!」

 ヘリに備え付けられた通信で我来の携帯に再び電話をかける。ハンズフリーで我来が応答した。

「何してやがる!今すぐ止まれ!このスカタン!」と成田が怒鳴る。

(今止まったら殺されるじゃないかあ!)

「そのためにこっちがスナイパーを連れてきたんだ!てめえにチョロチョロ動かれると余計に厄介なんだよ!」

(なぜ私を撃とうとしたのだ!)

「てめえがちょろちょろ動いているからだ!撃たれたくなったら車止めろ!」

 だが返事は我来のみっともない悲鳴だけであった。

「完全にパニくってやがる。アホが。死ね」

 成田が無線のマイクを叩きつけるように放り投げながら吐き捨てた。

「そうしてやりたいところですが、そうなっちゃったら俺たちの給料下がっちゃいますからね。おまけに顛末書まで書かされますよ」

「僕が許可する。もうやれ。何としてでも我来の方を止めろ。手段は問わない」

 だがその時には既に遅かった。

 バイクの車体が潰されこらえきれなくなったのか、恭矢はバイクからその身を投げ出される。中空に投げ出された恭矢はそのままアスファルトをボールのように跳ね転げていった。グロックはその手から離れ、はるか明後日の方向へと消えていく。

「恭矢ぁ!」

 クラウンマジェスタはそのままドリフトする形で横滑りしながら一八〇度回転し停車した。

 恭矢の身体が転がっていく。やがて勢いが死に、クラウンマジェスタのヘッドライトに死んだように横たわった恭矢が照らされた。

 ぴくりとも動かない。ついに殺ってしまったか。急停止したクラウンマジェスタの中で我来のハンドルを握る手が震える。だが、もう後には引けない。ここまで来てしまったのなら、最早行くところまで行くしかないのだ。もう警察の連中も信用ならん。始末は自分でつけなければならないのだ。

 我来が車内で言葉にならない言葉を叫んだと同時に勢い良くアクセルを踏み込んだ。急発進でタイヤが空転しゴムとアスファルトが擦れる甲高い音が響く。

 その音と共に即死したかと思われた恭矢ががばりと上半身を起き上がらせた。頭部が切れたのか多量の出血で顔面が紅く染まっている。時速一〇〇キロ近い速度で路面に投げ出されたにも関わらず、ダメージを全く感じさせない動きで機敏に立ち上がり構えてみせた。

 我来を捉えた血に染まった双眸は決してブレることはない。その瞳は孕んだ殺意によって人の範疇を超え、例えるなら鬼のものと呼ぶべきそれとなっている。

 急発進したクラウンマジェスタは何ら躊躇なく恭矢めがけて、再度轢かんとばかりに突進していく。ハイビームのままのヘッドライトの強烈な光が恭矢の視界を埋める。しかし、それは恭矢にとって何ら問題とはならなかった。衝突する直前に体を丸めながら跳躍すると、受け身を取る形で突進してきたクラウンマジェスタのボンネットに乗り込んだ。ワイパーとボンネットの縁に手をかけ、素早く上体を起こす。

 フロントガラスの中では我来が何かを喚き散らしている。血液越しの恭矢の眼光に捉えられると、我来はハンドルを左右に回し始めた。それと同期してクラウンマジェスタもまた左右に車体を振る。振り解こうとするクラウンマジェスタの動きに恭矢はボンネットの縁を掴んでいる右手一つでこらえてみせた。

「馬鹿が!銃も無いのにどうしてみせると言うんだ!貴様の負けだ、葛木恭矢!あの女ともどもみすぼらしく死に腐れ!」

 エンジン音と防弾ガラス越しで聞こえるわけがない。だが、自身の勝利を目前とした我来は叫ばずにはいられなかった。

 恭矢にとって為す術なしの状況。誰がどう見ても、この男の年貢の納め時であるとわかるというのに、当の恭矢本人のその双眸から強い意志と呼べるものが消えてはいなかった。血に濡れた二つの瞳は、未だ獲物を目の前にした悪鬼のそれであった。ボンネットから立膝をついて、我来賢一郎を見下ろし、そして見下している。

 獲物は、お前の方であると。

 表情も無く我来を悪鬼の目で見下ろす恭矢。その表情に変化が現れる。唇の両端を釣り上がらせた愉悦にまみれた嗜虐的な笑み。

 まだ銃なら残ってる。

 声は聞こえずとも、唇の動きで恭矢がどんなことを言葉として紡いだか、我来にははっきりと理解できてしまった。それ故に我来は確信した勝利から恐慌へと陥った。

 背から抜いた最後のナイフであるトレンチナイフをボンネットに突き刺し、それを持ち手として体を安定させる。そして、ジャケットの裏地から一本の長方体を取り出した。

 ウクライナ製ドワーフ自動拳銃。折りたためるようにしたことで隠し持つことに特化させた銃。

 村木から託された折りたたまれたドワーフが、恭矢の手の中で展開し変形し、殺すための銃の形へと具現化する。銃口が恭矢の視線と同期し孕んだ殺意とともに向けられる。

 その我来へのの殺意だけが、恭矢の意識を未だ葛木恭矢たらしめ、既にダメージが限界となっているその体を突き動かしていた。

 この男が美奈子を殺した。

 にも関わらず、この男は裁かれることはない。

 だから、俺が裁くしかないのだ。

 美奈子を傷つけた者は鏖だ。

 次はどいつだ。我来を擁立した与党。我来の支持者。我来に投票した者。我来を礼賛する者。我来の存在を許す者。我来を糾弾しない者。国。国家。政権。有権者。国民。

 全てが俺の敵だ。

 猛スピードで蛇行するクラウンマジェスタ。ボンネットに乗っている恭矢はその度に振りほどかれそうになるが、突き刺したトレンチナイフを必死に掴みこらえている。

 構えたドワーフの銃口をフロントガラスに押し付け、連続で発砲していく。弾丸が防弾ガラスに跳弾するたびに我来の顔がびくりとひきつる。

 恭矢が引き金を弾く度に亀裂が走る防弾ガラス。いくら強固に加工されているといえど同じ箇所に、しかも接射で銃撃されれば長く保つことはない。

 一発。二発。三発。四発。五発。六発。七発。八発。九発。

 そして防弾ガラスはあと一発で風穴が開けられるところまでに至った。

「あと、一発、残っているぞ」

 声は聞こえない。だが血に濡れた鬼の顔は、確かにそう言ったように見えた。

 最後の一発、その引き金を弾く指に力を込める。

 これで、我来を殺せる。

 これで美奈子の魂に安寧が訪れ救われるかどうかはわからない。

 世直しをしているつもりなどさらさらなかったが、それでも誰かがくたばることで明日が僅かながらにもマシになることもある。

 だが少なくとも、自分の気は多少なりとも晴れることは確かだ。そしてこれから終わりとぶつけどころの無い憎悪にかられることも。

 それでも構わない。美奈子を否定した者が、今日で一人消え失せるのなら。

 一人、クズを殺したところで何も変わらないのかもしれない。

 ならば、変わるまで殺せばいい。

 しかしそれは叶うことは無かった。

 我来が急にハンドルを切り、外壁へと車体をぶつけた。衝撃とともに慣性が前方に働く。

 その勢いに掴んでいたトレンチナイフもボンネットから抜かれ、恭矢は再び中空へと投げ出された。

 我来を殺すはずだった最後の一発は狙いから逸れ、防弾ガラスで弾かれていった。

 我来が衝突させた箇所の外壁は低くなっており、恭矢はそのまま高速道路の外へと転落することになった。

 ヘリが急降下する。成田がランディングギアに足をかけ身を乗り出し、届くことはないにも関わらず腕を伸ばす。

 それを津田が必死に成田のベルトを掴み引き寄せる。

 恭矢の姿が外壁から下へと消えていく。掴んでいたナイフと銃を手放しながら、驚愕の表情から固まったまま高速道路の外へと、その身が投げ出されていく。

 高架下の海、冬の東京湾に葛木恭矢は沈んだ。


 成田たちはその場にヘリを着陸させると、来栖に我来の身柄を拘束させ、津田とともに外壁から海面を覗きこんだ。

 波間の中に恭矢の姿は全く見えなかった。成田は「くそっ!」と怒りを露にする。その身を翻し、クラウンマジェスタへとつかつかと歩み寄っていった。

 来栖によって我来はエアバックの中から無理矢理引きずり出され、クラウンマジェスタの潰れたボンネットに顔を押し付けられていた。

「どこまでふざけた真似しやがる我来てめぇ!」

 成田は来栖からぶんどるように我来の胸倉を掴み、その顔面を一発殴りつける。来栖はさもそれが当然の如く、何ら感情も込めずに何度も殴られる我来を見下ろす。

「これは恭矢の分!これも恭矢の分!こいつも恭矢も分だ!」

 殴られた拍子に我来はボンネットに倒れこむと、成田によって再び押さえつけられた。

「そしてこいつは恭矢の嫁さんの分だ!」

 とどめの一撃は前歯を砕いた。痛みに我来は口を抑えて悶える。指の間から歯茎から溢れでた血が滴る。成田は我来の髪を掴み上げると、その頭をもう一度ボンネットに叩きつけ、そして醜く腫れ上がった我来の顔を覗きこむようにして怒鳴りつけた。

「お前なんか恭矢に殺されればよかったのに。ブラック企業の総裁なんかやってるてめえみたいなのはこの国にとって害虫なんだよ。てめえが好き放題やってくれたせいでこの国の裏稼業を担うエージェントが一人いなくなった。お前が国益を損なったも同然なんだよ、この国賊が。だがこの国は不愉快なことに腐っても法治国家だくそったれめ。運が良かったな。今度の衆議院選はさすがに無理だろうが、てめえは多分何らお咎め無しだ。死ね」

 そう言って成田は掴んでいた我来の頭をボンネットに投げつけた。跳ねる勢いで我来はそのまま血と鼻水と涙で濡れた顔を向け、来栖の足元へ救いを求めるかのように転がり込むが、ライフルを抱えた来栖は「汚えな」と我来の肩を蹴り飛ばす。今度は津田の足元へと這いより、何がなんだかわからないというように混乱と恐怖でむせび泣いた。

 子供のように、あるいは芋虫のように身を縮こませて震えている我来。今自分の足元で無様な姿を晒している男が何人もの人生を台無しに、そして一人の男を凶行へと駆り立たせた。そう考えると津田は哀れみよりも無性に怒りを覚えた。せめて自分もと、我来の尻に蹴りを入れる。爪先が食い込み我来が金切り声のような悲鳴をあげた。

「もうめんどくせーから応援を呼んだ。後を引き継いだから僕たちは帰ろう。おごるよ、痛飲だ」

 後を追ってきたであろう黒塗りの乗用車の扉を開いて成田が来栖と津田の二人を手招きする。二人はそれに従い後部座席へと乗り込んだ。

 座席でシートベルトを着用しながら津田は窓を覗きこむ。我来はおそらく同じ零課の要員であろう人間に抱え込まれ連行されようとしていた。

 外壁に衝突したまま動かぬクラウンマジェスタ。ボンネットは半分潰れている。飛び去っていく自分たちが先ほどまで乗っていたヘリコプター。連行されていくターゲットであった我来。しかし、この場には犯人と言える存在はいなかった。

 世を騒がせたテロリスト、葛木恭矢は冬の東京湾へと沈んだ。いやテロリストという呼称でよいのだろうか。彼の思想、凶行や脅威に訴える傾向は大々的に伝えられることはなかったのだから。世間では一連の我来の近親者の殺人も、ニッタミ本社社屋爆破も謎の事件として消費されるだけだろう。

 捜索は継続されるようだ。助手席に座った成田がスマートフォンで「東京湾をひっくり返してでも探しだせ」とがなりたててる。だが果たして生きていることだろうか。時速一〇〇キロ近い速度で路面に投げ出され、頭を打っている。その上、下は海とはいえ高所の高速道路から落下したのだ。さらには冬の海では体力の消耗は計り知れない。

 葛木恭矢の生存は絶望的と見て良いのだろう。

 自身の零課での初仕事はひとまずこれで一段落を迎えた。

 何もかもが釈然としない結果のまま。

 津田は窓を開けると、強い潮風が津田に吹き付けた。

 世を騒がせた犯罪者はこれで姿を消した。

 ブラック企業の総裁はこれで一時はお国の代議士となることはなくなった。

 それで果たして、明日は今日よりもマシになったのだろうか。我来のごとき、他人を虫けらのように扱う人間などゴマンといる。誰かが殺され消えることで、良くなる明日などあるのだろうか。それに対する答えは肯定だ。成田をはじめとした零課という存在がその解答を証明している。誰かが殺され消えることで、この国は最大公約数的な幸福を選び取っていく。誰かを切り捨てていくことで、誰かを見捨てていくことで、誰かを消費することで、この美しい国は少なくとも表面的には美しいまま保っていっている。

「なあ、成田さんよ」通話を終えた成田に津田が声をかける。

 誰かを切り捨てることで、誰かを見捨てていくことで、誰かを消費することで得られる最大公約数的な幸福。では、切り捨てられるものがなくなったら、その後はどうなる?

「なんだい」

「明日も誰かを殺すのか」

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