第三章 深淵暗礁
第三章 深淵暗礁
公安零課。正式名称は警察庁警備局警備規格化情報整理室。
室程度の規模であり組織図内においても所謂公安警察の管轄内ではあるが、その実、通常の組織系列とは独立した公安警察内部の特殊組織と言っても過言ではない。
有り体に言えば非公開組織の諜報機関である。
内外に情報網を張り巡らし、通常の警察では対処しきれない大規模犯罪や国外からの侵犯行為に対し察知及び事前排除、あるいは事後排除とその後処理を主な任務としている。無論、この排除というのは主に実力行使となる。
他国の工作員やテロリストはもとより、国益を損なうとされた自国民すらも〝ディファイラー〟と称し、白昼の中で暗殺を行うこともしばしばだ。電車のホームに突き落とす、車のブレーキに細工を施す、事故を装った轢殺、飲食物に遅効性の毒を仕込む、拉致監禁、しまいには街中で呑気に歩いている対象を狙撃し心不全として片付けるなんてことなどしょっちゅうだ。
それだけの重大な事案に対処することを活動内容にしているにもかかわらず、警察庁、及び警視庁、そして公安警察内においても幹部級の人間ですらその存在は知られていない。
一応は国家公安委員会の管轄とはされているものの、その活動内容の全容を把握できている委員は少ない。その他、与野党から集められた国会議員による有志委員会によって監視されているとされているが、そんなもの建前上に過ぎない。
実質のところ、内閣総理大臣、そして公安委員会の一部、そして室長である成田司警視長の意向によって動いているとされている。一部では防衛省もその運営に関わっているとされ、嘘か真か宮内省すらもその関与が囁かれている。
事情を知る者の中では〝チヨダ〟の作業班、尖兵とも認識されてはいるが、それは誤りである。チヨダと共同で任務にあたることはあるが、チヨダの指揮下に入ったことなど一切なく、むしろ零課がチヨダに対し情報提供を要求する立場となっている。
組織内は大きく内事と外事、庶務や技術班などが存在するが、零課が零課として存在する要素は実働部隊である特殊要員にある。事実上の暗殺部隊と称したほうが正しい。
視察に訪れた在日CIAや米陸軍グリーンベレー部隊の教官をして「ジーザス」とさえ言わしめる訓練過程を切り抜けた要員たちは、皆一様にこの世に考えうるだけの外道に至る所業をその身に体得させている。その技術を以って、今日も国益を損なう〝ディファイラー〟の超法的実力行使による排除を行っている。国外の敵対的存在だけではない。自国民に対しても例外ではない。
それは即ち「お前はこの国に必要ない」と宣言し処分を下しているも同義であった。
現代法治平和国家日本における治安維持部隊。
そしてかつて村木と恭矢がその身を浸していた、この国の暗部。罪を背負い罰を下す者。
それが公安零課である。
体の治癒に専念する肉体が意識を混濁させ、その一方で覚醒を促す。治療から目覚める時は毎度のことながら最悪の気分である。上半身を起こすだけでもうめき声を抑えずにはいられなかった。
「目が覚めたか。具合はどうだ」
「……最悪だ」
恭矢の起床に気づいたのか、村木がペットボトルのミネラルウォーターを寄越してきた。冷えていない常温のものだ。キャップは既に開封されており、力の入らない体でもすんなり開けられた。思えば村木に救出される前からまともに水分を取ってなかったためか、一気に半分ほど喉を大きく鳴らして飲み下した。喉から潤いが染み渡る感覚に、混濁する意識が幾分かの明瞭さを取り戻す。
安物のくすんだ遮光カーテンから日光が漏れている。時計を見れば短針が七と八の間を指していた。
「俺はどれくらい寝てた?」
「二日近くってところだな」
村木から告げられた事実に恭矢は深く息をついた。
「しかし、綺麗に弾が貫通していてよかったよ。ちょうどこの前見た映画だとな、弾が貫通してなくて麻酔無しでピンセットで銃創ほじくってるシーンがあってよ」
「村木、俺の銃は回収したか?」
言葉の途中で被せて、まるで確かめるような口調に村木も顔をしかめる。人の話聞けよ。
「せっかく助けてやったのに、いきなりそれはそりゃあんまりじゃねえか?」
「村木!」
恭矢が声を荒げる。だがそれが傷に響いたのか、包帯で固められた右脇腹を抑え顔をしかめた。
「心配すんな。ちゃんとあるよ」
「村木、お前もまだ銃は持っているな?そいつもよこせ」
弱々しくも言葉に力を込められた、有無を言わせない恭矢の口調。全く図々しい。
「時間がない。このままでは我来の守りが固くなる。直接手を下せなくなるかもしれん」
畳み掛ける恭矢にさしもの村木はやれやれと嘆息した。
「急いては事を仕損じる、だ。無駄口叩いてないで、今は身体を回復させることに集中しろ。熱が四〇度近くある。そんなんで銃ぶっ放せるのかよ」
そして「いいから寝ろ。腹減ったらまた起きろ」と恭矢の肩をベッドに押し付けた。言うとおりに恭矢は再び意識を無の中へと落としていった。
「恭ちゃん」
それが美奈子が自分を呼ぶ時の呼称だった。恥ずかしいからやめてくれと言っても、「わたしのほうが半年お姉さんなんだから」とわけのわからない理由で譲らなかった。
髪が長く眼鏡をかけた小柄の女性。運動が苦手で本当は翻訳家になりたかったが、その夢は叶わず結局英語教員に落ち着いたいわゆる〝でもしか教師〟。どこか目が離せないというのか抜けているところがあり、ふわふわとした雰囲気を持っていながら、その一方で抜け目がなく感が鋭い。美奈子はそんな人間だった。
美奈子との出会いは別段特別なものではなく、久しぶりの大学の同期との食事かと思ったら頭数が足りなかったコンパに駆り出されたというだけの話だ。どうやら美奈子も同じように数合わせのために駆り出されたようで、結局のところ、互いに気乗りのしなかった二人が結ばれるとうのは今思い出せばなんだか笑える話だった。
程なくして結婚するに至った。互いの両親も「警察官なら」「教師なら」と信頼を得るにはそう時間はかからず、すぐに新生活を営むことができた。
ただ唯一の懸念が、当時の上司であり相棒でもあった成田の存在だった。
「君さ、結婚してこの稼業やっていけると思ってんの。ねぇ、恭ちゃん」
成田が恭矢に対し刺のある口調と言葉で迫るのは珍しいことだった。美奈子との交際が発覚してい以来、妙に突っかかってくることが多かったが、今にして思えば今までの相棒が別に伴侶を得たことに嫉妬していたのだろう。頭はキレるが変なところで子供っぽいところがある男だなと恭矢は思った。
「司、お前もその呼び方やめろ。殺すぞ」
そう返せば、成田は頬を膨らませた。
結婚生活は順風満帆と言えた。以前までは赤の他人だった男女が一つ屋根の下で暮らす以上、なんらかの衝突も何度かあったもののそれを乗り越え、名実ともに二人は互いを支えあうようになった。
一番の変化は恭矢の零課の暗殺稼業に対するモチベーションだった。
特殊要員の暗殺稼業の平均勤務年数はおよそ一年半。返り討ちに遭うか零課の外道の所業に心を病んで使い物にならなくなるまでの平均年数だ。そして恭矢が結婚したのは、零課に入ってから二年が経過してのことだった。
フィジカルは良好。メンタルにおいても問題は無かったが、その問題が表面化しずらいのがメンタルだ。成田はこの点を懸念していたのだろう。だがその憂慮は取り越し苦労であった。結果として結婚は良い影響をもたらしたと言える。
ゴミ処理、ドブさらいとしか思えなかった暗殺稼業も、美奈子、そしていずれは生まれてくるであろう新しい命と共に生きる世界の掃除だと思えば精が出た。
殺して、殺して、無心に殺戮を繰り返していった。成田の命令通りに刃を振りかざし、銃爪を弾き続けた。それがより良い明日を作ると信じて。
だがそうはいかなかった。恭矢と美奈子を脅かす者は零課で相手をするような国家単位のスケールの大きい存在ではなく、もっと身近な連中だった。
ある日、恭矢が帰宅すると長いはずの美奈子の髪が乱雑に短く切り落とされていた。
その姿を見て胸がざわついた。任務中ですら感じたことのない、言い様がない不安。単なるイメージチェンジではないことは、すすり泣いている美奈子からすぐに判断できた。
何があったのか尋ねようにも、こちらの姿を認めると抱きついてきた美奈子に問いただすわけにはいかなかった。ひとまずは自分の腕の中で気の済むまで泣かせるしかなかった。
美奈子は一晩中泣きはらし、翌朝もいつもは一緒に家を出るはずの美奈子を置いて出勤した。恭矢が帰宅すると美奈子は外出した様子もなく、そこでようやく何があったのかを聞き出すことができた。
TOFEL試験の不正があり、その責任を理事長と校長が美奈子をはじめとした若手の教員数人に転嫁させたという。誓って美奈子はそんなことをやっていないと主張しており、実行犯は校長である堀田であるということだ。
不正は堀田の独断。だが校長がその不正を行ったとなれば問題は大きくなると判断した我来は、自身に及ぶ影響も嫌い、その責任を若手の教師に被せることにした。
さらに不正の犯人に仕立てあげただけではなく、それを全校生徒の前で晒しあげたという。しかも罰則と称しその場で美奈子の長い髪を切り落としたとのことだ。
ふざけるな。それが一人の責任ある大人の、ましてや倫理ある教育者のやることか。恭矢は怒りに拳を握る。手のひらに爪が食い込む。
美奈子の言質は疑うべくもない。夫という贔屓目もあるが、美奈子は嘘泣きなどをできる器用な女ではないし、そもそもそんな不正をするような女ではないと胸を張って言える。
だからといってどうするわけにもならない。個人で取材でも行えばより確かな言質は取れるだろうが連中に握りされるのがオチだ。本音を言えばグロック片手に乗り込んでやりたいところだが。
「ちゃんと髪を整えよう。それと何か美味いものでも食べに行こう」
随分乱雑に切り落としてくれたものだ。美奈子の肩まで短くなった髪をそっと撫でながら、恭矢が思う。女の髪は命と同義とも言えるし、それに乱暴を働くということは最早陵辱と変わらない。
今はただ美奈子の傷を癒やしてあげよう。ただ、それだけだ。
次の休日、恭矢は美奈子を美容室へ連れだし、予約していたレストランへと案内した。長い髪は元通りというわけにはいかないが、プロの手で整えられたショートカットの美奈子も魅力的だと思えた。それ以上に「恭ちゃん、似合う?」とはしゃぐ彼女の姿を見て恭矢は心底安堵した。食事の時も「おいし~」と終始ご満悦の様子であった。
彼女の年上とは思えない、あどけない笑顔に恭矢はいつも救われていた。
食事を終えて、普段は電車での帰路を、ひと駅分あえて二人はのんびりと歩くことにした。冬の気配を孕んだ夜風は、ほんの少しアルコールの回った身には心地よかった。
機嫌良さそうに美奈子は調子はずれの鼻歌を歌いながら、恭矢より数メートル先を歩く。
そんな美奈子に笑みを浮かべていた恭矢も、彼女の背中をじっと見据えている内にいつもの仏頂面へと戻る。そして意を決したように、恭矢は口を開き、気持ち声を張り上げた。
「美奈子!」先を歩く美奈子に対し恭矢が声を張り上げ呼び止める。
「あんな学校やめちまえ。お前がそこまでされる筋合いなんてない」
恭矢の声に美奈子は振り返った。その表情に先ほどまでの笑みはない。
やっぱりか、と恭矢は内心で嘆息した。無理していたな。俺を安心させるためか。そんなことをしなくてもいいのに。
足を止めた美奈子に向かって恭矢は早歩きで歩み寄る。彼女の目にはうっすらと涙の膜が張っているように見えた。
「だめだよ、恭ちゃん。ちゃんと責任取らなきゃ。生徒のことも放っておくわけにはいかないし」
その言葉に恭矢は唖然とした。この期に及んでそんな言葉を言えるような人間が不正などするはずがないと確信した。それだけに憤らずにはいられなかった。どこのどいつだ。俺の美奈子をこんな目に遭わせた塵どもは。名は知っている。校長の堀田と理事長の我来だな。殺してやる。生まれてきたことを後悔させてやる。
だが今そんなことを考えたところで、詮無きことだ。
「お前に理不尽におっかぶせられた責任なんざ取らなくてもいい。奴らが全部悪いんだろ。生徒のことなんか放っておけ。事実はどうあれ問題の起こした教師を生徒がまともな目で見るはずがない。学校に戻ってもまた辛い目に遭うだけだ」
「そんな、こと……」
反論したいがその言葉が見つからない。反論するつもりであっても、大方恭矢の言葉は理解し納得のできるものだ。一部の生徒は事実を知っているがそんなものは握りつぶされるのがオチだ。今回の件は保護者に通達されており、学校に戻った所で教壇は既に針のむしろとなっている。手前勝手な都合しか考えていない阿呆どもが牛耳っている場所に戻る道理や義理など寸分もないはずだ。
「あるよね……」
納得したかのように美奈子は力を抜いて、その身を恭矢に預けた。
「恭ちゃんの給料だけでやっていけるかなあ」
「安心しろ、俺は公安のエリートだ」
その言葉に美奈子はぷっと吹き出し笑顔を見せた。
「そうだね。そしたら、専業主婦になるのも悪くないかなあ」
「ああ。俺が帰ってきた時、家にいてくれた方がいい」
美奈子の腕を掴み、そっと自分の胸元へと抱き寄せる。長身の恭矢の腕の中に美奈子はすっぽりと収まった。
「だから、ずっと俺の傍にいてくれ。生徒や学校のことなんかもうどうでもいいだろ。俺のためだけに生きてくれ。俺だけは絶対にお前を傷つけないし裏切らない」
絞りだすように声を出して懇願する。恭矢は今までに美奈子に対し具体的な要望を口にしたことはなかった。いつだって恭矢は美奈子の要望を叶える側だったから。
それが今、恭矢の方から初めてお願いをした。自分よりも遥かに大きい体が強張っている。恭矢のその消え入りそうな声に、美奈子はゆっくりと頷いた。
「うん……。わかった」
少し嗚咽の混じった涙声で美奈子が答えた。そしてそれを誤魔化すように「恭ちゃんはあまえんぼさんだな~」とおどけてみせる。
「やかましい」と恭矢は美奈子を抱く力を強めた。
もし美奈子を再び傷つけるような連中が現れれば、今度こそ容赦はしない。美奈子をこんな目に遭わせた清勝館学園のクズどもは全員縊り殺してやりたいところだが、それは勘弁してやる。貴様ら如きに費やす人生など寸分も無い。当時はそう思っていた。
今はただ、傷ついた美奈子をこれ以上陰惨な目に遭わせたくない。美奈子を守る。それだけだ。成田に相談して仕事をもう少しセーブしよう。自分が間違っていた。零課の仕事に力を注ぐことが美奈子を幸せにすることには繋がらない。
彼女を支え、寄り添って生きていこう。
そう決心した矢先のことだった。
それから彼女が自らを殺めたのはその数カ月後の二〇一一年二月のことだった。
今にして思えば、彼女の心はその時、既に死んでいたのだろう。彼女の心は、人としての尊厳を踏みにじられ嬲り尽くされていたのだろう。
それでもあの時見せてくれた彼女の笑顔は死んでいなかった。死んでいないように確かにそう見えた。どうにかできたはずだ。彼女に自らを殺めるような真似をさせずにすんだはずだ。どうして。
彼女は何かしらのSOSを自分に発していたはずだ。どうしてそれを自分は気付けずにいたんだ。どうして。
どうして……。
愛した人を自殺で亡くしたとなれば責めるのは自分しかいない。例えきっかけは清勝館学園の塵どもだとしても、そこから救い出すことのできなかったとなれば自分が悪い。もう過ぎ去ったどうにもできないことに恭矢は囚われ続けた。
少しでも彼女の尊厳と死に報いようと行動を起こしたものの、結局は無意味に終わるどころか、さらにコケにされているようにしか思えない仕打ちを受けた。
それからアルコールと抗鬱剤に頼りきりになるのは、ある意味必然とも言えた。
出汁の香りが鼻孔をくすぐり恭矢は目を覚ました。胃袋が音をたてて臨戦態勢を整える。
ベッドが這い出して居間に向かうと、村木は石油ストーブの上に置いてあるおでんの鍋の面倒を見ていた。
「おう、目が覚めたか。気分はどうだ」
起床した恭矢に気付いた村木が尋ねる。おでんはもう出来上がっているらしく、鍋の中身を深い皿へと移していく。
「さっきよりは随分楽になった」
「上等だ」
言いながら、村木は大根をかじる。味は染みきっており、大根は琥珀色に染まっていた。換気扇を回していないのか、充満している昆布出汁の香りが恭矢の仏頂面を解きほぐす。
つい先日まで撃たれてくたばりかけていた体が、今では食い気に釣られて覚醒している。食欲があることは結構だが、自身の図太さに自分で軽く呆れてくる。
「おっとこれも忘れちゃいけねえ」
村木は冷蔵庫へ向かうと一本の缶を取り出し飲み口を開けた。
「秘密諜報機関にいた人間が発泡酒とは泣けてくるな」
ぷしゅっ、と小気味良い音がさらに胃袋に加えて喉を刺激する。
「どうだ?お前も一杯やるか?」
土台、腹に風穴開けてる人間がアルコールを摂取して良い道理などない。恭矢も不機嫌そうにそっぽを向いて鼻を鳴らす。だが仕返しとばかりに「コーラが飲みたい。今すぐに」とのたまう恭矢に、「そんな口聞けるなら上出来だ」と苦笑とともにマンション下の自動販売機まで走らされることになった。
それから二人は飲み食いしながら、少し互いの近況を話した。恭矢はヤクザの用心棒になったこと。そこで我来と再び邂逅したこと。そしてそれが今日にまで至る自分の行動の始まりであること。一方の村木は零課を辞めてから離婚したこと。それからはタクシーで糊口をしのいでいること。今ではあまりやり甲斐や生きがいといったものが無いということ。そんな時に恭矢が退官者同士で何かあった際のために用意した連絡網を利用したことで、久しぶりにはりきっているということを。
「はしゃいでるのか」恭矢が尋ねる。
「気を悪くしたか?」
「いや」恭矢はコーラを一口含む。喉を炭酸が刺激していくのが心地よい。
「俺たち、零課にいた頃はそんな風に仕事に対して張り切ることができたのかなって」
視線を伏せる恭矢。村木は黙ったまま缶ビールを呷り、二本目に手を出した。
琥珀色に輝く大根を箸で割り口に運んでいく。
関東風のおでんを食べるのは何年ぶりだろうか。美奈子は関西出身だから、白く濁った味噌のおでんだったな。恭矢はそう取り留めのないことを思い出した。
食事が済んで一息ついているところに、村木はごとりと音をたてて、こたつの上に何かが置かれた。
「お前、グロックだったか?」
「そうだ。17の3rd」
「すまんな、お前とは趣味が違ってて難儀するとは思うが」
村木の軽い謝罪とともに、村木の手の平から一丁の長方体の物体が現れた。二つに折りたたまれた形となっているそれを手に取り、変形させると銃の形となった。なるほど、隠し持つこと(コンシールド)に特化させた代物か。
ウクライナ製ドワーフ。銃身とグリップを折りたたむことができる自動拳銃だ。
正直な感想を言えば、キワモノである。
「本当にお前はけったいな趣味してるよな、昔から」
ドワーフをかちゃかちゃ開閉させながら恭矢が呆れたように言う。
そういえばこの男は、零課からの支給品であるグロックはあまり好んでおらず、私費で購入したものを装備していたことを思い出した。このドワーフをはじめとし、実用性があるのだかよくわからない銃を見せびらかされていたな。村木は渋い顔をしている恭矢に微笑みかけ、すぐに表情を固いものに戻した。
「一応、言っておく。こんなことしても、天国のお前の嫁さんは喜ばないぞ」
映画やドラマでよく聞く安っぽい常套句。無論、そんな借り物の言葉は決して恭矢に聞き届くことはないし、村木自身も自分で言っておいて反吐が出そうな気分になった。
「死んだ人間が、どう喜ぶっていうんだ。もういないんだぞ」
ドワーフをこたつの上に置きながら、恭矢が吐き捨てる。
「……だよな」
「復讐をしたいだけだ。俺が気に食わないだけだ。美奈子を死に追いやった連中が何事もなかったかのように平気な顔をして、ヘラヘラ笑っているのが。そんな連中に与した人間も。奴らは美奈子を死すらも侮辱した」
村木はそれに対する言葉を持ちあわせてはいなかった。所詮、他人が図れる生ぬるい感情ではない。恭矢の中に蠢く自身をも焼く復讐の熱はこの男にしか理解できないものだからだ。
「俺にはもう、これしかやることがないんだ。美奈子を傷付けた清勝館の堀田と我来。そしてそいつらに与した人間たち。人一人を死ぬまで追い詰めながら、のうのうと生きさばらえている。俺にはそれが殺したいほど憎い。そんな連中の存在を許しているこの世界すらも。ただそれだけだ」
恭矢の言葉に村木がただ黙りこむことしか出来なかった。何も言葉が出てこない村木を別段責めるような態度も見せず、そのまま視線をテレビに移した。BGM代わりにしかなってなかったテレビはワイドショーを垂れ流しにしており、内容など全く耳に入っていなかった。画面では関西の有名キャスターが不倫騒動を起こした俳優をこき下ろしている。確かこのキャスターも一昔前に隠し子騒動だか何かで槍玉に上げられていたはずではと呑気なことを思った後に、恭矢は一つの疑問に至った。
「村木、新聞は取ってるか?」
恭矢の鋭い声に、村木もその意識を鋭敏とさせる。
「あぁ、文久新聞なら。ちょうど一週間分たまってるぞ。どうした」
「俺のことは報道されたか?テレビはどうだ?」
村木の表情が切り替わる。すぐさま財布を手に取ると「コンビニ行ってくる。他の新聞も買ってくる」と部屋から出て行った。
恭矢もリモコンでザッピングをしながら村木から借りたスマートフォンでニュースサイトを片っ端からチェックしていく。しばらくした後に新聞だけでなく週刊誌を入れたビニール袋を下げた村木が息荒げながら帰ってきた。
二人はそれらを片っ端から流し見していく。新聞と週刊誌各社、そしてテレビやウェブ上のニュースサイトからは一切の六実、岡安、そして堀田の娘に関する記事は消えていた。それどころか堀田や秋葉原での銃撃のことすらも報道された形跡は全く見当たらなかった。匿名掲示板も例外ではない。わずか見受けられたのはSNSで「秋葉原で銃声がした」「ベルサールが閉鎖されてるんだけど何かあったの?」といった具合のものだ。
都心のど真ん中で人が殺され、銃撃戦が行われた。それにも関わらず何ら報道がされていないのは逆に不自然極まりない。十中八九、報道規制が敷かれている。それもただの報道規制などではない新聞、出版、テレビ各社のみならずインターネットプロバイダーへ規制を強いるのは並大抵の執行力を持つ機関でなければならない。既に起きたことを完全に無かったことにできるような連中など、彼らには一つしか思い当たらなかった。
「零課だ」
ヤクザ以上に極道めいた手段を取ったことが容易に想像できる。なぜならば以前は二人共もそのような規制を力づくで執行する側にいたからだ。そして、今回それを指示した者がどんな人間かも。
「成田室長が動いているな」
かつての東日本大震災の際、福島第一原発の機密保持任務を自分たち二人に命じた男。顔色一つ変えないどころか、にやついた顔で「ジャーナリストを殺せ」と命じ知る権利と表現の自由を否定した、自分たちのかつての上司。
警察庁警備局警備企画課情報整理室室長、成田司。零課の長。
「敵は手強いな」と村木。
「いや」恭矢は言葉を差し挟む。
「奴の考えていることなどわかる。その上をゆけばいいだけの話だ」
「皆殺しか」
村木の言葉に恭矢は無言を返答とする。だが伸ばしっぱなしの前髪から覗く、その口の両端が釣り上がっているのが見て取れた。
「現職の国会議員、それも与党の代議士に手を下そうとしてるんだ。国家転覆とまではいかないが、結構大変なことになるんじゃないか。地下鉄サリン事件以来の二〇〇〇年代初のテロみたいなもんだ」
どれぐらい大変かは想像は出来ないし、したくもなかった。する資格も最早緩慢に死を待つだけの今の自分達には無い。
「それなら、むしろ好都合だ。美奈子を傷付けた世界なんか、糞食らえだ」
恭矢の言葉に村木は頬を緩める。
「そうか」
翌日、村木が宅配便の営業所へ荷物を取り向かい、ダンボールや紙袋を抱えて自宅へと戻っていると台所がなにやら騒々しいことになった。
台所では恭矢が立っており、何やら作業をしていた。はて、飯でも作っているのかと思ったが足元に灯油のポリタンクを見つけ、違うと判断した。
「一体何やってんだ」
村木は傍によって覗き込みながら尋ねる。
「爆弾作ってる」
そんな「ラーメン作ってる」というような体で言うな、という言葉を村木は喉元で飲み込む。それ以前に、人様の家でそんな物騒なものを作るな。
足元のポリタンクの他に恭矢の手元とテーブルには、先日まで村木が飲み散らかしていたビールの空き缶、自分でスーパーへ買いだしたと思われる大量の生卵と塩、折るカッターナイフの刃やらボルトの類、トイレットペーパーの芯が混在していた。
「てめえ、マジでえげつないこと考えてるな」
「普通だ」
灯油、卵白、塩化ナトリウム食塩、所謂食塩を一定の割合で混ぜあわせれば立派な焼夷薬が出来上がる。それを空き缶をトイレットペーパーの芯で区切った内側に注ぎ、外側にカッターナイフの刃やらボルトやらの金属片を敷き詰めれば簡易な手榴弾の完成である。。起爆装置も小学生程度の電子工作で作ることが可能だ。
複数個同時に炸裂させれば殺傷範囲は広まる。上手く配置すればビル一階分血の海、あるいは火の海にすることはたやすい。
「で、お前は何しに出かけてたんだ」
「お前への餞別を受け取りにだよ」
作業が一段落ついたところで恭矢は居間で休憩していた。「餞別?」と首を傾げる恭矢をよそに、人様の家の台所で物騒なものをしこたまこさえておいて、ふてぶてしいにもほどがあると嘆息しながらも、村木は持ち帰ったダンボールや紙袋を開封し、その中身をテーブルに並べ立てた。紙箱と共にグロックの空マガジン、そしていくつかの細い筒と太い筒がテーブルの上に転がされる。紙箱の中身は弾薬だった。
細い筒と太い筒はフラッシュバンとスモークグレネードである。さらに細い筒はもう一種類あり、手に取れば正規のサプレッサーであることがわかった。
さしもの恭矢もこれには驚きを隠せずにいた。
「村木、何だってこんなの」
「お前だって色々拝借してきたんだろ?零課から」
確かに銃やら偽造の警察手帳やらナイフやら無断で持ち出してきたが、お前ほど物騒じゃないと恭矢は声に出さず胸の中だけで突っ込む。
「持ってけ、餞別だ。それとこれもだ」
「まだあるのか」
続いて取り出すはナイフ類だった。ナックルガードのついたトレンチナイフ、苦無にも似たスローイングダガー。これには思わず恭矢も笑みが溢れる。ナイフに関しては恭矢は少々うるさい所がある。
「おう、〝みんな〟からお前への支援物資だ」
みんな、その言葉で恭矢は村木に対し一瞬でも呆れの感情を持ったことを恥じた。
流れ流れて最後に辿り着いた公安警察の最暗部である零課ですらも溶けこむことの適わなかった、自分や村木も含めた無頼者たち。かつての同僚。
愛した女を陵辱されたことで恭矢によって切って落とされたこの火蓋は、この国の汚濁の中に貝のように身を潜め、何者とも交わらず淡々と日々を送ってきたかつての零課の同僚たちを共鳴させた。日本という国の暗部に身を潜め、理不尽の中を泳ぎ、いくつもの死体を築き踏み越えて、この国の罪をかぶり続けて身も心も理不尽にすり減らされた後の彼らに与えられた報酬は、あまりに釣り合わない雀の涙ほどの金銭と無期限の監視と出国停止義務のみ。
この国が一度足りとも果たされた義務に対し誠実な態度を取ったことなどあっただろうか。いや、ない。それが彼らに帰結した結論であり、感情は諦観か憎悪へと行き着く。ならば、いつか何かしらの形で零課に、そしてこの国に意趣返しをしてやりたい。危険極まりない考えと行為であっても、このようなことでしか彼らは自分というものを表現できなかった。
託されたのか、俺は。恭矢はそう考えた。
企業も国も、成し遂げた成果に対し相応の権利と報酬、立場で報いたことなどありはしない。ブラック企業など今に始まったことではなく、この国そのものが真っ黒だったとしか、恭矢にはそうとしか思えなかった。七十年前の戦争のあり方がそれを証明している。勝てるはずもない相手に勝負をしかけるまでに至ったのは、煽るマスコミと煽られ思考停止に陥った民衆がその一因だ。異を唱える者を非国民の一言で断じる全体主義を一人の権力に溺れた弁えのない人間に手綱を握られれば、行き着く果ては想像に難くない。
その様は、まるで糞にたかる五月蝿だ。
美奈子を傷つけた人間を公人とするのであれば、この国は俺の敵だ。我来という男を施政者とするのであれば、擁立した人間全てが俺の敵だ。我来を擁立した政党が与党であるなら、この国の全てが俺の敵だ。我来を悪だと知っていながら、糾弾せずそれを放置しているのであれば、その人間全ても俺の敵だ。敵は全て廃滅させる。
「しかし、俺はともかく他のみんなの監視の目はどうした?こんなことしでかしてタダで済むはずないだろ」と恭矢が尋ねる。
「案ずるな。伊達で零課で特殊要員やってきた連中じゃない。零課といえど内勤の新参に俺たち最前線にいた古株がそう遅れをとるものか」
不敵な笑みを村木は返答とする。しかし「まあ別にバレても構いはしないようだがな。俺もあいつらも」
俺たちは恭矢のように再び燃え上がることすらできない。余生などになんら未練も価値も見いだせない。緩慢に死を待つだけだ。ならばぜめて、再動したかつての仲間、伝説とも謳われた葛木のために人肌脱いでやろうというのが彼らの魂胆であるという。村木のその言葉に恭矢は「感謝する。可能であればあいつらにも伝えてくれ。ありがとう、と」と言葉にした。かすかに震えた声で。
装備を整え、ある程度区切りがついた所で恭矢は窓を見ると空は既に夕と夜の狭間にあった。ベランダにはいつの間にか村木が紫煙をくゆらせていた。恭矢もベランダへと出て、「一本よこせ」とせっつく。
「タバコ、また吸うようになったのか」
アメリカンスピリットを一本受け取り、黙ったまま頷く恭矢。
「これしか、やることがないからだ」
受け取ったタバコに火を着け、恭矢が紫煙を吐き出す。数年振りに肺を煙で満たす。
「お前が俺を助けたみたいに、俺はこれしかやることが思いつかないから」
恭矢の言葉は煙とともに消えていった。その煙の行方を村木も目で追った。
警視庁内、大会議室。この日は捜査一課と捜査四課との捜査本部結成ということで、普段は顔を合わせない刑事たちが一同にこの場にひしめいていた。さらにその前列には一課課長と四課課長、そして刑事部部長を務める参事官が顔を並べている。
最前列には今日の主役とも言えるメンバーが揃っていた。的場組金庫番前原と懇意であるマル暴刑事津田、清勝館学園殺人事件担当である高根と木戸、そして岡安稜、六実浩康、我来聖子のそれぞれを担当している刑事たちだ。
そうそうたるメンバーとも言っても過言ではない人間たちが一部屋に雁首を揃えている。
堀田佳代、岡安大毅、六実浩康、我来聖子を殺害した容疑者が葛木恭矢であると固まっての、合同捜査本部立ち上げの会議。その概要の説明となる。
そしてこの後、葛木恭矢は全国に指名手配となる手筈だ。
その筈だった。
だが、その男が突然現れた。
会議が始まって十数分が経った頃、最初はしどろもどろだった木戸の説明もようやく熟れてきた時に会議室の扉が勢い良く開け放たれた。
「呼ばれてないのにじゃじゃじゃじゃーん!!」
素っ頓狂な声を張り上げながら、一人の男が会議室に乱入してきた。その男の顔に高根は見覚えがあった。警視庁内の食堂で会合した総髪の男。名は成田と言ったか。その後ろには部下と思しき二人のスーツ姿の男がついて回っている。
会議室中がどよめきに沸く。刑事たちの大勢の視線が成田に注視されるが、そんなことを毛ほどにも気にせず成田はつかつかと会議室の前方の角に陣取っていた刑事部の幹部たちの方へと向かっていく。刑事部長、一課四課課長をはじめとした上役たちの表情は成田を目にした途端に引きつりだしていた。どういうことだ。何が起こっている。いきなり乱入してきたこの男たちは一体何者なのだ。津田をはじめとした刑事たちがざわつく。高根が毅然とした態度で成田の前に立ちふさがった。
「成田警視正でしたね。一体何しに来たのですか」
強い語気で質す。
「ん?僕はね、現時刻をもってこの捜査本部を解散させるために来たのさ」
何を言っているのか高根たちは理解ができなかった。
その時、言葉を差し挟んだのは刑事部長だった。
「成田警視正の言う通りだ。各員、即刻に解散しそれぞれ待機しろ。とにかく今はこの会議室から出て行くんだ。いいな」
有無を言わさぬ語気だったが、焦りといったものも含まれている刑事部長の声におよそ半数の刑事が渋々といった形で周りを見渡しながら立ち上がる。
驚きとともに高根が刑事部長を抗議を含んだ視線とともに見返す。刑事部長もその目の意味を察したのか、黙って首を横に振るしか他はなかった。
刑事部長の緊張感を孕んだ命令にその場の刑事たちは納得のいかない面持ちのまま、ぞろぞろと会議室を後にしていく。その場に留まろうとする刑事も少なからずいたが、刑事部長の「いいから出て行け」という怒気をも含む強い声に渋々従っていった。
「ありゃ、みんな帰っちゃうんだ?根性ないなあ」
次々と会議室を後にしていく刑事たちを、ニヤニヤしながら見送っていく成田。何を言っているんだこの男は。退出させる原因なのはお前だろうが。高根はその言葉を飲み下す。
「一人くらい、僕に突っかかってくるような肝の座った奴はいないのか。なーんだ、つまんないの」
そんな成田を木戸が抗議の視線を突きつけていく。
「ならば、お望み通り抗議させてもらいます。一体何事なんですか、これは。いきなり現れて、それで捜査本部を解散だなんて、わけがわかりませんよ!」
「申し訳ないけど、君たちには今後数年間の出国制限と監視をつけさせてもらうよ」
「そんな!」
木戸が抗議の声を上げる。言っている意味がわからないし、問いの答えにもなっていない。さらに木戸が詰め寄る。
「君さぁ」成田が不快そうな声を漏らす。おそらく一七〇センチに届くか届かないかの成田が一八〇ある長身の木戸に逆に詰め寄り、木戸が思わず顎を上げる形となる。
「質問すりゃ、全部答えてもらえるなんて思ってんの?東大出てるのに馬鹿じゃねーの」
たじろぐ木戸。それを見て成田はやれやれと言わんばかりに大げさにため息をついて、肩をすくめてみせた。
「この程度でびびってんじゃないよ。まあ僕ってば優しいから断片的にだけど教えてあげる。簡単に言えば、君らは超えてはいけない領域にまで踏み込んだ、って言えばいいのかな。あぁ、もうちょっと説明してあげてもいいけど、これ以上は片道切符だ」
「片道切符?」高根が問う。
「これ以上、僕の言葉を聞けば君たちはもう元の場所へは戻ってこれない。刑事部長が僕のことを見て顔色変えてみんなに出て行けっていったのはそれが理由さ。ここから先は足を踏み入れたが最後。二度と出ることはかなわない底なしの沼さ。冷たくて、暗くて、息苦しくて、足を置いて腰を落ち着かせることもできない、ね」
そう言って、成田は目の前に並んでいる顔を見渡す。戸惑いと逡巡、そして多少なりのこちらへの怒りが見てとれる。なるほど。この高根と木戸、そして津田の三人、それなりに気骨とやらはありそうだ。成田の頬が緩む。
「おーけーおーけー、ならば特別出血大サービスだ。どうせ君らは既に監視処分を受けることになってるんだ。教えてあげるよ。僕たちが何者かを」
成田は続ける。芝居がかったように両手を大きく広げる。
そして、声に出して発してみせた。自らが属し率いる組織の名を。
現代法治平和国家日本国の暗部。治安維持部隊。罪を被り罰を下し続ける者たちの名を。
「警察庁警備局警備企画課情報整理室。コードネームは公安零課だ」
ゼロ。その言葉の響きと意味から何が感じ取れたのだろうか。
剣呑さか。あるいは底知れぬ、ほの暗い深淵か。
刑事部長と両課長が観念したかのように、頭を抱えたり、首を静かに横に振っている。
後悔か。それとも自身の愚かさか。高根と木戸はようやく事態の重さと大きさを抽象的ながらも察することができ、そしてその結果固まることしかできずにいた。
そしてほんの一歩、わずかにだが確かに木戸は一歩後ずさった。
そんな部署無かったはずだ。木戸は叩き込んである警察庁の組織図を頭の中に描く。公安警察の中に情報整理室などという部署など無い。
非公開組織。チヨダ。非合法活動。そうのような物騒な単語が木戸の脳内を駆け巡る。決して安易に踏み込んではならない領域に自分たちは踏み込んでいたことを理解できた。
なぜそのような部署と葛木恭矢が関係があるのか。心当たりはあった。ノイズまみれの恭矢の公安部入りの経歴。殺人技術。それらが零課とやらに繋がっているのだとしたら、それは確かに自分たち一般の刑事には対応しきれないものだ。
そして目の前に立つ総髪の男。全てが底知れない。理解のできないものは恐怖を煽る。
「どういう部署かは君たちの想像に委ねるよ。多分、君たちの想像通りだと思うから」
高根と木戸の二人にはもはや何も言葉を持ちあわせてはいなかった。
「だったら、その零課とやらに入れば、恭矢についての捜査は継続できるんだな?」
それまで事態を静観していた津田がここで初めて口を開いた。
「まぁそういうことになるね。それにうちらは慢性的に人材不足だから新たに人員が入ってくるのは全然構わないけどさ、あんたは本当にいいのかい?さっきも言ったように僕たち零課はスナック感覚だったりましてや異動みたいな感覚で出たり入ったりするようなとこじゃない。この国の毒を飲んで罪を被るところだ。それこそ穢多非人のような扱いだ。それでもいいのかい」
「構わないさ」
「言うねえ」
大仰そうに津田が立ち上がり、高根と木戸の二人を押しのけ成田の前へと立ちふさがる。
「手続きに時間はかかるか?」
「僕にかかれば異動の難しい手続きなんていらないよ。引き継ぎ作業も僕にまかせてよ」
高根と木戸は驚きと怯懦に満ちた視線を津田に投げかける。対する津田は諦めとも取れる笑みを返すが、その目はまだ死んではいない。
「そういうわけだ。短い間だったがあんたらと組めて、まあ、良かったよ」
「どうしてそこまでこだわるんです。想像くらいできるでしょう。まともじゃありませんよ、こいつら。一度足を踏み入れたら戻れないってわかるものでしょう」
「木戸の言うとおりだ。津田さんよ、悪いことは言わねえ。身を引け。どうしてそこまで葛木にこだわるんだ。さすがに俺たちでもこれ以上は無理だ」二人が諭すように言う。
「知りたいんだよ。俺が信頼している男が信頼しているはずの男がどうしてここまでするのか。知らない相手というわけじゃないんだ」
葛木恭矢の真意。我来賢一郎が何者かわかっていないはずがない。ブラック企業の総裁だけには収まらず、今ではこの国の行政に代議士として関わっている。いくら復讐相手だとは言え、そんな人間に危害を加えれば、そして殺害するとこまでいけばどうなるかわからない男じゃない。行き着くところは国家反逆。いくら平和ボケのこの国においても、そんな人間を放置するわけがない。
そして、放置させないのが、おそくらこの成田という男が率いる公安零課とやらだ。
なぜこんな物騒な非公開組織に追われているんだ、葛木恭矢は。
あの男は何を抱え込んでいるんだ。自分はただそれが知りたい。
どうせ残り十年そこらの刑事生活だ。ヤクザのご機嫌をうかがうのも、考えてみればうんざりと感じていた。
ならばここいらでひとつ、スリリングな橋を渡るのも悪くない。
「ほんっっっとーに、いいんだね?」と成田が念を入れる。
「くどい」津田が一言で断じた。
その津田に、成田はにんまりと頬を緩ませ、津田の肩に手を置いた。「ようこそ、零課へ」と続いて、二人の付き人とともに会議室を後にした。
高根と木戸は彼らの背中をただ見送ることしかできなかった。
「この部屋の後片付け、よろしくねー」
会議室を出ると、フロアは静まり返っていた。おそらくフロアだけでなく本庁全体が静寂に包まれているのだろう。成田をはじめとした零課という嵐が過ぎ去るのを、息を潜めてじっと耐え忍んでいる。それほどまでの連中なのか。
「津田さん、結婚は?」
「バツイチだ」
「上等」エレベーターの中でそんな短い会話を挟む。
警視庁正面玄関の前には既に黒塗りの車が待機していた。成田の二人の連れ添いの内の一人が先に準備していたようだ。成田の後ろに付いていた連れ添いの一人は助手席に乗り込み、津田は成田に後部座席へと押し込められた。
「それじゃ来栖くん、今夜はさっきの場所でね」
「了解」
運転席の来栖と呼ばれた男が車を発進させる。
「僕たちが属し、そして君がこれから属することになる組織、正式名称は〝警察庁警備局警備企画課情報整理室〟。我々は〝ゼロ〟または〝零課〟のコードネームで自称している」
「〝室〟なのに〝課〟か。しっちゃかめっちゃかだな」
「通常の組織系統とは全く外れているからね」
車が動き出すと早速成田による口頭による座学講義が始まった。
「ま、その名の通り様々な形の〝情報〟を様々な形で〝処理〟しているわけ。ま、こじつけなんだけどさ」
確かにそうだ。中学生が思いついて喜んでいるような言葉遊びだ。
「やることといえば、そうだねえ。一言で言えば戦前の〝特高〟みたいなものかな。太平洋戦争から連綿と連なる我が国の深淵の一端だ」
「特高、だと……?」
「ご存知てないの? 特高。正式名称は特別高等警察」
「ふざけるな。知ってるに決まっているだろ」
「ま、公安それ自体が特高の流れを汲んでいるとされているけど、僕ら零課はその真髄ってところさ。つまりは法律を一切無視した非合法な治安活動。日本警察のゴミ処理部隊。汚れ役ってとこさ」
ゴミ処理。その言葉が津田の中に沈み、澱む。
「それで、葛木恭矢がそのゴミ処理部隊に追われる理由は一体何なんだ。奴がしでかしていることは確かに大それたことだが、あんたたちが動くにはそれ以上の理由があるはずだ」
「良い質問だね。正直なことを言えば、我来を殺そうとしているのがそこらのボンクラだったらわざわざ僕たちが動くことはない。例え我来が与党幹部だったとしてもね。葛木恭矢だから動いたのさ」
「葛木は公安に目をつけられいたのか?あいつとは何回か会って話をしたこともあるが、派手に公安に目をつけられるようなことをするような奴じゃなかった。以前は同職だとも言っていたぞ。公安の刑事だって」
そこまで自分で口に出してから、はたと津田は察した。ノイズまみれの葛木恭矢の公安としての経歴は、まさか……
「そ、お察しの通り。葛木恭矢のぐちゃぐちゃの経歴は零課の存在をカムフラージュするため」
そして、そうする必要がある理由まで考えれば、零課が動いた理由にも辿り着く。
「葛木恭矢は零課の人間だった」
答えを確かめるように声にする津田。それにうんうんと大げさに頷いてみせる成田。
「恭矢は曲がりなりにも、この零課の一員でもあったんだ」
「なるほど。身内の恥は身内で禊ぐというわけか」
「痛いとこ突くなあ。まあそうでもあるんだけどさ……」
言って、成田は津田の目を見据えながら声色を低くする。
「中途半端に元零課の連中におまわりさんよこしたら、皆殺しにされるよ」
成田の言葉に津田は思わず顎を引いた。それを機に成田はさらに言葉を重ねていく。
「葛木恭矢、彼は特殊要員でね。わかる? 実行部隊。有り体に言えば暗殺者だよ。北の工作員、大陸の共産党、シンパ、極左、空気を読まない右翼、あーあと糞ったれのプロ市民その他諸々。彼が手をかけた連中は両手の指じゃ足りないくらいかな。マル暴だったら知ってるよね。二〇〇八年、歌舞伎町で韓国人留学生が殺されたっていう事件」
確かにあった。事後処理といったものがやけに早かったということも憶えている。場所が場所だけに四課の領分であることも考えられたが、早々に一課経由で関わるな、とのお達しが出た。その時は互いの縄張り争いだと思っていたが。そういえば、ことあるごとにやっかみをくれてくれるお隣の国にしてはやけにノーリアクションであったなという違和感も覚えていたが、真相はこういうことだったのか。
「あれ、殺ったの恭矢だし。正確には二人だけじゃなく、合計で三十人くらいだったかな。他の大勢は二人の護衛みたいなもので不法入国してきたクズだから、始末しちゃっても大した問題にならないわけ」
その言葉に津田は眉をひそめることしかできなかった。言葉が出ない。後頭部をバットで思い切り叩き抜かれたような衝撃。例えどれだけ熟れきって腐っていようともこの国は平和ボケ気味の法治国家だ。例えその中でもチヨダあたりは非合法な手に染めてきたとはわかっていても、さらにその深奥ではそれ以上の所業が為されていたのか。
言うなれば、暗殺。これは非合法ではない。非人道的だ。
「連中の正体は韓国人留学生を騙った北朝鮮工作員、朝鮮総連内の学習組って言われてる連中でね。ちょっと度を過ぎたことをやっていたものだから、お仕置きってわけ。正直、北のゴミ虫なんか年がら年中怪しいことやってるけど、まあ大したこと無いから。無論、そんな連中のことで総連も表立って喚き散らすわけにもいかず、泣き寝入りを決め込むしかなかったのさ」
聞いているだけで胸糞悪くなる話だ。気分の悪さから津田は胸ポケットに収めてある煙草の箱に手をかけた。
「車内は禁煙かい」
「いいや、吸ってもどうぞ。でもこれからのことを考えれば、禁煙することをおすすめするよ。任務で撤退している最中に息が切れたらどうするのさ」
ああそうかい、と受け流しながら津田は遠慮なくその一本に火をつけた。
「あの時のことは、未だに脳裏に張り付いて離れてくれないよ」
「まだ続けるのか、その話」
「だって、恭矢が零課の中でも伝説と謳われるようになったきっかけでもあるんだよ。その日は管理部門に裏切り者が紛れ込んで嘘の情報を流されてね。本当は恭矢ともう二人で急襲するはずだったんだけど、恭矢が二時間早く現場に到着しちゃったんだ。そんな大したミスでも怒らないことに自負している僕でも、この時ばかりは担当官をどつきまわしたっけ。まぁ後でミスじゃないことがわかったんだけどさ。大慌てで現場に応援に向かったけど、コトは全部済んだ後。三十人、恭矢一人で、皆殺し。あぁ、この裏切り者についても今度話すね」
ささやくように、だがかつての部下の業績を誇らしげに語る声。
「僕たちが現場に踏み込んだ時には、恭矢は呑気に死体の山の真ん中で一服しているところだった。煙草くゆらせて『遅刻だぞお前ら』なんて。まるで映画の主人公みたい。三十人も殺したばかりだっていうのに、平然としててさ」
そうか。津田は一つ、腑に落ちるものを感じた。これまでの残忍な手口は憎悪によるものだが、憎悪によってもたらされたものではない。葛木恭矢は最初からその手口をスキルとして持っており、それを当たり前のように用いていただけなのだ。
そして、そのスキルを恭矢に身につけさせたのが零課ということになる。
「どうしても人を殺すとなると、殺した側もその精神に深いダメージを負うことになる。どれだけ訓練を積んでも〝普通の人間〟ならね。それが人として当たり前のことだ」
我来のような糞ったれのサイコ野郎じゃない限りね、と悪戯っぽい笑みで付け加える。
「僕たち零課は当初は赤軍や学連に対する実力行使部隊として結成されたのが始まりなんだけど、もちろんのこと相手は法的には無実の人間だ。法的にはね。だからこその超法的措置を取ることとなる。ま、暗殺なんだけど。で、この暗殺業務で要員の心理的負担はすさまじいことになってる。死刑執行と同じように複数人のガンナーが同時に狙撃するにしたりして対策は練ってるけど、困ったことに、やっぱり零課の人間ともなるとそういうこと全部わかっちゃうもんなんだよね。それで〝アタリ〟を引いた隊員はその後カウンセリングや薬が必要不可欠になったりすることが多くて、使う側としてはどうにも七面倒臭い。最悪、回収した直後に自分の頭をぶち抜くケースなんかあるものだから、たまったものじゃない。聞いたことない?イラク帰りの米兵の多くが未だ精神を患わせているとか」
〝業務〟ときたか。津田は苦虫を噛み潰したような感覚を覚えた。
「軍隊かよ」
「軍隊ってのは戦争の時だけ人を殺す。でも僕らは軍と違って我々は常日頃からシフト制で人殺しを行っているのでね」
シフト制、業務、人を殺すことを本当に一つの〝労働〟としかみなしていない。紛うことなき、この国の暗部だ。果たして、ニッタミとどちらがブラックなんだ。
「そんなところで葛木恭矢はいたのか……」
津田は思い出す。歌舞伎町のクラブで初めて会った時のあの男の瞳を。光を灯すこともなく、かといって闇に沈んだとも言えない深淵をたたえた瞳。自分の体格以上の相手を叩きのめす戦闘技術。
「彼は優秀だった。トップクラスにね。特殊要員の殺し屋稼業は保って半年から一年程度でカウンセラーも匙を投げる。それ以上続ければ自分のこめかみか喉をぶち抜くことになる。みんなね、ほんとはこういう仕事に耐えられるわけがないんだよ」
さすがの成田も思い出すだけでも疲れたのだろうか。ため息をついた後に成田が言葉を続ける。
「そんな仲で恭矢は四年も続けたよ。しかも在籍中は最後を除いて、メンタル面に一切の問題は見受けられなかった。命令すれば何の衒いもなく銃爪を引く。それ故に、彼はいつしか周囲から〝伝説〟と謳われるようになった。内勤のお歴々がみんな口々に言うんだよ。『葛木はキリングマシンだ』とか『良心の呵責やタガといったものが存在しない』って。彼らは褒めてるつもりなんだけど、酷いよね。僕は違うと思うな。僕だけはちゃんとわかってるんだよ」
先ほどのちゃらついた口調ではなく、心底他人を想いやるような言葉。優しい声音。
「なんで奴はこんなところで、そこまでやることができたんだ」と津田。
「一重に嫁さんのためだね」成田が一言で断じる。
「嫁さん……」自殺した葛木美奈子のことか。
「って、恭矢が言ってたよ。こんな恥ずかしいこと臆面もなく。聞いてるこっちが恥ずかしくなってきたし、思い出すだけでも恥ずかしくなってきた!」
ケラケラと笑いながらはしゃぐ成田を諌める。
「そんな風に言うな。あんたも結婚してみりゃわかる」
「わかってるよ。でもさっき離婚したって言ってたなかったっけ?」
「それとこれとは話が別だ」
なるほど。全ては愛する妻のため。陰の存在である自分の外道の所業が、陽の当たる場所にいる妻を守ることであると信じていたのか。
しかし、その恭矢の思いは裏切られることとなった。陽の当たる場所にいた妻は、同じく陽の当たる場所にいる存在によって陵辱された。
それならば、葛木恭矢は忌々しいその太陽に銃を向けるしか、他はない。
「施政の現場ってのは一般市民が怒りを覚える以上に反知性主義が蔓延っているのさ。主体的な意見や建設的な批判も最初から考えずしようともしないで与党の足を引っ張ることしか出来ない野党。今どきの小学生でさえディベートやディスカッションの授業で前向きで建設的な批判をしましょうって教えられてるのにね。で、与党も与党で現場と現状を紙の上でしか、しかも半分も理解も把握もできていないから的外れなことしか言えないしやらない。そもそも日本人の合議制ってシロモノは実際には思考停止状態の人達に見せるセレモニーでしかないから、僕たちが思う以上に政治の現場ってのはその場のテンションでしか物事決めてないよ。NHKの国会中継、ちゃんと通しで見たことある?あれにさ、テキトーに字幕やSE付けて面白いとこ掻い摘んで編集すれば、他局のゴールデンのつまらないバラエティなんて全滅だよ」
ところどころで口を挟もうとした津田だったが、言葉が喉に詰まり鼻からのため息しか出ていなかった。成田の口調はまくし立てるようなものではない。まるで社会科の教師が授業中に雑談するような体だった。
「そんな税金泥棒のお歴々の糞ったれどもの政治討論ごっこの結果をいちいち待っていちゃ、そうこうしている内に原発は狙われるし北朝鮮にお金を持っていかれるし中国マネーで日本経済と水源がしっちゃかめっちゃかにされそうになるし中東の過激派組織にしょーもない学生がどんどん出荷されるし街宣車に乗る度胸もないしょーもない連中が新大久保で度を過ぎたシャレにならないことをやりかねないことになる。そういうことが今までに大事になっていないのはぜーんぶ僕らのおかげ。ワイドショーでアホなコメンテーターが頓珍漢なことをドヤ顔でぬかしてる頃には八割方僕らが解決済みってこと」
つまり法律を一切無視した非合法な治安活動であり、場合によっては本来守るべき対象である自国民を拉致監禁、最悪暗殺することがあり、それが許されている組織ということか。また、作戦失敗や中止等に情報漏洩の可能性があれば、作戦に関与した要員を〝精算〟することもある。典型的な汚れ役の組織である。そのため、正式には存在しない特務室とされているという。民主的議会政治では法律や政令の変更には、莫大な意見のすり合わせを必要とするので、刻々と変化する事態に対応することが出来ないため、というのが成田の見解だ。はたして日本がほんとうに民主的かどうかは今は考えないようにする。
チヨダですら行えない不可侵領域にも踏み込んだ、裏稼業の汚れ役たち。
政治屋も、それを見張る存在も、全員が脳足りんだから自分たちのような陰の存在が必要となる。成田はそう言っていた。
「それでも納得がいかねえ。海外の工作員とかならまだしも、自国民を自分で殺すなどと」
「あんた、ばかぢゃん? 生きてちゃいけない人間なんているでしょ」
津田の反論を、言葉の途中で成田は一言で片付けた。そこでようやく津田は目の前の人間の持つ価値観が、自分の持つそれと決定的に違うものだと感じた。
そして自分も、途中で逃げ出すような真似をせず長い間、この陰の場所に居続ければ、きっとその影響を受けるだろう。
だからといって、その価値観を受け入れ染まるつもりなど毛頭なかった。それでも超えてはならない一線は確実に存在すると考えていた。
ふと津田は関係のないことが気になった。目の前の男は葛木恭矢のことを先ほどから下の名前で呼んでいたのだ。
それほどまでに親しい仲だったのだろうか。津田が尋ねると、成田は「そうだねえ~。一言じゃあ、表せないね~」と顎に手を当てながら前方を覗きこんだ。どうやら目的地が近づいているようだ。
「一言で言い表わせば、相棒ってとこかな。何度か生死を共にすれば家族以上の仲になるよ。ちなみに僕のほうが一期上だね」
一言で表しているじゃねえか、と津田が内心で零す。
だが深い述懐の果てに一言で表した相棒という言葉には、二人の濃い歴史が感じられた気がした。生死を共にした間柄の関係は非常に濃い密度があるという。おそらく何度も二人で死線を乗り越えてきたのだろうか。
そのような会話をしている内に車は目的地に到着したようだ。車は一棟のビルの前で停車した。小奇麗な真新しいビルだが、窓から見える明かりは少ない。
二人の付き人に促され津田は下車する。ビルに入るとロビーは静まり返っていた。夜も深まりつつある時間を考慮しても、この静けさはどこか異質のように思えた。
それ以前にこのビルを満たす空気そのものが粘ついているようにも感じられた。何なんだここは。
ふと津田はロビーの案内板を見遣る。空いているテナントは無く、全ての階に何らかの企業が入っていた。
「その会社、全部ダミーだよ」
案内板に視線をやっていた津田を諭すように成田が言う。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした津田に「ほれ、はやくはやく」とエレベーターへと促す。
エレベーターに四人が乗り込むと、成田は操作盤のボタンを押すのではなく、キーを取り出し鍵穴へと差し込んだ。すると津田はエレベーターが下に下がっていく浮遊感を覚えた。扉の上にある数字に地下はないはずだ。
「もー、一々驚かないの。覚悟決めて腹を据えてここに来たんでしょうが」
アナウンスとともにエレベーターの扉が開く。が、待ち受けていたのは一面の闇のみであった。「ただの節電」と、成田と二人の付き人は慣れた動きで奥の扉へと辿り着き、そして開いた。
「はーい、ここが零課の本部ですよ」
重厚な鉄扉が開かれる。さぞや自分の予想の遙か斜め上をゆく様相だと思っていたが、いたってシンプルな、それこそ本庁のそれと変わらないオフィスがそこにあった。
だがそこに満ちる空気は全くもって異質なものであった。自分の持つ語彙では形容しがたいもの。自分の持つ価値観を全て否定し拒絶する異界の空間。
ここは警察じゃない。
ここにいる連中は警察官なんかじゃない。
「ようこそ。警察庁警備局警備企画課情報整理室、〝公安零課〟へ。ここが平和国家美しい国日本を美しいまま保つためのゴミ処理部隊だ」
一週間が経った。恭矢は鏡の前で上半身を晒し、傷跡を確認していた。
風穴は塞がったようだが傷はまだ完治とは程遠いものだった。それでも痛み止めを常時服用していれば問題のないほどには回復している。
撃たれて血にまみれたシャツは燃やして捨てたということで、村木からもらったコマンドセーターに袖を通す。ところどころにマガジンやグレネードを携行するためのクリップ止めが付け加えられたものだ。その上にジャケットを羽織り、その内側に何種類ものナイフを仕込む。さらには袖の中、両のブーツにも小型のものを差した。全身に武装を施す。
傍のテーブルに置いてあったグロックを手に取り、スライドを何度も引きオイルの差し加減を確かめる。ここ一番でジャムらないようにするためだ。ドワーフも同じように確かめる。それが済むと改めてマガジンを装填しスライドを引いてチャンバーに給弾する。
今揃えられるだけのフル装備。臨戦態勢。恭矢はもし仮にこの場に〝敵〟が踏み込んできたらどう動くべきかということまで考えていた。その意識は既に数年前に零課の特殊要員としてのものへと切り替わっていた。
もう戻ることはない。これからの自分の行動の果てで、自分がどうなるのかはわからない。我来と刺し違えて死ぬか、それとも始末した後でもどこかに落ち延びるのか。だが最早、自分の生死などどうでもいい。それは我来の殺害という最大の目的に付帯する瑣末な結果でしかなく、ただその目的を成し遂げるまでこの体と葛木恭矢という自我が機能すればいいだけの話だ。
ナップサックに手製の爆弾などの武装や飲料と携帯食料を詰め込み、それを背負う。
「それじゃあな」
玄関先、恭矢はドアノブに手をかけながら見送りにきた村木に言った。
「零課の連中が来ても、下手に抵抗するなよ」
「ああ、わかったよ」
そうして二人は拳を軽く突き合わせると、互いに背を向けた。
今生の別れとなることは理解していた。だが、二人にはこれだけで十分だった。
恭矢の背中が閉まるドアに阻まれ消えていく。
村木とて、長い間バディを組んでいた仲だ。そんな人間と道を違え別離していくのに、何ら感情がわかないわけではない。
それでも恭矢との再開、以前の別れからの彼が抱えてきた壮絶な感情、彼が今まで為してきた大事とこれから為すであろう大事、そしてそれが何をもたらすのか。今生の別れというものがどういうものか、想像には難くない。しかし、今この時は、今生の別れに対する呆気なさしか感じることができなかった。
そして数分後、玄関のチャイムが鳴った。誰がやってきたのかはわかっている。
「開いてるよ。武器は全部恭矢が持っていった。抵抗したくてもできねえよ」
その声に反応するかのように、ゆっくりと玄関の扉が開かれる。隙間から覗いてこちらの様子を覗っているのを焦れったく感じ、村木が自分から出向いて扉を開いた。
玄関の前にはスーツを着込んだ零課と思しき女が一人立っていた。村木がいきなり自分から扉を開いたことに少し驚いたのだろうか、目を見開いていた。ごまかすように女は咳払いをする。
「情報整理室、金村希乃枝と申します。村木さん、ご同行を」
「ご同行しなきゃこの場で殺すんだろ? 殺気が隠せてないぞ。新米」
薄暗い部屋の中で成田は一人、ヘッドセットを装着してラップトップPCの前に陣取っていた。通話アプリケーションを立ち上げ何者かたちと会議をしている模様であった。その口調は相手を小馬鹿にしているか見下しているようなものであり、終始主導権を握っているようであった。成田の求める結論ありきの会議である。
「たかが国会議員一期目のブラック企業の総裁と、北の工作員を何人も始末し人知れず皆様方国家の舵取りをする方々の命を守ってきた治安維持のための特殊要員、どちらに価値があるかは聡明な皆様方ならすぐに判断できると思うのですが」
(質問です。ならば当時、なぜ葛木恭矢の辞表を受理したのですか)
「彼のメンタルチェックに差し障りがございまして、当時の規約から彼の辞表を受理せざるを得なかったのです。我々はニッタミとは違うのですから」
(葛木恭矢を鎖に繋ぎ止めるための措置は何かあるのかね?)
「今度は規約などあって無いものとすれば良いだけです。そして一人の人間をただの殺すための機械にするための技術を、ようやく我々は持ち合わせました」
(その保証は?)
「あります、と言いたいところですが、保証がお望みなら電化製品でもお求めになったらいかがです? 皆様がたの被災地復興、少子高齢化対策、景気回復の経済政策にも保証は無いことと同じです。ですが、葛木恭矢に関しては必ず私たちのものにすることをお約束しましょう。私はあなた方とは違うのですからね。客観的に己を分析できますものですから。ククク……」
(あなた、口の聞き方には少し……)
(まあまあ、それだけのことを言ってのけたのだ。お手並み拝見といこうではないか)
(して結論は如何様に)
(我来賢一郎を餌にしても構わん。葛木恭矢の処分に関しては成田司警視長に一任する。といった具合で相違ないかね?)
(ま、その辺が妥当だろうな。我が党にとっても奴は最早いてもいなくても同じだ。あの程度の客寄せパンダなぞ、代わりはいくらでもいる)
(決まりだな。ではそのようにしてくれたまえ)
「承知いたしました、高山内閣総理大臣殿」
通信を切れると、成田はラップトップを閉じる。ヘッドセットを外してその辺へと放り、大きく伸びをし、深く息を吸いそして吐いた。
「ブラック企業の総裁もブラック国家に使い捨てられるというわけね。おーこえーこえー」
警視庁内部の喫煙所で高根は気の抜けたように紫煙を吸っては吐いていた。
あれから数日が経過していた。
なんらかのお咎めがあると思いきや、刑事部長も課長も「はやく忘れろ」の一言で済ませた。顛末書どころか始末書も何もなし。同僚は気を使うように遠目でこちらをちらちらと見るだけであったが、やがてそれも一週間ほど経てばなくなった。あの日、捜査会議に顔を出していた人間全てが、あの日のことなど何もなかったかのように振舞っている。
一度だけ、試しに成田の名前を出してみたところ、休憩明けのデスクの上に脅迫じみたメモ書きが残されており、高根は青ざめたことがある。
何者かが自分を尾行しているのではないかとも考え、頻繁に背後を振り返ってみたこともあったが、意味のないことであると翌日に悟った。連中はプロだ。それも自分の想像できる範疇を遥かに凌駕するほどの。
娘には悪いことをした。冬休みか春休みは海外にいきたいとせっつき、それに合わせて自分も休暇を取るつもりであったが、下された国外への出国停止処分に全てがお釈迦になった。国内旅行で我慢してもらうしかない。
津田さんよ、今あんたはどこで何をさせられているんだ。ヤクザよりもヤクザな風体のあの男は、並大抵のことで潰れることはないと思うが。一時とは言え手を組んだ別の部署の人間に対し、その身を案じずにはいられなかった。
さて、そろそろ休憩も終わりにするか。せめて給料分は働かなければ。ただでさえ人様の税金で飯を食わしてもらっているのだから。
短くなった煙草を消し、喫煙室が出ると何やら本庁全体が慌ただしさに包まれていた。
何事か、と気を入れ直した高根の元に木戸が血相を変えて走ってきた。
「探しましたよ高根さん!」
息も絶え絶えの剣呑な様子の木戸に対し、高根は思わず息を整える間も与えず「どうした」と尋ねる。
「ニッタミ本社が大変なことになってるんですよ!」
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