エピローグ

36.愛華薔薇学園恋事情

フィードの成人騒動から一週間ほど過ぎた日曜日。

クーラーを付けるほど暑くもなく、開けた窓から心地よい風が部屋を抜けた。風が教科書をいたずらにめくり、パラパラと音を立てる。

風に煽られた教科書の主は真愛だ。真愛は玲音と一緒に、自室で宿題中だった――のだが。


「真愛、どこ見てるんだ?」

「へっ? も、問題だけど?」

「ページ変わってるぞ」

「あ、あれ?」


今まできちんと宿題のページを開いていたはずなのに。いつの間に。

棚の上のなにもないスペースから、慌てて教科書へと視線を変える。宿題のページはどこだったろうか。


「気がそぞろだな。なにか心配事でもあるのか?」


手を止めてペンを置き、玲音は真愛を瞳に映した。


「ない、よ。ない。……なんでもないから」


ついついなにもない空間を見てしまうのは、なんとなく、だ。決して、そこにあったはずのものを惜しんでいるわけではない。


「それより玲音くんの方が変じゃない? なんか元気ない気がする……」


自分から意識を逸らさせる目的も兼ねて、今日会った時から気になっていたことを聞いてみた。


「ん? 俺は普通だぞ」

「んーっと、緊張してるっていうか」

「き……んちょうなんて、してない」


ついと顔を横に向けて言う玲音。まったく説得力がない。


「……なにか私に言いたいことでもあるの?」

「……っ!」


玲音は平静を装ったつもりだろうが、それでも肩がピクリと揺れていた。明らかに隠し事をしています、と全身が言っている。


(やっぱりあのことだよね……)


玲音の様子がおかしいと気付いた時から、彼が言おうとして言えないでいることに、当たりを付けていた。

玲音はきっと「自分を好きにならないでくれ」と言いたいのだろう。そして優しい玲音はそれを言うと真愛が傷つくことを知っていて、なかなか言い出せないでいるのだ。


「あのさ――」

「え、うん? なに?」


心構えなどできていない真愛にとって、玲音の声は若干心臓に悪い。死刑宣告を待つような心持ちで玲音の次の言葉を待った。


「買いに行くか?」

「……なにを?」

「新しいぬいぐるみ」

「え」


思わぬところを攻められて、真愛の胸が変な音を立てた。

――確かに、真愛は失った冠クマちゃんを気にしていた。

先ほど教科書がめくれていたのに気づかなかったのもそのせいだ。冠クマちゃんを置いていたスペースが空いているのに気を取られていた。だがしかし、今玲音の口から飛び出してくる話題としては不意打ちである。

真愛の返事も聞かずに玲音は立ち上がる。


「じゃあ俺先に下行ってるから、準備できたら下りて来いよ」

「えぇっ? 待っ……」


買い物が終わったら戻ってくるつもりなのだろう。玲音は教科書もノートもそのままに、己 の身一つで自分の部屋へと帰っていった。





駅に併設しているショッピングモールには数多くのお店が入っている。その中の一つ、五階のテディベア専門店で、玲音は熱心にクマの観察をしていた。


「……」

「……」


どういう訳か、真愛よりも玲音の方が真剣にぬいぐるみを物色している。


「真愛はどれがいい? 前みたいに王冠乗っけてるやつ? それともこっちのリボン着けてるやつの方が可愛いか? ……真愛、聞いてるのか?」

「……うん」


玲音がくるりと振り返って真愛に意見を求めた。黒い瞳には真剣さが浮かんでいる。

だが――真愛の方はそれどころではない。

紺のTシャツに、黒色の七分丈ズボン、少しゴツめのサンダル。どれもシンプルで着る人を選ばないごく一般的なアイテムだ。誰が着ても似たような印象になるだろう。しかしそれを玲音が着ると話は変わってくる。


(芸能人みたい……)


ぬいぐるみを手に取り感想を述べる姿は、テレビ番組を見ているようだ。明らかに一般人の雰囲気ではない。

玲音が醸し出す圧倒的な雰囲気に気後れするばかりでなく、周囲の視線も真愛から集中力を奪っていた。


「ねぇねぇ、あの男の子、超かっこよくなーい?」

「ほんとだぁ。横の子はマネージャーかな? いいなぁ、私もやりたーい」


玲音が超かっこいいのは同意だが、真愛は断じてマネージャーではない。悪意ある評価ではないが……いや、むしろ悪意なくマネージャーにしか思われない方がむなしいかもしれない。


「気にするな」

「えっ」


手元のぬいぐるみに視線を落としたまま、玲音が言う。


「どうせ俺と一緒にいれば誰だってそう言われるんだ。慣れろ」


己をよく知っているからこそ出てくる言葉なのだろう。事実、真愛の容姿は別段劣っているわけではない。玲音が異常なのだ。


「……ナルシスト」

「でもそんな俺が好きなんだろう?」

「……っ」


すぐには答えられなくて。でも心の中では即答していた。

不愉快な雰囲気を吹き飛ばすための意味のない会話だと思って、真愛はそのまま返事をしなかったが、なぜか、玲音はぬいぐるみを棚に戻して身体ごと真愛を振り返った。最初は返事待ちだなんて考えていなかったが、玲音がなにも言わずにまじまじ見つめてくるので、ようやくなにを求めているのかを察する。

そしておそらく、玲音は真愛の答えを知っている。


(当たり前だよね。一週間で心が変わるわけないもん)


玲音は真愛がまだ自分を好きだと知ったうえで、直接言わせたがっているのだ。


(でも……どう答えればいいの?)


玲音が望んでいるのは、真愛が玲音を好きにならないことだ。けれど真愛の気持ちを正直に告げてしまえば、玲音の望みを叶えることができない。


「わ、私は……」


正直に、言おう。そして玲音にバッサリと切ってもらおう。死刑台に上るつもりで、言葉を絞り出す。


「玲音くんのこと」

「きゃあぁぁぁぁ! 玲音様よぉ! 私服の宇宙コスモ王子よぉ!」


奇声が突然割り込んできて、真愛は言葉を止めた。見ると、五、六人の女子集団がこっちに熱視線を送っている。玲音を宇宙王子と呼ぶところを見ると、彼女たちはおそらく愛華あいか薔薇ばら学園がくえんの生徒だ。


「隣にいるのって、田崎さんじゃない?」


玲音にばかり目が行っていて今の今まで真愛の存在に気付かなかったようだが、一人の女子の言葉で全員の視線が真愛へと注がれる。複数人に注目される経験に乏しい真愛は、その視線にからめとられて固まった。


「ぼさっとするな、真愛。逃げるぞ!」

「ひゃい!」


彼女たちに捕まれば買い物どころではなくなってしまう。腕を引かれ、真愛は玲音とともに駆け出した。


「いやぁ! 待ってえぇぇぇぇぇぇ!」


なんて奇声を上げて追いかけてくるのだろう。ここはショッピングモール、公共の場だ。ほら見て、周囲が引いている。


「こっちだ」


玲音もこのような形で注目を集めるのは不本意だったようで、人気の少ない階段へと進路を変える。飛ぶようにして階段を下り、そのまま四階のとあるお店へと侵入する。


「ちょ……玲音くん!」

「静かにしてろって」


ここはまずいよ、と言おうとしたのだけれど、玲音は聞き入れてくれなかった。


(まずい。まずい。まずい)


暑さのせいではなく、だらだらと滝のような汗が真愛の顔を伝った。真愛はまずくないが、玲音がまずい。店内を埋め尽くす淡い色の布が目に入り、真愛は頭痛を感じた。


そこはランジェリーショップだった。


「どうして、よりによってこのお店に入るのっ?」


店の半ばまで入り込み、立ち止まったところで玲音に聞いた。


「あいつらだってまさか俺がこんなところにいるとは思わないだろ」

「そりゃそうだけど。それでも店員さんとかほかのお客さんとかに変な目で見られるよっ?」


本来女性しか入らない場だ。そこに男子高校生がいたら目立って目立ってしょうがない。


「大丈夫だろ、ほら」


玲音が指さした方を見ると、真愛たちより少し年上の男性が目に鮮やかな下着群に囲まれている。その男性の隣には、周囲の下着と同じ妖艶な雰囲気を持つ女性の姿があった。どうやら二人で選んでいるらしい。


「俺たちもああやってカップルを演じればいいんだよ。な?」


水色、ピンク、レモン色。パステルカラーのブラが並ぶ中から、玲音は迷うことなくレモン色のブラを手に取り――ハンガーごと真愛へと押し付けた。


「な……っ!」


もちろん受け取るわけがない。

行為自体に疑問だが、真愛にはもう一つ気になることがあった。

――なぜ、その色を選んだ?

レモン色は真愛が好んで着ける色だった。

それを知っていたとしたら問題だし、真愛に似合うと思って自然に選んだのならもっと問題だ。幼なじみがどんな下着をつけているのか想像する変態になってしまう。それでは優と同類だ。

玲音の行動の裏を考察する余裕もなく、真愛は羞恥で顔を真っ赤に染めた。


「ほーら、似合う似合……ハッ」


彼もまた、自分の行為の意味に気づいたらしい。


「ごめんっ」


沸騰ふっとうしたやかんに触れたかのごとき速さで手を引き、そのまま元あった場所にハンガーを掛ける。

互いに目を合わせられないまま、奇妙な沈黙が生まれた。


「うわ」

「ん?」


真後ろから聞き覚えのある美声が聞こえて、振り返ると、そこにはカチューシャで髪を止めた芹香が立っていた。

休日に二人で出かけている真愛と玲音を見かけた場合、本来の芹香なら嬉々としてからかうだろう。そう、本来ならば。今日の芹香は、とんでもなく苦いものを口にしてしまった時のような顔をして、一言だけ吐き出した。


「……邪魔してごめん」

「待って待って待って! きっとなにか誤解してる!」

「誤解なんてしようがないじゃないか。どこのバカップルかと思ったら知り合いだった……!」

「違う違う! カップルじゃない! 違うの!」


逃げようとする芹香の手首をつかんだところで、彼女の格好に気付いた。白地にポップな水玉が描かれたタンクトップと水色のショートパンツ。普段学園でしているような男装ではなく、スポーティな女子という格好だ。


「俺たちはファンの奴らから逃げてきただけだ」


芹香と真愛が押し問答をしている間に平静に戻った玲音が、何事もなかったかのようにそう言った。


「逃げてきたのと乳繰り合いの関連がうちには分からない」


一瞬で話が戻った! 何事もなかったことにはできなかったようだ。

話を逸らし損ねた玲音は、あまり見せない優しげで上等な、見るものを虜にする笑みを浮かべてみせた。


「本当に逃げてきただけだよ。信じられないかな?」


真愛も芹香も、ごくりと唾を飲む。放たれる強烈な魅力に惹きつけられて、目が逸らせない。恐ろしいことに、近くにいた真愛たちだけでなく、なぜか少し離れた場所にいるカップルまでもが、その美々しい顔に浮かべられた笑顔に見入っている。どこまで影響範囲が及ぶのだろう。

誰よりも早く我に返ったのは芹香だった。頭を振り、見入っていた自分を追い出して、玲音にかみつく。


「そうやってごまかそうとするところが、すっごく怪しいんだよ!」

「なに騒いでるの」


淡々とした声で割って入ってきた人物――優に二人の視線が集まる。

根岸優、登場。『三王子』と言われる学園アイドルが、なぜか女性用下着売り場に集結した。


「え……根岸くん、なんでここに……?」


飛ばしていた意識をようやく現実に戻した真愛が、優の登場に首を傾げた。ちなみに今疑問なのは、なんでショッピングモールにいるの、ではなく、なんでランジェリー売り場にいるのか、という意味である。芹香は女子なのでなんの疑問もないが、優がいるのは玲音がいるよりも不自然だ。見たところ彼に付き添いはいない。


「なんでって、見に来たんだよ」

「下着をっ?」


この店に男性用下着はない。ということは、つまり――!

真愛は優から距離を取った。そしてそろりと玲音の後ろへ身を隠す。


「真愛、どういう意味かな?」

「大丈夫。誤解はしてないつもり。別に根岸くんに女装癖があるとは思ってなくて、合法的に女性ものの下着を集めに来たのかと思っただけだから。安心して」

「どこにも安心する要素がなかったよ。大いなる誤解だ。僕にそんな趣味はないからね?」

「じゃあ違法に集めるのっ? ひどい! 被害者の気持ちも考えてよ! ひとでなし!」

「訂正箇所がずれてる。そこじゃない。まったく真愛は思い込んだら一直線だね」

「真愛にそう思い込ませるような普段の態度が問題なんじゃないか?」


怯える真愛の頭を安心させるように撫でて、玲音は苦笑した。


「というか、君たち……いや、真愛はいいんだけど、玲音と芹香はどうしてこんな場所に?」


眼鏡の奥の瞳を少し丸くしてそう聞いた優に、芹香は抗議の声をあげた。


「なんでうちにまで疑問をもつのさ! 見てみろこの格好を!」


本日の女子らしい格好をした自分をアピールするように、胸を張って堂々と立つ。女子生徒が憧れるようなかっこいい女子像を具現化したみたいだった。


「あ、そうだったね。え……でも必要なの? ……そうか、下!」


もはや発した言葉のすべてが、芹香に殴られるだけの理由を持っていた。付け加えるなら視線もすごく失礼で、顔から順番に下へ、胸、腰、と降りていた。

予告なく、芹香は強く握った拳を優へと突き出す。しかし通路が狭いせいで放った拳に勢いが乗らず、結局優は五発すべてを掌でいなしきった。


「ムカつく!」

「さっきも思ったんだけど、あんまり店内で騒いだら迷惑だよ」


優に常識を諭されてしまった。三王子の中で……もしかしたら学園の中でも一番変態かもしれない人に。


「店の前を通りかかったら、ガラス越しに三人の姿が見えたからここまで来てみたんだけど、一体全体こんなところでなにをしてたの?」

「真愛と買い物に来てたら、学園のファンに追いかけられてな。慌ててここに逃げ込んで来たんだ。で、芹香とはここで偶然会っただけ」

「あぁ、さっきの彼女たちか」

「見かけたのかっ?」


玲音の声が固くなったのと同様に、真愛にも即座に緊張が走る。結構時間が経っているが、まだこの近くにいるのだろうか。


「さっきこの店の前をうろうろしてたよ。誰かを探しているような 素振りだったけど……そうか君たちを探していたのか」


なにか納得したかのように彼は頷いた。そして――大きく息を吸う。


「玲音が! ここにいたよぉぉぉぉぉぉぉ――――――ッ!」

「おまっ……!」


常にクール、変態発言すら物静かにおこなう優の大声。その珍しさにギョッとし、さらにこの公共の場での迷惑行為にギョギョッとして、真愛は息を止め一歩飛び退いた。数瞬前に「騒ぐな」と言った男はどこへ行ってしまったのだ。

動揺しつつも玲音は止めようと試みたが、時すでに遅し。


「見つけたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――!」


テディベア店で真愛たちを追ってきた女子生徒の一人が、ウィンドウ越しに真愛たちを指さしている。


「優! なんてことをしてくれたんだ!」


慣れないことをしたせいか、優は呼吸を整えていた。ふぅ、と大きく息を吐いた後、玲音の顔を見つめて穏やかな笑みを浮かべる。


「早く逃げないと捕まるよ」

「お前が言うな!」


まったく悪びれる様子もなく、彼はにこにことしている。楽しんでいるのだ、優は。


(そうだ、根岸くんの笑顔は危険のサイン!)


穏やかさに騙されてはいけない。彼は今、間違いなく真愛と玲音の敵だ。


「それにな、そんなのんきな事いってられるのも今のうちだぞ。優や芹香がいれば、彼女たちが俺に群がるとは限らないんだからなっ?」

「心配は無用だよ。彼女たちの顔には見覚えがある、間違いなく玲音のファンだ。……自分のファンの顔くらいちゃんと覚えておきなよ」


深い確信をにじませる優の態度に、玲音はグッと詰まる。

ほかの生徒を呼び集め、彼女は……彼女たちは、こちらに向かってきていた。それに気付いた玲音は優に構うのを止め、真愛の手を取った。


「行こう!」


女子生徒が入ってこようとしている方とは反対の出口へと足を向ける。


「――頑張ってね」


真愛に言ったのか、はたまた玲音に言ったのか。届くか届かないかの小さな声に反応して、真愛は一瞬だけ首を巡らせた。


「真愛、しっかり走れ!」

「う、うん」


商品にぶつからないように気を付けて、真愛は玲音の背中を追う。もう一度振り返る余裕はない。だからもう、優が表情を歪めていたのか、それとも単に笑っていただけだったのか、真愛には知ることができない。





逃げて、逃げて、逃げた先。

じりじりと太陽が照り付ける屋上だった。熱光線をアスファルトが照り返す。小一時間もいれば熱中症になること間違いなしの、ちょっとした灼熱しゃくねつ地獄じごくだ。


「みぃつけたぁ」


ホラー映画さながらに髪を振り乱し、彼女は外に出てきた。どうしてそこまで必死になって玲音を追ってくるのか分からない。


「な、なにが目的なんだ……?」

「目的?」


汗を拭うついでに、彼女は髪をかき上げ、ようやく人間らしい姿を取り戻す。息と同時に気持ちも整え、彼女は周囲の女子生徒と目配せをした。


「そんなの決まってるわ!」


凛とした声音で言い、ビシッと指を真愛に向ける。


「田崎さん! 宇宙王子とはどういう関係なのっ?」


なんとなくそんな気はしていた。彼女たちの真愛を見た時の目が、そんな予感を呼び寄せていたのだ。

自分の手を握り込み、真愛は懸命に言葉を絞り出す。


「……私は、宇宙王子と幼馴染なの」

「幼馴染……?」


優と芹香、そしてのばらの三人のみが知る、真愛と玲音の関係性。積極的に公開してこなかったのは、今目の前にいる彼女のような、玲音のファンを刺激したくなかったからだ。

真愛と玲音の関係を聞いた彼女たちは再び目配せをした。


「そう。で、『三王子不可侵の掟』については知ってる?」


三王子はみんなのアイドル。それを一個人のものにしない、と学園のみんなが暗黙のうちに守っているルールだ。具体的に言えば、抜け駆けして告白するようなことを禁じている。


「……うん」

「じゃあなにをすべきかも分かるわよね? 今後一切、宇宙王子に近づかないで!」

「それは……」


そんな言い分聞く義務、真愛にはない。『三王子不可侵の掟』はファンが牽制けんせいし合った結果生まれたもので、強制力など無に等しい。

早鐘はやがねを打つ胸に押されるようにして、真愛は隣に立つ玲音へと視線を移した。

この場に玲音がいることは真愛にとって大きな問題だった。彼の耳に入るとなると下手なことは言えない。彼女たちの要求を突っぱねたとして、突っぱねた理由――真愛が玲音に恋してる――をきっかけに、真愛が抱く気持ちを玲音に否定されるようなことになれば、受けるダメージは計り知れない。

ここは彼女たちの要求を飲むのが賢明だ。幸い家は隣同士。学校での接触を避けたところで、玲音と一緒にいられる時間は充分取れるのだから。

感情を押し殺し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「わか……」

「勝手なことをぬかすな」


地獄の底から聞こえる怨嗟の声。玲音の低い声を聞いた瞬間、真愛はそんな連想をした。身震いしながらも、彼の方を見ずにはいられない。

星屑ほしくずを埋め込んだ瞳に怒りを浮かべ、玲音はファンの生徒たちを見据えていた。睨まれているのは真愛ではないのに、身体がすくむ。実際に玲音の怒りに触れた彼女たちは今、どのような心境なのだろう。気になるが、視線を玲音に奪われていて、確認することができない。


「いったい誰の許可を得て、俺の真愛にそんな命令をしている?」

「そ……れは、だって、掟だから……」


彼女はとんでもなく勇敢なのか、それとも救いようがないほど愚かなのか。今の玲音にそんな理由にもならない言い訳をするなんて、真愛には絶対できないことだ。

真愛の危惧は正しかった。より一層玲音の目つきが剣呑けんのんになる。


「それはお前たちが勝手に決めたことだ。お前たちの中だけで効力を発揮するローカルルールに過ぎない。真愛には関係がないものだ」

「……っ」


一番前で玲音に意見していた女子生徒は、すでに声を出すことができなくなっていた。


「で、でも、それじゃあ……意味が、ありません。み、みんなが、守るから、掟が……意味を成すんです。そんな……田崎さんだけ、特別扱いは……できません」


後ろにいた女子生徒が必死の体で言葉を絞りだした。今にも人を射殺しそうな鋭い視線が移動する。


「ひっ……、で、でも……べ、別にあたしたちだって……ずっと話すな……って言ってるわけじゃ……な、いんですよ? そ、卒業するま、で。宇宙王子が、宇宙王子である……その間、だけ、で、いいんです」

「これから一年半、我慢しろ。そう言いたいのか?」

「そ、そうです!」


わずかに顔色を取り戻した彼女は、コクコクと壊れた人形のように首を縦に振った。言いたいことを玲音が言葉にしてくれたことに、恐怖が少しばかり緩んだらしい。


(一年半、か)


月日の長さの感じ方は人それぞれだが、真愛には長く感じられた。たった一週間、玲音と言葉を交わさなかっただけで気分が萎んだのに、それが年単位となれば想像するだけで心が重くなる。

しかしそれは、家でも顔を合わせなかった場合の話。学校以外で制限がないのであれば、飲めない条件ではないような気がする。


「断る」


だが、玲音は有無を言わせない明快な口調で切り捨てた。


「もう十二年も待った。これ以上は時間の無駄だ」

「え……ちょっと、玲音くん……っ?」


腕を腰に回され、力強く引き寄せられる。肌と肌が触れ合い、異様な近さにドキドキした。未だかつて、玲音にこんな風に触れられたことなどない。

いやぁっ、と女子生徒たちから悲鳴があがる。真愛も違う意味で悲鳴をあげたかったが、のどが引きつってしまい、それすらもできなかった。


「この一週間、いつ言おうかと迷ってたんだ。本気で向き合うのが少し怖くて、今のままの関係でもいいかと思ってしまった。けど……くだらないルールのせいで真愛との間に距離ができるくらいなら、恐怖なんてぶっ潰す」


こつん、と額がぶつかる。玲音の綺麗な顔が真愛の視界を埋め尽くし、まるでこの世界には玲音だけしかいないような錯覚に陥った。

太陽と玲音のせいで熱くなる顔に、彼の大きな手が添えられる。


「好きなんだ、真愛。俺は、真愛に恋してる」

「れ、お……ん……く、ん……?」


いいの? 恋を認めて、いいの?

事情が事情なので、玲音は生涯誰も好きにならないだろうと思っていた。そして、真愛の気持ちは重荷にしかならないとも。


「返事、聞かせてもらってもいい?」


玲音は返事を求めている。好きだと、恋してる、と告白したことに対しての。


「言っても、いいの?」

「聞かせて」


胸が熱を帯びたのと同時にこみ上げた涙を、真愛は止めることができなかった。


「――好き。私も、玲音くんのことが好き。……ずっと好きだったの」


打ち合わせなどしていなかったのに、そうなることが自然であるかのように抱き合った。玲音のにおいに包まれながら、真愛はうれし涙を流し続ける。


「これで分かってもらえたかな?」


真愛を胸に抱いたまま、玲音は女子生徒たちへと顔を向けた。今しがた真愛に向けていた慈しみの表情から一転して、険しい顔になる。


「真愛が掟を破って告白したんじゃない。俺が好きだから、真愛に告白したんだ。文句は言わせない」


『三王子不可侵の掟』はその名に表れている通り、三王子に対しておこなう行為を規制するための者であって、三王子の行動を禁止するものではない。王子たち本人が誰かを好きになってしまえば、それはもうどうしようもない。

それは女子生徒たちも分かっているようで、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、なにも言うことなく屋上から姿を消した。





今だに信じられない気持ちでいた真愛は、部屋に戻って早々玲音に疑問を呈した。


「玲音くん、私のこと好き?」


あれ、違う。これでは互いしか見えていないバカップルの会話になってしまう。


「当然だ。さっきも言っただろう」

「間違えた」

「間違えたっ?」


玲音が顔を青くしてしまったので、真愛は咳ばらいをしてさっさと本題に移る。


「玲音くん、辛くないの? 私のことを好きになっても、平気なの? いくら玲音くんが人間になって私と寿命の差がなくなったとはいえ……どっちが先に死ぬかなんて分からないんだよ?」


本当なら、「あなたより長生きするね」とか言えればよかったのだが、そんな曖昧な約束をすることは真愛にはできなかった。

玲音の内面に切り込むデリケートな話だ。そう思って神妙に切り出した真愛に対し、玲音の反応は予想とは違って軽かった。


「あの時の話したことを心配してたのか。それなら問題ない。だって俺、もうグレイグルンドじゃないからな」

「は?」

「苦しんだのはグレイグルンドであって、宇田川玲音じゃない。あの時の胸の痛みは、グレイグルンドの魂と記憶と共に俺の中から消えたんだ」

「そ、そうなの?」

「俺はもうただの人間だ。悪魔でなくなり、魔法を使うことも魔界へ帰ることもできなくなった。けどその代わり、人間として生きることができる。もちろん人間として恋をすることも」


玲音の言葉を聞いてようやく、真愛は本当の意味で告白を受け入れることができた。玲音が苦しんでいないと分かるまで、無理をしているのではないかという心配が心の片隅に存在していたのだ。

安心した真愛は、帰ってきた時のまま放置されていた荷物へ手を伸ばす。中から、冠を頭に乗せたテディベアを取り出した。


「結局同じようなデザインにしたけど、それでよかったんだよな」


玲音がテディベアを見てそう言った。


「うん。これが一番似てたからね」


長年付き合ってきた冠クマちゃんに、真愛は思っていた以上に愛着を持っていたらしい。ほかのデザインも検討したが、一番しっくりきたのがこの冠を乗せたテディベアだったのだ。

冠クマちゃんを置いていた位置に、二代目の冠クマちゃんを置く。


「よし!」

「これがあってこそ真愛の部屋って感じだな」


棚の前で冠クマちゃんを見つめる真愛の肩に、玲音がそっと手を乗せた。


「でしょ! ……っ!」


嬉しくなって振り返ると、すぐ近くに玲音の顔があって、思わず身を引きそうになった。


「どこに行く気かな?」


しかしがっちりと肩を掴まれていて身動きが取れない。そうでなくても棚と玲音に挟まれているせいで、どこにも逃げ場はないのだが。


「ど、どこにも行かないよ。ただびっくりしただけ」

「そう。ならよかった」


獲物を狩るようにあやしくきらめく瞳に、身体の奥が熱くなる。玲音に見つめられてしまえば、自由に動くことはできなかった。

玲音本人は人間だと言ったが、真愛には人外に思えて仕方がない。どうして視線で相手の動きを制してしまえるのだろう。

近づく顔と顔。


(これって……)


――キス。

唇と唇を合わせた自分たちの姿を想像して頭が沸騰しそうになった。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)


逃げる気はない。だって真愛だってしたい! だが、とてつもなく恥ずかしいのだ。

互いの吐息がかかるほどの距離になって、玲音が言う。


「目、閉じて」


忘れていた恥ずかしさと、目を閉じることによって、玲音を受け入れるという自分の気持ちを示すことへの羞恥が、ものすごい勢いで膨らんでいく。

――と、その時、視界の端でなにかが動いた。


「あ、タイミング間違えたっぽい」


そのなにかは、人間の言葉を発したのだ。


「ぎゃあああぁぁぁ」

「うおっ!」


不測の事態に、真愛は玲音を突き飛ばした。そして油を差し忘れたおもちゃのようにぎこちない動きで、なにかに目を向ける。

黒い空間を背負った緑髪の青年――フィードが、真愛の部屋にいた。正確には、真愛の部屋へ入ろうとしているところだった。


「ご、ごめん。悪気はなかったんだ。まさかこんなことになってるなんて、想像もしてなかったから。本当だぞ」


顔を赤くしたフィードに、真愛は口を開け閉めするだけでなにも言えない。


(み、見られた)


羞恥で人が死ぬのなら、真愛はもう三回くらい死んでいる。


「な~にしに来たんだ?」


極限に恨めしそうな声。いいところを邪魔されたのだから無理もない。もうあと三十秒、どうして待てなかった。そんな文句の一つも言ってやりたいところだろう。


「いや、その……あの一件について詳しく話す必要が出てきて、また人間界にしばらくいることになったんだ。だから……もう一度真愛に居候を」

「断る!」

「玲音がっ? しかも、この前追い出そうとしたこと謝ったくせにっ?」

「当たり前だろうが! 今度は本体なんだよな。そんな状態のお前を置いておけるか!」


確かに、と真愛も同意すると、フィードは困ったように視線を泳がせた。そしてある一点で、ぴたりと止まる。視線の先には二代目冠クマちゃんが鎮座していた。


「それだ! 別に成人してたって仮の身体を使っちゃいけないわけじゃないし、俺、またぬいぐるみに入るよ!」


だからいいだろ、と懇願するフィードに、なんだかおかしくなって噴き出した。見た目は、真愛が多くの時間を過ごした相手ではないが、仕草が初代冠クマちゃんに入っていた時と同じだ。たった一週間前なのに、懐かしい。


「よくない!」

「だから、なんで玲音がそれを決めるんだ!」


ワイワイと言い争う二人の声を聞いた真愛は、この空間の居心地の良さに笑みを抑えきれない。

きっとなんだかんだ言ったうえで、フィードの滞在を玲音は許可する気がした。


(また、にぎやかになるなぁ)


明日からの毎日を想像して、わくわくせずにはいられなかった。











愛華薔薇学園恋事情 おしまい☆

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