35.二つの魂のキセキ

星散る宇宙のような黒い瞳が二、三度瞬(またた)く。


「まったく……力いっぱい抱きしめてくれたな。それで完璧調和の取れたこの俺の顔が潰れたらどうするつもりだ」


親愛のもる馴染み深い声。真愛の知る玲音の声だ。


「そ、そそそれは、大丈夫……そんなことで損なわれるような安っぽい美じゃないから」


違う。そんな当たり前のことが言いたいわけじゃない。しかし目の当たりにしている現実を受け止めきれず、頭が回ってくれない。玲音が動いて、しゃべっているのが信じられないのだ。

身を起こそうとする玲音を、万が一のために腕を差し出しながらハラハラと見守る真愛だったが、腕が役立つことはなく、彼は元気そうに立ち上がった。横になっていた時の制服のしわを気にして伸ばしているあたり、余裕もあるらしい。


「へ、平気なの?」


スンと鼻をすすった真愛は、玲音を追うようにすぐ立ち上がり、首を傾げる。


「あぁ」


当然とばかりに言われると、まるで今までのことが夢のように感じられた。けれどそれは、すぐ向こうに転がっている真っ黒に焦げた冠クマちゃんが否定する。


「一体なにが起きてるの……?」


だって玲音は死んでいたではないか。死んだ人間が生き返るなんて……。


(あ、でも玲音くんは人間じゃないから……)


ある予想が浮かび、それを口に出した。


「悪魔って死んでも生き返るんだ」

「そんなわけないだろう」


即、否定。化け物じゃないんだぞ、と玲音は続けたが、真愛にしてみれば大きな差はない。

違うと言われてしまったので、真愛は首をひねってもう一度考える。


「あ……ゾンビ?」

「より化け物に近づいているじゃないか!」

「……じゃあ、本当はなんなの?」

「聞きたいか?」


口調に含みを持たせ、玲音はもったいつけた。真愛としては玲音とこうして言葉を交わすことができるだけで幸せなので、その正体がなんであろうと構わないし、聞かなくても別に問題はないのだが。


「玲音は人間だよ」


真愛が返答する前に、横から口を挟んでフィードが答えた。


「人間?」

「なんだ、分かったのか?」


玲音が残念そうに言うと、フィードは胸に手を当て軽く頷く。


「あぁ。今の玲音には悪魔の気配も、それに似た違和感も全くない。それにオレは前世の魂の授受の時に、グレイグルンドの人生を追体験したからな。だから、おそらく玲音は生きているだろうと踏んでいた」


フィードは自分が魂を受け入れた時に見たグレイグルンドの人生を語った。時折相づちを打ちつつも、玲音は黙って話に耳を傾ける。


「オレが最後に見た記憶――それはつまりグレイグルンドの死の直前の記憶に当たるわけだが」


フィードが、髪と同色の瞳に真愛を映す。


「真愛がいた。今よりもずっと子供の真愛と出会い――」


私? と己の顔を指さす真愛に一つ頷いた後、フィードは一旦言葉を切って、今度は玲音へと視線をやった。


「グレイグルンドは人間の子供の姿をとって、真愛と友人になった。……そうだよな、玲音」


フィードが確認するように聞くと、玲音はまっすぐフィードの顔を見つめ返す。深い黒の瞳と透明感ある緑の瞳が向き合った。


「あぁ。確かにグレイグルンドが姿を変えて、宇田川玲音になった記憶がある」


妙な言い回しだな、と真愛は疑問を抱く。それはフィード以外のみんなも同じだったようで、怪訝な顔をしていた。


「じゃあやっぱりグレイグルンドが玲音くんってことなんじゃ……?」

「少し違う。グレイグルンドだった記憶はあるが、グレイグルンドの記憶はない」

「あー、ダメだややっこしい! 結局どういうことなのさ!」


ギブアップ、と両手を上げて芹香が宣言すると、フィードが分かりやすく言い直した。


「グレイグルンドという悪魔は宇田川玲音になった時に死を迎えた。そしてグレイグルンドが変化して生まれた宇田川玲音は人間になった。グレイグルンドと宇田川玲音は同じ生物上に存在していたが、別の生き物だったというわけだ」


そうか。それなら、玲音はグレイグルンドという悪魔としての記憶を持っておらず、けれど、以前はグレイグルンドだったという記憶を持つことになる。だからああいう言い方になったのだ。


「しかし、それはおかしいですよぉ」


なるほど、と納得しかけたところで異議が入った。スタージだ。

視線がスタージに集中すると、彼は人差し指をピンと立てた。


「どうして人間になってしまったのかの説明が付きません」

「そうだな。人間に擬態した悪魔は数えきれないほど存在するが、人間になったなんて話聞いたことがない」


おそらくこの場で一番知識が豊富なスタージに否定され、さらにラックも同意見だという。


「けど、実際に玲音はもう人間だ。それに玲音が元グレイグルンドだということも事実なんだ」


二人の悪魔にフィードは訴えるが、どうも納得はしていないようだ。

悪魔の事情などまるで知らない真愛はなにも言うことができず、ただ三人の様子を見ていた。


「いや、説明は付くんじゃないか?」


意外なことに、その発言は人間である優のものだった。彼は肉の薄い顎に手を当てて、推理を披露する。


「なにが起こるか、誰も知らない現象……その効果が、『人間になる』だとしたら……うん、やっぱり……そういうことだね」

「えっと……ごめん、根岸くん。分かるように説明して」

「真愛も聞いていただろう? 玲音が――いや、この場合はグレイグルンドと言った方が適切か――彼が、時と場所の亀裂というものに吸い込まれ、因果律の掟とやらに抵触したって話を」

「確かに聞いたけど……」


因果律の掟に触れてしまい、玲音――グレイグルンドは魔界に帰れなくなったという。


「罰の認識が間違っていたんだ。玲音、君は魔界に帰れないのが罰だと思ったみたいだけど、それはきっと正しくない」

「なんだと?」


優は身体ごと向きを変えて、三人の悪魔へと向いた。


「悪魔の方々に聞きたいんだけど、人間は悪魔のように魔界と人間界を往来できるの?」

「無理ですねぇ」

「無理だな」

「できないと思う」


三者三様に表現したが、内容は一致していた。人間は、魔界に行けない。その答えを受け取り、優の瞳が力強く煌いた。


「やっぱり」

「じゃあ……まさか」


長年信じていたことをひっくり返され、玲音はその美々しい顔を驚きに染めている。


「因果律の掟の罰は――人間になること。魔界に帰れなかったのはその影響の一つに過ぎない」


伸ばした背筋に、眼鏡を押さえたその姿は、名探偵さながらだった。名探偵・根岸優、ここに誕生。


「ちょっと待って」

「……なにかな、芹香。君の頭じゃ理解できなかったかい?」

「馬鹿だけど馬鹿にすんな! そうじゃないよ! 人間になる、ってとこまでは分かったよ。けど、玲音はいったいいつ、人間になったのさ?」

「それは……」


まぶたをやや落とし、優は押し黙った。


「今の優の話だと人間界に来た時っぽいけど、実際グレイグルンドの魂が玲音から出現したのはついさっき。辻褄が合わないよ」


誰も芹香の指摘に答えられず、放送室には七人の微かな息遣いだけが広がる。


(誰も、分からない……?)


実は真愛にはなんとなく心当たりがあった。それが正しいのかは分からないが、玲音が魔法を防がれて言った言葉が意味するところを考えると。


(言っていいのかな? うーん、でも合ってるか分からないし)


そっと玲音に顔を向けると、ちょうどよく目が合った。


「なんだ真愛、考えがありそうな顔して」


一瞬で見抜かれた。

玲音の言葉のおかげと言えばいいのか、玲音の言葉のせいと言えばいいのか、周囲の注目が真愛へと集まる。

ほんのわずかに逡巡したが、誰もなにも言いそうになかったので、言うだけ言ってみよう。


「玲音くんがさっき『力が衰えているのは知っていたが』って言ったの思い出したんだけど……それってさ、もしかして悪魔としての力が少しずつ弱ってたってこと?」


玲音が首肯したのを見て、真愛はさらに続けた。


「だとしたら、罰で人間化が始まったのが人間界に来た時で、それから時間を掛けて完全な人間になっていったんじゃないかな? 悪魔から人間になる過程で少しずつ悪魔としての能力が衰えていくって考えれば――」

「筋が通るね。最初に魔界へ帰る能力を失い、それから悪魔としての能力を徐々に減らし続け、最後は命を失った。さらに、悪魔として弱っていくのと同時に人間として完全なものになっていくと考えると、今の玲音を人間と断言できるこの状況にも説明が付く。実に自然で分かりやすい」


真愛の言葉が終わるのに先んじて、優が同意を示す。彼と視線を合わせて頷き合った後、ほかのみんなの意見を聞こうと周りを見渡した。


「スタージさん、どうでしょうか?」

「私? そうですねぇ……推測の域を出ないとはいえ論理的な破綻はなさそうなので、上に報告させていただきます。今回の一件は因果律の掟の研究に大いに役立ちそうですねぇ。……うふふ、ボーナス、ボーナス!」


内容についての意見を聞きたかったのだが、なんだか己の欲望で忙しそうだ。

スタージからも異議が上がらず、そしてほかの誰も真愛の意見を否定しなかった。誰もが、徐々に悪魔から人間になったという説に納得できているということだろう。


(よかった……)


我知らず真愛は安堵の吐息を漏らした。種族の変化の中で、一つの身体が二つの魂を有することになった。そして寿命を迎えたのはグレイグルンド。つまり――。


(私、まだ玲音くんの傍にいられるんだね)


いつもと変わらない玲音の横顔を見上げ、やっぱり気が狂いそうなほど綺麗だな、と思った。



☆ ☆ ☆



「それでは、私たちはこのまま魔界へ帰ります」


例のごとく放送室に黒い穴をあけ、スタージはうやうやしく腰を折る。

悪善相殺法によってラックの罪が相殺されるとはいえ、手続きを取らなければ罪人のままだというので、フィードとラックもスタージに付いてそのまま魔界へ帰ることになった。


「ありがとう、真愛。世話になったな」

「なに言ってんの、助けてもらったのは私の方」


魔法に掛かって玲音への気持ちが分からなくなっていた真愛を救ってくれた。二つの魔法のうち一つは玲音のものだったし、魔法が解けたせいで玲音を苦しめてしまう可能性があったけれど、やっぱり自分の気持ちが分からないままにされてしまうのは嫌だ。だから、心の中の靄を晴らしてくれたフィードには感謝しかない。

それにもう一つ。のばらのことだ。ラックの未来と引き換えに救われたのばらの命。フィードに伝えることは絶対にできないが、真愛は友達の命を救ってくれたことを心から感謝している。

クスクスと笑い合い、言葉がなくなっても名残惜しく見つめ合っていると、横に黒い影が近づいてきた。


「ちょっといいか?」


玲音はそう聞くと、真愛とフィードの間に割り込むようにして、フィードに向き合った。フィードが口元をニィッとゆがめる。


「なんだ、嫉妬か?」

「馬鹿か。そうじゃなくてだな」


動揺を微塵も見せることなく、フィードの軽口をあしらった。


(少しくらい照れてくれても……)


こうもあっさり流されてしまうと悲しくなる。恋心に起因する感情に揺さぶられ、玲音のことが本当に好きなのだと改めて自認した。


(……待って、玲音くんが人間になったってことは……)


真愛の恋心が許されたのは、玲音の寿命がわずかで真愛が先に死ぬことがないと考えられたから。そうでなければ、数多くの人間の死を目の当たりにしてきた玲音は真愛が自分を好きになることをいとう。人間になった玲音の寿命がどれくらいかは分からないけれど、確実に言えるのは、真愛と玲音のどちらが先に死ぬかはもう分からない、ということだけだ。


「……この前のこと悪かった」


玲音はフィードに向かって軽く頭を下げた。


「この前?」

「真愛の家から出て行けって……」

「あぁ、あれか」


数秒空中を見つめ、やりとりを思い出しているようだ。


「わざわざ謝るなんて律儀だな。それ言いたくて声かけたのか?」

「……」

「玲音?」

「……グレイグルンドは、魔界に帰りたがっていた」


少し迷うように沈黙した後、玲音は唐突にそう言った。


「帰りたいのに帰れない。諦めていたんだ。もう二度と魔界には帰れない、と。だからグレイグルンドの魂にもう一度魔界を見せてやってくれ」


フィードの身体を動かしていたグレイグルンドの様子を思い出す。彼は「帰る」と言って、魔界へ行こうとしていた。


「あぁ、分かっているさ。グレイグルンドの魂は、今はもう俺の一部だからな」


掌を胸に当て、フィードは白い歯を見せて笑う。


「ありがとう」

「あ、そうそう、こっちからも一つお願いがある」


チラリとフィードの視線が玲音の後ろにいる真愛を捉えた。


(え? 私?)


しかし真愛が口を挟む前にフィードは玲音を呼び寄せて耳打ちをした。


「……はぁっ?」


素っ頓狂な声を玲音があげると、フィードたちの会話が終わるのを待っていたスタージ達の視線が集まる。それをなんでもない、と言って散らした後、玲音はもう一度フィードに寄る。


「願いというから聞いたが、なんなんだそのふざけた願いは!」

「なにもふざけてなどいない。もう問題はないんだから、真愛に……んぐぅ!」

「うるさい! とっとと魔界へ帰れ! 帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ! さぁ、帰れ!」


フィードの口元を見てわかるほど力強く押さえ、そしてスタージたちの方へとグイグイ押していく。


「んぐ! んぐぅ――――っ!」

「なにをやってるんだ貴様ら。別れの挨拶はもういいのか?」


一八五センチオーバーの男二人の小競り合いに呆れて半眼になったラックがそう聞くと、フィードは首を横に振り、玲音は「あぁ」と頷いた。


「どっちだ」

「こいつが余計なことを言い出しただけだ。もうしたい話は終わっている。連れて帰ってくれ」

「んんっ! んん――――っ!」


終わってない、終わってない。そんな声が聞こえてくる必死の首ふりを見たラックが言う。


「分かった。こいつの一言は余計なものが多い」

「ンッン――ッ?」


恐らく「ラックッ?」と言いたかったのだろう。幼なじみに裏切られたフィードの悲痛な声は玲音の掌に飲み込まれていった。


「よろしく頼む」

「あぁ、任されよう」


フィードの口を強制的に塞いだままの受け渡しが淡々と行われる。


「では、よろしいですね、お二人とも」

「はい。お待たせしました」

「――――ッ!」


ラックの塞ぎ方がきつくて声も出せないらしい。フィードの返事は無言の肯定として扱われ、スタージは黒い穴へと歩き出す。


「では、行きましょう」


ラックに引きずられるようにして帰っていくフィード。彼はバシバシとラックの腕を叩いている。あれはしゃべる権利を与えられないことに対する抗議というより、ギブアップを示すタップのようだ。


「あれ、息できてないんじゃ……」


そんな真愛の心配は、魔界へと続く黒い穴が閉ざされたことによって、強制終了した。



こうして、真愛の悪魔との共同生活は幕を閉じたのだった。

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