奇談その五十 別れられない

「ぐうう……」

 何でこんな事になった? 俺は婚約者のすみれにナイフで胸を刺されていた。

「私が何も知らないとでも思っていたの?」

 薄笑いを浮かべたすみれは見た事もない顔をしていた。俺はそのまま倒れた。


「はっ!」

 目を開けると、俺は駅の改札を抜けたところだった。何だ? あれは夢だったのか? しかし、やけに現実感のあるものだった。痛みすら感じた。だが、胸を見てみると、何の痕跡もない。白昼夢でも見たのか? 理由わけがわからないまま、俺は駅を出た。

「遅い! 呼び出しておいて、待たせるなんて、最低!」

 駅前の噴水の脇に立っていたすみれが口を尖らせて近づいてきた。

「あ、悪い。ちょっとおかしな事があってさ」

 俺は顔が引きつるのを感じた。すみれの服装はさっき見た白昼夢の中と同じ白のロングコートだったからだ。

「まあ、いいわ。で、何?」

 すみれは微笑んで尋ねてきた。俺は言葉に詰まった。白昼夢の事が頭をよぎる。すみれは穏やかな性格だが、一度怒り出すと手がつけられなくなる事があるからだ。もしあれが現実に起こったらと思うと、話を切り出せなくなりそうだ。

「俺と別れてくれ」

 刺されるかも知れないと覚悟を決めて言った。

「はあ? 何の冗談?」

 すみれは噴き出していた。

「いや、冗談じゃないんだ。本気で言っている。俺と別れてくれ」

 語気を強めて言った。

「嫌よ。両親にも親戚にも貴方を会わせて、式の日取りまで決めているのに、何を言ってるの?」

 すみれの顔つきが変わった。

「それはすまないと思っている。でも……」

 その時、俺は胸に激痛を覚えた。すみれがナイフを突き刺していたのだ。

「ぐうう……」

 俺は痛みで顔を歪め、地面に片膝を突き、意識を失った。


「はっ!」

 目を開けると、また駅の中にいた。噴水の脇にすみれが立っているのが見える。俺は怖くなってその場から逃げ出そうと走り出した。

「どこへ行くつもりの?」

 すみれがいきなり目の前に現れた。

「うわあ!」

 思わず叫んでしまった。

「逃げられないわよ、絶対」

 すみれは右の口角だけを吊り上げて俺の胸をナイフで刺した。

「貴方が私にした事を何度でもしてあげるわ」

 すみれはロングコートの前を開き、血塗れの胸を見せた。

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しめじ三郎幻想奇談 神村律子 @rittannbakkonn

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