ep.「ほたるび」後編
魚墨が、筆を走らせる。その視線の先で、幼乃はしばらくぼんやりとしていた。食器を水に浸して、様子をうかがうように魚墨を見た。魚墨が何もしないとみると、自分の左手のガーゼを見る。もう一度魚墨を見る。
洗い物をしようとするなら、とは思っていたものの、彼はそのまますごすご食卓へ戻って行ったので安堵した。
また筆を走らせる。
スムースな緩急のある鉛筆の音を聞きながら、まだ真っ白い紙に向き合ってみた。ずっと膝を抱えて何をするでもなく座っていたものだから、同じ角度のままでは尻が痛かった。といって、書くべきことは何も思いつかない。
玄関先の花。ここからではよく見えない。食卓。四角と、木目と。ここからでは足が見えない。
正親さん?
ちら、と見る。キャンバスのかげに隠れてほとんど見えないけれど、肘と足が見えた。顔を描くとなると恥ずかしさが混じる。むしろ見えないほうがちょうどいいんじゃないだろうか。線を引いてみる。まっすぐ引けないのは、机の木目のせいにする。もう一本引いてみる。木目、木目。
何本か引いてみて、なんとなくそれらしいんじゃないかと思った。上手いか下手かでいうときっと下手。正親さんに見せるつもりはない。ここにきて、正親さんへの秘密ができたのはなんだか嬉しい。
正親さんは、幼乃が描いている間もずっと描いていた。見えている部分はほとんど動かない。幼乃が描き終わっても、まだ描いている。
せっかくの秘密だ。
幼乃は、絵を描いた紙の裏を向けて文字を書く。
日記のつもりで、今日の日付から。
正親さんが、絵の道具を貸してくれた。絵を描いてみたけど上手くなかった。
うろちょろしたり、ちょっかいを掛けたりするのがうっとうしかったのかもしれない。相手をする暇もないくらい、絵を描かないといけなくなったのかもしれない。どっちでもいい。
正親さんの絵は上手いんだなあ、と思った。
自分の絵が下手だから、もあるけど。正親さんみたいに描けないのは当然だと思うから、それは置いておく。そうじゃなくって、なんていうか。描いてるものもあるのかもしれないけど、正親さんの絵はすけべ。すけべじゃないな。えっちも違う。なんていうのか忘れた気がする。
正親さんの絵になりたい、と思う。
なんで。たぶんそういうことなんだけど。
なんだかすごい。言っちゃうとそれなんだけど。
正親さんの絵は、正親さんが好きで描いてるんだなって感じがするのかもしれない。正親さんが、好きで描くためのものとして、ぼくを選んでくれたらいいのに?
すこし、違うかもしれない。
でもすけべとかえっちとかよりはうんと近い気がする。
すけべにもえっちにも違いないんだけど。たぶんそのすけべとかえっちとかは、正親さんが、描いてるもののことを、そうだと思ったからそういう風に見えるんだろう。
妬いちゃうな。うそ。
「だめ、絵すっごい下手だよぼく」
幼乃は、素足をぺたりと床に下ろした。言いながら紙はくちゃくちゃにまるめてしまって、皺を伸ばして、まだ読めるなあと思ってもう一度くちゃくちゃにする。魚墨はまるで聞こえていないかのように手を動かして、彼の指先で鳴る鉛筆と紙がこすれる音が、しゃっしゃと屋内に響いていた。
くちゃくちゃ。伸ばして。またくちゃくちゃ。
意外と読めるなあ、とか、ほんとうに全く読めなくしてしまうには濡らして丸めて固めてしまうか、燃やすしかないのかと考えはじめる頃。
「好きなものを、好きなように描いて、もっとこう描きたいと思ったらそうすればいい。上手いか下手かは分からないが」
「見せろって言うのかと思った」
「嫌ならいい」
くちゃくちゃにした紙。
日記になんてしなきゃよかった、と、後悔をした。
「また今度でいい?」
「道具は好きに使っていい。いつでも」
「じゃあ、お風呂沸かしてくる」
日記にした紙を丸めて、背中の後ろに手をやって隠す。これは風呂の火口に入れて、なかったことにしてしまおう。また絵を描いてみて、気が向いたら見せてみるのもいいかもしれない。好きにしろというのなら、好きにしよう。
痕が欲しい。けど、自分で用意した。
愛がほしい。けど、たぶん魚墨さんの愛はぼくの愛じゃない。
もらえないのに苦しみながら、傍にいるのも痕かもしれない。茄子と挽肉の炒め物で、正親さんを思い出そう。油揚げと大根の味噌汁で。いつか、正親さんのが美味しいって泣く日がきっと来る。
リビングを出て、素足で砂利を踏みしめる。しばらく痛みを我慢すれば、やわらかな草の生えた風呂回りに着く。薪は入っていた。火種を入れた。火が付いたから、紙を入れた。
薪のそれより軽いのか、ひゅうと吹いた風に、日記の燃え滓が飛ばされる。
未完の黒髪 魚倉 温 @wokura
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