ep.「ほたるび」中編
完璧では、ない。
では、完璧であることと完成品であることの違いは果たして、どこにあるだろう。
まるで魚墨に「出て行け」と言われる数秒前のような顔をして、チープな水色の椅子に膝を抱える幼乃を見る。俯き、撓った首筋。浮いた頚椎。頬に垂れた墨の髪、合間に覗く真っ黒な目。
短刀で削り出したばかりの鉛筆を何度も往復させて、目に焼き付けるよりもはやく、描き出す。
魚墨が幼乃の肘、軽く曲げただけではうっすらとした皺しかつかない細いそこを描き始める頃、幼乃はようやく安心したように、肩を竦めた。
「正親さん、昨日ごめんね」
2人分の食器には狭い食卓に、ご飯茶碗、味噌椀、茄子炒めの平皿を並べていると、彼はぽそりと言う。
熱すぎる炒めを冷ます間だけ、と思って始めたラフスケッチの間に、随分と考え込んでいたらしい。それがどの事についてなのかは分からないが、魚墨は何となく、安易な言葉が必要なわけではなかろうと感じた。
チープな椅子に膝を抱えたまま、きっと薄い胸板をほんの少しずつ膨らませたり凹ませたりして、膝を抱えた腕の中で彼は、長い髪を弄る。
なにか続くかと思ったが、続かない。
「いただきます」
それきりで彼は、しんなりした茄子をつまみ上げた。
茄子を口に入れ、ゆっくりと咀嚼する。
油じみたくちびるに張り付く髪もそのままで、噛みしめる。
何度も、何度もそうして顎を動かしてから、ようやく喉仏が上下する。今度は白米。
同じように何度も噛みしめて、飲み込んで、次に味噌汁。椀のへりにはりついた油揚げを、舌と上唇で挟んで迎え入れる。
昨日の残りの挽肉が固まったのをつまみ上げ、口へ。白米。茄子。白米、味噌汁。
幼乃は、まとめてかき込むことをしない。
茄子も挽肉もお構いなしにまとめて摘んで咀嚼し、味の薄れないうちに白米、ある程度潰れたら味噌汁で流し込む。自分とは大違いだ、と、魚墨は彼の食事を眺めた。
魚墨のは、他に時間を使いたいものがあってのことだ。けれど今になって考えれば、幼乃にはそれがない。
寝て、起きて、めしを食い、風呂に入って眠るだけ。家事の手伝いをすると申し出たこともあったが、危なっかしくて任せなかった。そのせいで、持て余して、食事に時間を使っているのか。
そう考えると、買い物に出た時の浮かれようにも納得がいった。昨晩のことも。その前、洗い場で急にくわえてきた時のことも。
しかし、娯楽はない。
紙と鉛筆ならあるが、余るほどでもない。
口をついて出た言葉に、彼は笑う。
「なに、合コンみたい」
行ったことないけど。
幼乃は、それからまたしばらく黙々と食事を摂っていた。様子が変わったのは魚墨が食事を終え、幼乃がご飯を茶碗に半分ほど食べ終わった頃。
「……ないかも」
ぽつりと彼がこぼした言葉は、流しに茶碗を置く音で消えてしまいそうなくらい、小さな声で発された。
趣味がない、ということをどう感じているのだか、そういう言外を汲み取ることもできないくらい。横目に様子を伺うと、彼は冷えはじめているだろう茄子をつまんで、眺めている。
食べながら、考えて。
食べるのをやめても、考えて。
たとえばその考えを途中でまとめたり、魚墨が絵を描くように外に出せたり。そういったことができないから、考え込んだ挙句に彼は、何も言わないで凶行に走ってしまうのかもしれない。
茶碗に水を溜める。なみなみと満ちて、溢れて流れ出すそのさまが、魚墨にそう思わせた。
もし彼が何か趣味を見つけられたら、その時には自傷も、その傷を喜んで魚墨に見せるようなこともなくなるのではないか。そうやって心身が安定すれば、彼は魚墨の望む姿のまま、生きてくれるのではないか。
そうさせたい、という欲があったわけではなく、ただ未だ記憶に新しい彼の手の甲の傷、それと同じ衝動で今後引き起こされるかもしれない事故を防げれば、魚墨自身のためになる。
そういう、利己的な考えだったかもしれない。
魚墨はひとまず、水の溜まった茶碗を流しに入れっぱなしにして、寝室へ向かった。
寝室の隅には、積み上げた紙束と使いさしの鉛筆がいくらかある。一つずつ手にとって、食卓へ戻る。ためしにやらせてみて、様子を見ようと思ったのだ。
「あ、かくの?じゃあちょっと空けるね」
当人は、戻った魚墨の手にあるものを見ていそいそと卓上の食器を端に寄せる。遠慮か、それとも掴みきれない彼の考え込みの果てか、すこしもテーブルががたつけばひっくり返ってしまいそうな隅にまで追いやられた食器を少しずつ内側へ戻し、紙は適当に折りたたんだ。
斜めの二つ折り。浮かないように鉛筆を重しに乗せて、きょとんとする幼乃の顔を見る。
濁った白い目に誘われないうちに、散らばった前髪を耳にかけ、たわんだその真っ黒で、おぼろな白を覆い隠させる。
「好きに使え」
それだけ言って、魚墨は食卓の椅子を掴み、キャンバスの前に置いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます