ep.「ほたるび」前編
完璧な美しさが壊れることで、永遠に手に入らない完全性を想う人間がいる。完璧な美しさを壊すことで、支配欲を満たす人間がいる。そして、完璧な美しさの破壊の果てに、その不完全性に欲を炙られる人間がいる。
その事実は、古くから変わらない。サモトラケのニケをめぐる騒動にもあるように、完璧を求める人間たちと、先述のような人間たちとは、決して相容れないものである。
魚墨は、黒髪の肖像を一心不乱に描いた。
絵のモチーフが黒髪の肖像となったのがいつだか、正確なことは思い出せないが、記憶にある限りのかつてに類を見ないほどに、のめり込んでいた。
それは、今となってはほとんど間違いなく、寝室を占拠した「黒髪」のせいだ。
その黒髪は呑気で、子どもじみていて、魚墨よりも手先が不器用で、頼りない細腕をしている。けれど、時折陰気に憂えた表情をして、淫靡に熟れた欲を持て余して、折れた指で魚墨に縋る。
決して完璧ではない。縋りつく指が折れていることもそうだが、目は濁っているし、衣服の下には爛れた肌さえ隠していた。魚墨が彼を拾い上げた時には、とっくに蹂躙された姿であった。ーーでは何故、と考えると、きっと彼が美しかったからだ、という、曖昧な答えにたどり着く。どんな芸術品も傷は価値を落とすし、どんな骨董品も、はじめはただの中古品だがーー
思考がよそへと逸れてゆくことを自覚して、魚墨は手を止めた。キャンバスに立てかけたスケッチブックには、昨夜の景色が映っている。髪を乱し、薄い布団の上に散らかし、あおじろい肌を紅くして、半ば泣きながら、それでもこちらに手を伸ばす黒髪。
幼乃がそれらの傷を「他の男の手垢」と言ったことを、思い出す。彼はどんな想いをもって、そう形容したのだろう。
「正親さん、もう夜だよ」
直接問い質そうとは思わないが、気にならないといえばそれは嘘だ。
「ご飯、まだぼくだけじゃ作れないから」
あの光景を思い出し、目の前の彼との差異におぼえた目眩を振り払う。実際のところ、彼は食事くらい作れるはずだ。不器用だが、しばらく側で、自分のことをずっと見ていた。
問題は、技術でなくて気持ちの方だ。
茄子を3本水洗いして、皮に浅く包丁を入れる。いつもなら隣にいるはずの幼乃は、今はキャンバスの前の丸椅子にいた。
チープな色をした安物の、彼専用の椅子をぼんやりと眺めているその横顔は、夜闇に浮き上がる白をしている。軽く沸かした湯にくぐらせた茄子の皮を引き剥がしたときに残った皮と身の色のコントラストが、彼の髪と肌とにちょうど似たような色だ。
フライパンに油を垂らし、温め、ぱちぱちと気泡が浮き始めた頃に茄子を背から並べて、軽く炒める。醤油とみりん、味噌を適量落とし、調味料が熱され立ち昇る香りとフライパンの音に注意を向ける。
香ばしく焦げた香りがして、ぶつぶつと水分の飛んだ音がするのを合図に火を止めた。振り返った先では、幼乃が、先程と全く同じ姿勢をしている。食事を終えたら、描こうと思った。
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