ep.「春泥」後編


 ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったもので、幼乃はあの言葉をこぼした時、あぁまさしく、自分はミイラに呪われたのだと気付いた。

 嫉妬したのだ。

彼の情欲を煽る「歪み」で幼乃を彩った、過去の男たちに。


魚墨のかたく平たい指先が内腿の火傷痕、ほかよりも弾力があり、つやのあるそこを、まるで浮いた静脈をなぞるような手つきでたどる。それだけでぞわぞわと脊髄が沸きはじめるのを堪えるのに背を丸めると、その動きと同時にシーツをひっかいた左手と、うまく曲がらずに取り残された薬指が、掌ぜんたいに包まれる。

手は二つあって当然なのだけれど、と、あらぬところで戸惑う頭の中を、彼の指先がぐちゃぐちゃにかき混ぜた。

具合を確かめるように押し込まれる親指の腹と、律儀に広がり、迎え入れようとする自分の身体。どちらもが思い通りにならないせいで、幼乃は引き攣れたような呼吸を繰り返すことしかできなかった。自覚できたのは、混乱。

 そんなもの、吹き飛ばしてしまいたかった。魚墨の方はとにかく爆発した火のやり場に困っているようで、性急に何度か親指を埋めたり、抜いたりして感触をたしかめただけでもう熱いものを擦り付けていたし、幼乃の方は、抱かれる喜びよりも「彼が自分ではない、過去の男たちの痕」に情欲をかき立てられているのだと感じて、気が狂いそうだった。

 「まさちかさん、」

 はやく。


 陳腐な誘い文句で、熱く、太く、硬く、長い、凶暴なそれを急いたのは、ちょっとまずかったのかもしれない。ゆらゆらと風にゆれるワンピースを眺めて、風に吹かれる。服を取りに行く服がこれしかないことに、気付いたのだ。

 奥まで届いたと思う間もなく一度息が止まったし、かふ、と咽喉があまり聞かない音を立てた。そのうえそれはたしかに「奥」ではあったが「ぜんぶ」ではなかったようで、そのまま割り入ろうと押し付けられると、目の奥が弾けてたまらなかった。思い出すだけで身体が疼き、布団の上で感じたぼこぼこという熱がぶり返す。

 インフルエンザでひどい熱を出して、今ならナカがいつもより熱いんじゃないか、なんてバカをやったときよりもひどい熱が内側を苛む。初めて抱かれ、女として泣き叫んだ日のように、気を抜くと腰が抜けてへたりこんで、そのまま泣き喚いて助けを求めたい、けれどなぜ自分が泣きたいのだかも、誰に、何からの助けを求めたいのかも分からない無形の衝動が頭を埋め尽くす。

 こんなことになるはずではなかった。幼乃は海の中で死ぬはずだったし、幼乃がどんな人間かも知らないで拾い上げたあの男のヒモとしてでも惰性で生きるはずだったし、恋というのはもっと甘酸っぱく胸の弾むものであるはずだった。

 苦しむのは自分ではなく、魚墨の方であるはずだった。

 布団に身体を押しつけられ、股関節の動く限界まで割り入られ、ビジネス用のあまったるい嬌声なんかではない、揺さぶられるままに押し出されてきているような男の喘ぎ声を聞かされ、視界が飛んでいるのだか、涙で見えていないのだかも分からないほどに泣かされて、逃げようとした手も掴まれて、おまけに左手の薬指を掴み、熱い口内、分厚い舌にねぶられ、吸い上げられて、ナカの圧迫感が増すのに喘いだ。


 それを、思い出す。

 どうせ、気にしているのは自分ばかりだ。魚墨の方はまた絵を描いているのだろう。いつもならば彼に食事の催促をしにゆくところだが、さぼったっていいだろう。

 ワンピースの黄色い花は、濡れると山吹の色になる。

 濡れたままの身体に、濡れたままの髪を張り付けて、その上からワンピースを着る。山吹色の咲き乱れた膝を抱えて、足の裏に食いこむ砂利もそのままにしゃがみ込んで。


 「せめて、身体目当てならよかったのに」

 吹き抜ける風に奪われる体温を惜しむように、背中を丸めた。

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