ep.「春泥」中編

 幼乃が立ち上がると、めくれ上がっていたワンピースも自然と落ち着いて、本来のすらりとした裾広がりのシルエットを取り戻す。昼前の陽射しの中では、黒というにはすこし薄い、濃い灰色のように見える地色に、垂らしたものが染みてしまわないかとすこし、心配をする。

 一歩、また一歩。幼乃が踏み出す度にその裾はひらり、ふわりと広がって、なんだかそのままどこまでも飛んで行ってしまえそうな気分になる。このワンピースがつかまえた空気が、自分をどこか、ほんとうに遠いところまで連れて行ってくれるのではないだろうか、と、ありもしないことを夢想すると、足取りが軽くなる。惜しむらくは、幼乃が華奢とはいえれっきとした男性であることだ。きっと、お世辞にもこのワンピースが似合っているとは言い難い。

 足の裏は、家の中の板間のつめたさを離れて、玄関先の砂利の刺すような感覚すらも越えて、今はやわらかい下草を掴んでいる。

 いったいどれだけの長い間、彼に抱かれていたのだろう。

 じっとりと内腿から脚の裏側にかけてを濡らすそれに時折、無邪気な花柄が張り付く感覚がある。浮かれたせいだ。歩幅が大きくなったせいで、中に抱え込んでいたものが溢れた。


 昨晩も、結局はそのせいだった。

 自分の身体と、その痕についてをひとつひとつ語り聞かせて、それでも表情を変えない魚墨の手を引いて「狭い」という文句も聞かなかったふりをして彼を湯船に押し込め、その上に入りこんだ。仲の良い父親と風呂に入ったとしたら、きっとこんな感じなんだろう。そう感じて、それが嬉しくて、幼乃は浮かれて、のぼせた。

 とどめを刺したのは、幼乃の中にあった、やけくそのような激情だ。うまく処理したつもりでいても、やはり、あの女に連れ帰られるくらいならば、彼に追い出された方がずいぶんマシだという気持ちが残っていた、それのせいだ。

 ざぶざぶと、子供のように湯船に波をたてながら魚墨にあずけていた背を離し、狭いそこで身を捩って、伸び始めた髭の感覚を掌に感じながら頬骨を撫でて、彼に馬乗りになったような体勢でしたキス。

 まるで主導権を主張したがったような幼乃の横暴に、魚墨はされるがまま、どこに興奮するポイントがあったのだろうか、というような顔をしていたのも、鮮明に思い出される。


 ワンピースを例の木組にひっかけ、風呂釜に残っていたぬるま湯でこれ幸いと脚を伝うものを洗い流しながら。沸かしたての湯がたてた熱気と、それがこもった昨晩の空気とは似ても似つかない、すっかり乾いた空気で肺をふくらます。

 徹底して不能か、タイプじゃないのだろうというようであった魚墨が豹変したのは、やはり、幼乃の歪みに対してだった。それが、腹の底を熱くするのだ。

 呼吸を食い尽くすようなキスをしても、舌を吸い上げてもしゃぶっても、上あごのいいところを探してみてもまったくダメだったのに、風呂釜のふちに腰かけた時にまず、種火が熾った。その視線は、割箸のストックを切らした時、「買って帰ってくるまでにケトルの湯を掛けておくように」と言いつけた男の痕がある。

 悪い子だ。お仕置きをしなければならない。

自分でできるな?

 そう言った男の顔を思い出しそうになった時、風呂場の冷たい床に座りこんで、沸騰したばかりのケトルを泣きながら傾け、少しでも余分に跳ねたり、傷が広がるのを避けようとした惨めさを想いだしそうになった時。魚墨は、幼乃を抱え上げるようにして浴槽を出た。

 なんだろう、また治療でもされるのだろうか。げんなりして彼の胸板に頭をあずけ、幼乃がぼんやりと星を見上げた時。魚墨の中では、種火が大きく育っていた。

 星を見上げる彼の目のうちの、片方。白く濁った方が、濡れて頬に張り付いた髪の隙間から見えていたからだ。

 星を見つめる真っ黒い片目と、どこをも見つめることなく、筋肉が退化したせいでまばたきひとつもろくにすることのない、常に半開きの白い片目。


 そして、とらわれるまいと足早に寝室へ幼乃を転がした時、火が、爆発するように大きく燃え上がり、魚墨を飲み込んだ。

 薄いシーツにおぼれたようにうごめく、ゆがんだ薬指。ガーゼが剥がれて落ちたせいで露出している、瑞々しい、生々しい、包丁傷の断面。白を犯すように広がるべったりと濡れた黒い髪に、何本か、デッサンの狂った肋骨のシルエットを取る背中。半端に開かれた膝、投げ出された下腿、「抱いて」という涙声。

「好きなんでしょ、他の男の手垢が」

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