ep.「春泥」前編

 

 全身、血液も、細胞の中も、はらわたも、脳みそも、背骨の中のやわい髄液も、すべてが沸騰したような感覚が、じっとりと湿った布団の上に残っている。幼乃にそれらを教えた彼は、もうとっくにそこにいなかった。


 憶えている。

 まだぬるいどころか、冷や水かもしれない、と思った幼乃が風呂の温まるのを待つつもりで外へ出て、薪置き場のささくれだった木組にワンピースをひっかけていた。店のあかりの下では紺色の地に見えていたが、薄暗いとほとんど黒に見えるんだな、なんてことを考えていた。ちょうどその深い地色に白や黄色の小ぶりな花がちりばめられているのがまるで浮き上がるようで、少し感動していた。

 そのワンピースは、腹のあたりでぐるぐるに丸まってしまっているようだ。ごろり。寝返りを打つと、懐かしい痛みが下肢に響く。

 幼乃がそうしてワンピースを眺めて、その花柄は割と雑にプリントされているようで一部が剥げていることや、それにしては細かい枝葉のような緑色が窺えること、なるほどこれはじっと凝視するためのものではなくて、通りすがりの美しさや、風になびいたときに目を惹くような、そういう役割のものなのだろうな、と考えていた時に、魚墨はやってきた。

 彼は果たして何を考え込んでいたのだか、その考えの結果をまったく悟らせない「いつも通り」の顔をして、のそのそと大きな、ぼんやりした熊のような足取りだった。

 「手、風呂に入るなら――」

 きっと、ガーゼを当て直さなければならないからだとか、濡らしてはいけないからとか、そういうふうなことを言いに来たのだろう。

 「どうして。だって正親さんは、好きなんでしょう」

 少しは揺さぶることができるかという下心がほとんどを占めた幼乃の言葉にも揺さぶられることなく。

 「それとこれとは、話が別だ」

 否定はしないが、肯定もしない。ずるい大人の常套句で、幼乃もそうだった頃にはよく使っていた言葉。それが彼の口から出てきたことが、幼乃の精神を逆撫でした。

 「ちっとも別じゃない。――この目はね、首を絞めたり、殴ったりするのが好きな男の痕。彼はそれを許されるなら誰だってよかった。僕じゃなくたってよかった。――この指はね、独り占めしたがった男の痕。彼もたぶん、僕じゃなくたってよかった。許されるなら。――太腿は、泣き叫ぶのを見るのが好きな男の痕。電気ポットって、すぐにお湯が沸くんだ。彼も、お仕置きをする理由があるなら、僕じゃなくたってよかった」

 ひとつ、ひとつ。指さして、彼にようく見えるように、髪はかき上げて、手の甲を向けて、つま先を外に向けて見せた。そうすることで、彼が否定も肯定もしなかったその話がほんとうに「別」なのかを、確認するために。

 「それで、正親さんはどうなの。僕が勝手にやったこれしか、残ってないよ」

 向けた手の甲の、乾き始めて血の色が暗く落ち着いたガーゼを指さした。幼乃のその指先、欠けた不格好な爪、ほそい関節、薄く、ぴんと張った皮膚越しにその内側の肉や血を見つめているかのような、魚墨の視線。

 二人の無言を裂いたのは、風呂釜から湯の溢れて流れる音だった。たった一瞬の表面張力を越えた先には、決壊しかない。

 「一緒に入る?」


 幼乃は、そんな昨晩を思い出しながら、重い身体を叩き起こす。開ききった奥から、うっかり流れ落ちるものがあった。不快とも思わないほど慣れた感覚だったが、それは久しぶりに感じたせいか、早くシャワーを浴びなければ、なんて言葉を脳裏に浮かばせる。

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