ep.「蠱惑」後半


 魚住は、渦巻く思いの何をも言葉にすることなくただ蛇口を捻り、水の勢いを増した。何の抵抗もしない幼乃の手首を握って泡を洗い流し、それが丁度左手であることに気がついて舌打ちのひとつもしたい気分になったが、それも堪えてただ洗い流した。彼の手から水滴が滴るままに、手首を離さず握って、カンバスを張るのに失敗したときくらいしか使っていなかった薬箱を開き、ガーゼと、サージカルテープで傷口を覆い固定する。

 「……なかったことにするの」

 幼乃の声は静かで、まるですっかり冷め切った夫婦間で離婚の話でもしているときのようだった。

 「治すんだ」

 「これは傷じゃない」

 なら、何だって言うんだ。そう言おうとした魚住の唇が、幼乃の唇が触れる。痕だよ、と、笑う彼は何かを恐れるような表情をしていた。今にも死ぬのではないかと思われたあの海辺、死ににゆくのではと思われたあの玄関先でも見せたことのなかった、初めての表情。

 「連れて行かれても、僕にはね、正親さんと椎茸の肉詰めを作っているときにうっかりしたんだ、って痕が残るんだよ。治っちゃったらさ、僕が忘れたらもうぜんぶ無かったことになるから」

 面倒臭いことを言っているのは、幼乃自身にも分かっていた。けれど言わずにはいられなかったし、せずにもいられなかったことだった。面倒臭いやつだ、と放り捨てられるなら、あの女に連れ戻されるよりはずっとましだという気持ちもあった。

 「出て行くつもりはないよ、正親さんが、出て行けって言わないなら」

 ガーゼに滲む赤色を指でなぞりながら、幼乃は相変わらず笑っていた。


 「……冷める」

 魚住のその言葉で、二人はまた台所へ向かった。まだ火を通していなかった椎茸をフライパンに並べ、水を少し入れて蓋をする。脂のはねる音が軽快に、沈黙を隠すように響く。

 幼乃がしていた洗い物は、魚住が引き継いだ。火加減をみるのにフライパンの中の音を聞きながら、細く水を出して静かに洗った。幼乃は食器を持ち出して、買ったばかりの椅子を組み立てた。がさがさいう硬いビニール袋の音、椅子の入ったダンボール箱を開ける時のテープを剥がす音、箱を開く音、椅子を立てる音、全てが沈黙と、気まずさを覆い隠すのに役立った。

 肉詰めに火が通り、ご飯も炊き上がり、作り置きか朝の残りだったらしい味噌汁を温めて、初めて二人でついた食卓は、すこしだけ狭かった。

 「テーブルも買えばよかったかな」

 「作る」

 「そっか、樹はいっぱいあるものね」

 そんな些細な会話が交わされたが、幼乃が肉詰めの味に言及することもなく、好きなのだろうと思っていた味噌汁を飲むときさえどこか上の空な風なのが、魚住には理解できた。だからどうするということもなく、幼乃の方も、どうしてほしいと告げることもなく、食事は終わる。

 「ごちそうさま。……食器洗ったらだめでしょう?お風呂、溜めてくるね」

 魚住は、上の空だとか、ぼんやりしているとか、そういった感覚的なところでしか掴めないでいる幼乃の変化を整理するためと己の中に銘打って、早々に食器を洗い、片付け、テーブルの上に紙を広げて鉛筆を手に取った。


 幼乃が戻ってきたとき、魚住は大きな背中を丸めてテーブルに食いつこうとしているかのようだった。そうでなければ、長年の宿敵たるそのテーブルにいつ食らいつかんかと狙っているかのようだった。いずれにせよ鬼気迫る彼に声を掛けることが憚られ、数秒か、数分か、彼のその背を眺めてから、寝室へと向かう。

 あの女をみとめたとき、幼乃の頭の中を埋め尽くしたのは嵐のさなかに藁の家で暮らすような不安だった。彼女らのいる場所からは、遠く離れたつもりでいた。死のうとして、概念的に遠いところへ行こうとして、それはできなかったがすっかりあの都会からは離れてしまったような安心感に埋もれていた。これまでの人生も、人間関係も、不運も不幸も嘆きも恨みも何もかも捨てて、彼、魚住のことだけを考えて生きていけると思っていた。

 それはあんまりにもばからしい、実現する可能性なんて小指の先程もない夢なのだ、と、告げられたような気持ちだった。

 調子に乗って買った、花柄のワンピース。

 浮かれた自分の頭の中を笑うようで、無性に腹が立つ。

 ずっとここで暮らすつもりだったし、そのために服や、家具を買った。それを許されるくらいには魚住は優しいか、懐が深いか、さもなくば自分に興味がないのだろうと思っていたが、もし前二つのどちらかだったとしたら、彼は自分を街へ帰すのではないだろうか。切った理由が、それだった。

 彼に忘れられてしまったって良い。自分が覚えてさえいれば良い。自分が、彼のことを、どうあっても忘れられないのだという安心感さえあればいい。


 白く濁った目を見る度に、首を絞め顔を殴るのが好きだった男を思い出す。歪んだ薬指を見る度に、将来の約束など誰ともできないようにと折った男を思い出す。それと全く同じように、今度は自分の手で、彼の痕を残したかっただけだった。

 「……どうしようね」

 ワンピースを持って、外へ出る。

 湯はまだできていないが、軽く浴びてさっぱりしようというひらめきに、簡素なつくりのワンピースが丁度良かった。

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