ep.「蠱惑」中編


 なんて、言おうかなあと思ったんだけど、やめておくね。

 幼乃はそうして、どこか照れくさそうに笑った。


 そして、ふたりで連れ立って帰路を逸れ、牛と豚の合い挽肉を買った。チャーシューとか、角煮とか、と、幼乃ははしゃいだように惣菜の陳列棚を見て言う。

 「正親さん、これって作れるの?」

 大人のなりをした子供、のようだった先程までとは違って、その時の幼乃はただの子供のように目を丸く、首を傾げている。結局彼はどちらなのだろう、と、魚住は冷静に考え、応えた。

 「無理だな」

 すかさず「なんで?」という幼乃には、不思議そうな顔をした店主のことなど見えていないのだろう。挽肉をパッキングしながらちらちらと、視線が寄越される。設備と、調味料と、時間と、レシピがないからだ。それ以上の追求を避けるため、この一回で理解させるために彼の目の前で指を一本ずつ、立ててみせる。

 幼乃は、そっかあ、と言ってそれきり。

 店主は、買っていくのではないのか、と、興味を無くしたかのようにパッキングの手を進めるようになった。

 魚住もまた、買ってくれ、と言われるのだか作ってくれと言われるのだかすると思っていたものだから少し拍子抜けの気分だったが、それはそれでいい、と、店主の差し出した袋を受け取り、代わりに紙幣を渡す。


 きっかり千円分の挽肉は重い。何グラムあるのかは分からないが、この分だと肉詰めを作っても例えばそぼろとか、ご飯のお供を作って置いておくくらいのことはできそうだ。

 料理をするのが趣味というわけではないが、魚住は今度こそ帰路につき、考える。そぼろは大抵鶏で作るが、合挽きだと少々脂がきつすぎるだろうか。幼乃は若いから、脂があるほうがいいのだろうか。そうだとしても自分にはすこしきついかもしれない。

 散々考えても、結局、行き着くのは「やってみなければわからない」という結論だった。何を描くときも、描けるかどうかよりまず手が筆を持つ。きっとそれと同じで、やってみるうちに分かることもあれば分からないこともあるが、やらなければ「分からないことすら分からない」。

 ひとり、思考の中に沈み嘆息する魚住を見ながら。

 幼乃は声を掛け続けていた。

 「今日も手伝っていい、正親さん」

 「椎茸、大きいのじゃないとあんまりお肉が入らないね」

 「食べるときはさ、顎外れないように、気をつけないとね」

 「あぁ、楽しみだなあ」


 魚住は幼乃の呼びかけを聞いていたか、と問われると返答に困るくらいだったが、それでも当然のように、ふたりは台所に並んで立った。幼乃が先に手を洗い、彼が材料を取りに行っている間に魚住が手を洗う。幼乃が材料を水洗いしている間に魚住は火と刃物の準備。魚住が茎を切った椎茸の笠のところに幼乃が挽肉を詰め込んで、それを魚住が焼く間に幼乃は洗い物をする。

 海にいたからだろうか。それとも、あそこで拾い上げる前は手入れでもしていたのだろうか。水仕事も然程させてこなかったはずだのにあかぎれの出来始めている彼の手を、魚住はずっと、見ないようにしていた。ただ穏やかな時間の流れる中で、友人として、料理をしているつもりだった、その時のことだ。

 「あ」と、幼乃の声がした。

 たとえば、手を滑らせて箸がゴミの中に刺さってしまった時のような声だった。皿を落とした時よりもうんと危機感のない声。もう一回、ゴミの中に落ちたなら洗って、ついでに洗ったスポンジを捨てて新しくすればいい。皿が割れたのとは違うのだから。そういう風な声だったが、ちらりとそちらを見た魚住の視界に映ったのは全く予想外の光景だった。

 「お前、」

 目を見開き、そこを凝視する。

 そんなことをしている場合ではないのだと自覚し、火を止める。

 「うっかりしてたんだ」

 言葉と表情が、全く、一致していなかった。

 何かを乞うような、ねだるような。絡めとるようなどろりと重いものを目の奥に湛えて、幼乃はうっそりと笑っていた。なぜそんなことをした、だとか、うっかりなはずがない、だとか、言葉は思い浮かんだが、それらは魚住の喉を震わせることがなかった。親指の付け根、甲の側。斜めに入った切れ込み。泡が赤くなり、しぼんでいく。

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