ep.「蠱惑」前編


 ヨウ、というのは、源氏名のようなものだ。

 本名はヨウダイ。幼いに、線が折れている方の乃と書く。それの頭半分をとって、ヨウ。あの日自分をその名前で呼んだ女に、幼乃は目の前が真っ白になるような感覚を抱きながら声を上げた。

 「折角お前らの前からいなくなったっていうのに、なんだよ。お前らは、お前は、僕に会いたくて仕方がなかったっていうのか?そんなわけない。金は足りてた、僕は使い物にならなくなった、でも僕じゃないとだめだって物好きはあいつだけだった!」

 激情に、何もかもが押し流されていくような感覚があったのだ。今まで澄まし顔か、発情した顔か、死にたかった時の顔しか見せていなかった魚住が自分のそんな様子を見てどう思うかなんていうことさえ、流されていった。嫌われてしまうかもしれない。そんなことさえ流されて、残っていたのは「いい加減にしてくれ」という叫びだけだった。

 力任せに女の腕を振り払い、取り落とした荷物をその硬めのビニール袋がやかましく騒ぐのも気にせずに引っ掴んで、一瞬だけ帰ってきた理性が「ここで正親さんを引き合いに出すと彼まで取り上げられる」と囁かれるままに彼のすぐ脇をすり抜ける。

 それから幼乃は、自分がはたしてどこから来たのか、それさえ分からないことに気付くまで何かから逃げるように歩き続けた。そして、気付いた瞬間に泣き叫びたいような衝動に駆られて人並みの中立ち尽くし、邪魔だと押されるままにたどり着いた道の端で座り込んだ。


 雑踏に紛れる幼乃を見つめる魚住には、女の声がかかった。

 「……やめた方がいいよ、おじさん。見てて分かったと思うけどさ、おかしくなったんだ、あいつ。昔はあんなじゃなかった」

 視線を向けることもなく、返事をすることもない魚住だったが、女もまた魚住に視線を向けることも泣く、返事を期待する言葉を発することもない。

 「聞いた限りはハードな人生だよ、闇って感じ。でもあいつ、それに満足してるからきっと抜け出せないんだ。おじさんも巻き込まれる。三人、四人だったかな、もうわかんないけど」


 あいつの心中未遂に付き合わされたやつ。

 少しは動揺もするだろう。彼から離れようという気にもなったかもしれない。そんな期待を込めて女が魚住に視線を向けようとしたとき、その分厚い肩が視界に入った。

 どこまで話を聞いていたのかも分からない。どこまで理解したのかも分からないが、魚住はそのまま、雑踏に紛れていった。


 「晩御飯、なに?」

 道端に座り込んで、抱え込んだ膝と自分の身体の間に、何かから守るように買い物袋をしまい込んだ幼乃の姿を見かけたのは、それからいくらも経たないうちだった。下手に迷子にでもなっていたら見つけ出すことはきっとできない、そんな状況だったものだから、丁度良かった。

 そんな風に思うと、自然と、言葉が口をついて出る。

 「丁度良い」

 何が?と、真っ当な疑問を口にして首を傾げる幼乃。何が丁度良いのか、何と伝えたものか、考え始めると面倒になって、魚住は黙りこくった。

 食事の用意が二人分になって、できすぎた野菜を畑の肥料にする必要が減ったことだろうか。採りすぎたそれらを腐らせたり、融かしたりするのが減ったことだろうか。それとも、折角買った家具や服が、無駄にならずに済んだことだろうか。帰り道に座り込んでいたから、探したり、迎えに行ったりする手間がいらなかったことだろうか。

 「陽、暮れてきたね」

 もし彼がここにいなかったら、自分は彼を探したり、迎えに行ったりするつもりだったのだろうか。答えの出ない問いばかりが浮かんで、消えもせずその場に留まって、他のさまざまなことから視線を逸らさせる。

 「時間だ」

 「帰って、ご飯作って、食べて、それから?絵、かく?そしたら良い具合に寝る時間になるかも。……正親さんが寝るなら、丁度良いね」

 絵。幼乃の何気ないひとことで、魚住はひらめく。絵に描けば、何かが整理されて名前のついたものになるのではないだろうか。

 幼乃は魚住の少し後ろを、魚住の一歩の間に二歩分の音を立ててついてくる。一歩と半分の間隔かもしれない。その表情を見るために振り返ることはしなかったが、うっかり置いていかれないようにと彼が掴んできたシャツの裾を、伸びるから、など理由をつけて放させようと思うこともなかった。

 自分が絵を描くのがある種の自然な行為であるのと同じように、彼が自分の生活にあるのもまた自然なことであるかのように、ふと思う。

 「……挽肉」ぼそりと呟き、帰路からそれて行く魚住の背中を、幼乃は追いかける。

 「ハンバーグ?」

 「肉詰め」

 「ピーマンきらいなんだけど」

 「……椎茸は」丁度方向転換をした先にいたものだから、幼乃の顔が見えた。どこか遠くを見るその表情は、石膏等ではなく陶器でできているようだと感じる。夕暮れを浴びる彼のワイシャツの奥、大きく開いた胸元に垂れる黒髪。段差のある川かなだらかな滝のように彼の鎖骨を流れる墨色。

 「すきじゃないけど、ピーマンより食べれる」

 その持ち主は、何を思いどこを見ているのかも分からない目をしている。子供のようなことを言いながら、大人のような容貌をしている。

 穴があくほどの熱量をもって見つめていたわけではないが、幼乃は魚住のその視線に気付いてか、するりと振り返り笑った。

 「抱いてほしいなあ、って、思うんだけど」

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