8月7日


 日常は容赦なく訪れ、わたしもみんなも飲み込んでいく。


 月曜日のこの日は、十時過ぎにみんなで家を出て、お爺ちゃんがいるお墓に行って、お婆ちゃんを納骨した。

 御影石は日光をてりってりに反射して鏡みたいで、お爺ちゃんの頭を思い出させた。

 お坊さんが大汗を掻きながらお経をあげて、新しい卒塔婆が増えて、みんなでお線香とお花を供えた。

 ここ数日で何度も見た煙は、閉口するような熱風に流されてあっという間に消えた。


「とりあえず一段落だなあ」


 お父さんがため息を吐きながら誰にでもなく言う。

 初七日とか四十九日とか、そういう節目もあるけれど、親戚も全員集まれるわけじゃないみたいで、やっぱり、わたしはお婆ちゃんが現実から、この世界から取り残されていくんだ。と言う思いを変えることはできなかった。

 折角だから、とお墓から少し行ったところの美味しいと評判のおそば屋さんでお昼ごはんを食べて、残っていた親戚の人たちは帰って行った。


 家に帰ってきて、居間に行く。

 つけっぱなしだった灯籠。人の気配が圧倒的に少なくなって、声を潜める必要もないくらい。


 今、家にいるのはお父さん、お母さん、わたし、お姉ちゃん、お義兄さん。チロ。

 お義兄さんは、出産を控えたお姉ちゃんを残して明日、東京に戻るらしい。

 そうなれば、何ら変わらない日常がやってくる。お婆ちゃんがいないだけ。

 ぽっかり穴が空いたように、お婆ちゃんはいなくなってしまった。

 でもしばらくすれば『それが普通』になるのだろう。お爺ちゃんの時もそうだった。


「それが普通……か」


 水たまりに石を投げると、石が落ちた瞬間は大きく揺れて水面がざわめく。

 けれど、波紋がいくつか起こったらすぐにまた静かになっていく。

 わたしは思わずそんなことを連想してしまった。


「あ……それだけじゃないや」


 わたしは、お姉ちゃんがもうすぐ赤ちゃんを産むと言うことを忘れていた。

 人が産まれると言うのは、人が亡くなるよりも、もっと劇的に変化を生むだろう。

 生と死で決定的に違うのは、生は変化を生み続けることじゃないかと思う。

 赤ちゃんが産まれて、泣いて、笑って、目を開けて。押し寄せる波のように訪れる生の変化に、お婆ちゃんの死が産んだ変化は広がっていく波紋の先端のように、呆気なく遠くに運ばれてしまう気がした。

 そして変化は、きっとすぐに日常に溶け込んでしまう。

 赤ちゃんがいるのが普通になって、お婆ちゃんがいないのが普通になって。

 それで、しばらくしてお姉ちゃんが赤ちゃんを連れて東京に戻っていったら、わたしはとっても寂しく感じちゃうんだ。


 お婆ちゃんがいない変化にその頃になって気づいて、泣くんだ。


 変化は溶け込んで、手のひらからもするっと零れて、感じなくなってしまうのかもしれない。感じとれなくなってしまうのかも、しれない。


 それでもわたしは、手のひらを硬く握っていきたい。

 なにかはわからないけど、今ならわかる気がする。

 そこに大切なものがあるような気がしてならないのだ。

 それがお姉ちゃんが言った『大人が束になっても敵わないもの』かもしれないし、違うかもしれない。気にしていても、いつかわたしの手から零れちゃうかもしれない。

 それでもわたしは、手のひらをギュッと握って、歩いていく。

 すべてを覚えていることはできないけれど、それでもこの三日間を忘れないようにしたい。いつか大人になって諦めて手のひらを開いたら、結局何にも残っていなかった。ってことにならないようにしたいって、そう思った。


 一昨日、昨日と閉じられていた障子が開けられ、煌めく光が縁側を焼いて満ちている。その先では白い雲を背負っている切り絵のような柿の木の影で、昨日とは違う蝉が今日も日光を歓迎する歌を歌っていた。


 昨日も、今日も、明日も、その先も、すべてが一つずつ、一秒ずつ繋がっている。

 繋がった先のわたしの未来がどうなっているのか分かるはずもないし、自信もないけれど、大人になったときに今日のことを思い出して『あの頃は良かった』って振り返るんじゃなくて『今も悪くない』って思えるようにしたい。


「応援してね、お婆ちゃん」


 白い仏壇に向かって線香を立てて、手を合わせて拝む。

 どこかに切なさを感じているわたしに向かって、写真の中のお婆ちゃんは揺れる煙の中で笑っていた。

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いつか、思い返す夏 県北 @kenhoku

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