8月6日(2)
柱時計がボーン、ボーン……と、八つ鐘を鳴らす。
昼間、あれだけ人が詰めていた居間は、襖を入れて二間続きじゃなくなったのに、広くガランとしていた。
青白い灯籠がくるりくるりと律儀に回り、昨日設えられた白い祭壇を、誰も見ている人がいないのに飾っている。
その中心には、刺繍の施された白い布箱と、黒い位牌。
昨日、そこに横たわっていたお婆ちゃんは、写真の中で笑っていた。
「……」
廊下の向こうから、人の声が小さく聞こえてきている。
その反対側からは、くぐもったシャワーの音。
疲れたからとお母さんはお風呂に入り、お父さんは残り物のお寿司をつまみに、これまた残り物のビールを、お義兄さんや叔父さんと飲んでいる。
襖で仕切った隣の客間からは、叔母さんが布団を敷いている音が聞こえた。
今日帰らなかった親戚は、明日の納骨と一緒にお爺ちゃんのお墓参りをして帰るらしい。
現実世界に生きる人たちは、急ぎ足で元の生活に戻ろうとしていた。
「裕希、ここにいたんだ。お婆ちゃんと話でもしてたの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど……なんとなく」
体育座りをしてぼんやり祭壇を見ていたわたしの視界に、パジャマ代わりのワンピースを着たお姉ちゃんがひょっこり顔を覗かせた。
タオルを肩に掛けて、片手にうちわを持って、よっこいしょうとわたしの隣に座る。ほんのり暖かいのはドライヤーの熱なのだろう。
「今日はお疲れさま、なんかあっという間だったわね」
「そうだね。お姉ちゃんこそお疲れさま。昨日来てお通夜とお葬式でけっこう疲れたんじゃないの? 体は大丈夫?」
「平気よ。気にしてくれてありがと」
にっこり笑うお姉ちゃん。そして、ぽんぽんとわたしの頭を軽くなでた。
「裕希は凄いねー」
「え?」
驚いて振り向こうとするよりも早く、お姉ちゃんはわたしの肩に手を回してもたれかかってきた。
「火葬場でお婆ちゃんとお別れした後、裕希が泣き崩れたじゃない? 人目も憚らずわんわん泣いて、まるで子供みたいに」
「あー、うん。今思うと恥ずかしいんだけど……でもどうしてそれが凄いの?」
「あれだけ純粋に、お婆ちゃんに対して『悲しい』って感情をまっすぐ表現したでしょう? お別れの時は泣かなかった叔父さんたちも、あんたの姿を見てみんなもらい泣きしたのよ」
「あたし、いつの間にかそういうこと忘れてた……ううん、忘れてたと言うより、しないように意識することを覚えちゃったのね」
「色々かっこつけることばかり覚えてね、大人になっちゃうってこういうことなんだって思い知らされて、ちょっと悲しくなっちゃったわ」
ため息と自嘲の混じったような声。お姉ちゃんの体温が暖かい。
「そんなこと言われてもわかんないよ。あの時はわたしだってよくわかんないけど、いろんなものが心に突き刺さった感じがして、もうどうしようもなくって、あんな風になっちゃっただけなんだもん」
正直、どうしてあそこで泣き崩れるほど泣いたのか今でもわからない。ただ、お婆ちゃんとの距離がどんどん離れていくのがとても悲しくて、もうどうしたって会えないんだと思ったらああなっただけ。
「そっか、でもきっとそれが裕希のいいところよ。よくわかんなくてもまっすぐ正しい気持ちが出せるのって、とても素敵。あたしなんか逆立ちしたって敵わないもの」
「あたし、この子にはあんたみたいに育って欲しいかな」
「えええっ!?」
お姉ちゃんがお腹を撫でながらそんなことを言ったので、本気で驚いてしまった。
「わたし勉強とか全然ダメだよっ!?」
「勉強はどうにかなるわよ。似て欲しいのは素直な性格とか、心の優しさとか、そういうところ」
「あたし、裕希のこと意外と高く買ってるのよ?」
「そ、そうなんだ、ありがとう。はえ~、びっくりした」
驚嘆のため息を吐いていると、お姉ちゃんはクスクスと笑い、そしてそっと目を細めた。
「そんな裕希も、いつかは大人になるのよね……」
「大人かぁ……わたし、なれるのかなぁ」
「なれるわよ。でも、願わくば大人になっても、今のような心を持った人でいて欲しい。って言うのはあたしのわがままかな」
優しい笑みを浮かべてそう言ってくるお姉ちゃん。
とはいうものの、まだ大人になっていないし、今のような心がなくなると言うのも全く想像がつかないので、
「よくわかんないよ」
としか言いようがなかった。
「あははっ、そりゃそうだわ。とにかく、あたしは今の裕希が好き。ってこと。大好きよ」
ぎゅっと抱きついてくるお姉ちゃん。
「おわぁ、お姉ちゃんに高く買われた上に告白された。わたし告白されたの初めてだよ」
「ヤバ、あたし旦那いるのに高く買った挙げ句コクっちゃった。もうすぐ子供が産まれるのに!」
「うわ~っ、浮気だ~!」
「あたしは人妻なんだから不倫って言えこの~っ」
「あっはははははっ」
二人してじゃれあって笑い合う。昨日から色褪せていた居間に、温もりが少し戻ってきた気がした。
「とにかく、もうすぐ産まれてくるこの子のこと、よろしくね」
「あ、うん。よろしく、わたしのことは裕希お姉ちゃんって呼んでね」
お姉ちゃんのお腹を覗き込んで挨拶をすると、お姉ちゃんはもう一度、楽しそうに笑った。
「裕希も今日は疲れたでしょ。お母さん、もう出たみたいだからお風呂入っちゃいなさいよ」
「そうするー」
もたれかかっていたお姉ちゃんの程よい重みがなくなって、わたしは立ち上がった。
着替えを持って脱衣所に行く。そこはしっとり熱を持って潤んでいた。
シャワーを浴びて湯船につかると、汗でどこかピリピリしていた肌が溶けるのと同時に、気持ちもゆったり解けていった。
「はぁ~ぁ……」
ちゃぽんとお湯の音がして、吐息がこぼれる。
湯気が抜けていく小窓の向こうから、夜の田んぼで鳴く蛙の声が、昨夜と変わらず果てなく響いていた。
今日も暑かった。
きっと、明日も暑い一日だと思う。
今日はお婆ちゃんの歴史に完全にない日。明日も、ない日。
一日ずつ、一秒ずつ積み重なって、どうしたって時間の波には逆らえなくてさらわれて、一昨日の夜まで密着していたわたしとお婆ちゃんとの距離が刻一刻と離れていく。
どうしようもないことだと分かっているけれど、やっぱり涙がにじんだ。
「ぷはぁっ」
お湯で顔を洗って、静かに目を閉じる。お婆ちゃんはもう、完全に心の中で語りかける人になっていた。
昨夜、月明かりの下でお爺ちゃんと会えたのなら、今夜はもう、天国に着いてるかな。
お婆ちゃん、天国はどんなところですか? お爺ちゃんは相変わらずお酒が好きですか? それと、久しぶりに会ったお兄さんはお元気ですか?
「……死んでる人にお元気ですかって聞いたら、やっぱり変かな?」
あごの先までお湯につけながら、ふとそんなことを思った。
でも、他に言い方がわからないから、わたしはこれで良いような気がした。
柔らかいお湯が、昨日から色々突き刺さって傷ついてわんわん泣いていた心を、じわぁ……とゆりかごのようにほんの少し慰めてくれた。
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