8月6日(1)
翌日。
理科の授業で習った、海王星のような鮮やかな色の青空に、太陽系を支配する中心からの爆発光が容赦なく降り注いでいる。そして早くも入道雲が、今日も空を我が物顔で歩き始めていた。
室内にいても九時の時点ですでに汗が浮かび、薄い胸元を玉の雫が落ちていく。
わたしは高校の制服を着て、座布団がいっぱい敷き詰められた二間続きの居間の片隅に正座していた。
お姉ちゃんは地味なワンピースに黒いカーディガンを羽織って、わたしの隣で椅子に座ってじぃっと奥を見ている。
そこには小さな祭壇。白木の棺が据え付けられ、その上には穏やかに笑うお婆ちゃんの写真が飾ってあった。
お婆ちゃんの歴史の中で完全に『ない』日となった今日は、蝉が鉢のように空気を振るわせるいつもの暑い日を予感させた。
昨日来られなかった親戚の人が来て、十時にお坊さんが来て、お婆ちゃんの知り合いや近所の人も来てくれて、お葬式が始まった。
お経とお線香が、生きている人の想いを満たすように焚かれていく。満たしているのは自己満足なのかもしれないけど。
その後、棺にお花や民謡のノート、踊りの扇子など、お婆ちゃんが大切にしていたものがいくつか入れられた。その中に、お兄さんの白黒写真も入っていた。
十二時前に、一目でそれと分かる……いわゆる霊柩車にお父さんと叔父さんたちが棺を移した。
わたしたちは霊柩車の後を、農協のマイクロバスに三十分くらい揺られて、山裾の地味な公民館みたいなところに連れて行かれた。
そこが火葬場だというのは、言われなくてもわかった。
シンプルで決して派手にならないよう気を配ってあるクリーム色の壁に囲まれた広間に、お婆ちゃんを中心としてみんなが集められる。
そしてもう一度、お坊さんがお経をあげて、火葬場の係の人が「最後のお別れです」と言った。
みんな棺の前に集まって、お婆ちゃんを見ていた。お母さんが涙を浮かべながらお婆ちゃんの頬をそっとなでたり、叔父さんが手を握ったりしていたのを、わたしは少し離れたところで見ていた。
「裕希、いいの?」
「うん……」
同じように見守っていたお姉ちゃんの言葉に、よくわからないけどそう返事をした。
そうして、棺が閉じられると、お婆ちゃんは台車に乗って、頑丈そうな扉の中に入っていった。
クリーム色のホールの中、扉は固く閉じられる。
ガチャリと、冷たい鍵のかかる音がした。
係の人が深くお辞儀をして、「一時間ほどお待ちください、控え室にご案内します」とひっそり言ってわたしたちを促すと、お父さんや親戚の人たちがそれに続いて歩き出した。
人が、去って行く。お婆ちゃんを置いて、部屋を出て行く。
一人去り、二人去り、そしてホールの広さを感じた瞬間、わたしはもう、どうしようもなくなってしまった。
視界が一気にゆがみ、足元から崩れ落ちていく。
「えぐっ……ひぐっ、おばあちゃぁぁぁん!! うわぁぁぁあぁぁぁぁぁぁん」
自分でもよくわからない。最後のお別れの時はどこか蝋人形のように冷たく、あんなに不思議なほど冷静でいられたのに。
わたしはもうお別れをしたから。なんて勝手に思っていたのに。
お婆ちゃんが姿を消した目の前の扉が、まるでこの世をあの世を分かつ扉のように感じて、もう、本当にお別れなのだと、実感してしまって。
みんなが去って行くのが、お婆ちゃんをここに置き去りにしていくように思えて、お婆ちゃんがわたしとは決定的に違う時間、違う世界に行ってしまったのだと悟ってしまって。
高台で叫んだ時とは違う、暗闇の中の崖のような絶望にうちひしがれて、わたしは扉の前で一人泣き崩れた。
「裕希……」
「ひぐううううっ、えうぅぅっ、うっ……うえぁぁあぁぁぁぁあっ」
残ってくれたお姉ちゃんが、わたしの肩をそっと抱いてくれる。ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる。
その温もり、柔らかさ、匂い、呼吸の音、膨らむ胸の鼓動、そしてぎゅっと抱きしめてくれる指先。
「裕希は優しいね。きっとお婆ちゃん、一番喜んでるわよ」
「うぁぁあああああっ、おねえぇちゃぁぁんんっ」
少しかすれ気味のお姉ちゃんの声に縋り付いて、どうしようもなく声があふれ出す。
本当に、本当にお別れなんだ。
昨日からずっと、お婆ちゃんとお別れだというのは分かっていたつもりだった。別れの挨拶もした。
でも、目の前にお婆ちゃんはいた。
お人形のように黙ったままだけど、たしかにいた。
寝ているときと変わらず、今にも起き出してきそうな感じで、いたのに。
それが今、いなくなってしまった。
硬い扉の向こうで、低いゴーっと言う音が聞こえてくる。
お爺ちゃんの時もそうだった。扉から出てくるときはもう……お婆ちゃんはいない。どこにも、いない。
お婆ちゃんはその音の向こうに、絶対に手の届かないところに行っちゃったんだ!
「おばあちゃぁぁぁぁんんっ、うぁぁああっ、ひくくくっ、ひぐぅぅううっ」
頭の中で、何か心の奥底の、魂の悲鳴のようなものが鳴り響いて止まらなかった。
「……うん」
ぽんぽんとお姉ちゃんが何度も背中を優しくなでてくれる。時折鼻をすする音をさせながら、暖かく包み込んでくれる。
「裕希は……本当に良い子だね」
震えながらそう言って、お姉ちゃんはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「うわああああぁぁぁぁ……」
悲しいときの優しい温もりは深い扉を開けてくれる。
わたしは胸の中で、熱い涙を感情に任せて、産まれたての赤ん坊のように、ただ、ただひたすらに泣いていた。
一時間後、係の人が再びひっそりとした声を掛けてきて、わたしたちはもう一度ホールに向かった。
目を真っ赤にさせながらお姉ちゃんと一緒に向かうと、そこには金属の台があってお父さんたちが取り囲んできた。
牛乳の膜のようなうっすら青い色の壺があって、長い菜箸のようなものがあって。
お母さんに勧められたけど、わたしは黙って首を振って、ホールの片隅でその光景をみていた。
壺はお父さんの両手に提げられるほどの木箱に入ってしまう。
それはもう、お婆ちゃんではなかった。
壺に納められて、木箱に収められて、息をのむような暑い沈んだ空気の中、火葬場を後にする。
帰りのマイクロバスから見える沿道の景色はまったく田舎の盛夏だけれど、窓枠で切り取られたそれはどこか別の国を描いた絵画のように見えた。
再び家に帰ってきたお婆ちゃんは想像していた通りとてもコンパクトで、お婆ちゃんと言うよりは、それはもうマスコットのようなものだった。
少しして、遠方からやってきた親戚の人たちが帰り支度を始めた。
明日は月曜日だから、今日中に帰りたいのだという。
お父さんが車を出して、駅まで送っていく。
それは田舎に帰省して再び自分の生活圏に戻っていくような名残惜しさとは違って、叔父さんたちの背中には、疲労が滲み出て見えた。言葉にすると『やれやれ』だろう。
そんな後ろ姿を見送るたびに、わたしは生前と死後の扱いの違いというか、無意識の格差みたいなのを痛いほど感じてしまうのだった。
そして『残っている人は生きていくために働かなきゃならない』というお姉ちゃんの言葉が、悲しいほど胸に染みた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます