8月5日(3)





「ちょっと裕希!」

「痛ぁっ!」


 波紋一つ無い水面のような穏やかな意識が、強烈な刺激で引き裂かれる。

 海で呼吸するようにガバッと起き上がると、お姉ちゃんがベッドの前で仁王立ちになっていた。


「なーんであんたがベッドに寝てるのよ。今晩はあたしに貸してくれるって約束でしょ?」


 腰に手を当ててわたしを睨み見下ろしている。大きなお腹が存在感を増してわたしに迫ってくるようだ。

 その下で、わたしの足の甲がモミジの形にピンク色になっていた。


「あ、お姉ちゃんごめん。いつもの癖でついうとうとしちゃった」


 足の甲を擦りながらスプリングを軋ませて腰掛けるお姉ちゃんと入れ替わって、横に敷いてある布団に降りる。温もりの無い敷き布団はひんやりしていた。


「ま、いきなり押しかけてきたんだから謝るのはあたしの方なんだけどね。んしょ……っとぉ、ベッド貸してくれてありがと」


 お姉ちゃんは寝転がるのも一苦労といった感じで、重い身体をひじで支えながらベッドに横になった。仰向けでもこんもり盛り上がっている大きなお腹にタオルケットをかける。

 このお腹に赤ちゃんとはいえ、人が一人入っているんだもん。凄いよ。

 そんな風に見ていると、お姉ちゃんは横向きになってこっちを向いた。


「もう寝る?」

「さっきので目が覚めちゃったよー」

「あははっ、ごめんごめん。じゃあもう少し話でもしよっか。一緒に寝るのなんて何年ぶりかしらね」

「少なくともわたしが小学生の時以来だよね」

「そうね。で、なんかない?」

「いきなりそんなこと言われても」

「何かあるでしょ? 裕希らしい子供視点の話とか」

「またそーやって子供扱いするー」


 クスクスと笑うお姉ちゃん。髪が長くてスタイルも良くて成績も良くて人気者で、七歳も歳が離れているから常に大人っぽく見えて、わたしのあこがれだった。

 東京に行ってからは年に数回帰省するくらいで、わたしが見ない間にさっさと進学して就職して結婚して、今度は赤ちゃんまで産んじゃうっていう、人としての進みの早さが、人生の目標にしっかり向かっているように思えて、とても眩しく見える。


「…………」


 わたしはどうなるんだろう。高校に進学して、勉強は難しくなったし、吹奏楽部は楽しいけれど、将来の夢って言われると……なんだろう。

 よくわからないまま大人になって、何も出来ないまま歳を取って、ぼーっとしてる間に誰かと結婚して赤ちゃん産んで……今日のお婆ちゃんみたいに死んじゃうのかなぁ。


「どうしたの? ぼーっとして」

「あ、ううん、なんでもない。ところでお義兄さんは何してるの?」

「さっき歯を磨きに行ったら、お父さんと二人でお婆ちゃんの前にいたわよ。線香番なんだって」

「線香番って?」

「お通夜の夜に一晩中、お線香を絶やさないように見ているんだって。夜中になったら先に休んでいる叔父さんたちと変わるって言ってたわよ」

「へー……でも、お父さんと二人っきりだとお義兄さん、あんまり落ち着かなそうだねー」


 お姉ちゃんがさっさと結婚を決めてお義兄さんを連れてきた時、お父さんは「そんなに早く結婚しなくてもいいんじゃないか?」とあんまりいい顔をしなかった。

 でも結局はお姉ちゃん持ち前のバイタリティの前に折れたのだけど……。

 そんな経緯があるから、二人はぎくしゃくしてるんじゃないかなぁ。


「ふふっ、そうでもなかったわよ。残っていたビールをそれとなく互いに注ぎ交わして、お通夜の後だから賑やかではないけれど、ぽつ、ぽつと話をしていたわ」

「しっとりとした、しめやかな晩餐とでも言うのかしらね。あたしは意外と好きだなぁ」

「ふぅん……」


 わたしにはその光景がよくわからないけれど、お姉ちゃんがしんみりと満足げに頷いているから、きっと悪くないことなのだと思った。


「それでお義兄さんとお父さんがもっと仲良くなるといいね」

「なるんじゃない? この子はお父さんにとって初孫になるわけだし、そうなったらもう少し頻繁に帰ってくるつもりよ」

「それに祖父母は初孫にとてつもなく甘いって聞くし、ふふ……」

「うわ……お姉ちゃん。お父さんたちに色々たかるつもりだ」


 用意周到な企みにちょっと引いていると、お姉ちゃんはあたしの目を見てニヤッと笑った。


「それに、あんたもオバサンになるんだよねー。よっ、オバサンデビューおめでとう!」

「やだーっ、ちっとも嬉しくなーい!」


 お姉ちゃんが妊娠したと聞いた時、おめでとうと思ったけれど、同時にその子から見たらわたしはオバサンになるんだと気づいて、とてもげんなりした覚えがある。

 オバサンって四十歳くらいの人のことだと思ってた。それなのに高校一年でオバサンになるなんて!

 お腹の子が幼稚園くらいになったら悪気無く『裕希おばちゃん』とか言ってきそうで今から怖いよ!


「お願いだからわたしのことは裕希お姉ちゃんって呼ぶように教えてよーっ」

「あはははっ、特別に裕希お婆ちゃんって呼ぶように躾けてあげるわ。今から楽しみね~♪」

「やーめーてーよーっ」


 膨らんでいるお腹に話しかけているお姉ちゃん。その姿は慈愛に満ちた母と言うよりいたずら盛りの子供に見えた。


「もう……それにしてもお姉ちゃん、本当にお母さんになるんだね。どんなお母さんになるつもり?」

「さぁ? あたしもよく分からないわ。でもどうにかなるんじゃない? 困ったことがあったらお母さんに聞くし……あ、お婆ちゃんにも色々聞いておけばよかったわ」


 そう言ってクスっと笑った。

 その言葉を聞いて、今日は出会いと別れを強く意識したからか、わたしは妙なことを考えてしまった。


「……あのさ、お姉ちゃん。もし、なんだけど……」

「ん? 何よ」

「もし、お姉ちゃんの赤ちゃんが、お婆ちゃんの生まれ変わりだったら、どうする?」

「へ?」


 言ってしまってなんだか恥ずかしくなる。でも、ちょっと聞いてみたくなってしまったのだ。

 輪廻転生なんて言葉をどこかで聞いたことがあるし、今日亡くなったお婆ちゃんが、もうすぐ産まれるお姉ちゃんの赤ちゃんとして生まれ変わってくれたら……わたしは、嬉しい。


「そうねぇ……嬉しくないって言ったら、嘘になるかな。あたしもお婆ちゃん大好きだし、色々お世話になったし」

「そうなんだ」


 その答えに、胸が少し暖かくなる。


「でも、いわゆる前世の記憶みたいなのを覚えているのは嫌かも」

「え? どうして?」

「だってそうだとしたら最初にしゃべる言葉が『大きくなったねぇ沙希ちゃん』とか『ごはんはまだかい沙希ちゃん』とか、そんな言葉になるかもしれないのよ? そんなの嫌」

「最初はやっぱり『ママ』って呼んで欲しいもの」

「それは……うん、そうだね」


 思わず深く頷いてしまった。

 大きくなったねぇなんて、赤ちゃんがお母さんに言う言葉じゃない。赤ちゃんがしゃべる言葉の違和感ベスト百なんてものがあったら、十位以内に入りそうだもん。


「ま、どうであれ、これだけは確かよ」

「なに?」

「あたしがこの子の母親だってこと。だから、躾けや教育はあたしと旦那がしっかりする。たとえ生まれ変わりだとしてもね」

「じゃあ、大きくなっていたずらしたら?」

「もちろん、お婆ちゃんの生まれ変わりでもお尻ペンペンよ」


 ウインクしながら手のひらで軽く叩くマネをするお姉ちゃん。


「あははっ、おっかしい!」


 生前のお婆ちゃんがお姉ちゃんにお尻を叩かれている姿を想像して、吹き出してしまった。


「あははっ、そうしたら赤ちゃん『やめてちょうだいよ沙希ちゃん』とか言ったりして」

「そんなこと言ったら『お母さんに向かって沙希ちゃんなんていうんじゃありません』っていいながら追加でお尻ペンペンしちゃうわ。ふふっ」

「それも楽しそうだけど、まぁあれじゃない? お婆ちゃんはきっと今頃、久しぶりにお爺ちゃんに会えて喜んでいるわよ」


 お姉ちゃんは笑いながらふっと窓の外を見た。

 薄いカーテン越しに網戸になっているその向こうからは、山懐から流れてくる夜風に乗って蛙の声がさざ波のように響いてきており、水を湛えて揺れる穂波の合間に月明かりがぼんやり浮かんで見えている。

 涼を楽しむその横顔は、母親の慈愛とはちょっと違うけれど、何かを懐かしんでいるような穏やかな笑みを見せていた。


「お婆ちゃん、お墓参りの度にお爺ちゃんに会いたがってたもんね。今頃、二人でお月見でもしているのかなぁ」


 わたしもつられて外を見る。見上げる空に二人の影が見えたような気がした。


「……会いたがっていたと言えばさ、お婆ちゃんがよく『戦争で亡くなったお兄さんに会いたい』って言ってたの覚えてる? そのお兄さんにも会っているかもね」


 わたしが勝手にお婆ちゃんとお爺ちゃんの妄想をしていると、お姉ちゃんはそんなことを言ってきた。


「そう言えば言ってたね、うーん……」


 思わずうなった。と言うのもそのお兄さんは、お婆ちゃんが見せてくれた古い白黒の写真でしか姿を見たことがないので、お爺ちゃんとお婆ちゃんの妄想仲間に入れるにはちょっと場違いな感じがしちゃうのだ。


 ……ん?


 その瞬間、わたしはさらに妙なことを思いついてしまった。


「あのさ、変なこと聞いていい?」

「さっきのも十分変よ。それに昔からよく変なこと言ってたんだから、今更気にしないで言いなさいよ」


 何気に酷いことを言われたような気がするけど、わたしは言葉を続けた。


「あの世で先に死んだ人に会うときって、どんな姿で会うのかなぁ」

「……どういう意味?」

「今、お婆ちゃんがさ、お爺ちゃんに会ってるとするでしょ? するとお婆ちゃんは、今の姿で、六年前のお爺ちゃんと会ってるのかな?」

「それならまだそんなに違和感ないかもしれないけど、お婆ちゃんがお兄さんに会えたとすると、その時、お婆ちゃんは何歳の姿で会うのかなぁって、ふと考えちゃったの」


 お婆ちゃんのお兄さんが戦争で死んだのは二十歳だったと聞いている。そのお兄さんに、今の九十間近のお婆ちゃんの姿で会ったとしても、向こうには分からないんじゃないかって、そう思っちゃったのだ。


「うーん、会いたいと思った時の相手の姿に合わせて変化するんじゃない? お婆ちゃんが若い頃のお兄さんに会いたいと思ったら、お婆ちゃんも若い頃の姿になってさ」

「そっか……じゃあ、お婆ちゃんが同時に、お爺ちゃんとお兄さんに会いたいって思ったらどうなるのかなぁ……」


 お爺ちゃんには八十いくつの時の姿で話をし、お兄さんには十いくつの時の姿で話をする……そんなことが出来るの?


「そんなのわかんないわよ」


 お姉ちゃんはバッサリ切り捨てるように言った。


「やっぱりそうだよね」

「そうよ。だいたいあたしはあの世に行ったことないし、向こうから教えてくれるわけでもないし」

「それにしてもアンタはほんっと、変なこと考えるのねー。やっぱ胸と同様成長してないわ」

「ひどいっ、ちょっとは成長してるもん!」


 ベッドに寝転がっているお姉ちゃんが布団のわたしを見下ろす。重力も手伝ってはち切れそうな胸の膨らみがわたしに迫ってきている。

 それを見ちゃうと、たしかに成長しているようには見えないかもだけど……。

 それでも、一応は少しずつ成長しているつもりなのです。


「でもそんな考え、あたしには絶対思いつかないわ。とっても裕希らしくて、あたしはいいと思うわよ」

「そうかなぁ……わたし、お姉ちゃんみたいになれるかな?」

「無理してあたしみたいにならなくていいんじゃない? ほら、隣の芝生は青いって言うでしょ? 人生は長いんだし、色々見て、よーく考えて、それでなりたい自分を見つけなさいよ。あたしみたいにさっさと結婚する必要もないんだからね」

「あたしはもうすぐ母親になるけど、どんな母親になるか皆目見当もつかないってさっき言ったでしょ? あんたがその歳で焦る必要なんかないって」

「それにしてもいっちょ前にそんなこと考えるようになったかー。お姉ちゃんは嬉しいぞー」

「わっ、やめてよーっ」


 お姉ちゃんはベッドの上から手を伸ばして、ワシワシとわたしの髪を強くなでながら笑っていた。


「ふふふっ、出産でしばらくこっちにいるから、久しぶりにゆっくり話せるわね。そう言えば隣町にイオンが出来たんだって?」

「そう! 映画館まであるんだよ! 赤ちゃん産まれたら一緒に行こうねっ」

「いいわねー。楽しみにしてるわ」

「それじゃ、あたしはそろそろ寝るけど、あんたはどうする?」

「わたしも寝る。電気消すね」


 立ち上がって蛍光灯のコードに手を伸ばす。

 ベッドに寝転がっているお姉ちゃんが、青いタオルケットをお腹に掛けてわたしを見上げている。

 それはわたしが寝るお客さん用の白い布団と相まって、部屋の中に色鮮やかな真夏の砂浜を広げたようだ。


「赤ちゃん産まれたら海にも行こうね」

「ん? いいわね。でもこの子と一緒に海に入って遊ぶのは来年まで待ってね」

「はーい、消すよ」


 カチッカチッとコードを引っ張って、今日という一日の幕を下ろしていく。

 薄い掛け布団の擦れる音が打ち寄せる小波のように広がって、小さく息を吐くと、月明かりを受け止めるカーテンがそよそよ揺れているのが分かった。

 網戸の向こうから、無限の貝殻を打ち鳴らすような蛙の大合唱が小さく響いている。それを彩るのは庭に潜んで夏の夜を謳歌するガラス風鈴みたいに澄んだ虫の音。

 それはわたしが産まれたときから変わらない、夏の夜の音色。きっと産まれる前からも変わっていないのだろう。


「あー、実家の音がするわ……なんだか安心する」


 うっすら闇の中で、お姉ちゃんはお風呂に入ったときのようなため息をつきながら、心地よさそうにつぶやいた。


「よく眠れそ……おやすみ~」

「うん、おやすみなさい」


 最後の挨拶をして、目をつむる。掛け布団からほんのりおひさまの匂いがする。

 枕越しに、階下でボーンと柱時計が鳴ったのが聞こえた。

 お父さんとお義兄さんはまだ、二人っきりで話をしているのかな。

 お婆ちゃんはお爺ちゃん、お兄さんと一緒に、夏の夜を散歩したりしているのかな。

 クリーム色の月の下で、風の囁きを聞きながら、雲の橋を渡って、星を道しるべにしながら、三人仲良く「これからどうするかねえ」なんて、嬉しそうにおしゃべりしていたらいいな……。


「おやすみなさい……」


 最後の夜にわたしはもう一度、つぶやく。

 夜風に乗って、蚊取り線香の匂いがしたような気がした。



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