8月5日(2)





「仕方ないわよ、そんなの。こっちは生きてるんだもの」

「そうだけどさぁ……」


 ベッドに腰掛けているお姉ちゃんの軽い口調の正論に、わたしはほっぺたを膨らませていた。


 お姉ちゃんは、激しい夕立の終わり間際にやってきた。

 二時間もの長旅を終えた車からよっこいしょと降りて、雲間から差し込む黄金色の夕焼けを背負って玄関先に立つ妊婦姿が、大荷物を抱えていたお義兄さんの姿と相まって、とても印象に残っている。

 お通夜の精進料理を夕飯代わりにしたあとお風呂に入って、今はわたしの部屋のベッドでくつろいで、茹でたトウモロコシの粒をぽいぽい食べている。


 以前お姉ちゃんが使っていた部屋は今は客間になっており、今夜は遠くからやってきた親戚たちが使うので、お姉ちゃんはわたしの部屋に布団を敷いて寝ることになったのだ。

 なのに、わたしが布団の上に座っている。


「……お腹大きいんだからベッドから落ちないでよ?」

「平気だって、あたし寝相いいし。それにこんだけお腹が大きくなると床に座るのも大変で、ベッドに腰掛けてるほうが楽なのよ。明日からは自分の部屋で寝るから今日くらい我慢しなさいって」


 そう言って、もいだトウモロコシの粒を全部食べ終わるとティッシュで手と口を拭いた。妊娠してからお腹が空きやすくなったと言うけれど、せり出している大きなお腹を見ているととても納得がいく。


「それでさっきの話の続きだけど、裕希の気持ちも分からなくはないわよ。あたしもお爺ちゃんが死んだ時、なんてあっさり終わるんだろって、ちょろっとは思ったし」

「あの時は三日だったけど、今回は火葬まで二日でしょ? ちょうど週末に重なったこともあるけど、確かに早いわよね」

「だよね! もっと大切にしていいと思うよね!」


 同意を得られて思わず身を乗り出す。ゆったりしているワンピース姿のお姉ちゃんに近づくと、ほんのりミルクの香りがした。


「でも、こっちの都合もあるわけじゃない? ほら、残ってる人はごはん食べなきゃなんないんだし、そのためには働かなきゃいけないわけでしょ?」

「別に亡くなった人を大切にしてないって意味じゃないわよ? 実際こうやってみんな遠くから集まってるわけだし」

「そうだけどさぁ、でもわたしはもっとゆっくりお別れしてもいいと思うの。今朝死んで明日燃やされちゃうなんて、早すぎだよ、そんなの酷いってっ」

「早いかもしれないけど、そういう風に出来てるのよ。月曜は友引で火葬場が休みだからってお父さんも言ってたじゃないの。裕希も高校生になったんだから、社会の慣習に対して少しは納得しなさいよ」

「そんなこと言われても簡単には納得できないよぉ……」


 お姉ちゃんにそう言われて、わたしはギュッと枕を抱きしめる。

 お婆ちゃんは冷房が苦手で、よくお爺ちゃんに蚊帳を吊ってもらっていた。当時幼稚園児だったわたしと小学生のお姉ちゃんは、それがキャンプみたいだとわくわくして、三人でよく一緒に寝たものだ。

 そんな思い出もあるお婆ちゃんとの最後の夜が、こんなに呆気なく過ぎていくなんて。


「まぁ裕希らしいっちゃらしいかもね……」

「え? なに?」


 枕から顔を上げる。


「そんなんだからいつまでも中学生と間違われるって言ったの~」


 お姉ちゃんはにやりと笑いながら何気に酷いことを言った。


「そんなことないよ! 近所のおばさんとか、制服似合ってるね~って言ってくれるもん。こないだなんか部活の帰りにキュウリくれたしっ」

「あっはははははっ、そうかそうか、そりゃよかったね~。よしよし」

「む~、なんかバカにされてる気がする……」


 頭をなでられても、あんまり嬉しくなかった。


「ま、実際のところ、現実世界で生き続けているのはこっちなわけだし、申し訳ないけどこっちの都合に合わせてもらうのは仕方ないわよ」

「ホラ、死人にクチナシって言うじゃない? 実際に亡くなった人が『もっとゆっくり葬れ』って言ってきてるんなら考えるだろうけど、少なくともあたしは聞いたことないし」

「それにきっとお婆ちゃんも言ってるわよ。そっちの世界はいろいろ忙しいだろうから、さっさと終わらせちゃっていいよって」

「そうかなぁ……」


 それこそ言葉を聞いたわけじゃないから、すんなり納得できるわけがない。


「そんなに言うんなら、あたしの住んでる街で葬式やったら良かったのにね」

「どういうこと?」

「この間、同じマンションに住むお爺さんが亡くなったんだけどね、その人のお葬式は亡くなってから四日後だったのよ」

「えっ、そうなの!? いいな~四日間あったらゆっくりお別れできるよね~。ほらやっぱりわたしと同じような考えの人いるじゃん~!」


 嬉しくなってウンウン頷いていると、お姉ちゃんはフッと鼻を鳴らして笑った。


「そうじゃないわ。お葬式が遅れた理由は、火葬場が空いてなかったからなの」

「へ?」


ポカーンと口をあけたわたしに向かって、お姉ちゃんは得意げに口を開いた。


「ほら、東京は人口が多い上に、今は高齢化社会じゃない? だから季節の変わり目とか夏の暑い日なんかはお葬式も多いらしいわ」

「連日火葬場は満員で順番待ちなんだって。その四日間、家族は大変だったみたいよ?」

「どうして?」

「よく考えてみなさいよ。その間何にも出来ないじゃないの。死んだ人が家で棺桶に入ってるっていうのに、あんた学校行ける? 共働きの家だからって、鍵掛けて昼間留守にできる?」


 お婆ちゃんが居間で棺桶に入ってるのに、わたしは部活に行きお母さんもお父さんもお出かけ……。

 留守中に宅配便の人が来たら、白装束のお婆ちゃんにハンコ押させるの!?


「そんなの無理だよぉ!」

「でしょう? 確かに忌引きで数日間休めるけれど、それと四日間も葬式出せないのは別問題よ。かなり家族の負担になると思わない?」

「そう言われると……そうかも」

「だから、お通夜も葬式も速やかに終わらせられるのなら終わらせた方が、残っている家族にはいいのよ。もちろん、そこに感謝や尊敬の気持ちもあるわよ。普通はね」

「あんただってお婆ちゃんにありがとうくらい言ったんでしょ? お母さんが、裕希は目を真っ赤にしてチロの散歩から帰ってきたって言ってたわよぉ? どっか人気の無いところで泣いてきたんじゃないのぉ?」

「なっ、もうっ、違うってば!」


 ニヤリと笑うお姉ちゃん。

 泣いていたところを見られたわけじゃないのに、顔が火照るほどに恥ずかしくなってしまった。


「葬式が終わっても感謝の気持ちは残るわよ。その気持ちをしっかり抱いて、いっぱいお婆ちゃんと会話しなさい。その小さな胸の中でね」

「……そういやあんた、少しは成長したのぉ?」

「こ、これでも中学の時より大きくなったもんっ、もう、お姉ちゃんはすぐにそうやってからかうんだからっ」


 じろじろ見ているお姉ちゃんがわたしの胸を触りそうになったので腕で隠す。軽々と隠れたわたしの膨らみに対して、出産間近のお姉ちゃんの胸は、服の上から一目でわかるほどずっしりと存在感に満ちていた。

 ボタンの合間から谷間が見え、重そうに揺れる度にミルクの香りが漂ってきている。


「な~にじっと見てるのよぉ」

「べ、別に見てないけど……その、わたしもいつかお姉ちゃんみたいな大人になるのかなぁって」

「ちょっと、人を汚れた大人みたいな言い方して……お姉ちゃんみたいになりたいなって言いなさいよぉ」

「ま、それなりに大きくなるんじゃない? 歳は離れてても姉妹な訳だし。ちなみにあたし妊娠してからサイズが二つ上がったわよ? 今は九十二のG」


 わざわざバストを寄せてあげて見せつけてくるお姉ちゃん。谷間が深い。


「もう胸のことはいいってばぁっ」

「ふふっ、冗談よ」


「でも、焦る必要はないんじゃない? 裕希は裕希なんだし、高一になったのにまだまだ中学生っぽいところも含めて裕希なんだし」

「それ褒めてないでしょ」

「褒めてるわよ。あんたにはあんたの良さがあるって褒めてるの。だいたい大人になんて嫌でもなっちゃうんだから、大人がいくら束になっても敵わない子供の良さを、あんたは大切にしなさいよ」

「いつかきっと、それが役に立つ時がくるから」

「そうかなぁ……よくわかんないよ」

「わからなくて十分。逆に今わかってたら全然子供っぽくないわよ」

「……ほんとに褒めてるの?」

「褒めてる褒めてる。んしょ……っと、それじゃちょっと歯磨きしてくるわ」


 お姉ちゃんは手をひらひらさせると、ベッドから立ち上がって大きなお腹を抱えつつ部屋を出て行った。


 一人になった部屋の中で、顔を乗せたままの枕をぎゅっと抱きしめる。

 お葬式の話をしていたはずなのに、いつの間にかわたしが子供っぽいと言う話になっていた。

 でもお姉ちゃんはそんな子供っぽさを大切にしなさいと言った。お葬式を早く済ませるなんて酷い! って意見が子供っぽい……ってわけでは無いと思う。

 よくわからないけど、なんでお葬式をさっさとしちゃうんだろう……そういう考え方が子供っぽくて大切なの……かもしれない。


「んむ~。よくわかんないな」


 枕の中で籠もった声が出た。

 でもお姉ちゃんはわからなくて十分って言ったっけ。

 まぁ……お姉ちゃんがそういうなら、いいか……。


「ふぁ……眠くなってきちゃった……」


 枕の感触が、とろけていく脳の意識を優しく包み込んでいく。

 ……なにかまだ、聞きたいことあったのにな……。


「お姉ちゃんしばらくいるからいいか……ふぁぁ……」


 慣れ親しんだベッドに、わたしはゆっくり意識を投げ出した……。


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