いつか、思い返す夏

県北

8月5日(1)



 仄かに紫色を帯びた煙の帯が、天井に向かって滑るように昇っていく。

 障子の閉められたじっとり暑い居間の片隅に座っているわたしは、その行方をぼんやり見つめていた。

 柱時計の中心で埃っぽい黄金色をした真ちゅうの振り子が、ゆったりと廻る。微かにネジを巻く音を立てて、ボーンと一つだけ音を立てた。


 淵のように沈む家の中、他に音はない。


 煙の下で手を合わせていた黒ネクタイの男性が身をよじると、四肢をくねらせた龍のような紫煙は儚く消え、お香独特の匂いが一面に漂った。


「ごめんくださいねぇ」


 背後から、引き戸の開く音と同時に声がした。

 導かれて暗い玄関に顔を向けるけれど、影を切り裂く外からの日差しが強烈すぎて、声の主の顔は全く見えない。


「この度はご愁傷様でねえ。何か手伝えることがないかと思ってねえ」

「あらあらこれはどうもご丁寧にありがとうございます。まずは顔を見てあげてくださいな」


 応対に出たお母さんの影が小刻みに頭をさげるたびに、突き刺す光が信号機のように明滅する。


「それでは、おじゃましますねえ」


 その独特の言い回しに聞き覚えがあった。

 たしか、お婆ちゃんが春先まで通っていた踊りの会の人だ。


 上がりかまちの軋んだ音が、家鳴りのように大げさに響く。

 開け放しになったままの扉の向こうに、身体を起こしている白い巨人みたいな大きな入道雲が見えた。

 誰もが息を潜めている家の外では、今日も変わらずに夏が炸裂していた。


 踊りと民謡と犬のチロの散歩を日課にしていたお婆ちゃんが、急に小さく見え始めたのは、今年の春になってからだった。

 去年まではお彼岸の日に三つも食べていたぼたもちも、天気が良ければ週に四回も採りに行っていた好物の山菜もほとんど口にしなくなり、代わりに縁側に座椅子を出して微睡む日が多くなっていた。

 

「裕希。あんた暇ならチロの散歩行ってきなさいよ。これからあんたがチロの世話すんだからね」

「それにしても穏やかな表情でねぇ、もう史郎さんと会えたのかねぇ」

「そうかもしれません。あと、義母はよく、戦争で亡くなったお義兄さんにも会いたいって言ってましたから……裕希、わかった!?」

「……はぁい」


 踊りの会の人が畳に上がってきてお婆ちゃんの前に座ると、居心地の悪い空気がよそよそしく忍び寄ってきて、わたしの頬をなでる。

 たまらず部屋に戻ろうと逃げだしたわたしの背中を、お母さんの声が何度も追ってきた。

 小さくため息を吐いて、引き返す。


 本当なら、暇じゃなかった。

 キツいけど楽しい吹奏楽部の練習もあったし、部活の帰りに隣町のイオンに行こうって友達とも約束していたし。

 でも、お母さんが朝、学校に連絡すると、わたしは拍子抜けするほど簡単に部活にいけなくなってしまった。


 お婆ちゃんは今朝、布団から起きてこなかった。

 

 一昨日から少し熱を出していて、昨日の夜にお父さんとお母さんが「夏風邪は長引くっていうから、軽いといいけど」なんて話をしていたと思ったら、今朝、起きてこなかった。

 すぐにお母さんがかかりつけのお医者さんを呼んだけど、お医者さんは「ほとんど苦しまなかったのが幸いでした」なんて眠たそうな声で言って、一時間もしないで帰っていった。


 それから家は、どこかひそひそと言葉を憚りながら落ち着かない。

 近所の人は来るし、農協の葬祭屋さんだというスーツの人は来るし、お父さんは方々に電話を掛けているし、お母さんはお客さんの応対に忙しいし、そのくせみんな、息を潜めているし。

 やることのなくなったわたしはぼんやりとその光景を見ていたけれど、そこは色が沈んで、白と黒だけが浮かび上がってくるもの悲しく寂しい世界だった。


「チロ、おいで」


 散歩用のリードを手に庭先に出ると、舌を出しっぱなしで間抜け面のチロが、小走りに駆け寄ってきた。


 この夏で六歳半になるこの柴犬は、六年前、お爺ちゃんを亡くしたお婆ちゃんが、寂しい思いをしないように。とお父さんが貰ってきた。

 当時、どこかため息ばかりの我が家の中で、突如目の離せない存在となった生後半歳のこの子を、お婆ちゃんは「チロ」と名付け可愛がった。


「なんでチロって名前にしたの?」

「シロじゃ爺ちゃんの名前のまんまだよぉ。それじゃあ爺ちゃんに怒られっちゃうよぉ。だから少しもじって、チロにしたんよぉ」

「これ、爺ちゃんには内緒だかんね。あの世に行ったとき婆ちゃん怒られっちゃうから。シシシ」


 お婆ちゃんはそう言って、半分抜けた前歯の隙間から空気を漏らしつつ、いたずらっ子のように笑った。

 小学四年だったわたしはそれを聞いてうれしくなって、お婆ちゃんと一緒によくチロの散歩に出かけたものだ。


「散歩に行くの、久しぶりだね」


 よそよそしい家の雰囲気が嫌で、仲間を求めるようにチロに話しかける。

 チロは散歩の準備に余念がないのか庭の柿の木を嗅ぎ回っていて、わたしの言葉なんかちっとも聞いてくれない。でも、それがいつもと同じで、わたしは少しほっとした。


「ちょっと待ってて」


 チロのリードをそのまま柿の木に結びつけ、玄関にきびすを返す。お母さんとお客さんが当人を目の前に思い出話をしている居間を避けて部屋に向かうと、机の奥にしまい込んであった銀色のハーモニカをポケットにねじ込んだ。


「チロ、行こ」

「ワンッ!」


 新たにやってきた農協の車をすり抜けてチロと一緒に門を出る。

 強い日差しが、息苦しいアスファルトの上にわたしの黒い影を刻む。すぐ横道に逸れて、土と雑草と田んぼを渡る水の匂いの溢れるあぜ道に入り込むと、思わず熱い息が漏れた。


 鉦を割るような蝉の大合唱に、暴力的な日光。土埃と目を顰めたくなる照り返し。そのくせ真っ青な青空と、そそり立つ巨人から進化した天空の白城。

 真夏の午後の盛りは人の世界ではなく、太陽を王とする帝国が支配する世界だった。

 その世界に身を浸すのは強烈すぎてしんどいけれど、モノクロの屋内よりは何倍も心地いい。


「えっと……お婆ちゃんといつも行ってる散歩コースってこっちだったよね?」


 日差しが強すぎて元気のない雑草を踏みながら、農道との四つ辻に立つ。


「用水路の小さな水門があって、その先には……そうそう、鎮守の森の前にお地蔵様があったっけ!」


 部活を始めてからまったく連れ添うことのなかったお婆ちゃんとチロの散歩道を、思い出と目の前の風景とを独り言で照らし合わせながら刻んでいく。


 チロがふんふんと鼻を鳴らしながら、片足をあげた。

 きっと、彼なりの流儀があるんだろう……と思って見ていると。


「あっ、こら、そこはお地蔵様の家だってば! そんなところにおしっこかけたら怒られちゃうって!」


 祠の壁に向かってチロが縄張りを主張しようとしたから、慌ててリードを引っ張った。

 困ったような表情でわたしを見上げると、チロは隣に立っているくぬぎの木に失敬しつつ、結局、祠の壁にもほんの少し、引っかけた。


「もう……」


 リードを握ったまま、お地蔵さんの前に座り手を合わせる。


(お地蔵様、チロはいつもこんな感じなんですか? だったらごめんなさい。今度からわたしが散歩当番になるんで、そうしたらさせないようにしますから、許してください)


 そうお祈りして目を開く。

 いつもなら、お地蔵さんにお祈りなんてしないのだけど、今日という日がそうさせたのだろう。

 見つめるお地蔵さんの顔は、長い年月からか目鼻の凹凸がほとんどわからなくなっていた。


(こんな顔だったんだ……)


 たまにお供え物があるのは知っているけど、しっかり顔を見たのは今日が初めてだった。祠の脇で、つぼみを開きつつある彼岸花の赤色のほうが、よっぽど印象が強い。摩耗した表情は、穏やかに微笑んでいるように見えた。


「いくよ」


 お地蔵様にもう一礼して立ち上がり、リードを引っ張ると、待ちくたびれたとでも言うように、チロは小走りに駆けだした。


 お地蔵様の祠の横を抜けて、林の中へ緩く上っている道を進む。

 雑木林が作るモザイク模様の影が、踏み固められた土の道に落ちている。はみ出した木の根が浮き出ている林間の道はしっとりしていて、白い農道より明らかに涼しい。

 チロの背中に点々と浮かぶ木漏れ日と一緒に、重たく響くベルのようなセミの大合唱も降り注いできていた。


「そういえばね、お姉ちゃん、今日の夕方に帰ってくるんだって」

「それでそのまま赤ちゃん産むんだって。おなか大きいのに急いで荷造りしなきゃいけないから大変みたいってお母さんが言ってた」


 黒い鼻先を濃紺の雑草に突っ込むチロに話しかけながら歩くけど、チロはわたしには分からない何かの点検に忙しく、鼻をヒクつかせながら黙々とかき分け歩いていた。


「……まぁチロは覚えてなくても仕方ないか。お姉ちゃんが東京に行って五年も経つし」


 わたしと七歳離れているお姉ちゃんは、短大に進学すると同時に家を出て、そして去年結婚した。今、妊娠九ヶ月で、お盆に併せて帰省してそのままこっちで産むと聞いていたけど、突然の訃報に十日ほど日程を早めたらしい。


 立ち止まり、空を見上げる。覆い被さる濃緑の屋根に木漏れ日がまたたいている。

 その向こうに高い空が見えた。


「お婆ちゃん、初めてのひ孫だから楽しみだって言ってたのになぁ……」


 ため息混じりでつぶやいた。



 つぶやいて、ハッとした。



 その瞬間、騒々しい滝のような蝉の声が、キィィン……と耳鳴りを起こして遠くなる。

 木陰の濃厚な緑が、黒く染まる。

 林間の涼が、悪寒に変わる。

 立ちくらみのように、視界が狭まる。


 現実から横っ面を殴られたようなショックを、わたしは自分で勝手に受けていた。


 それはわたし自身が、お婆ちゃんが、もう家に、この町に、この世界にいないことを感じ取ってしまっている。知らず知らずに認めてしまっている。その証に他ならない。そう、気づいてしまったからだ。


「あぁ……」


 その言葉が無意識に、まったく自然に出たことに、わたしの胸の中は急激にいがいがしてきた。


「っ……チロ行くよ、ほらっ」


 逃げるように林の奥に進む。今まで好き勝手出来ていたチロが戸惑ったようにわたしを見上げると、跳ねるように併走してきた。

 斑点だった木漏れ日が流星のように尾を引いて流れていく。だんだん傾斜を増していく湿っぽい土の坂。張り出す根っこに足を取られ、足下の小石がぱらぱら落ちるけど、わたしはどんどん加速していく。どうしようもない悔しさが燃料となって、歯を食いしばって、リードを握りしめる指に力を込めて、上っていく。


 なんでなの? なんで、そんなに急いでいるの?

 確かにお婆ちゃんはもうすぐ九十だし、ここ最近は身体の調子悪かったよ。それにわたしだって、人は誰しも死ぬって分かってる。お爺ちゃんが死んだ時は小四でわけもなく悲しかったけれど、もう高校生なんだしいい加減わかるよ。わたしだっていつか死ぬの。

 でもね? お婆ちゃんが死んだの、今朝だよ? それなのになんでそんなにみんな、急いでいるの?

 今夜、お通夜をやったら、明日、お葬式なんだって。

 お葬式をして火葬場に行ったら、お婆ちゃんは灰になっちゃうんだ。白木の棺桶に入れられたお爺ちゃんがそうだった。

 昨日まで「すまないねぇ」って布団の中でお母さんに言っていたのに、明日には灰になっちゃうなんて、なんでそんなに急いで別れなくちゃいけないの? わたしにはわからない!

 そしてわたしも、どうしてそれを無意識に受け入れちゃってるの? おかしいよ! 大好きなお婆ちゃんなのに、どうして!?


「……わかんないっ」


 チロのリードを引っ張りながら、わたしは全速力で林の中を駆け上がっていた。


 固く握りしめる拳にリードが食い込み、痛い。

 歯を噛みしめすぎて、ほっぺたが痛い。

 全速力で走って、のどが痛い。

 でも、お婆ちゃんはもう、この痛みさえ感じられないところに行ってしまった!


「そんなに急がないでよぉ!」


 唾が飛び散り、汗も飛び散る。

 灼熱の夏に、わたしは吼えていた。

 

 人が死んだらお葬式をして、ちゃんとお別れしなくちゃいけないのは、理解している。

 でも、わたしの中に息づいているこの気持ちは、まったく追いついていない。

 お婆ちゃんが死んだことをわたしが受け止めて、わたしの時間で飲み込んで、わたしの心が受け入れる頃には、お婆ちゃんはとっくに灰になって、壺の中にいるだなんて、冷たい石の中にいるだなんて、なんて、残酷な仕組みなんだろう。写真に向かってでしか語れないなんて、どれほどひどい仕打ちなんだろう。


 まずはお疲れさまって言いたい。

 ちゃんとありがとうって言いたい。

 笑顔で、お婆ちゃんの孫でうれしかったって言いたい。

 もっともっと、言いたいことがある。伝えたいこと、いっぱいある。

 残酷にもやってきちゃった最期なんだから、いろいろ思い出して、全部心から出して、恥ずかしがらずにしっかり口にして、伝えたい。岸辺を離れる船を見送るように、しっかり手を振ってお別れしたい。


 それなのに、なんで生きている人の都合で、人の最期が決まっちゃうんだろう。バスの窓から乗り遅れた人を見るみたいに、簡単に置いて行っちゃうんだろう。

 それってすごくもどかしくて悔しい。お婆ちゃんの気持ちを無視して勝手に進めているようで、悔しくてたまらないよ!


「もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」


 鎮守の森を駆け抜けて、てっぺんの開けた高台公園の先端まで走り寄ると、手すりをつかんで前のめりになってわたしは叫んだ。


 悔しくて、言葉にならなくて、脳天から弾けるように思いっきり叫んだ。

 のどがヒイヒイ言っている。胸がバクバク言っている。足がガクガク言っている。視界がバチバチ、白く輝いている。汗が染みてジンジン痛い。


 わたしは生きている。わたしとお婆ちゃんは繋がっている。お婆ちゃんのお父さん、いわゆる会ったことのないご先祖様たちは、わたしにしてみれば歴史の中の人。おばあちゃんは、歴史とわたしを繋いでくれる人。

 だから、昨日まで同じ道を歩いていたお婆ちゃんとの別れを、そんなあっけなくしないで! わたしのルーツを、はさみでも入れるみたいに簡単に切らないでよ! 手を放した風船みたいに、わたしがどっかに行っちゃいそうだよ!


「おばあちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

「ワオォ~ォオ~ン!」


 汗が染みた目がにじむ。

 身体の悲鳴を突き破って弾けた心の絶叫は、呼応したチロの長い遠吠えと共に白い雲の向こうに放たれていた。


「はぁっ……はぁっ……おばあちゃぁん……」


 爆発して空いた心の感情の穴を、滴り始めた悲哀の雫がじわじわ満たしていく。

 刻まれる呼吸音の中に鼻をすすり上げる音が混ざり、言葉もない。言葉を紡ぐような冷静さを、あふれる感情が塗りつぶしていく。

 鼓膜に響く鼓動の向こうには、変わらずに夏を謳歌する蝉の声がしている。

 七年の歳月を土の中で過ごしてきた末の、あと半月も無い命を燃やして満ちる夏の叫びは、嗚咽にまみれるわたしの心をわずかに慰めてくれた。


 滲む涙を手のひらで拭う。それを小さな子供のように洋服の裾に擦りつけると、硬いものに当たった。


 鼻を鳴らしながらポケットを探り取り出すと、銀色のそれは涙でぼやけた視界の中で、乙女の佇む眩しい光の泉のように輝いていた。

 使い込まれ、幼い頃の歯形が刻まれているステンレスのボディ。裏側にはお婆ちゃんの筆跡でわたしの名前が全部ひらがなで、半分かすれて書き込まれている。

 わたしが五歳の時、幼稚園で使うからとお婆ちゃんが買ってくれたハーモニカ。

 なんとなく音楽が好きになったのも、高校で吹奏楽部に入部したのも、このハーモニカがきっかけだった。


 息を大きく吸い込むと、思うままに唇を当てた。


♪~! ♪! ♪~!


 幼稚園で習い、お婆ちゃんの前でよく練習したきらきら星が、カナリア色の音色となって広がっていく。

 高台から見下ろす緑色の穂先を、嘗めるように風が渡って優しくなまめかしく波打つ。星のようなきらきらした輝きが、波間に明滅して火照った午後の空気を彩り消えていく。


 演奏は感情が剥き出しで、凸凹していて、息継ぎのたびにフガフガとアヒルの行進のようなみっともない音が出て、部活の先生が聞いたら「そんなのは星じゃない」ってきっと怒られるだろう。

 それでも今は、わたしの気持ちが、わたしの感情があふれ出してアヒルの行進がどうにも止まらなかった。


 幼稚園の送り迎え時の、日傘の下の優しい微笑み。冷蔵庫で冷やしてくれたサイダーが喉を通る、ヒリヒリした感触。お母さんに内緒で、わたしにくれた茹でたとうもろこしのぷちぷちした歯触り。夏祭りの時、チョコバナナを落として泣いたわたしに買ってくれた、わたあめの甘さ。夕方になると、お婆ちゃんの部屋から魔法のように漂ってきた蚊取り線香の匂い。そして、耳の底に残る、わたしの名前を呼ぶ優しい声……。

夏の思い出だけでも、まだまだいっぱいある。


 唇が奏でるメッセージは、レクイエムなんかじゃなくて、セピア色なんかでもなくて、眼下に見える水稲の水面と同じ、黄金の夏の色をしていた。


~♪


「ふはぁ……」


 唇からハーモニカを離す。

 感情が一気にあふれ出したからなのか、頭の芯が痛い。

 鼻がずずっと鳴って何度も息をのむ。運動した後のように胸を膨らませて呼吸を繰り返す。

 ハーモニカをぎゅっと握りしめると、もう一度、大粒の涙があふれ出した。


 唇に冷たい感触を残したハーモニカ。

 幼稚園を卒園した後、小学校低学年の時に数回使っただけで、机の奥に放り込んでいたそれを、わたしはわざわざ取り出してきた。


 その時点で、きっとわたしは分かっていた。

 悔しいけれど、悲しいけれど、ただ、わたしなりの儀式で、お別れをしたかっただけなのだ。

 そうとなれば、震える唇が紡ぐ言葉はひとつしかない。


「お婆ちゃん、いっぱい言いたいことあるけど、お婆ちゃんの孫でよかった……ありがとう」


 絞り出したかすれ声と共に、あごを伝って涙が地面に落ちた。


 黒いシミが足元の石畳に染みる。

 自分の鼓動音と、温かい涙が止めどなく溢れるぐじゅぐじゅした白い世界。波紋のように滲む視界の先に、両手を広げた巨大で真っ白な神様が見えた。

 神様がお婆ちゃんを迎えに来たのかもしれない……それは嫌だけど、仕方の無いこと。


 濡れる鼻をすすって、ようやく涙を拭う。

 神様に見えたそれは、自身を支えることさえ出来なくなった巨大な入道雲だった。


 サァァァ……と、泣いている時は気づかなかった風の音が、肩をなでるように満ちていく。

 そして熱を孕んでいた南風に変わり、ひんやりとした強い西風が高台の枝葉を強制的に踊らせ始める。

 見上げる空には神に見えた雲が崩れ始め、釜の底は濃い灰色に変色していた。


 先ほどまで黄金色の海だった稲穂は神の光を失って暗い顔を見せ、呪いの踊りを捧げ始めている。

 そして蝉の声ばかりだった夏の帝国に、遠来からの訪問を告げるひきずるような鬨の声が、空を渡って重く響いてきた。

 鼻の奥にスンと染みる水の匂いが風に乗り、蛙がギャッギャッと鳴き始める。怪物の悲鳴のようなそれは、雨を知らせる使者の声。

 チロがキュンと鼻を鳴らして、空に向かって別れを叫んでいたわたしを見上げていた。


「……帰ろっか」


 ゴロゴロ……と、天候の悪化を明確に知らせる音を聞いて、袖口でもう一度涙をぬぐうとわたしはきびすを返して歩き出した。


 先ほどまで強い光でモザイク模様に輝いていた鎮守の林は、迫り来る灰色の壁を背負い、強く冷たい風に幹を揺らして不気味に口を開けている。

 その中に入っていくと、一段と暗い坂道は歩きにくい。足元の湿った土は影の中で見分けがつかず、浮いた木の根につまづきそうになる。頭上ではファンタジー世界にある妖しい森のように、強い風で幹が揺れ、葉が舞って顔に落ちてきたりもする。

 来るときは無我夢中であっという間に高台まで駆け上ったと思っていたけれど、早く帰ろうと思うほどなかなかたどり着かない。

 無意識に、後ろから何か不気味なものに追いかけられているような気がして、わたしはついさっきまで泣いていたことも忘れて、駆けだしていた。

 薄暗い緑の洞窟はザワザワ音を立て、わたしに迫ってくる。木の幹が、揺れる枝葉が、何か怖いものに見えて仕方ない。『なにか』としか言いようがない何かにせき立てられ、駆けていく。


 ピカッと光が走って、唇を噛みしめる。

 数秒後にズズンと巨人が大地を踏みならす音がする。


「はぁっはぁっ……っ」


 何かに追いかけられながらようやく鎮守の森を抜けると、強く冷たい風が横っ面をたたいた。

 お地蔵様の祠の影にある彼岸花のつぼみが、狂乱の舞を踊っている。

 さっきまであった草いきれの中の輝かしい真夏の世界は、呪われた村のように薄黒く変色していた。

 凹凸の少ないお地蔵様の表情までもが、今は妖しげな呪詛を口ずさむ道士に見えてしまう。

 心細く思っていると、わたしの鼻先にぴちっと冷たいものが落ちてきた。


「チロ、降ってきたから早く帰ろ」


 リードをぎゅっと握りしめ直すと、わたしは再び駆けだした。

 さっきまで感情を爆発させていた鎮守の森を背に、決して後ろを振り返ることなく駆けていく。

 ついさっきまで天国は、なんとなく白い雲と青い空で出来ているんじゃないかと思っていたけれど、天国の真下には地獄があるのかもしれない。そんな不気味な『なにか』に怯え急かされながら、追われながら駆けていく。

 再び目の前が一瞬光り、程なくして青空の壁紙を引きはがすような裂音が轟く。白く埃っぽかったアスファルトは繁殖する黒い染みにみるみる侵され、顔や腕に当たる冷たい雫が勢いを増していく。


 そう言えば、死んだお爺ちゃんは畑で遊んでるとよく怒ったから、近所の同級生に『かみなりジジイ』なんて呼ばれていたっけ。

 もしかしたら、死んだお婆ちゃんを迎えに来たのかもしれない……。


 さっきまでのわたしなら、それは理不尽さと悲しみを癒やすための材料としてロマンチックに浸れていたかもしれない。

 けれど、どうしたってわからない『なにか』に恐怖を覚えてしまった今は、背後から心の中に忍び寄る夜更けのそれと何ら変わらなくて、農道の向こうに見える見慣れた瓦屋根を目指して一目散に駆けていくしかできなかった。


「はぁっ、はぁっ、ただいま……っ」

「裕希、どこまで行ってたの」


 やっとのことで玄関に飛び込むと、薄暗い廊下の向こうからお母さんの声が聞こえてきた。同時に灯りがともり、ザァァァ……と本降りになりはじめた水煙を纏う玄関先がパッと明るくなった。

 オレンジ色の電球が、お母さんの横顔を鮮やかに照らし、背後に迫っていた『なにか』は霧のように溶けて消えた。


「降られなかった?」

「なんとか平気、走ってきたから……はぁ……っ」


 お母さんの優しい声。チロはのんきに首を掻いている。


「でもシャツが濡れてるじゃないの。チロを繋いだら着替えなさいよ。それとお通夜は六時からだからね、少し休んでていいから」


 それだけ言ってお母さんは居間の方に引き返して行った。三和土には見慣れない黒い革靴かいくつも並んでいる。

 激しく上下する胸の膨らみを押さえながら軒先の雨だれを避けてチロを小屋に繋ぐと、チロはそそくさと潜り込んでわずかに鼻先だけを見せて寝っ転がった。

 それを見届け、玄関から上がる。

 居間には相変わらずスーツ姿の人が数人いた。

 そして、青白い灯籠のようなものが飾られ、ふすまや畳をぼんやりと照らしている。その中心には白い布で作られた小さな祭壇が出来ていた。

 それをちらと見て、部屋に帰る。


 薄暗い部屋のドアを閉めると、庭をたたく雨音が妙に大きく聞こえてきた。


「はぁ……」


 電気をつける気にならなくて、小さくため息を吐くと涙と雨と汗でしっとり濡れたシャツに手を掛けた。

 すると、ポケットの中の硬いものが肌に当たった。

 ハーモニカは夕立の薄闇で暗く沈んでいる。


「…………」


 雨は激しく、カーテンを透かすように稲光が明滅する。

 屋根の向こうにくぐもった雷鳴が響き、再び雨音が外界を支配していく。

 その雨音の中で、わたしはお婆ちゃんがすでに向こう岸に渡ってしまったことを悟った。

 亡くなって悲しいのは当然だけれど、わたしの中でお婆ちゃんは、そろそろと忍び寄るような畏怖の対象となりつつあった。

 思い出の中の彼女は当然優しいし、いつでも心が温かくなり、切なくなる。

 けれども同時に、『なにか』の世界の住人になってしまったと、諦めにも似た納得をわたしの心は認めたのだ。


「……さようなら、お婆ちゃん」


 そう言って、わたしはハーモニカを机の奥深くにしまい込んだ。


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