瞳と結花――そして、過去の僕
「あ、結花。」
次の月曜日。昼休みの教室。ロッカーに荷物を取りに席を立った結花が僕の席の脇を通った。
「何。」
そう見つめられてから、ちょっと後悔する。今ここで、話すほどの事でもないな、と。
「そういえば、この前言ってた病院でのスマホとかの使用なんだけど。」
「ん?」
結花は一瞬不思議そうな顔をしてから、ああ、と僕の話の内容を理解した。
「ああ、あれ。」
やっぱりここで言う必要はなかったかもしれない、と思いながら言葉をつなぐ。
「機械の性能とかが上がったから、今は普通に使用オッケーらしいよ。通話とかは禁止らしいけど。」
だから、
「ごめん。この前言ったの、厳密にいうといろいろ間違ってる。ごめん。」
結花は虚を突かれたような顔をしてから、慌てて笑顔になっていった。
「ああ、ううん。そんな。もともとあれ、フィクションだから。」
「本当、ごめん。」
こんなところで声かけちゃって、ごめん。
「ううん、だからいいって。じゃあ。」
「うん。じゃあ。」
結花はあわてて小走りに僕の脇を通り抜けていく。
しまったな、と思った。結花は今ので気を悪くしたかもしれない、と。
何度も言うけど、僕は普段ろくに人としゃべらない。みんながそういう僕を変な目で見ていることはきちんとわかってる。結花がみんなの前で『そういう子』としゃべりたくないのだということも、わかっている。ただ、結花がそれで気を悪くしているかもしれない、ということが気がかりだった。今すぐ確かめに行きたい衝動がふつふつ沸いてきたけど、行けるわけないってわかっていたし行かなかった。ただ、いやな気分がずっとまとわりついていて、何にも集中できなかった。
人気者の草野結花と僕はそもそも住んでいる世界が違う。それを忘れてはならなかったのだ。唇をかみしめて、そう思う。
しかし、その日の翌日の朝。信じられないことが起きた。
ランドセルを机の上に置いて席に着いた時だった。
ちょうどその時、ロッカーの前で友達としゃべっていたらしい結花が僕の机のわきを通った。
「――あきひと、おはよう」
女子の、声が聞こえた。
「え。」
顔を上げると、こちらを見ている結花の顔が目に飛び込んできた。
「おはよう、あきひと。」
そう言ってにっこり笑う。きれいな茶色の瞳を細めて、結花が笑う。
一瞬、なにが起きたのかわからなくてかたまる。その間に結花は僕の脇を通り抜けて自分の席についてしまった。そしてそのまま、机の上で本を開いて読み始める。
なんだか、拍子抜けしてしまった。昨日、あれだけ嫌われたかもしれないと心配していたのは一体何だったんだろうと思ってしまう。昨日の気まずそうな態度にこっちはひやひやしていたのに、急にクラスで挨拶されて、なんかそう、拍子抜けしてしまった。
昨日の気まずそうな表情は何だったんだろう。今日になって、すっかりさっぱり忘れてしまったんだろうか。女子ってわからない。
――いや、そもそも僕は男子とだってろくにしゃべっていないし、よくわからない。僕は女子だけじゃなくて、他人の思考がわかってないんだ。そう思って一人で苦笑する。
じゃあとりあえず、あの草野結花の思考だけでも理解しようと努めることにしようか、と僕は一瞬真面目に、だけどそのあともう一回苦笑しながら考えた。結花も十分変人だ。
その日の五校時目。理科室への移動教室の時だった。
僕が教室で教科書だのノートだのを引き出しから出している時、廊下から、女子の大声が聞こえた。誰かに聞かせようと、わざと大きくした声。
「あーあ、ぼっちの人かっわいそー。」
すぐ近くにあった窓から廊下を覗く。一瞬、自分の事かと思って心臓が凍り付く。だけど、違った。廊下でニヤニヤしながら彼女たちが見ているのはロッカーから荷物を取り出していた
彼女たち。
廊下にいた女子の集団はクラスでもよく騒いでいる結花たちのグループだ。案の定、その集団の脇の方に結花もいた。
「みんないこー。ぼっちはほっといてさー。」
瞳は、ちょっと灰色に近い髪をショートカットにしている、中世的な顔立ちのなんとなくかっこいい感じの女の子だ。結花や初佳がわざわざ四月に自分のグループに引き抜いた、どちらかというと人気者。ポジションは初佳の親友、のはずだった。
初佳たちは教室に背を向けて歩き出す。結花も、それについていく。茶色い髪が、ふわふわ揺れる。
その時、一番後ろにいた結花が教室の方を振り返った。栗色の髪をふわりとなびかせてこちらを向く。
一瞬、目が合う。だけど結花の視線は僕を素通りしてそのまま教室の端を向く。ロッカーの方、眞田瞳のいる方を見る。
その視線は、とても冷たかった。その視線に、瞳が凍り付いたのが見なくてもわかる。
そして結花はふいと視線をそらした。そしてそのままあの集団についていく。何事もなかったかのように友達と笑う。
僕は、その様子を冷え冷えとした気持ちで眺めていた。結花は何をしているのだろう、と。
教室のロッカーで唖然とした表情で突っ立っている眞田瞳に視線を向ける。瞳は僕に見られたことに気が付いたのだろうか、瞳はハッとした表情を浮かべてロッカーから荷物を取り出し、そのまま走って教室を飛び出していった。
昨日、結花は僕のところまで挨拶に来た。今の瞳と同じ『ぼっち』の僕のところまで来たのだ。だけど、今日の結花の態度はあまりに冷酷だ。結花は、ここまで冷酷の人だっけ。結花は何をしてるんだろう。そう、思った。
理科の授業中。
僕は結花や初佳たち、そして瞳たちの様子をちらちらとうかがっていた。黒板の前では理科専任の先生が植物の光合成の話をしているけれど、僕はさっきのことが気になって仕方なかった。初佳たちは授業中だけど、こそこそとメモ用紙で何か連絡を取り合ってはお互いににやにやしていた。結花はなんだかつまらなそうな顔をしてぼんやりとその様子を眺めている。瞳はひたすら熱心に授業を聞いている。
「じゃあ次……、眞田。」
先生が瞳を指名する。
「五十九ページのまとめをお願いします。」
「まとめ、植物の葉に……」
瞳が教科書を読み始めたその時だった。
「初佳、立ちなさい」
先生が言った。
「えー。なんですかー、せんせー?」
初佳が悪びれる様子もなく立ちながら言う。
「お前今、眞田が話していたのに聞いてなかっただろう?」
先生が呆れたような表情をしながら言った。
「次からはちゃんと聞けよ。」
教室の空気が、凍り付いた。
「ほら、座れ。」
凍り付いていることに気が付いていない、先生だけが軽い調子で続ける。初佳がガタンと音を立てて座る。
「――眞田」
瞳が先生に呼ばれて唖然とした表情のまま先生を向く。
「眞田?早く読め。」
「まとめ、植物の葉に日光が当たると……」
瞳が教科書を読み始めるけれど、誰も瞳の方を向かなかった。みんなちらちらと初佳の方をうかがう。初佳はふてくされた表情で瞳の方をじっと見る。睨んでいる、と言った方がいいかもしれない。瞳が初佳の視線から逃げるように前を向く。早口で教科書を読み上げる。
きっと、授業が終わった途端、初佳は怒りだす。あんな奴のせいで私が怒られた、瞳のせいで私は恥をかかされた、と。
それは瞳のせいじゃないのに。瞳は悪くないのに。だけど、たぶん初佳は瞳のことを悪者にする。みんな、初佳の味方をする。
――僕が、心配する必要はないのかもしれない。三年前、僕のことをあっさり切り捨てた瞳のことを心配する必要は、ないのかもしれない。
三年前――小学三年生の頃。あの頃までは僕と瞳は仲が良かった。幼馴染、だった。
『アキくん、あーそーぼ。』
『あ、ひーちゃん』
耳の奥に、あの頃の声がこだまする。でも、あの後瞳は僕を切り捨てたんだ。
「きりーつ。れい。ありがとうございましたー。」
理科の授業が終わった。みんながガタガタと椅子をしまう。先生が実験器具を持って奥の準備室へつながる教室の後ろのドアを開ける。
そんな中、僕は初佳の方をちらちらとうかがっていた。初佳はきっと怒っている。あの時、僕に怒ったのと同じように。瞳は一人でさっさと椅子を片付けて、荷物を抱えて理科室を出ていく。
その時だった。
「待って。」
結花だった。結花が瞳を呼び止めている。みんなが驚きの表情を浮かべる。もちろん初佳もだ。だけど結花はそれを気にせず、そのまま瞳を追いかける。
「ひとみ。」
そのまま、理科室を出ていく。
沈黙が訪れた。みんなが唖然とした表情をしている。その中、みんなの視線は自然とある一人のもとに向いた。
「結花なんて、もともと好きじゃないし。あの人の行動、意味不だし。」
初佳が誰とも目を合わせないように下を向きながら不機嫌そうにつぶやく。そして一人で荷物を片付け始めた――のだが、その途中でばっと視線を上げた。
「何だよ。だーかーらっ、その視線は何だよっ。」
みんなが顔を伏せる。教科書をつかんで初佳が教室を出ていく。
あっけにとられたみんなが一人二人と、荷物をまとめ始める。暗い雰囲気のなか、誰も一言もしゃべらなかった。
その中、僕は一人で喝采を上げていた。
やっぱり、結花はすごい。
結花はクラスのみんなの雰囲気にのまれていない。それどころかきっと雰囲気自体を変えられるんだ。
クラスのみんなが、初佳が、何を言っても、結花は僕の味方をしてくれる。
僕は、根拠もないけどそう思い始めていた。
君に会いに行くほどの積極性を僕は持っていない 月村はるな @korehahigekinokiokudearu
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