都合のいい話し相手、みんなの日常への扉



 五月十日、月曜日。

 教室に入ると時刻はすでに短学活が始まるまであと五分を切っていた。慌ててカバンの中身を整理する。僕は普段遅めに来るけど、それだって五分前には席に座れるように準備している。


「ははは、ねぇやめろってばぁ。」


 ふざけて教室の後ろで騒いでいるのは男子学級委員の長瀬悠馬ながせゆうまだった。

 学級委員とかそういう目立つ役職になる時、成績や素行よりも皆に慕われているかが基準になる。人気があるか、みなを従わせるほどの権力があるか、ということだ。


 人気者、例えば、草野結花のようなやつだ。

 そう、草野結花は女子の学級委員だ。周りの女子が彼女をしきりに押していた。人一倍気の強い女子に逆らうやつはいなかった。候補者は草野結花以外誰も出なかった。


 長瀬悠馬もだ。投票のある前日、一人一人呼び止めては大きな声でこう繰り返していた。


『男子で学級委員なろうなんて奴俺の他にいないよな。もちろんお前も俺に投票してくれるよな。友達だもんな。』


 対戦候補は誰も出なかった。





 その週の金曜日。

 今日は水やりの日だ。僕は例のごとくいつもより早めに家を出る。僕が草野結花のことを『結花』と呼ぶようになったのは前の水やりがあった日だから、僕が草野結花を『結花』と呼ぶようになって一週間がたったことになる。


 その時、ちょうど部屋から出てきた弟と会った。


「あ、兄ちゃんおはよう。早いね今日。」


 眠そうな顔をした弟が言う。僕と違って利発なんだけど、寝起きはちょっと呂律が回ってない。

「水やりの当番があるから。」

 なければ早く行かない。そういう意味を込めて言う。

「そうなんだ。そういえば最近金曜日だけは早いね。」

「だからその当番が金曜なんだ。」

「ふうん。――珍しい。」


 え、と思ってまじまじと弟の顔を見る。顔だけはそっくりな、僕の弟。


 珍しい。それはどういう意味なんだろう。母は朝早くから学校に行こうとするのが珍しいといった。でも、それは水やりの当番があるという理由で『やっぱり』と言われた。


「何が。」

 弟の顔から視線をそらして言う。


「だって」

 帰ってきた弟の声はなんだか不思議そうだった。眠たそうな顔をして、だけど真面目な表情を作って、弟が言う。


「そんなに嫌がってないでしょ。珍しいよ。兄ちゃん、水やりの―当番?、を楽しみにしているように見える。すごく、珍しい。」





 五月の朝の空気は、とても澄んでいた。


 この住宅街の南東に広がる小高い山の端から顔を出している太陽は、そばに流れる中川の水をきれいに映し出していた。その光は、県内で一、二を争う透明度の水の中を通り抜け、川底を照らし出す。こぶしほどの大きさの石がゆらゆらと伸び縮みしながらこちらを見ている。小さな石が水に押されて転げながら川下へ向かうのも見える。


 足元にはしずくを付けた若々しい草が茂っていて、空では名前のわからない鳥がピチピチと鳴いている。空にはうすぼんやりとしたもやがかかっていて、だけどその温度はとても低かった。騒がしいちびっこが出てくるのはもう少し後の時間帯だ。だから、とても静かだった。静かな朝だった。


 その時


「あきひと」

 という声が聞こえた。ピンと張りつめた糸のような、凛とした声。声の主は見なくてもわかる。僕が草野結花のことを『結花』と呼ぶようにしたのと同じ時に、草野結花は僕のことを『あきひと』と呼ぶようになった。逆に、草野結花以外に僕のことを名前で呼ぶ人はいない。


 みんなはこういうことは普通にあることで、日常で、そうじゃない僕にとっては非日常だ。結花は僕の非日常への扉。そしてみんなの日常への扉。


「結花」


 後ろを振り返ると堤防の脇の斜めの急な坂の途中から草野結花がこちらを見ていた。そういえばここは、草野結花の家の近くだった。


「結花、はいつもこんな早くに学校来てるの。」


 走って僕の脇に来た結花に聞く。


「ううん。当番だから。」

「そうなんだ。」

「あきひとはいつもおっそいよね。遅刻ギリギリ。」

「うん。でも、早く行こうとすれば行けない訳じゃない。」

「ふうん。」


 そう相槌を打ってから、そういえば結花は普段、誰と登校しているのだろうと思った。僕はいつも遅刻ギリギリに一人で登校しているけど、あの人気者の結花がいつも一人というのは少し違和感がある。


「そういえば、昨日読んだ小説に、天才医師の話があったんだけど。」


 考え事をしていたら結花がそう話しかけてきた。


「うん。それで」

「その医師が子供のころ、船で友達が倒れちゃって。」

「うん。」

「周りに大人が居なくて、主人公とその二人で取り残されてるの。電話で助けを求めるんだけどそしたら知り合いの医者の指示で、主人公が手術することになるの。」

「え、何それ。応急手当?」

「ううん。まあ、それに近いけど『手術』」

「へえ。なんかすごいね。つうか、器具はどうしたの」

「最初からその場に置いてあるの。」

「ふうん。」


 結花は小説とか、漫画とか、そういうものが好きだ。人気者の結花のイメージと違かったから、ちょっと意外だった。


「あとね、手術で、絶対不可能っていう状況で、磁石を使って解決しちゃうの。」

「え?どんな状況だよ。それに、病院にスマホとかの使用が禁止されてるのって、電磁波で機械とかが誤作動起こすと大変だからじゃなかったっけ。磁石なんか持ち込んで大丈夫なの?」

「あー、どうだろう。それはー、うーん、わからない。」


 僕と結花がしゃべる時は、こういう小説とか漫画とか、そういう二次元の何かに関する話が多かった。僕にはほかにしゃべる人がいないから比較するものがないけれど、結花が彼女のほかの友達としゃべる時に二次元の話をしているところは見たことがないし、おそらくしていない。彼女がほかの人とこういう話ができないから、僕の前でそういう話を選び取ってしているのだろうと想像する。


「――私、将来、医療関連の仕事につきたいんだよね。」


 結花が、唐突に言った。


「え?」

「なんか、かっこいいじゃん。」

「かっこ、いい。」


 弟の話じゃないけれど、本当に『珍しい』。僕も結花も自分自身の話はほとんどしない。


「それは医者になりたいってこと?」

「--うん。」


 結花が少し目をそらして言う。


「ほら、女子ってさ、『看護婦になりたい』っていう子はそんなにたくさんはいないけど探せばいるんだよね。だけど、医者になりたいっていう子はほとんどいないし、なんか言いずらい。」


 彼女の言いたいことがよくわかった。要するにほかの子に医者になりたいって言って自分が浮かないか心配しているのだ。存在自体がクラスからプカプカ浮いている僕にだったら、それが言えるというのもわかる。


「そっか。なんか似合いそうだね。」


 僕がそう言うと結花はぱっと顔を明るくさせた。

 僕が似合うって言ったのは心療内科の優しい医者とか、あとは小児科の先生なんだけどな。話に出てきた天才医師(たぶん外科医とか)のイメージと結花のイメージは絶対にあわない。


「そう?ありがとう。」


 でも、そういう結花の顔を見るとなんかどうでもよくなってきた。



 彼女にとって僕は、たぶん都合のいい話し相手。

 だけどそれでもいいや、と僕は思う。


 どうせそれを断る積極性なんて、僕は持っていないんだから。



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