第8話 祝福


「ッなっはぁぁぁあ~!」

布団を蹴り上げて、ベッドから出た。

昨晩の酒が残っているのか妙に喉がザラザラしている。

キッチンへ向かい、蛇口をひねって水道水をしこたま喉へと流し込むと幾分かはましになった。

背後の冷蔵庫を開けて、クルトンをまぶしたサラダとチーカマを食する。

レタスを咬み下す音がシャキシャキ際立ち、則夫のテンションは反射的に高まる。

リビングへと戻り、丈の長いカーテンを引き開ける。

とびっきりの快晴。

向かいの建物のてっぺんから差し込む朝の光が全裸で仁王立ちの則夫のおでこにやんわり降り注ぐ。

<あぁ俺、今生きてる……>

瞼を閉じてしばらく春のポカポカ陽気をしこたま体に浴びた後、全裸のままソファに座って、脚を組んだまま今日の予定を考える。

とりあえず朝の散歩からはじめて、と。

絶賛無職10年目の則夫にとり、その日のスケジュールを立てるこの時間がもっとも頭を働かせる頃合い。

パチンコに行くか、バッティングセンターに行くか……

あるいはシンプルに公園でほのぼの日光浴をしてみるのもよいかもしれない。

よしっと、腿を打って勢いよく立ち上がると、滅多に着用しない余所行きの衣服をブラの上に重ねて部屋を後にする。


最寄りの駅までは歩いて5分。

砂利の小路を行き、一つ目の角を左に曲がればもう駅までは500メートル程だ。

鈍行しか止まらない小さな町ではあるが、朝方は通りは駅へ向かう人でいっぱいになる。

学生、パート、サラリーマン。

その足早な姿の散見される中を、

いっちょ前の風情を保ったまま溶け込むように歩くのが則夫の毎朝の日課となっていた。

日頃はおおむね、駅前で切符も買わずに部屋へと踵を返すのだが、

この日はあまりの陽気にちょっと気晴らしに羽でも伸ばしてみようかと考えた。

ところが、ロータリーに付設のコンビニでコーヒーを購入したあと、駅舎の券売機へと向かっている矢先、則夫の目の前をびっこ引いた黒猫が則にゃ~と呑気に鳴いて横切ってしまった。

<あぁぁぁ>

不幸な邂逅に眉間にシワを寄せ、

狭い路地へと消えてゆく黒猫にめいいっぱいの舌打ちを浴びせてやる。

<今日は朝からついてないな>

胸の内で嘆く則夫。

小さくため息をつき

さしあたってはその場で手持ちのコーヒーを全て飲み干してから、おもむろに左右の両足をきっちろそろえると、目的の駅舎を前に、駅へと向かう通行人とは逆方向へと右足からゆっくり後退を始めていくのだった。


”黒猫を見たらば10歩下がるべし、さもなくば呪い殺される”


まだ則夫が小学生だった頃、毎日のように同級生から刷り込まれた都市伝説だ。

それを則夫は30を超えた今になっても律儀に遂行している。

もちろんそんなの眉唾ものだとの思いもあるにはあったが、

20年ほど前に猫は見たものの無視を決め込んだ結果、その翌日に叔母が死んでしまって以降はそのおぞましい因果の鎖に恐れをなしてイケナイ信仰がいっそう強化されてしまった。

今では歩数も10から50に増えてしまっている。

通行人の奇特な視線を縫って則夫は動揺することなくただただ悠然と後進していく。

が、残り5歩にまで歩き達した頃、則夫の脳裏にとある危険な惑乱がかすめた。

<目覚ましオフにしてたっけ?>

則夫はタイマーをいつも朝の7時に設定している。

毎朝そのベルの音とともに起床している則夫だが、今日はそのベルの音を聞いていないことに気づいた。

思えば本日少々定刻よりかは寝坊してしまった。となれば目覚ましをオフにしていない可能性が高く、つまりは同日夜の7時にもベルはけたたましく鳴るわけで、昨今騒音トラブルが後を絶たない現状を鑑みるに、そのベルの音で隣人の聴覚を刺激してしまったことで憎悪、今ある平和な日常が脅かされることに則夫は恐れおののいてしまう。

震える精神が決意を迫り、唇を引き結んだ則夫は結局50歩後退したのち、くるりと体を180度回転させると、そそくさと自宅のアパートへと小走りに駆けていく。

玄関で乱暴に靴を脱いで、廊下を足早にリビングへ。

歩幅を緩めてふぃ~と一息ついたあと、ベッドへ近づき、羽毛の飛び出した枕元で転がる置時計へ腕を伸ばしてみたらば、しかし既につまみはオフだった。

突き出した顎に舌が垂れた。

<骨折り損のくたびれ儲けだな……>

だが、と則夫はすかさずリカバリーを測った。

こうして確認しに帰ったことで、確認を怠ったことで生じる気持ち悪さを回避できた利点はあるのだろうから

<トントンだな>

と思って鼻をすすった。

駆けてきたため則夫の肉体は既に異常な発汗を示していた。

シャツも大いに汗を吸って元の赤色が変色している。

これからせっかく遠出するというのに、汗で濡れた衣服はどうなのかと、則夫は朝風呂に入ることにした。

パンツもブラもかなぐり捨てて、あっついシャワーを全身に浴びせるとハニーな気分になった。

あぁたらしいぃ朝がきた~希望の~あぁさぁだ。

タオルで水滴をふき取り、パンツに足を通し、ブラを巻いて同じ色のシャツをその上に重ねた。

<よし行くか!>

出る前に念のため時計のつまみがオフになっているかを再度視認する。

加えてガラス戸の施錠と冷房の電源がオフになっていることも執拗に確認することも忘れない。


部屋を出て、砂利の小路を行き、一つ目の角を左に曲がった時、家屋の生垣で丸くなってる黒猫を観た。

歯を剥いて黒猫を威嚇するが、猫は気にする風でもなく優雅ににゃぁとひと鳴きすると生垣の内側へと飛び降り見えなくなった。

肩をすくめ、鼻で息をつく則夫。

両足をそろえ、背筋を伸ばし、駅へと向かう人群れとは逆方向へとまたぞろ後進してゆく。

が、あと残り7歩にまで歩き達した頃、則夫の脳裏にとある危険な惑乱がかすめた。

<シャワーの蛇口をしっかり締めていなかったのではないか>

基本、その日暮らしの則夫にしてみて、無駄な浪費はどうしても避けたいところだった。

過去には何らかのミスでタイマー予約が駆動し、無人の部屋を丸々半日キンキンに冷やしていたこともあった。

<ちりも積もれば山となる。水道代だってバカにならないぞ>

そう考えた則夫は、唇をキュッと引き結び、50歩後退したのち、くるりと体を180度回転させると、慌てて自宅のアパートへと小走りに駆けていく。

玄関で乱暴に靴を脱いで、廊下を足早に風呂場へ向かう。

歩幅を緩めてふぃ~と一息ついたあと、浴室ドアを開けて入って蛇口に手を伸ばすと、蛇口はもうそれ以上捻ることができないってくらいにきつくきゅっと締められていた。

天を仰いだ顔に両手を当てた。

<骨折り損のくたびれ儲けとはこのことだな……>とは感じたものの

こうして確認しに帰ったことで、確認を怠ったことによる気持ち悪さを回避できたことを考えれば

<トントンだな>

と無理くり正当化して、鼻をすすった。

ところで駆けてきたため則夫の肉体は既に異常な発汗を示していた。

シャツも大いに汗を吸って赤色が変色している。

これからせっかく遠出するというのに、汗で濡れた衣服はどうなのかと、則夫は再度朝風呂に入ることにした。

パンツもブラもかなぐり捨てて、あっついシャワーを全身に浴びせるとハニーな気分になった。

あぁたらしいぃ朝がきた~希望の~あぁさぁだ。

タオルで水滴をふき取り、パンツに足を通し、ブラを巻いて黒のタンクトップをその上に重ねた。

<よし行くか!…ん!?>

リビングを出ようとする則夫は、床板の一角にあるいは良くない事態に発展する可能性を帯びたモノをめざとく見つけた。

腰を落として、確認してみるとコンセント周りにプリンター用紙の細かな切れ端が幾つか散っている

そして用紙にはかすかな熱が帯びていて……

<あやうく火事になるところだったじゃないか!>

大惨事になる前の大発見に安堵の吐息をついた則夫は細切れの紙切れを丁寧に一枚一枚除きとり、ゴミ箱代わりに壁際に据えてある20Lのゴミ袋へと投げ捨てた。さらに念には念をとコンセント周りに溜まっていた埃の類もフ~っと息を吹きかけ四方に散らしておいた。

<埃も十分熱に引火する要素を持っているからな。では、行くか!>

ボディバックを肩から下げて部屋を出る前に壁に飾った額縁の位置が少しだけ曲がっていたので元に戻した。

靴も先ほど犬の糞を踏んだような気もしないではなくて、靴底を念入りに洗っておくのも忘れない。


部屋を出て、コンビニに差し掛かれば、改札まではあともう少しだ。

向かう中途で、長年の懸案事項であるクロネコヤマトのクロネコロゴに遭遇したが、先日決めた鉄壁のルール:偶像や絵画の類については仮に黒猫であれ後進しない

をかたく順守するべく、遂行しない気持ち悪さは残ったものの先へと進むことにした。

改札を抜け、ホームへ降りる。

程なく滑り込んできた各駅の電車へ乗り込み、ふふふん♪って鼻歌を奏でている間に目的の駅へとついた。

そこから公園までは徒歩およそ5分の距離。

だが、町のランドマークとしても親しまれている公園はてつもない広さで、駅舎から道一つ隔てた位置には既に公園の入り口が目視できた。

駅から最も近いその西側の入口から園内に入ると、園道は昨日の猛雨ですっかりぬかるんでいた。

歩を進めるたび新調したばかりの白いシューズが汚されていくようで則夫は嫌な気分になった。

10分ほど歩くと園内の芝生広場へと到着。

コンクリで固められた赤茶色の道が芝生の周囲を取り囲んでいて、そこを息をはずませ走るランナーの姿が何人か散見された。

その道脇にある木製のベンチへと則夫はゆっくり腰を落とす。

平日でありながら、人が多い。

ランナーのみならず、芝生の至るところにちらほら人影が動いている。

<ぽかぽか陽気だなぁ>

ひじ掛けに体重をのせた格好で足を組む。

混じりけのない青空に芝を渡る涼風が心地よく、目を閉じめいいっぱい筋を伸ばしてみると、溜まっていた澱が毛穴からすーっと春の陽気へ溶けていくようだった

くつろぎの時間を満喫していた則夫の足先にふと、コツンと何かが触れたような気がした。

目を開け見やると、白球が転がっていて、

足を崩して、手にすると、思いのほかパヨンと柔らかい軟球。

「すいっませぇん」

んッッと東の方角から声がして首をぐいっと90度向けると、20代くらいの髪を後ろでひっつめにした若い女が則夫の元へと駆けてくる。

女は則夫から10メートルぐらい離れたところで足を止めると、再び

「すいません」と少しエクボを造って繰り返し、則夫の手にした軟球へと物欲しげに黒目がちの瞳を向けている。

則夫はひっつめ女に顔を向けたまま、今ひっつめ女の瞳が向けられているボールの柔らかさを楽しむようになまめかしく五指を動かした。

「あ、あのぉうボールを……」

何も言わない則夫にしびれをきらしたひっつめ女が言う

顔には先の朗らかな笑顔からは一転、明らかに警戒の色が浮かんでいる

「あっ」と則夫は今初めて気づいたように額を平手でパチンと弾くと「ボールね、今ちょっと昔を思い出してましてね、返さないといけませんよね」

そういうと手の中でポンポンと何度か弾ませたボールを、下から斜めに回転をかけて女へ返した。

それを女はうまくキャッチできずにあっあっとお手玉したあと落球。

傾斜で転がるボールを中腰でおっかける女へ則夫が言う。

「私も小学生の頃はよく軟球で旧友とキャッチボールをしたものでね。伸びるボールやフォークボールをとにかく競い合って投げ合っていましたよ。なまじ才能があっただけに、それこそ少年の頃には将来はプロだメジャーだなんて期待されていたのです。ただ……」

少し間をあけた則夫は細めた眼差しを中空へとさまよわせた。

「高校の時に肘をこしょ…」

「ありがとうございました。失礼します」

ボールを手にした女は則夫の話にかぶせるようにして頭を下げたあと、いつの間にか様子を見に近づいてきていた、ひっつめの連れらしき男の元へと逃げるように駆けて行った。

その女の駆けていく方面へ、則夫が左手を挙げると、

連れの無学で知性の欠片もないようなヒゲの若い男が顎をちょんと前に出して反応した。

が、結局それだけで、ひっつめ女が男の元へと合流すると、二言三言言葉をひそひそ交わしたあと、程なく則夫から離れていった。

昼の12時にさしかかり、陽射しが徐々に厳しくなってきた。

先まで散見された人影が見えなくなったのはちょうど飯時だからだろうか。

現今確認できるのは元の位置に戻って再びボール遊びに興じ始めたあの2人だけだ。

則夫はボディバッグから取り出したリンゴ飴を舌の上で転がしながらその睦まじい姿を視力2.5の目力でじっと観察している。

ひっつめ女と髭の男がボールを投げ合っている。

コントロールは抜群でフォームも割と様になっているようではあった。

おそらく経験者なのだろうな、とちろちろ眺めているうちに、ふつふつと則夫の胸中にかつてのスポコン魂がよみがえってきた。

<僕もあの2人の戯れに参画してみたい!>

そう思うと則夫の瞳孔はギンギンに開いていき、とはいえ、どうやってあの2人に近づくべきかと難渋するが、僕も参画させてください!と唐突に頼み込むのは元来小心で誇り高い則夫にはできない芸当でもあり、こちらから声をかけられない以上、やはり残る選択肢は二人からのアクションを望む以外に他はないのであった。

そう考えるや、則夫は即座に行動に打って出る。

ベンチから腰を上げると、マウンドの土をならすようにエアピッチングを開始した。

ワインドアップポジションから軸足でないほうの左足を中空へしばし彷徨わせたあと、下ろす勢いのままに太くて短い右腕を思いっきり振り切った。

村田兆治顔負けのまさかり投法。

ボールもグラブもありはしないが、則夫の耳には投げたエアボールがエアキャッチャーのエアミットにパスンと弾けるような音を立てて収まったのを確かに聞いた。

エア返球されたボールをエアグラブで受け取る則夫。

チラリと流し目で2人を伺ってみたが、しかし特に則夫へ殊更注意を向けた気配はない。

あいかわらず仲睦まじくボール遊びに興じている。

その後も3度ほどエアピッチングを繰り返したものの、結局ヒゲとひっつめからのリアクションは引き出せなかった。

<どうして気付いてくれないのか……>

則夫の中でわだかまりが頂点に達し、気持ちを解放するようにして、エアグラブをエアマウンドへ怒りにまかせて叩きつける動作もとってみた。

が、これにもひっつめとヒゲは何の反応を見せない。

<嘘だろ……>

驚きを隠しきれなかった。

二人はお昼ご飯を食べずにボール遊びに興じるほどの野球好きだ。

まさかこのタイガース時代の怒れる下柳を彷彿とさせるモーションを知らないわけではないだろうに。

あるいは共感されないのは年代の差異に由来するものなのかもなと、考えを即座に改めて、もっと若い年代に通用する普遍的なやり方で彼らの注意を引きつける必要があるなと感じた。

ファスナーを開けてしばし物色、そしてこれだっ!と中からおもむろに取り出したのは長年則夫が愛用しているブルースハーブ。

それをまるでハンバーガーを食すかのようにパックリ開けた唇の合間に挟み込んだ。

<ぴーひゃら、ぴーひゃら~♪>

音楽こそは万国共通!

創る音色が優れていれば、世代の壁などモーマンタイ!

特にブルースハープを専門に教える教室へ3年ほど通っている則夫にしてみて、ボール遊びに興じる彼らの注意を引き付けることなど造作もないように思えた。

ところが則夫の座するベンチは運悪く、二人の位置からは逆光。

どれだけ旨く鳴らせても、100メートル先の彼らの視線を吸い上げるにはあまりにもまばゆすぎた。

<全く……>

ベンチに腰掛けての演奏に早くも限界を感じた則夫、もう残すところはこれしかない!と覚悟を決めて抜き足差し足忍び足、傾斜のある芝をやや腰をかがめたまま1歩1歩対象へとゆっくり2人の元へと接近してゆく。

近づく則夫を知ってか知らずか、キャッチボールをしていたひっつめとヒゲではあったが、程なく投げ合いながらも徐々にその距離を縮めてゆき、元は10メートルは離れていた距離が3メートルまでに狭まったところで、キャッチボールを終えた。


「だいぶ調子もどってきたんじゃない?」

「まだちょっと違和感があるんだよね」

「じゃあきちんと回復しやすい身体づくりをする必要がありますね」

一気に距離を詰めた則夫がスッと二人の間へ割って入る。

仰け反るように後ずさりするひっつめ。

一方、ヒゲはにやにやと不敵な笑みを浮かべながら

「しているのか、だってさ」

とひっつめへ則夫の言葉を繰り返す。

だが青い顔したひっつめは不安げにさまよわせた視界をひげに向けたのみで言葉はない。

「こいつこう見えて大学で女子野球やってるんすけど、食べ物にあまり気を配らないんですよねぇ」

無言のひっつめに代わってひげが応じる。

「そうだったんですね。ケーキとかスナック菓子とかでしょうか。ああいうものはほんとに代謝を下げますからね。代謝が落ちると体が冷えて疲労回復にかなりの時間がかかってしまいますから要注意ですよ」

「詳しいっすね。野球、やってるんですか?」

と則夫に腕をふる仕草をしてみせるヒゲ。

「昔ね。彼女にも申しましたが学生の頃には、それこそ将来はメジャーだプロだぞだなんていわれていましたが、高校に入学して以降あまりのオーバーユースにとうとう肩が悲鳴を上げてしまいましてね。それでも根性だ! 気合いだ! などと自分に鞭打って投球を続けた結果、インピンジメント症候群に罹患してしまったというわけです」

「インピンジメント症候群?」

ヒゲが首を横に捻る。

「ええ、骨と骨の隙間に筋肉などが挟み込まれることで痛みを生じる症状のことですよ。僕の場合は肩の刺上筋が上腕骨と鎖骨の先端部に挟み込まれることで鋭い痛みが伴っていました。ひどい時には日常生活にまで支障が出て、寝返り一つまともに打てない季節もありましたよ。あの時はつらかったなぁ」

「だってさ」

またもよやヒゲがひっつめへと何かを含ませた笑みを向けたが、既にひっつめはその場を離れており、そそくさと芝に敷いてたゴザを一人無言で折りたたんでいる。

「おいおい、もう帰んの? せっかくだからアドバイス聞いてみようよ」

少しボリュームを高めて言うヒゲにぶすっと無表情のひっつめからは何も反応がない。

<緊張しているのだろうか>

丸い頬肉を持ちあげてにやつく則夫はおもむろに三角をつくった両手を口元へと持っていくと

「お役にたてることがあれば、何なりと~」

と折りたたんだゴザを脇に抱えたひっつめへアナウンスした。

「無視ですね。何を怒ってんだか」

こめかみをかきながらヒゲが言うと

「ちょっと俺、聞いてくるんでここで待っててもらえますか」

と所在なさげにしている女の元へと歩いて行った。

その場にとどまった則夫の鼓膜に断片情報が入ってくる

「…え~そんなぁ…」

「大丈夫だってぇ、…大丈夫…でな…こうして…逃…」

ヒゲは女へ何がしかの提案をしているようだ

やがて戻ってきたヒゲは

「とりあえず話つけてきたんで」

と女へちらっと目配せしたあと、手に持っていた軟球を、立てた人差し指の上で器用にくるくると回しながら

「ちょっと彼女、怯えているっつうか不安がってまして。知らない人からの助言なんてまっぴら御免な感じのようなんです。ただ、え~っとおじさんの力量がまゆつばものでないことさえ分かれば是非いろいろ教えてほしいって感じのテンションなんすよ。で、もし良かったら俺とキャッチボールしてもらえません。彼女もああ見えて大学で野球やってますから2,3回ボールを往復させれば、その素質というか凄さは分かると思うんで」

「そういうことでしたか」

と、やや傾けた頬に手を当て則夫は

「昨今のせちがらい世の中では知らない者を警戒してしまうのは仕方のないこと。いいでしょ、やりましょか。ただ肩が故障して以来、公式に投げたことはありませんから、彼女の過分な期待に応えることができるかいなか」

「だいじょーぶっすよ。多少外見が崩れていても、才能はもっと別のところで測れるものっしょ。彼女らもその辺は理解してますから。じゃ、早速はじめましょう」

ヒゲが女がいる方へと走ってゆき、則夫から少し距離をとった。

則夫も実はずっと心の中でわだかまっていたクロネコヤマトの呪縛を解消するべくルールを曲げて50歩後ろ向きで下がってゆく。

「結構距離ありませんか」

小さなくなったヒゲが言う。

「ちょうどいい感じですよ。いつでもどうぞ」

「じゃ、行きますよ」と言ってヒゲがボールを投げる。

その山なりの軌道に対して、則夫は軽やかなステップを踏みながら、身体をおよそ予想される落下地点へと移動させる。そして両腕を背中に回すと、おぼんのように膨らませた両手で、弓なりに落下してきたボールをキャッチした。

「すごいっすねぇ! イチローばりの背面キャッチやっちゃうなんて!」

ヒゲが右腕を突き上げ歓喜している。

女もさすがに驚いたように目を丸くしている。

気をよくした則夫は間髪入れず

「じゃ、いきますよ」

と両腕を大きく振りかぶり、右足を大きく中空へと伸ばしきったまさかり投法にて腕を勢いよく振り抜いた。

ぐんぐん速度を上げるボール。しかし40メートル付近でナイアガラの滝のように急降下すると、最後は湿って地肌剥き出しの土の上をコロコロ転がってヒゲの足元で止まった。

「フォークボールですか。半端ない落差ですねぇ」

「一番得意な変化球ですから」

「じゃ、次俺、行きますよ」

と思いっきりヒゲが投げたボールは1回目の時よりさらに山なり、もはや遠投目的でしかありえないような軌道をえがいて遠く則夫の頭上を越えていった。

「すんませぇ~ん、ついつい力入り過ぎちゃってぇ」

ヒゲの声を背に聞きながら、落下したボールを取りに走る則夫。

追いつき、ボールを手にして乱れた呼吸を整える。

<並みの肩ではないな。負けてられない!>

とボールを持つ手に力をこめると、サッと前方へと振り向いた。が、その先にヒゲはいなかった、

女も消えていた。

「あれ?」と視界を広く這わせてみたところ、ちょうど空と大地が重なる丘の上で、2人が小走りに去っていく後姿があった。

やがて丘の向かいへと消えた二人。その方向をしばらく呆然と気が抜けたように眺め続ける則夫はまいったなぁ肩を落とし、ボールを手の上で転がしながら

<二人とも恥ずかしがりやさんだなぁ>と胸の内でつぶやいた。

腹の虫がきゅ~っと鳴動した。

<運動したからか、随分腹が減ったな>

シャツを膨らませた丸いお腹をさすって、とりあえずの急場しのぎでバッグから板チョコを取り出しほうばる。

だが再びきゅ~とにぎやなか音を立てる腹の虫に、則夫は初めてまともにご飯を食していないことに気づき、昼食を腹に入れるため公園を後にした。

元来た道を戻り、駅前のロータリーまでたどりついたところで、則夫は壁がレンガ張りの古めかしい純喫茶へ入った。

ドアベルをカランと鳴らして 窓際の奥の席へと腰を下ろすと、やってきたボーイに

サンドイッチとカルアミルクを注文。

おしぼりで額と首の汗を吸わせた後は、店内流れるジャズのリズムに顎と踵で小さくビートを刻んだ

<あ~やっぱりこういう店はいいなぁ>

首から下げた万歩計を緩んだ襟ぐりから抜き出す。

既に目標の2000歩をゆうに超える4200歩を達成していた。

雨で想うように記録を伸ばせなかった昨日を思えば、この予想をはるかに超える記録に則夫は胸の前で拳をつくった。

高揚した気分のままにやってきたサンドイッチをほうばり、すきっ腹へカルアミルクごと流し込んだ。

<ん?>

窓越しに行き交う人々を見ていた時、則夫の視界に先ほどのひっつめとヒゲの姿が映った。

ヒゲが少し前を歩きその後ろをひっつめは視線を下げたまま手元でスマホを操作している。

<奇遇だなと>

則夫は通りを見つめる瞳の光を強くした。

ヒゲは気づかなかったが、ひっつめがそのうつむけた視界の端に則夫を認めたようで、途端に彼女の顔から血の気が失せたようだった。

ほんの数秒窓ガラスを挟んで瞬間お互いの視線が交錯する。

がそれも束の間、何だか気味の悪いものから目をそらすようにしてひっつめは再びスマホに視線を向けて足早に駅の方へと歩き去っていく。

2人が駅舎の中へと消えていくまで、椅子から少し腰を浮かせたまま2人の背中を見送った則夫は、一つためいきをついて席へと腰を落とす

<電話番号を聞いておくべきだったか>

一期一会の精神を大事にしている則夫にしてみれば今からでも彼らの後を追いかけるにやぶさかではなかった。

だが今一つ踏み切れなかったのは、髭とのキャッチボールで用いたあのボールを既に園内にあった池の中へと沈めてしまっていたからで、少しバツの悪い思いがあったからだ。

更にもう一点、則夫が彼らを追いかけなかった理由があった。

それは今則夫の横で楽しそうに談笑している中年面した男2人に気持ちが向かっていたからに他ならない。

カルアミルクを口につけながら注意深く男2人の会話を盗み聞く則夫。


「ま、あの時は私もピリピリしていてね」

「いえいえ、僕の方こそ配慮ができず面目ない」


聞く限り、関係性の修復途上にあるようで、その完全復刻をこの純喫茶にて果たそうとしているようだ。


「で、もうギターを止めたんですか?」

「そうですね。きっぱりと」

「もしかして私の糾弾が、原因で」

「あ、いやいや、そうじゃなくてね」


お互いを気遣える関係性が則夫にはほほえましく映った。


「元々才能がないのに無理して弾いていたこともあったもんですからある意味辞めるきっかけを与えてくれて今はほんとに感謝しています。それに……新たな趣味も見つけましたし」

「それは初耳ですな、ずばり?」

「実は競歩をはじめまして」

「それはまた良いご趣味で」

「ええ、これがばっちりはまりまして、どうも私は家で何かをするよりは外で体を動かしておきたいタイプのようです。今では競歩から派生してちょっとした散歩も休みの日課となりました。今日も万歩計を……えぇっともう12300歩も歩いていますね」


二人の話に耳をそばだてる則夫は下座に座する男の発した12300という言葉に思わず転がしていた氷を吐きだしそうになった。

慌てて唇に手を押し当て氷のゲロを防いだ。

<見かけによらず相当アグレッシブな親父だ。まだ陽も落ちないうちから10000歩を越えるとは相当な手練れ。ぜひとも散歩の秘訣を僕も知っておきたいぞ>

だが則夫の希望とは裏腹に

「話は変わってあの件のことですが」

と上座の男が今ある話題を大胆に切り変えた。

<なんてこった! せっかく、競歩の話が深まっていく兆しがみえたのに!>


「あの件というのはつまり…」

「ええ、その件のことです」


彼らの言うその件が何を指すのか則夫には分からなかったが、

ともあれ、則夫は男たちへ自分が今多大な興味を寄せていることだけは知らしめたいと企図して、さながら恋した女性へ意識を向けるがごとく、視力2.5の目力の光を強めた。

が……


「あまりこういう場所では」

「こういう場所だからこそなのでは」


則夫の思惑は無視される。

彼らにとって、自分の存在は蚊ほどにも興味がないのだろうとうなだれる中、

上座の男が、バッグからおもむろに真っ赤な何かを取り出しテーブルに置いた。

「上物ですよ」

「ひどく真っ赤だ」

<何なんだ、あの代物は>

「4年前に離婚した妻の代物です」

上座の男がテーブルに置かれたブツを手にすると、慣れた動作で衣服の上から大胸筋を覆い隠すようにその赤いブツを巻いた。

「どうですか」

「上物ですね」

「割と高いもので」

「これなら明日を生き抜く勇気が持てそうです」

あくまで小声で話す上座の男は周囲を気にするように視線を動かしている。

ちょうどその時、視線が不意に則夫の柔らかな視線とかちあった。

あっ!と言って

すかさず巻いたブラを急いで鞄の中にしまい込む上座の男。

やがて顔を上げた上座の男は、不気味に思えるくらいに則夫の方へと眺めを固定すると、その動きに程なく下座の男も則夫へ首を向けた。

そして則夫に今の今まで全く興味のなかった二人がほとんど同時に感嘆のうめきを漏らした言葉が


「あなた、ちょっとブラ紐が…」


/////////////////////////////////////


赤いブラを巻いて外出している天涯孤独の伊集院新之助は通り勝った純喫茶の窓ガラス越しに3人の男が仲睦まじく、時折腹を抱えて笑っているののをみて何だほっこりした気持ちになった。

そしてまじまじと眺めるうちに、テーブルに置かれたとあるブツが赤い女物のブラであることが分かると、何かに誘われるように喫茶の扉を開けた。

カランカラン、と男の背なで鳴るドアベルの音がまるで自分を祝福しているように思えて……



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