第7話 和解
「まさか熊田さんもブラ男だったとは思わなかったなぁ」
「いやぁ、私も驚きましたよ。こんな身近な距離でねぇ、うん、ほんと奇跡です」
「もう長いんですか?」
「そうでもないですよ。たかだか1年ちょっといったところです。佐伯さんは?」
「かれこれ10年以上にもなりますか」
「そりゃいぶし銀だぁ」
いえいえと顔の前で謙遜するように手を横に振る佐伯。
だが口から白い歯をのぞかせ微笑む顔は褒められることにまんざらでもなさそうで、
「装着してるものが、ほら寄せてあげるブラだからさ、元々AAにすら届かなかったバストが今ではほら、Bカップですわ」
と嬉しそうに、佐伯は右手で自分の左乳を持ち上げる仕草をしてみせる。
「ほっほぉう~こりゃまたよく実ったもので」佐伯の平手に乗ったおっぱいのクオリアに、洋三は感嘆の吐息をもらした。
「意図したものではなかったのですけどね」佐伯が言う。
「逆に意図せずその膨らみはやはり奇跡ですな」
「いえいえ、長らく装着してれば、誰だって容易に膨らんでいくものですよ。左右で違う乳房の形が今はちょっと悩みどこですがね、はっは」
そこへ
「お待たせしましたぁ」蝶ネクタイを首元につけた女店員がホットコーヒーとレモンティーを盆にのせてやってきた。
咳ばらいをひとつ、取り成すように佐伯はすまし顔をつくる。
レモンティーを受け取り、
洋三にもホットコーヒーが配され、
ごゆっくりと、会釈して去っていく店員の背なを横目で追いつつ、
「あの娘も随分寄せてあげてますな」と洋三の耳元で佐伯は嬉しそうに片眉を上げた。
時間は昼の2時を過ぎを回ろうとしている。
2人が居るこの純喫茶も随分お客さんが減ってきた。
だからなのだろう、当初はそこそこに抑えられていた話材が
ひと目をはばかることないそれへと徐々に変わってゆく。
「きっかけは何ですか?」
レモンティーを飲みながら佐伯が言う
「きっかけ」
「ええ。洋三さんがブラを巻く端緒となった出来事を教えてほしいのです」
何でしょうかねと、顎に手を当てて思案する洋三。
そのことについてつきつめて考えたこともなかったのでなかなか明快に即答はできなかったが
「たぶん会社の打ち上げですね、女装で巻いたブラが源ですわ」と思い当たる節を伝えてみた。
ふ~んと特に驚きもせずにただ冷静にうなずいている佐伯を見る限り、ブラ男となるきっかけとしてはよくあるケースなのだろうか。
「何の気なしに巻いたブラがとても心地よくてですね、以来その快適なフィット感に病みつきになって、女装趣味からの結果ブラだけが残ったというわけです」
「ブラを巻いたフィット感が熊田さんに感動を与えた、というわけですか」
「そうですね。元来男にブラなど必要はありませんが、だけどそれでもってブラが女性の専売特許な下着であるというのも違うとおもうんですよね。私みたいに快適な装着感を追い求めている男性もいれば、女性の気持ちを知るために利用している男性もいる。あるブログでは、それまでギスギスしていた気分がブラの作用で女性のように優しくなれたって喜んでいた人もいましたよ。最近ではお店でも男性専用のブラも販売されはじめてもいますし、今でこそまだ拒否感は根強いものの、ブラが一般的に男性OKとして広く認知されるのも時間の問題だとは個人的に思っています」
「いや、草の根で広がっていることは間違いないでしょうね。実際僕の友達にも何人かいますよ、ブラにこだわりを持った仲間たちがね。だけど、それを仲間以外のコミュニティへとなかなか発信することができない。社会的な土壌がやはりまだまだ熟していないのでしょう。実際僕と洋三さんもああいう偶然が重ならなければ、隣人でありながらこの先もずっと顔も名前もブラの色も知らないままだったでしょうしね」
苦笑しながら佐伯はレモンティーを飲み干した。
「だけど結構いそうな気がしますけどね。ブラ男」
「やはり洋三さんもそう思いますか。実は私もそう思っていて、私の知見からいえば潜在的ブラ男はきっと市内でも数千は硬いですよ」と自信ありげに微笑んだ佐伯は「というのはですね」と得意げに話をつなげて、その後もブラ男のネットワークを駆使しての新情報、また自らのブラに対する熱意をとつとつと語ったあと、ブラを装着している事由を「いつでもどこでも堂々とした自分でいられる」のだと語った。「仕事に四苦八苦する日々の中でも、衣服の下には機能的に全く不要なフリフリのブラを巻けているのだという余裕が力をみなぎらせてくれるんですよ。だから辛いことがあったときには胸の谷間にブラを感じれば元気になれる。俺はまだ大丈夫だきっとうまくいくってね。あと10年もすればきっと条件づけされた習慣になって、ブラを巻いた途端に活力があふれてくるなんてことを密かに私はブラに期待しているのです」
長々と話す佐伯に逐一、帰依したかのような感福した表壽を見せる洋三。
そのままブラの話で盛り上がるもありかなと思っていたが、しかしこの純喫茶へと赴いた事由がもう一つあることにふと気づいた洋三は期せずして現実に引き戻された。
<騒音問題はもういいのか……>
お互いブラ男であることが判明し、誘われるままに佐伯の行きつけの純喫茶へと入って40分経過するが、ブラの話ばかりで今後の騒音についての話材へと全く移行する気配がない。
別段移行してほしいというわけではないのだけど、それでは根本的に解決されない気持ち悪さだけが残ってしまう。
いっそのことこちらが完全に妥協して金輪際ギターを弾かないことを約してみようか。
顔を突き合わせて短い時間ではあるが、ブラの今後について率直に意見をぶつけ合う中、洋三は佐伯の人間的にどこか憎めない部分に好感を抱き、あえて意地をはる必要もないのかもなと若干融和的になっていたのだった。
「もうこんな時間ですね」
時計を見て佐伯が言う。
「今日は楽しかったです、ありがとうございました」
洋三は通り一遍に映らないよう、まごころを込めた笑顔を佐伯へ注いだ。
「いえいえこちらこそ」
「また可能ならこうして顔つき併せておしゃべりさせてください」
「お誘いがあればいつでも」
「じゃまた来週のこの時間に」
「今夜のギター演奏楽しみにしてますよ♪」
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