第6話 対決!

「Welcome to this crazy Time このイカレた時代へようこそ~」


夜の10時過ぎ、洋三は目下練習中のTOM CAT「TOUGH BOY」をつまびいていた。エレキを初めてはや半年、才気の見え隠れする上達具合に洋三自身、連日顔をホクホクさせていた。楽曲もオリジナルからは幾分逸脱したアレンジ奏法もお手のもの、最近ではボイストレーニングにも通いだし、エレキなサウンドに沿って歌詞を紡ぐことが洋三の楽しみの一つとなっていた。

もはやジョグは洋三にとりもはや過去のものになりつつある。

大金はたいて購めたジョグウェアも今では、カーテンランナーにひっかかったままで埃をかぶっている。

実をいうとギターを初めてから一度だけジョグをしてみようとしたことはあった。

ところが、想うように体は弾まず、走っている最中も、辛くて辛くて仕方がなかった。以前は感じられたはずのランナーズハイは影を潜め、よくもまあこんな体を痛めつけるスポーツをしていたものだと、その日を機にあっさりとジョグからの引退を決めてしまった。


その引退を機にますますエレキ一本に傾注しだした洋三は早速、ジョグ周りの備品を売って得たお金でピンク色のピックを購入。

そのピックでひとたび弦をかき鳴らすと、今までにない音色が鼓膜を蠱惑して嬉しくなった。

その日の気分によってもギターの音色は玉虫色に表情を変えるという。

だとすれば、無意識のうちに引きずっていたジョグへの想いを、今日まさにこのストロークで決別を果たしたということなのかもしれないなと洋三は思った。

新たな門出には大変似つかわしいサウンドだなぁ、と

にんまり気分を良くした洋三は結局その日は、弦を抑える五指の痛みもなんのその

朝の8時から夜中の1時までぶっ続けでギターを弾きまくった。


翌朝、何度か鳴らされるインターホンを、まどろみの中に洋三は聞いた。

昨夜のエレキのお供であった晩酌の名残の今なお残る重たい瞼を気だるく開けて、来客かと眉までかけた毛布を乱雑に打ち払う。

その身を起こし、左足からベッドに降りる洋三だったが、いや、と刈り上げたうなじをさすりつつ、自分の部屋へと招き入れる親しい友人などいないことに気づき、立ったそばからそのままベッドの淵に腰を落とした。

新聞かNHKか……としばし目を細めて警戒した。

しかしその後もしつこく一定のリズムで鳴らされる呼び鈴に他の可能性について想いを馳せてはみたものの、自分に執着する存在などとんと思い当たる節はないし、プライベートで友人と呼べるものなどこのかた50年皆無の洋三にとって会社の誰かが結婚したか、あるいは会社の誰かが死んだかくらいしか思いを膨らませるアテはなかった。が、仮にそうであってもまずは電話を鳴らすのが順序であり、このようにいきなり自分の部屋におしかけてくることなど全くのルール違反で、我知らず一部の過激派に恨みをかってしまったかと思う始末。

応じてドアを開けると大変な目に会うのが関の山だと不安視する一方で休日の朝を台無しにしてまで、どうしても自分に何かを伝えたいことがあるのだろうかと思い始めると、逆に今まさにドア越しに立ってる名無しの権兵衛の存在が多少なりとも気になりだしてき、するともう洋三の選べる選択肢は狭まり、結句は押し切られる形で一択となって、都合8度目のチャイムが鳴ったのを機として、肌着の上に一枚はおっただけの貧相な様相にてゆっくり洋三は腰を上げた。


恐る恐るドアを開けると、中肉中背の男の顔が目に入った。

男は洋三を見るや、ハッと驚いたような緊迫を見せたが、それも数秒のことで、すぐさま浅黒い顔に白いを歯を見せて会釈する。

「すいません、お休みのところ」

ぺこりを頭を少し下げる男の顔貌……

見たことはない。初めて会う相手だ。

真ん中で分けた豊富な毛量にポマードの艶がまぶしい。

「どちらさまでしょうか」

あえてそっけない態度を演出する。

こちらから下手に出る必要もあるまい。

上から下まで男をねめつけるように眺めてみると、

首から上の仕上がった様相とは裏腹にしかし首から下はどうにもさえない。

使い慣れた花柄のポロシャツにこげ茶のチノパン、合成樹脂のサンダルをはいていた。

予想以上にラフな格好からはできるだけ印象を良くしたいいわばビジネスライクな思惑は感じ取れなかった。

普段着なのだろうか。だがやはりそんなだらしない着衣で対するような友人はいない。

気味の悪さだけがつのっていく。

今にも退散してやろうかと逃げ腰の洋三を前に男は突然

「私、405号室の佐伯と申します」と言った。

「さ・え・き?」

確かめるように名前を口にしたが

名前よりはこの男の述べた405という情報がより重要であることに気づいた。

要するに佐伯と名乗るこの男は自分の住まいの右隣の部屋に居住するお隣さんであったのだ。

「お隣、さん」

「ええ、そうです」

佐伯の素性が一応はは分かったぶん、少し頬に軟らかさが戻った。

「で、お隣さんが何用?」とあえて警戒は解かぬまま次の句を洋三は迫った。

「ええ。実はですね、本日折り入ってお願いしたいことがありまして……」

「お願い」

「はい」

「何でしょう」と何だか佐伯が言いにくそうに視線を泳がせていたので洋三が先を促した。

「非常に恐縮なのですが」とここでも

過分な間をひとつ置いたあと、続けた。

「熊田さんが夜な夜なつまびいているギターの件で、その……夜にギターを弾くのは控えていただきたいなと。僕一人なら何ら問題はないのですが、実は現在身重の妻を抱えてまして、今年の5月で4カ月目にさしかかろうとする現状、このままでは胎児に少し良くない影響を与えるかもしれない、と妻が神経質になっているのです。いやもちろん僕はそんなの気の持ちようだ、世界を見る目を変えればそんなの全く気にならなくなる、だからなるべく他者様に執着はするなとはきつく諭してはいるのですが、妻はやんややんやと言ってきいてくれない。そんな妻に僕はまたぞろ語調少々きつめに、人として生まれてきた限りは人権的にも何する自由もあるだろうし、それこそお隣さんも会社勤めをしているのだろうから、帰ってきてからほんの1、2時間くらいは自分のやりたいことをやりたいようにさせてあげるのも許容するべきだと言ってはみたのですけど、ますます妻が逆上した挙句に、とうとうあなたが何もアクションを起こさないならば、いったん実家に帰らせてもらいますと唐突に言われる始末で……いよいよこの段にいたっては、僕も何とかしなければならないと感じて、こうして止む無く熊田さんの下へとはせ参じた次第でございます、ええ」

佐伯の少々長い物言いを聴く洋三にしてみて彼の語った内容はほとんど晴天の霹靂といってもいい内容のものだった。まさか自分のギターの音が壁を介して隣人に聴こえていなたんて思いもしなかったのだ。それだけに驚いたというよりは少しショックで「そんなに聞こえてましたか?」とバツの悪さから今にも赤くなりそうな顔を気にしつつ問い返してみると

「頻繁に」

と佐伯は首を縦に振った後

「これ以上妻を苦しむ姿を見たくはないのです」と悲し気に目線を下げ力ない笑みを浮かべる始末。口を真一文字に硬く結び顔を青くしているそんな佐伯を見ていると、自分の発する音がここまで隣人を追い詰めていたのかと少々申し訳ない気持ちとなる。ましてや昨今相次ぐ隣人トラブルにおいては、その因はまさに音の源の主である者が悪いと断じ続けていた洋三にとり、ここで考えを翻して、いーや、あんた気にしすぎ、だなんて自分を裏切るようなことは言いたくない。

言いたくないのだけども、しかし素直にそうですかと首肯しかねる部分があるのもまた事実で、確かに毎晩ギターを弾いてはいたことは確かであるが、それに際しては

ギターを趣味として持ち始めた瞬間から今の今まで防音マット、防音シートの類を自室の壁にとりつけて防音レベルを高めていたし、夜は気を使って殊更音量を落としてもいた。更には賃貸とはいえ、もとより防音の行き届いたマンションであることから、ちょっとやそっとのことでは音が漏れるわけもなく、むしろ、ほんとに聴こえていたのか、あるいは逆に聴いていたんじゃないかと首を傾げたくもなるわけだ。

事実、洋三の左隣の403号室からは一向にクレームがない。単にガマンしているだけなのかもしれないが、洋三自身もこのマンションに住み始めてはや3年という歳月の中で隣の部屋から妙な物音など一切耳にすることがなかった。

そうしたことを考えると、自室を発信源とする音が佐伯の言う”頻繁に”漏れ聴こえていたなんてことは、通常日常使用の感覚器官を働かせているだけではおよそありえない事態のように思えたのだった。

改めて目の前の男のミテクレを探るように眺めてみる。

もみあげに若干白いものはあるが、総じて見た目まだ若く、30代中盤から後半といったところ。

身振りも、喋り方も、どちらかといえば”まともな奴”といった印象だ。

少なくとも理不尽にモノを吐き散らすような厄介な相手であるとは思えなかった。

となれば、やはり佐伯の奥さん、彼女が現在妊娠中であるという点が事態をややこしくしているのだろう。

そこで洋三は聴いてみた。

「奥さんはもう限界なのでしょうか」

「そうですね。はたからみてももう辛そうだなって。自分のことよりかは、自分が悩み苦しむことで、直で胎児に悪影響が出ないだろうかと不安に包まれているようで。できるなら、もう辞めていただきたいとも」

涙で濡れた沈んだ目をちらっと自室の405号室のドアへと向けた佐伯。

「辞める、というのは」

「もちろんギターを……」

辞める、という言葉に瞬間、洋三の脳裏にジョグの楽しかった思い出が駆け巡る。

今度はギターを辞める……

いや、と首を2,3振って、イケナイ想像をかき消した。

そして佐伯に提案する

「今奥さんはご在宅ですか? ご在宅なら是非一度話をしてみたいなとは思うのですけど」

洋三も佐伯の住まう405号の扉へと首を向けながら言った。

「今、ですか?」

「ええ、今」

「今、は、ちょっと」

「厳しいですか」

「なかなかね。腹もすごくデカいし。もう4カ月ですし」

「4カ月ですか」

4カ月といえば、むしろつわりは落ち着き安定しているときじゃないのか、

とは思ったが、流石に口に出して言うことはできない。

非が少なからず我がにもある以上無理強いしてまで弱った奥さんを引っ張り出す様な真似だけはしたくなかった。

といって、やはり佐伯の奥さんの言い分をそのまま受け入れ、ギターを金輪際弾かないという選択肢はありえなかった。

仕事も女も絶望的なうえ、趣味のジョグにも見放された洋三にとり、

ギターは彼の人生の最期の砦。唯一楽しく呼吸できる人間としての営みなのだ。

禁止されるくらいなら死んだ方が、と沸き立つギターへの想いを胸に、

「やはりきちっとした話し合いが必要なようですね」と揺れる思いを立て直す。

予想外の答えだったのか、

「話し合いということは、辞めないということですか」

と言う佐伯の両の眉がつんと上へと跳ねた。

「その可能性は捨てきれない、ということです。とりあえずは奥さんと話をしてからだと」

「いや、だから妊娠中だから」

佐伯の言葉に苛立ちがこもった。

「だからといって24時間話せないわけはないでしょ」

洋三も決して譲らない。

「無理なんですって」

「何で無理なんですか?」

「無理なもんは無理だ」

両者の思惑があいぶつかり、話は平行線をたどる。

頑なに拒み続ける佐伯を前に洋三はことここにきて、実は全て嘘っぱちなんじゃねぇーかとすら思い始めていた。

勢い語調も激しくなり、応じて佐伯の言葉も乱暴になってゆく。

刻々と言い分がヒートアップしていく中、しかしある瞬間を境にして、突如として洋三の返しに佐伯が言葉をつぐんでしまった。

突然固まったように身動きをしなくなった佐伯を不審に思い、ん?と冷静に彼の視線の行く先を見定めると彼の焦点は、洋三の顔から斜め少し下方、ちょうど肌着が右へと少し偏ったがために剥き出しとなった真っ白な肩口へと注がれているようだった。

不気味に感じて、

「どうしたんですか?」

と静かに問うても佐伯に応答はない。

だから

「佐伯さん?佐伯さん?」

と次は両手で佐伯の体をグリングリン前後に揺らしてリアクションを引き起こそうとしたところ、ようよう石のように固まっていた佐伯が瞳に色を取り戻し、半ば瞳を震わせながらこう応答した。

「熊田さん、ブラ紐が…」

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