Stare

御手紙 葉

Stare

 私はその日もお気に入りの喫茶店、『レイニー』で小説の構想を練っていた。時折キリマンジャロを口に運んで飲んでいると、頭が冴えて何かアイデアが浮かんできそうだった。

 店内にはちょうどヴァン・ヘイレンの『エイント・トーキン・アバウト・ラブ』が流れていた。優しい感じの落ち着いた曲を流すことの多い喫茶店だけれど、たまにオーナーが遊び心でハード・ロックを流すことがあった。

 ギターの爽快なサウンドが私の耳から体を突き抜け、鳥肌を立てた。なかなか悪くないと思った。たまに肩を揺らせるようなアップテンポな曲が流れると、凝り固まっていた脳みそが溶けていき、柔軟な発想が浮かびそうだった。

 私は次回作は自分の身近なことに関わるテーマを選びたいと思っていた。できるなら、自分が生きていることについて、直接問いかけるような心に響く小説を。そう思うのだけれど、どうしてもアイデアが形にならなかった。

 私は溜息を吐き、シャーペンをルーズリーフの上に置き、眉間を軽くマッサージした。普段ならこの店でゆっくりしていれば自然と構想が浮かんでくるのだけれど、今日は何故か気分が空想に乗ることがなかなかできなかった。

 そこでふとひっそりとした足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。振り向くと、オーナーの林野さんが片手にサンドイッチの皿を持って近づいてくるのが見えた。

 私は鼓動が高鳴るのを感じながら、笑顔を浮かべて彼が間近へと立つのを待った。

「これ、差し入れだから食べてね」

 林野さんはどこか照れたように笑いながら声をひそめて言い、私の手元に皿を置いた。それは野菜サンドとホイップクリームが入ったサンドイッチだった。

 私は「ありがとうございます」と何度も頭を下げたけれど、そこで林野さんが急に緊張した面持ちになり、みな、とつぶやいた。

「みな?」

「みな、南ちゃんは僕にとって特別なお客様だから」

 彼はそう言って活火山のように顔を赤く染めると、それじゃあ、と回れ右をしてカウンターへと戻っていった。歩く際に右手と右足が同時に前に出ていて、他の客がくすくすと笑っていた。

 私は小さく微笑み、もう一度、ありがとうとつぶやいた。そして、そのサンドイッチを食べると、サクッと口の中でレタスが弾け、私は頬を綻ばせた。

 彼と一緒に話していると、心から笑うことができた。自分のそうした気持ちに気付いていたけれど、私は彼に対して一歩踏み出すような言葉を投げかけることはなかった。その勇気がなかったのだ。

 サンドイッチをゆっくりと味わうようにして食べていると、ハードロックが終わり、次の曲へと移った。その瞬間、流れてきたその懐かしい曲に、私は思わず顔を上げて天井のスピーカーを見つめた。

 わずかでも聞いただけでわかる。それは、デヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』だった。ゆっくりとカウントダウンに移り、『リフト・オフ』という言葉が流れた途端、メロディが弾けた。

 私の心は大きく揺れて、思わず軽く歌詞を口ずさんでしまう。昔の思い出がふつふつと蘇ってきて、何もかも忘れて浸ってしまった。目の前に宇宙の深遠な闇が広がり、星々の輝きが私の意識をどこまでも膨らませた。

 あの頃は本当に楽しかった、と思う。高校時代、初めて先輩に連れられて老舗のレコード屋でこのアルバムを買った時、早く聴きたくて電車の中で歌詞カードを食い入るようにして見つめ、家に帰って大音量でかけたものだ。

 私にとっては、この曲は本当に青春そのものだった。目を閉じて先輩のことを思い出そうとした時、そこで唐突に声が聞こえた。それは今まさに聞きたいと思った声そのもので、私の胸の内をすっぽりと包みこんでくるような柔らかなものだった。

 私ははっと目を開いてテーブルのすぐ側に立った一人の女性を見つめた。見間違いようもなかった。あの腰まであった長い黒髪は肩で切り揃えられ、今は薄い茶色に染められている。

 長身のすらりとした細い体にぴったりとしたスーツを着ていて、凛とした面持ちはあの頃のままだった。瞬きもせずじっとこちらを見つめて、微笑んでいる。

 私は先輩、と小さくつぶやいた。

「やっぱり南さんだったのね。本当に会えるなんて……ずっとずっとあなたの顔を見たいと思ってたの」

 先輩はそう言って鞄から一冊のハードカバーの本を取りだした。その表紙を見て、私は思わず声を上げそうになる。それは私が先日出した『形のない空気』という本だった。

 彼女は大切そうにそれを胸に抱き、私に花が一斉に咲き乱れるような笑顔を見せてきた。

「この本、読ませてもらったわ。とても文学的な作品で、素晴らしいと思う。特に佳代子の心が自分と重なるような気がして、何度も読み返してしまったわ。一文一文が心に迫るような感じなの。これからも応援しているわ」

 先輩は本を差し出してきて、これにサインして欲しいの、と言った。

 私は震える指でペンを握り、ゆっくりと気持ちを込めて、その本にサインをした。何か言葉を絞り出そうとしたけれど、あまりにも様々な想いが胸を過っていて、私は無言で彼女に本を渡した。

「ありがとう、大切にするわ。私、ずっと南さんが本を出す度に、見守ってきたのよ。これからもずっと南さんのこと、見てるから。だから、頑張って」

 先輩はゆっくりと近づいてきて、私と握手を交わした。間近で見る先輩の顔には何か強い意志が漂っているような表情が浮かんでおり、あの頃よりずっと綺麗に見えた。

 彼女はコーチのバッグへと本を仕舞って、昔やったようにぽんぽんと私の肩を叩いてきた。そこでふと、彼女の背後から男性が呼ぶ声がした。彼女の肩越しに、一人の端正な顔をした男性がこちらに近づいてくるのが見えた。

 先輩は名残惜しそうに私を見て、それじゃあ行くわね、と手を上げて歩き去っていく。しかし、ふと足を止めると、もう一度こちらに振り返り、にっこりと笑って言った。

「南さん、夢が叶ってよかったわね。ずっとずっと夢に向かって努力してきたことがこうして叶って、本当に南さんはすごいと思うわ。私も悔しい時があったら、必ず南さんの頑張りを思い出すよ」

 その言葉に、私は目にこみ上げてくるものを感じたけれど、ただ今は素直に先輩の心からの言葉を受け取って、微笑んでいたかった。私はうなずき、そして先輩の恋人を見つめながら、言った。

「でも、先輩だって夢が叶ったみたいじゃないですか」

 先輩はそっと恋人の男性を見遣り、薄ら頬を色づかせて「そうね」と小さな声を零した。そして、今度こそ振り返らずに男性と楽しげな声を交わしながら、店を出て行った。

 私は『スペース・オディティ』が店内から消えていくと、何か大きな閃きが自分の体に迫ってくるような気がした。それはいつも唐突に私の元へと訪れて、あっという間にすべてを形にしてしまう。

 私は今なら小説のアイデアが浮かぶかもしれないと、ルーズリーフに文字を闇雲に書き写していった。先輩が語ってくれた『ずっと見守っている』という言葉が、何故か胸に焼き付いて離れなかった。

 私はその糸を懸命に握って、自分の元へと手繰り寄せようとする。彼女の後押しがあって、私は小説を書き続けていくことができるのだ。その喜びに、いつまでもいつまでも心を震わせていく。


 それから私は三時間ばかりずっと小説の構想を練り続けていたけれど、ふと気付いた時には店内には客の姿がわずかしか残っていなかった。テラスの先で、大降りの雨が降り注いでいるのが見えた。

 私はすぐにペンケースとルーズリーフを鞄に仕舞い、立ち上がった。傘を取ろうとしたけれど、そこで今日は持ってくるのを忘れてしまったことを思い出した。

 どうしよう。このままだと濡れて帰るしかないかもしれない。

 確か夜になるとさらに大雨になるということだったので、今のうちに走って駅まで行った方がいいだろう。

 私は自分の迂闊さを嘆きながら、カウンターへと向かった。急いで支払いを済ませようと林野さんを呼ぼうとしたけれど、既に彼はそこで佇み、私が来るのを待っていた。

「小説の構想、まとまりましたか?」

 林野さんがとても穏やかな笑みを浮かべて、言った。私は小さくうなずき、なんとか、とつぶやいた。

「雨が降ってきてしまいましたが、大丈夫ですか?」

 彼は私の手元を見て、傘がないことを案じているらしかった。私は苦笑して、首を振った。

「今日に限って持ってくるの、忘れてしまったんです。私はいつも肝心なことを忘れてしまうんです」

 そう言ってお札を払って勘定を済ませると、林野さんは何かに思い至ったように、「あ」と声を上げて背後へと振り返った。少々お待ち下さい、と言うと、カウンターの奥の棚に駆け寄って何かを取り出した。

「これ、もしよかったら使ってください」

 林野さんが差し出してきたのは、まだ新しく、可愛らしい一本の傘だった。私は思わずその傘とオーナーの顔を見比べて、あの、とつぶやいた。

「本当に、いいんですか? こんな新しい傘を使ってしまって」

 すると、林野さんは少しだけ口を閉じて、何かを考えているようだったけれど、もう一度その傘を私に差し出してきた。

「使って下さい。万一壊れたとしても、別にいいですよ。あなたに使ってもらえるのなら」

 私はその言葉に胸が大きく高鳴るのがわかったけれど、すぐに受け取って「すみません」と零した。

「さらに雨が強くなると大変なので、急いだ方がいいですよ」

 林野さんの言葉に、私は小さくお礼の言葉を言って、入り口へと向かった。ドアを開こうとして、もう一度林野さんへと振り返った。

「あの、林野さん……」

 私が掻き消えそうな声でそうつぶやくと、林野さんは先程と全く変わらない笑みで、ただ「何でしょうか?」と聞いてきた。

 言うなら、今だ。早く本当の気持ちを伝えるのよ。

 そう心の中で声が囁くけれど、私は小さく首を振って、こみ上げてきたその想いを無理矢理押し留めた。

 そして、別の言葉をつぶやく。

「この傘、本当にありがとうございました」

 私がそう言ってドアを開くと、最後に林野さんのどこか影の差したような笑顔がちらりと見えた。けれど、私は何も言うことなく、そのまま外へと出て、ドアを閉じた。

 息を吐き出し、目を閉じる。大丈夫、いつもの私だ。私なんて彼とは釣り合わないのだから。

 次に目を開いた時には、私の鼓動の高鳴りは収まっていた。激しい雨が降りつける繁華街を私はその傘を差して歩いた。

 林野さんが最後に見せた曇りのある笑顔が何度も脳裏に過ったけれど、私は考えないようにした。一年前からあの喫茶店に通い出して、林野さんと親しくなるにつれ、こうした葛藤は大きくなるばかりだった。

 雨が降り注ぐ中を私は黄色の花柄の傘を差して歩く。本当なら、こんな綺麗な傘を持って歩けることに心が少し躍ることもあったのかもしれないけれど、どうしてもその気にはなれなかった。

 遅い足取りで歩いていた所為か、さらに雨脚は強まったようだった。私はそのあまりの勢いにどこか雨宿りできる場所がないかと探したけれど、すぐにその場所が目に入った。

 それは市立図書館だった。まだ仕舞ってはおらず、入り口で数人が雨宿りしているのが見えた。私は急いでその場所へと駆け寄り、小さな屋根の下で傘を折り畳んで、一つ息を吐いた。

 もう既に袖口がぐっしょりと濡れて、肌が少しひんやりとしていた。私は袖を絞って水を落としながら、ふと傍らに立った三十代半ばほどに見える一人の女性に視線を向けた。

 彼女も雨宿りをしているのか、そこに何もせずに佇み、じっと前を見つめていた。その服は全く濡れておらず、彼女は傘を持っていないようだった。

 私が傘を小さくまとめようとしていると、そこでその女性がこちらへと振り向き、可愛らしい傘ね、と言った。

「とてもお洒落で、素敵だわ」

 彼女はにっこりと微笑み、私が握っているその傘をじっと見つめている。私はその傘を彼女の前へと掲げながら、「借り物なんです」と言った。

「そうなの。あなた、さっき『レイニー』にいたでしょう」

 女性が突然言ったその言葉に、私は鼓動が跳ね上がるのを感じた。もしかして、先程のあのやり取りを見られていたのかなと頬が熱くなるのを感じたけれど、彼女はそれ以上何かを追及することはなかった。

「あのオーナー、最近元気がなかったんだけど、あなたと話していて、明るくなったみたいだったから良かったわ。彼、ずっと悩んでいたみたいなのよ。あなたのおかげで吹っ切れたみたいね」

 彼女がオーナーのことを話しだしたのを見て、私は視線を逸らし、俯いた。この人、林野さんとどういう関係なんだろう、と思ったけれど、彼女に問いただすことは臆病な私にはできなかった。

「私とあなた、どこか雰囲気が似ているような気がするわ。だから、声をかけたの」

 その柔らかな声音に、私はそっと顔を上げて彼女の穏やかな顔をじっと見つめた。その人は本当に優しげな眼差しで私をじっと見つめていた。

 何故だろう、彼女を見つめていると、ついさっきどこかで会ったような気がしてしまう。

「なんだかわかったような気がするわ。彼があなたをどうして選んだのかを」

 そう言って、その女性は「突然話しかけてごめんね。じゃあ」と小さく会釈して、私から離れて行った。私はその背中が入り口の中へと吸い込まれるのを見届けると、俯いて唇を噛み締めた。

 彼女と林野さんの関係を訝る自分の心を抑えて、私は溢れ出しそうなその想いを飲み干した。私には林野さんを想うことなんて許されていないのだ。

 私はそっとその傘をじっと見つめた。色取り取りの綺麗な花々の刺繍が可愛らしく、これを持っているだけで気持ちが弾んでくるような気がしたけれど、その嬉しさが一層私の心を締め付けてくるようだった。

 私は傘を回してその模様をじっと見つめていたけれど、そこでふと、傘に英語で刺繍がされていることに気付いた。そこには確かに、「Flower Clock」という文字があった。

 私はそれを見つけた瞬間、ある懐かしい思い出がふわりと私の目の前を通り過ぎていくのがわかった。この傘、あの雑貨屋で売られていたものだ。

 その偶然に、私はこの傘が何か運命として私の元へとやって来たような気がした。私は少しだけ気分が落ち着くのがわかり、雨も少し収まったようだったので、そっと屋根の下から出た。

 小走りに駅へと向かいながら、先程の女性の言葉が心に染みついているような不思議な感覚が迫ってくるような気がした。


 駅へと何とか辿り着き、私は濡れた服をコンビニで買ったタオルで拭きながら、ようやくホームへと辿り着いた。良かった、と私はほっと一息つき、エスカレーターの側の通路を歩きながら、ふと視線を横へと向けてしまう。

 線路のさらに先、フェンスの向こうには裏通りがあって、そこに様々な珍しい店が並んでいた。私が高校時代、先輩と一緒に通った「フラワークロック」という雑貨屋もまだそこにあった。

 私はその店をじっと見つめていると、掌の中にある傘の感触がとても優しいものに思えてきて、自然とぎゅっと握った。

 この傘が売られているのが、あの雑貨屋なのだ。今は営業時間を過ぎているので仕舞っているけれど、昼間は様々な可愛らしい雑貨が店の前に並べられ、落ち着いたクラシックが流れている。

 そしてその隣には、私があの『スペース・オディティ』のCDを買った老舗のCDショップがまだあった。

 私はあの道を、先輩と一緒にずっと昔に歩いたことを思い出す。彼女と「フラワー・クロック」に入って雑貨を見て回った後、その隣のCDショップで先輩に『スペース・オディティ』を勧められて買ったのだ。

 それで、私はあの曲にとても思い入れがあったのだ。CDを買った時、私は先輩とお互いの夢を語り合った。

 私は小説家になることで、先輩は素敵な人と巡り合うこと。私達は幸せなことに、どちらも夢を叶えることができた。

 私は線路の前でじっとその店を見つめながら、小説の構想が徐々に出来上がってくるのを感じた。先輩の言っていた『ずっと見守っている』というあの言葉は、私の心を確かに暖かな感情で包み込んでくれたのだ。

 そこでふと、傍らに誰かが立つのがわかった。振り向くと、そこには一人の背の高い少女が私と同じように線路の向こうを見つめて佇んでいた。

 セーラー服を着て、どこか可愛らしい顔をして、その瞳は優しげで、私は以前どこかで彼女を見たような気がした。けれど、記憶を探っても、彼女のことを思い出すことはできなかった。

「あの。今、あなたもあの雑貨屋を見ていましたよね」

 少女が黒いストレートの髪を揺らせて振り向き、私ににっこりと穏やかな笑みを浮かべた。

「うん。そうだけど」

 私が少し驚きながらそう返すと、少女は子供のように無邪気な表情を見せて、突然語り出した。

「私、彼と一緒にあの雑貨店に入って、初めてプレゼントしてもらったんです。それを今までずっと大切にしていたんです。でも……」

 少女の眼差しが少しだけ寂しげなものに変わり、小さな掻き消えそうな声でつぶやいた。

「もう私、彼と会うことができなくなってしまって……それでも、ずっと彼のことを“見守って”いるんです」

 彼女はそう言って唇を噛み締め、俯いてしまった。私は何故彼女が突然語り出したのかわからなかったけれど、それでも彼女の心を元気付けようと口を開いた。

「あなたもあの雑貨店に思い出があるのね。私も昔大切な人と一緒にあの店を見て回って、それで今の私があるの。不思議な巡り合わせね」

 私がそう語ると、彼女はそっと小さく笑った。とても美しい笑顔だった。

 私が彼女のことを聞こうと再び問いかけようとした時、ホームに電車が到着して、滑り込んできた。

 私は乗車口の端へと体を寄せて、再び少女の方へと振り向いたけれど、そこには既にその姿はなかった。私ははっと左右へと視線を巡らせたけれど、それらしい影は見当たらなかった。

 電車の中へと移動しながら、ずっと彼女の背中を探したけれど、彼女はもうどこかへ行ってしまったらしかった。

 吊り革につかまって電車に揺られながら、私はぼんやりと彼女のことを考えた。図書館の前で会った女性のこと、セーラー服を着た美しい少女の言葉を考えていると、掌の中の傘へと視線が向かってしまった。

 その傘が、何か特別な想いによって私に言葉を掛けてくるような、そんな気さえしてきた。私は首を振り、考えすぎね、と小さく笑った。


 自宅のマンションへと帰ってきて、傘立てに林野さんから借りた傘を置くと私はすぐに服を脱いでそれを乾かした。普段着に着替えて、ようやく一心地つく。

 私はいつもの習慣でロイヤルミルクティーを作ることにした。紅茶をボウルに入れて熱湯に浸しておいた後、手鍋に入ったミルクと水を火にかけた。

 沸騰する前に紅茶を入れて火を止め、掻き混ぜる。数分蒸らしてから茶こしを使ってカップに入れ、ようやく完成した。

 私はその作業を終える頃には、大雨でバタバタして落ち着かなかった気持ちが少しずつ元のように穏やかなものへと変わっていくのを感じた。

 この作業をしないと、いつもの自分には戻れないような気がしたからだ。私はテーブルについてメイプルシロップを入れながら、ミルクティーを少しずつ飲んだ。

 そこでようやく、心の中に一つのテーマが形となって浮かび上がってくるのを感じた。大切な人が今もどこかで見守っていてくれているということ、それを常に感じて生きていくことの大切さ。

 そうしたものを作品に篭めていきたいと思った。そんな中、喫茶店のオーナーのことを思い出して、私は微笑んでしまう。私と彼はすごく歳が離れているし、こんな風に思ってしまうのはとても場違いな気がした。

 そこでふと、ドアがコンコンと軽くノックされたのがわかった。私は少し体を震わせて振り向き、何だろう、とドアを見つめた。

 すると、再び小さなノックが聞こえてきた。私は誰だろうと思って椅子から立ち上がり、ドアへと近づいて迷ったけれど、チェーンをかけて出ることにした。

 ドアをそっと開くと、そこには少し前に見たその優しげな顔があった。

 図書館で出会った女性だと気付いた時には、彼女は身を乗り出して懇願するような声で語り始めていた。

「あなたにお願いがあるのよ。林野の側にずっといてあげてくれない? もう私は――」

 私が瞬きをした時には、そこに立っていた女性の姿は、セーラー服を着た美しい少女の姿へと変わっていた。

「私は彼と一緒にいることはできないから。だから、あなたが彼の想いを受け止めてあげて」

 少女は私の手首を握って、涙を浮かべてそう訴えかけてくる。

「あなただって、彼のこと悪く思ってないでしょう? だから、お願い――」

 私はようやくそこに立っている女性が誰なのかを悟った。そういうことだったのか、と私は傘立てに置いてある一本の傘を見遣り、肩の力が抜けるのがわかった。

 私は小さく息を吸い、薄く微笑んだ後、わかりました、とつぶやいた。

「彼の側に出来る限り一緒にいてあげようと思います。どこまでできるかわからないけれど、この想いがある限り、ずっと一緒にいます」

 私がそう言って彼女の手を離すと、少女が涙を浮かべたまま、花びらが一斉に吹き乱れるような笑顔を見せてうなずいた。

 ありがとう、とつぶやく。

「本当に、感謝するわ。それが聞けて、私も安心した」

 私が彼女に言葉を投げかけようとした時には、もう少女の姿はなかった。私はチェーンを外し、ドアを大きく開いて外の玄関を見つめたけれど、小さな雨音がしとしとと廊下に響いているだけだった。

 私はドアを開いたままふっと笑い、その想いが確かに心の中に刻みつけられたのがわかった。

 いつまで些細なことを気にしているの、私は。小さなことなんてどうでもいいじゃない。ただ、自分に素直に、自分の道を歩んでいけばいいのよ。

 私はそう自分に語りかけ、その傘をぎゅっと握った。涙が少しだけ頬を伝って、その傘に落ち、花びらに弾けて舞った。


 *


 私はその日、確かな鼓動の高鳴りを感じながら、その傘を手にして図書館の側の道を歩いていた。春の暖かな風が時折私の髪を浮き上がらせ、新緑の鮮やかな色彩を流動させていた。

 私はそんな穏やかな散歩道をゆっくりと歩きながら、もう迷いなくその店に向かって歩いていた。

 小鳥がさえずる声があちこちで飛び交って、あの時の雨に濡れた冷たい空気は、浮き立つような感情を抱かせる心地良い陽気へと変わっていた。

 私はどこまでもこの散歩道を歩いて爽快感を抱きながら、街々の風景を見たいと思ったけれど、今はただ一つの想いが私の心を包み込んでいた。

 そう、私にはやらなければならないことがあったのだ。

 私はそのこじんまりとした喫茶店へと近づいてきて、ドアを開いた。その瞬間、ベルが鳴って、林野さんがカウンターの奥で「いらっしゃいませ!」と大きな声を上げた。

 そして、私の顔を認めた途端に慌てだし、柱に足をぶつけながら走り寄ってきた。私の間近に立つと、照れ臭そうな笑みを浮かべて、もう一度いらっしゃいませ、とつぶやいた。

「林野さん。この傘、ありがとうございました」

 私が小さく声を上げて、その花柄の傘を差し出すと、林野さんはどこか苦々しげに笑って、申し訳なさそうに言った。

「あの、この傘を使って、何かおかしいことなかった?」

 彼がそう言った瞬間、私は昨晩の出来事を思い出し、喉を震わせかけたけれど、すぐに首を振って言った。

「いいえ。特に何も」

 私がそう返すと、林野さんはほっとした顔をして、その傘を握りながらどこか寂しげな眼差しで言った。

「この傘、実は私の妻が使っていた傘なんだ。渡す時、一瞬迷ったんだが、君にならあいつも許してくれると思って。でも、渡してから、君に嫌な想いをさせるかもしれないと気付いて……本当にごめん」

 林野さんがそっと頭を下げようとしたので、私はその肩をつかんで、「そんなことありません」と強く言った。林野さんがはっとした顔で見つめてくる。

「あの、私は……」

 そこで私の心に再び迷いが訪れた。私は本当に彼にこの想いを伝えていいのだろうか。やっぱり自分には自分に合った道があるのではないか。

 そう思ったけれど、そこで――。

 ふと、カウンターの奥の棚に置かれた一つの写真立てが目に入った。

 そこに私の探していたものがあった。

「あの写真立て……」

 私がふとそれに視線を向けてつぶやくと、林野さんがああ、と微笑み、うなずいてみせた。

「私の妻だよ」

 そこにはこの喫茶店を背景にして二人の男女が写っていた。片側に立っているのは林野さんで、彼はまだ若く、髪にも白いものは一つも混じっていなかった。

 そして、隣に立っている彼の奥さんは、あの図書館で会った女性だった。彼よりさらに若く、まだ二十代になったばかりといったような、きらきらしたとても綺麗な瞳をしていた。

 彼はそれをじっと見つめて、何か記憶を辿っているような、懐かしそうな顔をした。そして、私へと視線を向けると、実は、と言った。

「君と小夜子はとても似ていて、初めて会った時から本当に妻を見ているような気持ちになったんだ。こんなことを言うのも気味が悪くなってしまうかもしれないが、どうしても私は君を見る度、気になってしまって」

 林野さんはそう言って私へと体を向け、ぐっと拳を握った。その頬が紅潮して喉が震えているのを見て、私は心の中で散らばっていたピースが集まり、一つの想いを形作るのがわかった。

 私は目を閉じ、息を吸って、そしてつぶやいた。

「私、奥さんのこと、もっと聞きたいんです。彼女のこと、物語にしてみたいとそう思えたんです」

 私がそう言うと、林野さんは目を見開き、薄らと涙を浮かべながら唇を引き結んだ。そして、俯いた後に震えていたけれど、やがて雲が一気に晴れたような笑みで言った。

「ありがとう。妻も今頃微笑んで見守ってくれていると思うよ」

 林野さんはぐっと身を乗り出して、何かを言おうとしたけれど、私も同じように口を開きかけ、あの、と二人の言葉が重なった。

 私達はくすりと笑い合い、その後で私はつぶやいた。

「今日、仕事が終わった後、一緒に食事に行きませんか? もっと林野さんと話がしてみたくて」

 私がその赤く色づいた花びらを彼の心へと舞わせると、彼はその想いを受け取って、真っ赤に顔を色づかせた。彼の体は小刻みに震え始め、やがて彼はガッツポーズをして、「いやっほう!」と飛び跳ねた。

「わかった、絶対に行くよ! よし! 私にもようやく運が巡ってきたぞ!」

 彼はそう言いながら、私を席へと案内し始めた。私は歩き出しながらもう一度棚の上の写真立てへと視線を向け、小さくうなずいてみせた。

 その写真の中の彼女が、微笑んだ気がしたからだ。

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