Bright Eyes

 事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

 - 中島敦「山月記」-



 古き映画、アニメーション、ビデオゲーム、漫画、小説の挿絵。全てにおいて、宇宙船・移民船、あるいは故郷の深海をゆく冒険譚の潜水艦でもいいが。それらには決まって、宇宙の暗黒をガラスの向こうに映し出す廊下が登場する。それらは僕たちの目にはこう映るのだ、なんて非現実的で命知らずなのだと。空想はそこに生命の危機と存在のリアルを配置しない。あたかも著者・観客にとってそれは自らを、現実より遠く離れた、何も関係のない出来事でありフィクションなのだと位置付けるかのようだ。


 だが僕たちはこうして、星の光が映る暗黒の景色を窓の向こうに見つめていた。あくまで隔壁表面に投影された、一種のプラネタリウムで旅をしているようなものではあった。先人のロマンは、一見必要のないことを実現してしまう力になってしまうのであったが、僕たちリアリストたるコスモナウトにとって、それはやはり必要のないことであるかのように感じてしまうのである。本来その外には嘘も真実も、光も闇もないのに。

 そのようなことを車椅子を押しながらパブロ先生に語ると、先生はカプカプと笑って茶化すのだった。そんなつもりは全くないのだろうが、まるで嘲笑されているかのようだ。

『ラクス君は想像力が豊かなようだ。過去の人間を夢想家なのだと断言できるのだから』



 アカデミー教授にして私たち学生の数学教師であるパブロ先生のもとに伺うのは大変だ。まず私たちの宇宙船のどこにもいない可能性は高い。寝返りをうつだけで我々地球人のいない次元に行ってしまうかもしれない。僕たちの助けなしに『軸』をまっすぐ歩くこともできないし、腕が増えるぐらいひっくり返ってしまうことだってある。

 声帯を持たないため会話は合成音声、触手は歩行に向かず電動車椅子に横たわり、あたかも身動きもとらないように見える。まるでスティーヴン・ホーキングのようだが、先生は彼とどんな議論を、論争をしただろうか。恐らくホーキング博士は人類に失望しただろう。

 パブロ先生は偉大な人(?)だがそんなこんなで、地球人類向けに建造された都市戦艦に住むには明らかに向いていない。


『かけたまえ』

 絵画が何枚も飾られた応接間にお茶が二杯ソーサー付きで運ばれ、その片方を先生は側に置く。食事を摂らない、何を飲むでもない。ただいつも心から香りを...... 数値には書き表せない情報を楽しんでいるようだ。


「先生はあのような絵が好きなようですが、どんなところに惹かれるんですか」


『...君たちの描く絵で一番、真実に近い。写実的なようでそれでいて、この上なく幻想的だ。特にこの西暦紀元1911年作の肖像画には一目見て惹かれた。私の名乗りはこの作者から借用したものなのは知っているだろう?』

 先生の本名はレフヴェゥルクトェ・パヴァレオ・ニーギュグラㇷストゥ。私たち人間の舌と声帯ではヤディース族の個人名を正しく発音できず、表記するのも記憶するのも困難である。もっともあの画家のフルネームに比べれば記憶するのだけは容易いが。


「パブロというだけなら平凡でありふれた名前ですが、そんなに特別な思い入れがあるのですか」


『特別だろう。それはサピエンスにとっても』


「僕がもっと幼ければ、先生は落書きばかり飾っている変な人だと思っていたでしょう」


『Huh』

 項垂れるように少し傾くと、合成音声が溜息のオノマトペを放った。

『君を呼んだのはミスター・ナナミネたっての希望だった。彼は板挟みになっていると形容され噂されているが、君の進路相談追行の代理を任された。曰く私であれば君は、もう少し話を聞いてくれるというのだ』


「そんな役目を負って嫌ではないのですか」


『嫌なはずがない。それは、他ならぬ君と話をしたいからだ。私には教育省・プリコグニティヴといったようなもの達の意図とは関係ない。例えば君が未来怪物になったとしても最後に君が納得する生き方を選択できるならば良い』


「それは、違う未来へ至る方へ納得させたいのですか。それとも叛逆者として殺されることを僕が納得するということですか?」


『納得というのは全てに優先する。感傷というのは人間であると言われるには大事であるし、私にとっても、他の知的生命達にとってもそうだった。だが我々が破滅するリスクを背負うのは感傷によってのものではないのだ。その義憤がある限り、君は自由な魂によって新しい選択肢を取ることができる』


 気がつくと伸びた爪が、手のひらに血を滲ませていた。目の前の宇宙人に怒りを覚えたのも、それが全く意識しないうちに表出していたのも初めてのことだった。



『私たちの種族は永らく。資源や領土を奪い合うようなさもしい争いをすることはなかったが、学問が発達したことで論争は尽きないようになってしまった。富の奪い合いと権力主義が蔓延る時代に産まれながら、私もそのように従いやがて数論幾何学者になった。

 多次元生物は人類の知らない解を持っていると言われるが、私から見ればそれは君たちのことだった。発想や着想を得るのと同じくらい、感嘆と困惑を与えてくれる。理解できることと同じだけ理解し合えないことだってある。かつて君たちが19万6884次元でできた重力子生命を神と呼んだことのように』


 パブロ先生のアイトラッカーは、地球の町の名を冠した絵画を指していた。


『昔、眼前の手に届くところにある解を求めることは世界の仕組みを突き止めることだと教えた。これは逆も真なり。というのがヤディースの立てた命題だ。私たちもサピエンスも、眼前にある解を知らない。不正や不条理・不均衡。不協和はこのことによって起こるのだろう。

 君はいつだったか、この宇宙は狂っているという思いを明かしてくれたが。それは全ての利己的な遺伝子がより良い形を求め、その行動習性を試行し淘汰されるべき道へと錯誤し、より良い形へ乗り換えていく過程上にあるからである。これは地球テルス生命総ての至上命令であると私は思考し、その探究は永遠に終わることがない。君にできることは、せめて君個人という器が後悔しない一生を遂げるということにあると私は考える』


「本当にどうすることもできないのですか? 先生も本当にデルフォイの神託のように、僕が......」

 その先の言葉は紡げなかった。唾棄すべき予言だからだ。


 静寂は続いたが、僕の視線はそうプログラムされていたかのようにアイトラッカーの先を見つめる。何度も見たはずの絵画は確かにいつもと違って見えたのだった。炎が踊り、血風が舞い、第三の色を身に纏った鳩が横たわり、牛馬と市民が駆け回る。もし先生にその幼稚な想像を話していれば、きっとなんとも言えない表情をされただろう。だがそれも、パブロ先生は見透かしてこのように言ったのかもしれない。


『この絵画を観ることは難しい。慣れが必要だ。観測する次元を間違えればこの絵画は虚空に消えてしまう。それは歴史というものと正しさと呼ばれるものと同じだが、私が絵を鑑賞すること以上に容易ではない。キャンバスのように平面的ではなく多面的で、むしろサピエンスが絵画を容易に観測してしまえるように歴史を観てしまうこと自体が危険とも言える。心したまえラクス君。君たち人類は我々ヤディースの視座を必要としない、特異な力を持つ種族なのだから』


「そんな表現されたって分からないし、僕は救われないです」


『想像力だ。その瞳が固く閉じられるまでに、君は利他的な遺伝子を託さなければならない。誰かにだ』





Bright Eyes





 出会いはパーティだった。平凡なものだと思うことだろう。

 グレーのグレンチェックに身を固め、何故かネクタイと撫でつけられた髪の黒が強く頭に残っていた。落ち着かなそうな振る舞いが足元から滲み出ていたその人は、バーテンダーの方へ吸い込まれるように隣のスツールへ腰を掛けた。

 馴れ馴れしい人間だと思ったものの、これまた不可解だが無意識の行動だったのだろう。僕へ会釈するとともに、ここへ一人で来たのかと尋ねてきた。


「このカウンターに来る理由を知らないわけでもないでしょう」


「邪魔したなら申し訳ない。これ以上は口を噤む」


「......若いのにあなたも。元老の家系なのでしょう、老人や諂い上手の大人にちやほやされるのに疲れただけ」


「家系...... そうだな。だが生憎叔父貴には支援者がいなくて。君のような奴のことは嫉妬してしまうかもしれない」


「勝手にしてくれ。......EXS船団から追放されて帰ってきた大統領の子のことを、利用するべきか触れざるべきか、そんな思惑が透けて見えるような感覚、あなたが味わうべきではない」


「お互いに大変だなと思うだけさ」

 眼前の男の情緒が分からなくなりそうだった。目の前で光った白い歯と、無地の黒ネクタイの落差がひたすらに思考をどん詰まりへ追い込む。大変だなと思うほど悩んでいるのか、お互いにと勝手な感想を述べるほど無神経なのか?


 僕は思わず記憶をまさぐり始めてしまった。

「......どこかで会った?」


「さあ? だいと...... 待て、君の名前は?」


「ラクス・オールドマン」


「......じゃっ、ネ...」

 バーテンダーの視線がギロリと向けられたことを、彼が気づくのにそう時間は掛からなかった。立ち上がらんばかりにカウンターに貼り付けられた掌が一瞬で引っ込み、彼は暫時本当に口を噤んでしまった。


「...ネルア・ユリアン・オールドマン。サンダース共和国最高、この惑星アドレーⅤ最高の大統領だ。母子がEXS星遊船団へ乗っていたとは聞いていた。......俺が話しかけていい奴じゃなかった」


「そうか。あんたもあいつらと一緒だったのか」

 若者の顔はサッと青ざめる。冷や汗をかいたのか、香水の芳香が俄かに鼻をついた。その瞬間、軽率な言葉を掛けたのは僕だったと後悔してしまう。


「そうだな。俺はどうやら友達になれなかったらしい。......本当に申し訳ない」


「待ってくれ!......まだ名前を聞いてもいないのに」


 ジェリーはグラスを手に立ち上がり、その問いかけに振り向いたが、その日はその次それ以上の言葉を交わすことはなかった。

「ジェラルト。ジェラルト・ガウ」

 立ち去っていく香水の向こう側、鼻をくすぐる甘い香りがしていた。数字に書き表せない情報を掴んでしまった訝しい自分の感情を、僕はこの夜は酒のせいにしたのだった。





 ベレス・オールドマンは支配者の座を欲している。

 諸君、彼は我らがサンダースを裏切った。法を守らんとするものは我らに続け!!

 号令のその先にあるのは暴力だった。神祇官達が一人、また一人と、支援者達を撲殺していく。アイドネウス大瀑布の底へ、彼らと、ベレスの亡骸が投げ込まれていった。まだ小さな子供はその時、兄が義兄の手で落とされていくのを猛速で立ち去るリアウインドウから見ていることしかできなかったのだ。

「先生、僕が送り返されたのは僕の復讐のためなのですか?」


 黒い触手が肩を抱く。

『私たちの知る君に復讐はできない。君は、泣き喚いていた君のままだからだ』


「そうではなくなったその時は?」

『"私は上位正直族ではない"と言う人間と、そのように出現する解法をプリコグニティヴは恐れる。彼らはチェス盤をひっくり返すこともできなければ、それを行う意味を理解することもできないからだ。君の精神は、私たちの視座も人工知能の理性をも飛び越えていくだろう』


 遠ざかる記憶を置き去りに身体が、深い大瀑布の闇へ落ちていく。

『とはいえゲーデルにとっても、定理は哲学のようなものでもなく道具でしかなかった。例えるなら修正パッチだ。私にとっても解くべき数論も、出題する予想も道具でしかない。君にとって君に課された宿題は、一体なんなのだろうか』



 ジャーキングを起こした身体は、まだ少し痙攣していた。上裸から掻いた汗がシーツを冷たく濡らしている。その傍でジェリーは、何でもないかの様に寝息を立てていたのだった。


 書斎の隠し部屋に詰め込まれた陳情書、党員からの報告書、記事、そして写真。地雷を踏んで足を無くした子供の写真、そこに生まれゆく子供、生まれなかった子供。兄が変えたかった惑星の現状は、彼の妹であるまだ青二才の議員の元に伝えられ始めた。絶望と失望を抱えた眼前の情報達は、数値化されることもなく立ち塞がり続けている。それは何者でも無くなった僕に、より一層の重圧となった。


 繰り返し夢に見る大瀑布。船団の耐えきれないほどの普通の暮らし。愛想ぶって嘲笑う様に支援を求めてくる政敵、革命ぶってハグを求める権勢者。僕の繰り返す夢の中に、先生の輪郭は消えてなくなってしまった。三期務めた議席から降りてから三月、そこに残ったのは涙しかないように思っていた。


「ようやく見つけたぞ」

 驚愕する素肌に、毛布が優しく掛けられる。常にただ一人立ち入って施錠するこの部屋にジェリーが訪れるのは、知る限り初めてのことだった。


「ダメだ、入ってきちゃ」

 何も言わずに彼に抱きしめられながら、僕は精一杯の抵抗で書斎へ、そして居間食堂の方へ押し返す。

「これだからしばらく別荘へ行けと行ったのに」


「やっぱり君には俺が必要だったんじゃないか」


「煩い!! エトーを止められなかったくせに!」

 月夜に沈黙が満ちる。ただ、目の前の男はそれすら愛しいかの様に、腰を掛け水を注いだ。


「実現できることと範囲から実行しようとしたのに、あいつらと来たらそれ以上の公約で君を追い出すなんてな。全部夢物語だって、誰もが気付いているのに」


「......気付いてなどない。この国はもう侵略でしか命脈を保てなくなったんだ、気付いているのはここにいる二人だけ。党員も友人達も、あんたも信じることができない」

 崩れ落ちる様にソファに腰を叩きつけた。彼が身体を近づけてくるのすら煩わしかったが、僕に抵抗する気力はもうなかった。


「君と初めて会った時、地球のノロジカを思い出したんだ。静穏さも警戒も、野生の威力も宿した瞳をしていた。今の君は、子鹿みたいな瞳をしている」


「......」


「笑う時も怒れる時も、自分に嘘をつかない君が殺戮者になるなんて予言、今は信じられないよ。俺は...... 君を信じているんだ。それだけはわかって欲しかった」


「......いつだったか忘れてしまったが、僕は...... あんたの事を羨ましく思った。取り繕っても自分勝手で、己が何をしたいか知っている。だからどんなに信じようと、あんたには自分が何をしたいか分からない人間のことは理解できない」


 ジェリーはただ頷き口を挿むこともなく、耳を傾けるだけだった。静かに僕の口から言葉が溢れ落ちるのを待った。

「先生がいつか、君は他者を顧みない子だと言うのと同時に、その遺伝子を誰かに残さなければならないとも言った。......僕には自らを嫌悪する因子をあんたには預けられない」


「......」


「だから......」


「だから何だい、ラクス」


「僕は兄のように支配者の座を欲する」





 僕の取った手法は陳腐なものだ。議席の過半数を掌握するには、新興派閥と手を組めばいい。たとえ義兄を脅迫し議会で乱闘騒ぎを起こした問題児であっても。たとえ違法に植民地拡大を進める宗教過激派であっても。

 激化する戦闘を止める道理などなく、人質の生死は問題にならない。中小階級に大土地を分配し、自由と平等の足掛かりを与える法を可決させる。内外に敵を持とうと、戦時下において僕の権勢は揺るがない。全ての戦争を終わらせ、サンダース共和国に平和をもたらす。僕のミームは、誰にでも託すことができるのだ。それを否定した先の他に、未来などない。





 ジェリーは、ハルシュタットの湖畔を電動車椅子とともに歩いた。側から見れば、空っぽの車椅子は異様に見えたことだろう。

『朝露の香りは良い。7つの大脳をクリアにしてくれる』


「香りがわかるというのは宇宙生命では珍しくないですが、何か私たちにシンパシーを感じるのですか」

『共感性というのは視座の異なる者の間にしか起こらない。ヤディースにとって嗅覚とは種が存続するために必要な超立体知覚だった。だが、生存のための知恵というものがその目的に逸脱する扱いを受けていると知った時、ヤディースには二つの感情が遍く同時に起こった。純粋な知的好奇心と生理的嫌悪だ。サピエンスと我々の交流は極一部で、何か共感したという以上のものにもその隔絶を埋めることができない』


「でも、パブロ先生は......?」


『その隔絶を埋めるのが私にとって種の保存本能だった。何も、混血を産み出したいというのではない。母星にたった一種存続したヤディースには、新たな遺伝子が必要だった。不可視であり極めて利他的な遺伝子をだ』


「......よく言っていましたね、私は淘汰されるべき存在なのだと。利己的に行動することで、自分以外のものを後世に残すことができるのだと。俺がそんな生き物は存在しないと言っても聞かなかった。利他的であろうとするその思いこそが利己的な行動指針であって矛盾している、君は自然の摂理からも人の道からも踏み外せないんだと言っても」


『彼女は道を踏み外したと思うかね』

「いえ、ラクスは...... 彼女の道を進んだのだと思います。惜しむらくは、サンダースは彼女の思うようには変わらなかった。そうならなかったとしても彼女の行いは到底正当化してはいけない。でも、私たちにはこうして自らを緩やかに滅ぼすしか道はなかったのではないかと思うのです」


『彼女が先人に倣ったのと同じだ。昔ある星の宗教組織の話をしたことがある。ピタゴラス教団のようなささやかなものだったが、十一次元の軸を持った軟体生物にとっては今でもそれが全てだ。ある日流浪の四次元異星人達がある次元に現れコンタクトを取ると、その次元に集った者達は数学の話で盛り上がった。他の次元では国教総会が行われ、その異星人の科学を検証し議論が飛び交い。結果的に進歩発達した点もあるが、およそ二つの次元には平和で緩やかな分断と、穏健で陰湿なサピエンスへの迫害が生まれた。

 国教は今でもある。君たちの言う首都プロジェクション・エムも。アクゥスマタの美しい秘密古都も形を変え現存する。だが、星の全てと生命は緩やかに閉じた生けるモニュメントに成り下がってしまった。君たちと全く同じだ』


「そんな中で彼女は命を...... 何のためのモノだったのでしょうかね」


 車椅子の上に黒い触手が静かに現れる。ジェリーの拡張現実の上に映し出されたアイトラッカーは、森から瞳を覗かせる小鹿を見つめていた。

 静寂がジェリーとパブロ先生の間に訪れる。あるのは息づくように、静かに騒ぐ全て。そして煌めく葉末の露の光だった。


「利他的な遺伝子...... ですか」

『それを信じるのかね。ジェラルト君は』


「パブロ先生はそれを求めたと先ほど仰った。先生が信じるならそうかもしれない、でもそれは私たちにとっても必要なことなのでしょうか?」


『こんな問い掛けをした数学者がいた。君が神を信じないときに限って神が存在する。これは真にそうか否か』

「......何か、問題の前提が間違っているのでは?」


『模範的な解答だろう。昔の彼女は、それでも私は神というものを信じると答えたのだ。教師としては0点を与えるべき解答だが、多くのサピエンスにおいてはそれが最も正しい解になる。ジェラルト君にもラクス君の“遺伝子”が流れているのだ』


「......!!」

 ジェリーの涙の向こう、その眼には何が映るのだろう。太陽の日差し、樹々のざわめき、湖のせせらぎ。その後ろから不揃いで慈しい足跡が追ってきた。片方義足で、地球の重力に戸惑いながら、ようやく大地を駆け回れるようになっていた。

「ジェリー! ここにいたのね」


『その子は』


「ユリア。ラクスが養子として迎え入れていたんです」


『精進したまえ、父親。君は君のミームを残してあげなさい』


「ありがとうございます。パブロ先生...... あなたから彼女のことを聞けてよかった」


『君とユリア、君にとってのラクス君には、見せたい絵画が一杯あるのだがね。まだ感謝されるには些か早い』





 帰ってゆく車椅子と二人の背中を、子鹿達は暫く見つめ続けていた。

 かつて「あの若者の中には百人ものマリウスがいるのが分からないのか」と宣われた人物がいたように、僕のミームはまた現れるだろう。

 その時まで嘘も真実も、闇も光も何も映さない世界を、獣の瞳の中でそれは見つめ続ける。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Re:main/Believe (丘灯秋峯;短編集) 丘灯秋峯 @okatotokio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ