その背より告げる

淡島かりす

その背より告げる

 二〇〇八年 八月。

 今も思い出すたびに、背筋を撫でられるような、嫌悪感がある思い出が、そこにある。


「わー、滝綺麗!」


「ちょっと飛び込んで来いよ」


「ふざけんなし」


 当時、大学二年生だった俺は、サークルの夏合宿で、とある観光名所に来ていた。

 暑い中で見る滝は圧巻で、気圧されてしまうそうな気持を誤魔化すために、同期と柵の近くでじゃれ合っていた。


「やめろって。落ちても助けてやんねーぞ」


 一つ上の先輩が苦笑いしながら言った。

 名前の一部を取って、俺達はカズ先輩と呼んでいる。何かと頼りになるサークルの副代表だ。


 注意している割には靴が必要以上に汚れているのは、既に同じやり取りをどこかで済ませた後なのだろう。

 二十人いるサークル員のうち、三分の二が男なので、悪ふざけは日常茶飯事だった。


「此処って自殺の名所なんだね」


 同じく、一つ上のミオ先輩が、滝の前の立て札を覗き込みながら言った。

 朝方までバイトをしていたとかで、集合場所に来た時には不機嫌を全身から放出していたが、今は機嫌が良いようだった。


「滝の中央が深くなっているのと、そこだけ水温が物凄く低いから、落ちた人が心臓麻痺で亡くなることが多いんだって」


「そういう怖いこと言うなよ」


 苦言を呈しつつ、カズ先輩も立て札に目を近づける。

 何しろ野ざらしの立て札だから、文字が掠れて読みにくいのだ。


「うわ、幽霊目撃談もあるってさ」


 立て札の最後まで呼んだ後に、カズ先輩は心底嫌そうに言った。

 それから、ミオ先輩へ目を向ける。


「今年は、あぁいうの止めろよな」


「アレは私のせいじゃないって言ってるじゃん」


 アレ、というのは去年の夏合宿のことだ。

 あの時、一年生だった俺はよく覚えていないが、旅館で撮った写真に妙なものが映っていたらしい。

 インスタントカメラで合宿の様子を撮っていたのはミオ先輩で、合宿から戻って現像に出し、それをサークルの部室で広げていた時に発覚した。


 皆が楽し気に食事をしている部屋の光景。その奥にある窓の外から、男とも女ともわからない顔が中を覗き込んでいた。

 その時使っていたのは五階。窓の外にはベランダも柵もない。前後に撮った写真を見ても、窓の外には何も映っていなかった。


「あの写真、どうしたんですか?」


 好奇心から聞いてみると、ミオ先輩は「あー」と呟いた。


「部室に置いてあるよ」


「お祓いとかしないんですか?」


「面倒くさいじゃん」


 この人は、心霊現象には少し慣れているらしい。

 といってもお祓いが出来るとか、霊感バリバリとかじゃない。あくまで幽霊を偶に見る程度。


 全く見えない俺からしたら、それでも十分凄い気はする。世の中、霊能者なんてゴロゴロしていない。もしそこら中に霊能者がいたら、テレビに出ているオカルト系タレントは商売あがったりだ。


「みなさーん」


 遠くで、合宿を取り仕切る後輩の声が聞こえた。


「移動しますよー」


「腹減ったー。先輩、今何時?」


「十一時。そろそろ飯の時間だな」


「あんたら行程表見なかったの? 次はピザ焼き体験だよ」


「おぉぉおお、ピザっすか! やった!」


 はしゃぎながら俺は、ふと滝のほうを振り返った。

 ゴポリ、と大きな水泡の音が聞こえた気がした。


「何してんだよ。行くぞ」


「あ、はい」


 魚でもいるのかな、と思って、そのまま忘れてしまった。



◆ ◆ ◆



 その夜、食事と入浴を済ませた俺達を待っていたのは、当然のように飲み会だった。

 大学生の飲み会ほど、周囲から眉をひそめられるものもないが、当事者としては面白い。


 旅館の宴会場を襖で区切った部屋にテーブルが置かれ、その上にビールや酎ハイ、ツマミなどが広げられている。他に混じっている洋酒や妙な菓子は、それぞれが合宿に持ち込んだものだった。


 下が畳なので、皆座布団に座っているが、悪酔いした奴がそのまま寝転がれるという点を考えると、良い環境だと思う。


「なんでこれ買って来たのー?」


「いや、デザインが気になって。美味しくないんですか?」


 風呂が長引いた俺が、遅れて宴会場に入ると、すぐ右手にあるテーブルに、滝で話していた二人の先輩と、同期の男がいた。

 背の高い俺の同期は、自分が持ち込んだ洋酒について、ミオ先輩から駄目出しを食らっていた。


 カズ先輩は興味なさそうに煙草を吸っていたが、俺に気付くと隣に座るように促した。その口にはうっすらと髭が浮かんでいる。

 俺はヒゲが殆ど生えないので、ちょっと羨ましい。


「何飲む?」


「何あります?」


 テーブルの上には酒が並んでいるが、まだ誰も口をつけた様子がない。

 代わりに、その間に置かれた灰皿には、既に何本かの吸い殻が入っていた。


 俺も含めたこの四人は喫煙者だ。だから、飲み会の時は自然と隅に集まる習性がある。

 周りは「くさい」と文句を言いながらも、結構寛容に受け入れてくれていた。

 多分これで、酒を飲んで暴れたりしたら一発レッドカードなんだろうけど。


「酎ハイとか、あとはそいつが持って来た意味不明の洋酒」


「これ、まーずいって。日本人の口に合わないんだよ」


 ミオ先輩はそう言いながら、プラ製のコップを取って中身を注いだ。

 琥珀色のドロリとした液体がコップに落ちると共に、発酵した林檎のようなメロンのような、とにかく独特の匂いが漂う。うん、これは嫌な予感がする。


「ねぇ、オレンジジュース頂戴」


 離れた席に彼女が声を掛けると、後輩の一人が即座にペットボトルを持って来た。

 よく教育されている。犬かお前は。プライドを持て。


「ありがとう」


 オレンジジュースを混ぜて味を確認した先輩は、少し首を傾げてから、傍にあった青林檎チューハイに目をつける。

 プルタブを押しこんで開封し、中身を少しだけコップに注いだ。


「チャンポンはまずいですよ」


「でもこれで味はマシになったよ」


 ミオ先輩にコップを手渡された同期は、それを一気に半分ほど飲み込む。

 こいつには、一口確認するという能力はないらしい。いつもそれで失敗しているのに。


 味は悪くなかったらしく、同期は嬉しそうに残りも飲むが、ミオ先輩は呆れ顔で「それ度数強いからね」と釘を刺した。


 飲みをよくするサークルでもないので、飲める人間は半々といったところ。

 所謂、大学生らしいバカ騒ぎをする人もいないわけではないが、周りがすぐに抑え込むので害はない。


 和やかな雰囲気の中で俺もチューハイを何本か空けたころ、カズ先輩が煙草を咥えながら、ふと言った。


「怖い話とか知らない?」


 その矛先は、勿論のことミオ先輩だった。

 ビールを飲んでチーズを摘まんでいた彼女は、小さく首を右に傾げた。


「知ってるけど、どこでも聞くような話だよ」


「聞きたい」


「幽霊怖いって言ってなかったっけ?」


「怖いけど聞きたいんだよー。わかるだろ?」


 全然、とミオ先輩は素っ気なく言う。

 しかしそれでも、酒に酔って機嫌が良いのか、話をしてくれた。


「テニスサークルの子に聞いた話なんだけど、Yにあるセミナーハウスで合宿をしていたんだって」


 Yというのは広いテニスコートを併設している、うちの大学の中でもかなり人気の場所だ。

 俺は行ったことがないし、行くつもりもないが、いつも抽選待の知らせが学生課の前に貼ってある。


「夜に彼女はお手洗いに行こうとしたんだけど、彼女が使っている部屋のお手洗いは、同室の子が使っていた。彼女は廊下にある共同のお手洗いに行った」


「夜中のトイレとか、それだけで怖ぇじゃん」


「気が弱い子なら、部屋で我慢してたかもね。彼女がトイレに入ると、天井から雨音が聞こえた。あぁ、困ったな。朝までに止まないかな。彼女はそう思いながら用を済ませた」


 ゆっくりとした語り口調と、あまり高くない声質のせいで雰囲気が出ている。


「テニスしに来たんだから、雨でコートが使えないと意味ないからね。私達みたいに酒さえ飲めればオッケーってサークルと違って」


 一言多い先輩はクスクス笑って、そのまま話を続けた。


「廊下は静まり返っていた。トイレで少し目が覚めた彼女は、暗くて静かな廊下が少し怖いと思ったけど、そのまま部屋に向かった。……その時!」


 突然声を張り上げたので、俺と同期は思わず息を飲んだ。

 この人、楽しんでやがる。


「後ろから、ペタ…ッ、ペタッ……と足音のようなものが聞こえて来た。彼女は恐る恐る後ろを振り返る。そこには……」


「そこには?」


 カズ先輩が焦れたように先を促した。

 ミオ先輩は、ゆっくりと視線を彼に向けて、人を食ったようなニンマリとした笑みを見せた。


「……誰もいなかった」


「誰も?」


「そう。床の絨毯には、彼女がつけたスリッパの足跡があるだけ。でも彼女は足音がまだ続いていることに気が付き、そして悲鳴を上げて逃げ出した」


 俺達がその続きを待っていると、ミオ先輩は悠長に缶チューハイの新しいものを手に取って開封した。


「梨味おいしー」


「え? あれ?」


「続きはないんですか?」


 肩透かしを食らった俺とカズ先輩が言うと、相手はシンプルに頷いた。

 どうでもいいけど、美味しそうですね、その梨チューハイ。


「これだけだよ。怖いでしょ」


「えー、怖いかぁ?」


「足音が聞こえたってだけでしょ?」


 正直、怖くもなんともない。

 俺は同期にも同意を求めようとしたが、同期は妙な笑みを浮かべて彼女を見ていた。


「どうしたんだよ」


「……トイレで聞こえた雨の音が、廊下に出たら急に聞こえないっておかしくないか?」


 同期はためらいがちに言葉を繋げる。


「誰もいないのに続いていた足音ってのは、天井から響いてたんじゃないか?」


「天井? ……もしかしてトイレの雨音って」


 俺達がギョッとしながらミオ先輩を見る。

 煙草に火をつけていた彼女は、意味ありげな笑みを浮かべた。


「天井にびっしりと足があったんじゃないかな。いや、手かも? 雨音に聞こえるほど、大量の手が天井を……」


「うわぁ……」


「ひぃ……っ」


 少し体感温度が下がった気がした。

 酒を飲んでいるせいもあるが、これぞ怪談の醍醐味だと思う。


「もっと話してよ」


 明らかに怖がりつつもカズ先輩が次の話をねだると、それに対して彼女は悩んだ様子を見せた。


「怖い話すると、幽霊が寄ってくるって言うし」


「今更だろ。もう一個話しちゃったんだし」


「うーん」


 ミオ先輩の視線が、俺達が背にしている襖に注がれる。


「向こうって誰かいる?」


「え?」


 人数が少ないから襖で区切ってもらっただけで、宴会場を使っている団体は他にはいないはずだった。

 唐突な言葉に、俺は同期と顔を見合わせる。


「なんで?」


「いや、なんか人の気配がするから」


 カズ先輩は、それを鼻で笑った。


「流石にそんなの引っかかんねぇよ」


 その時だった。

 少し時代遅れの着信音が、カズ先輩の携帯電話から鳴り響く。

 カズ先輩は何気なくそれを取ったが、中を見たかと思うと絶句した。


「なんだよ、これ」


「どうしたんですか?」


 俺が首を伸ばして、携帯の画面をのぞき込むと、メールがそこに開いていた。



『開けて』



 一言だけのメール。

 差出人の名前はなく、滅茶苦茶なメールアドレスが表示されている。

 俺は襖を振り返ったが、先輩は「くっだらねぇ」とメールを閉じた。


「お前だろ!」


 指をさされたミオ先輩は、そもそもメールを見ていないので、きょとんとしていた。

 話をしている間中、ずっと両手はテーブルの上にあったから、あれが悪戯メールだとしても、この先輩が出すことは不可能だった。


「変なメールが来たんだよ。開けて、って」


「スパムじゃないの? ほら、よくあるじゃん「203号室ですよね。着いたので開けてください!」とかいうワンクリ詐欺メール」


 冷静に諭されると、先輩は黙り込んだ。

 確かにその手合いのメールはよくある。有名人を騙ったりして、個人情報を抜き出そうとする、今時子供でも引っかからない代物だ。

 偶然、今の状況にピッタリなスパムが来る確率は低いだろうけど、ゼロじゃない。


「そ、うだ、よな」


 先輩は滑舌悪く言うと、自分に言い聞かせるように言葉を重ねた。


「偶然だよな。偶然。誰もいやしないんだから」


 再びメールの着信音がした。

 俺達は全員息を飲んで、先輩の携帯に目を向ける。


「開けましょうか?」


 親切心で言ってみたが、先輩は気丈にも首を振って断ると、メールを開いた。



『ここにいるよ』



 今度こそ先輩は悲鳴を上げて携帯を投げ出した。

 俺はそれをキャッチして、メールの文面を確認する。

 文字化けしたメールアドレス。何処か妙なフォント。見ているだけでゾクッとする。


「そうだ。返信してみましょうよ。誰かの悪戯なら、その人の携帯が鳴るはず……」


 返信用の画面を開いて、そのまま送信する。

 しかし、二秒後に俺が見たのは「差出人不明」の自動メール返信だった。


「え?」


 ゴポリ、と襖の向こうから音がした。

 何処かで聞いた音だ。何処で聞いたんだっけ?


 その音は携帯電話からも聞こえている気がした。

 差出人不明で戻ってきた、つまりはこの世に存在しないメールアドレスから、メールは届き続ける。


 ゴポポポポポポ。


「あーぁ」


 ミオ先輩が煙草に火を点けながら、呆れたように言った。


「誰? 連れて来たの」


 ゴポリ。


 俺達は情けなくも体を座布団の上で縮こませて、必死に襖から目を反らし続けた。


『開けて 開けて 開けて 開けて』


「何もそこから入らなくても、廊下から回り込めばいいのに」

「そういう問題じゃねぇだろ!」


 カズ先輩の鳴きそうな声が響き渡った。







 結局あの日は一睡もできないまま夜明けを迎えて、次の日は最悪のコンディションだった。

 帰りのバスの中で、俺は無事にぶっ倒れた。

 朦朧とする意識の中で、あの音は滝で聞いた音に似てたなぁ、なんて思い出した。


 それから数日後、ミオ先輩がゲラゲラ笑いながら「あれ、冗談だから」と言った時の脱力感と言ったらなかった。

 軽い気持ちで悪戯を仕掛けてみたら、俺達があまりにビビってしまって、タネ明かしが出来なかったのだと言う。


 カズ先輩が滅茶苦茶怒って、煙草をワンカートン買わせていた。

 だからあんたもそれでいいのかよ。プライド持てよ。

 そう思いながら、俺は二カートン買ってもらった。勝ち。


「文字化けと差出人不明? ……それは企業秘密だよ」


 妙な笑みと共にミオ先輩は言ったけど、今思えばその時にちゃんと聞いておいたほうがよかったかもしれない。

 まぁ今更ではあるんだけど。もうミオ先輩にもカズ先輩にも、連絡なんてつかないし。


 大学生の時の先輩後輩なんてそんなもんだ。

 暫くは卒業後も遊んだりするけど、次第に連絡しなくなって、価値観も合わなくなって。

 メールアドレスを変えた時にそれを伝えるの忘れちゃったりするんだよな。


 あれから何十回メールアドレスを変えただろう。

 携帯番号だって変えてるのに、何かの扉や窓を背にしていると、俺の携帯は勝手に変なメールを受信する。


 どうしてだろう。

 カズ先輩じゃなかったのか、あの時に連れて来たのは。


 滝壺の底から這いあがる何かの音が、ずっと俺から離れない。


 ゴポリ、ゴポリ。


『開けて』


 ミオ先輩。


もう冗談はいいんですよ。



END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その背より告げる 淡島かりす @karisu_A

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説