美術室で君と
噂だけはよく聞く。あんまり好意的じゃない噂を。
美術部の変わり者、
どう変わっているのか私は知らないし、ほんとうに変わり者なのかも知らないけど、たびたびそういう話を聞くのでたぶんそうなんだろうなとは思っている。たしかに、見た目はあんまり好もしいものではない。
どこかもっさりしたつやのない黒髪に、分厚い黒縁の眼鏡をかけて、たぶん背は高いのだろうけどわりに細身だし猫背であんまりそう見えない。私の見た目印象としては、変わり者と言うか偏屈そうなイメージだ。
そんな彼とはたぶん、クラスが一緒にならない限りかかわりなんか持たないんだろうなあと思っていたのが一時間前の話だ。
「
放課後、先生に進路のことで職員室に呼ばれた帰りに廊下で誰かに呼ばれた。誰だろう、と思う前に振り返ると、そこには松永くんが立っていた。なんだろう、と首をかしげて松永くんに向き直る。
「何?」
「絵のモデルになってほしいんだけど」
「……モデル?」
初めて交わした会話で、松永くんはひどく低い声で、早口で聞き取りにくい話し方をした。なんだかまるで、自分の言いたいことはすべて私に伝わるよね、とでも思っているかのような。
松永くんが言うには、今度の文化祭で美術部員は一点以上必ず作品を提出しなければならないらしく、その絵のモデルを私にお願いしたいと言うのだ。
「なんで私なの?」
「テーマに合ってると思ったから」
「テーマって?」
「それは文化祭までは社外秘だって顧問が言ってた」
「……ふうん」
こういう場合に社外秘という言葉が適切なのかはあまり頭のよくない私には分からないが、言いたいことは分かる。
まじまじと松永くんを、失礼と知りつつ観察する。やっぱり背が高いと思うけど、ひょろりとしていておまけにひどい猫背なので小柄に見える。それに、眼鏡の奥がよく見えなくて表情が分かりづらく胡散臭い。もっさりした髪の毛は不潔だとは思わないけど清潔感を与えるようなものでもない。松永くんは、私の返答を待っている間ずっと下を向いていた。
ややあって、私は答える。
「いいよ、やる」
そう言うと、松永くんがぱっと顔を上げた。
「ほんとうに?」
「断ってほしかったの?」
「いや……」
口元を手で覆い、松永くんはたぶん少しだけ笑った(のだと思う)。
了承したのは別に深い意味はなかった。文化祭まであと二ヶ月を切っていて、二年生の私にとっては来年は受験があるのでおそらく本気で取り組める最後の文化祭になるだろうことが分かっていて、できる限り充実させたいと思ったのだ。
松永くんの実力や絵柄は知らないけど、自分が文化祭の作品として展示されることにまったく抵抗がなかったわけじゃない。親や、校外の友達も来るのだ。でも面白そうだと思ったから。
そしてそんな会話と契約が交わされたあと、私は暇だったので美術室にいた。
「何使って描くの?」
「油絵」
「まさかヌードとか言わないよね」
「速水さんがやりたいなら」
「冗談やめてよ」
「別に冗談は言ってない」
淡々と返している松永くんはたしかに至極真面目な顔である。美術室にはほかに誰もいなくて、松永くんに理由を聞けば美術部は基本的に外でデッサンをしたり自由行動が多いらしく、今日はたまたま誰もいないのだろうと説明してくれた。
松永くんは、キャンバスの大きさで悩んでいるようだったので横からそっと言う。
「あんまり大きいのは……」
「なんで」
「目立つじゃん」
「……」
松永くんが眼鏡をくっと上げて、私をじっと見つめた。思わずどきっとして一歩後ずさると、彼はそんなことを気にしたふうでもなくまたキャンバスのほうに視線を戻す。
絵はまったく分からないのであれこれ言う気はないが、キャンバスの大きさだけはなんとか口を挟もうと思っていると、松永くんがそれなりに小さいキャンバスを手に取ったので、だいぶ安心してしまう。
私が思うキャンバスは、手では抱えきれず持って歩くのが大変、というレベルのものだったので松永くんが両手で持てるサイズのものを選んでくれて心底ほっとした。
「ねえ」
「何」
「デッサンとか、しなくていいの?」
「……いい」
「でもいきなりぶっつけ本番とか、よくないんじゃないの、私よく分かんないけど」
「別に大丈夫」
松永くんの謎の自信に気圧されて、私はそれ以上何か言うことができなくなってしまう。
「そこ、座って」
「う、うん」
たぶん、かなり挙動不審だったと思う。夕暮れの迫る美術室で、変わり者で有名な松永くんとふたりで、しかも初めての絵のモデル。
肩の力を抜いて自然と微笑むなんて絶対無理で、私はぎくしゃくと初めてカメラを向けられた小さい子のように顔を引きつらせていたと思う。
でも、松永くんは何も言わなかった。
◆
「え? 松永くんの絵のモデル?」
「そう。頼まれて」
こういう時はおしゃべりな女の子でなくとも話したくはなるだろう。別に、秘密にして、なんて言われてないしこれから放課後たびたび松永くんとの時間を取らなけらばならないのだから、友達にその理由を説明するのはある種当たり前だ。
友達とお菓子をつつきながらそういえば、と話をすると、皆がきょとんとしたあとそれぞれの反応をした。ある子は眉を寄せ、またある子は不思議そうな顔つきを崩さずに、という具合に。分かっていたけどあんまり好意的な反応はなかった。
「なんでまた、そんなことに?」
「分からない。急に頼まれた」
「変人松永ってどんな絵描くんだろ?」
「分からない」
「なんでそんなの引き受けたの?」
「うーん、分からない」
「あんた、分からないばっかりじゃん」
「あは」
ほんとうに分からないことばかりだ。松永くん本人のこともそうだし、自分のこともよく分からない。なんで引き受けたのか、そりゃあ文化祭を充実させたいって思ったしやれることはやってみようって思ったのは確かだけど。
でも別にそれでいいと思う。松永くんをよく知らなくても私はモデルになれるし、これっきりだから、知りたいともそんなに思わない。
「じゃあ今日も放課後はモデル?」
「うん」
「ふうん。まあがんばってよ」
友達の適当な声援を受けて、私は今日も美術室へ行く。
美術室のドアをスライドさせて中に入り松永くんの姿を探す。その時、上履きの色が青色の女の子が入口付近に立っているのに気が付いた。青、ということは一年生だ。美術部の部員かな、と思いながら軽く頭を下げて、窓際に座っている松永くんに近づく。松永くんは私に気付く様子もなく熱心にスケッチブックに鉛筆を走らせていた。
「何描いてるの?」
「……ああ、速水さんか」
「何、描いてるの?」
「中庭」
覗き込もうとすると、松永くんはぱたっとスケッチブックを閉じてしまう。
「見せてよ」
「見るようなものじゃない」
「そうなの?」
「そこ座って」
「ふうん」
少しいじけてみせるが、松永くんにはまるで効果がないようだ。ちょっとくらい慌てたり気まずい顔をしてくれてもいいと思う。
ふと見れば、さっきまでいたはずの女の子はいつの間に出て行ったのかいなくなっていて、また美術室は私と松永くんのふたりきりだった。私は相変わらず表情が硬いと思うけど、松永くんはそんなのは気にならないらしく熱心にキャンバスに描きこんでいく。
ああいう作業って、どれくらい時間がかかるものなんだろう。人それぞれだよな。とりあえず文化祭まであと二ヶ月ないんだし、それまでには出来上がるんだろうけど。
というか、テーマってなんなんだろう、私こんなモデルとかやったことがないから分からないけど、こういうのってこんな味気も素っ気もない教室を背景にせずに、外に行ったりロケーションをきちんと決めて描くものなんじゃないんだろうか。少なくとも私は、こんな気まずい沈黙よりそっちのほうがいい。
「ねえ」
「……」
「外で自然をバックにとか、そういうののほうがよくない?」
「……」
「今だったら金木犀とか、綺麗だし」
「……」
松永くんが筆を止めた。そして、じっと私を見た。
レンズの向こうの瞳は、濡れたような黒で意志が強そうで、少しだけ心臓が跳ね上がる。
「ここでいい」
「なんで?」
「テーマに合ってるから」
「……社外秘?」
松永くんが再び描きだす。私は、もうこれ以上追及しても提案しても何一つ彼には響かないだろうな、と思って口をつぐんだ。
松永くんはやっぱり、変わり者と言うか偏屈だ。二日目にして、私はそれを確信した。
◆
モデルを引き受けて一週間経って、ようやく松永くんの視線に緊張することもなく自然な表情でいられるようにはなった。
時々、真剣な顔の松永くんに茶々を入れる余裕もできた。あまりコメントが返ってくることはないけど、どうやら必要なことは答えてくれるらしかった。
いつもの椅子に座って(美術室の窓を背にしてわりと壁際ぎりぎりのところ)、松永くんのほうを見ながら何気ない話をするのがけっこう楽しくなっていた。
「松永くんって、勉強できるの?」
「……」
「失礼だけど、あんまり頭よさそうじゃないよね。私に言えたことじゃないけど」
「……」
「頭悪いと言うより、勉強よりも大事なものがありそう」
「……」
「褒めてるよ?」
松永くんは何も言わないし、もしかしたら集中していてほとんど聞き流しているのかもしれないけど、それでも私は楽しかった。
そして、一番楽しい、というか気に入っていることがある。それは、時々訪れる。
「速水さん」
「ん」
「もう少し首を右に傾けて」
「了解」
何かポージングの要求をされたあとは必ず、松永くんはいつも以上に真剣な顔をして私を凝視するのだ。
その時の視線は、まっすぐでまるで心の中まで覗かれているようで、でもそれが松永くんだとなぜか不快ではないことに自分自身驚いていて、そしてそんな驚きまで松永くんは手に取るように分かっているんじゃないかって思うものだ。
ヌードモデルでもないのに、肌が焼けるように熱くなる。松永くんが私を微細に目に焼き付けてそしてそれをキャンバスにアウトプットしていると思うだけで、ドキドキする。
「なんかさ」
「……」
「松永くんの目線って」
「……」
「……なんでもない」
「……」
松永くんは何も言わない。
松永くんの目線って、エロいよね。そう言おうとしていた自分にびっくりしてしまう。別に、舐めるように見られているわけではない。むしろその目にそんないかがわしい空気は一切ないのだ。純粋に、私を作品の被写体として見ている。
いや、だからこそか。無機質なその視線が逆に卑猥なのか。それともそれをそう取ってしまう私がエロいのか。
自慢じゃないけど体型にはそれなりの自信があって、だから何も含みのない視線で見られていることが悔しいのかと思う。いや、きっとそうだ。
「暇」
「……」
「松永くん、なんかお話しして」
「……」
松永くんが筆を止めた。そしてじっと私の目を見た。
分厚いレンズをものともせずに射抜くような視線が私の目をまっすぐ見て、そしてぼそっと呟いた。
「速水さんの話は」
「……」
「当たってた」
「え?」
何の話をしているのだ。私の話が当たってた?
聞き返したけど、松永くんはすでに作業に戻ってしまっている。
「なんのこと?」
「……さっきの」
「うん」
「勉強の話」
「……ああ」
松永くんは淡々と私をデッサンしながら、少しだけふと口角を上げた。
「あ、笑った」
「……笑ってない」
「笑ったよ」
私がにやにやすると、松永くんはほんの少しだけ気まずそうに唇を尖らせた。なんだか可愛い。
偏屈変人な松永くんは、あんまり表情に動きがない。だからそういう些細な表情の変化が面白い。
彼を変人だと思うことに変わりはないけど、もしかしたらこんな松永くんを知っているのは私だけかもしれない。そう思うと、ちょっとだけ優越感に浸れる。
またキャンバスに意識を落とした松永くんをじっと見つめる。ぼさぼさの黒髪に黒縁の眼鏡は野暮ったいけど、その真剣そのものな目の力強さに、なんだか胸が苦しくなった。
◆
気付いたら視線の先に松永くんがいた。
ということが最近たまにある。私のクラスの私の窓際の席からはちょうど中庭が見えて、さらに中庭を挟んで反対側の校舎に美術室が見える。松永くんは、昼休みは大抵美術室にいて、窓際で何か描いている。目が合って手を振ると、ふいと視線をそらされてしまう。
体育や移動教室授業で松永くんが中庭を通っていることもたまにあって、彼はだいたいが一人で行動している。教科書やノートと一緒にあのスケッチブックを持って、猫背で歩いている。
そんな松永くんを見つけるのが最近じょうずになってしまった。
見るとなんとなくうれしくなるけど、やっぱり一番うれしいのは描いてもらっている時で(そういえばこの間から、ようやく下書きが終わって色をつける段階に入った)、じっと見つめられると肌が焼かれて内側から溶けそうになる。おなかのあたりがかあっと熱くなって、うつむいてしまう。でも、それがなんだかうれしくて、心地よくて。
ああ、と気付くまでに時間はかからなかった。
気付いてからは、転がり落ちるみたいだった。
「やばいなあ……」
美術室に入る前に呼吸を整えなくちゃいけないのが厄介だ。胸に手を当てて、二回深呼吸して、それからそっと覗き込むように美術室のドアをスライドさせる。
いつもみたいに、松永くんが窓際に座ってぼうっとしていて私はそんな彼に声をかける。はずだった。
「……」
松永くんはやっぱり窓際に座っていた。女の子と一緒に。この間いた、一年生の女の子だとすぐに分かった。
女の子が笑顔で喋りかけると、松永くんも軽く笑ってそれに頷き返している。手にはいつものあのスケッチブック。
彼女を、描いているんだ。
「あっ」
女の子が私に気付いた。その声に松永くんも顔を上げる。その目が私を見た途端、くるっと背を向けて駆け出していた。
ぱたぱたと来た道を走る。顔が熱い。心臓がとんとんと速い速度で鼓動を刻んでいる。足が絡まりそうになるのをなんとか耐えて、下駄箱まで走った。
靴を履き替えるためにようやく立ち止まる。荒い呼吸を必死で抑えていないと泣きそうだった。
恥ずかしかった。松永くんのああいう顔を知っているのは自分だけなんて、思い上がりも甚だしい。あの子はもっと笑顔を引き出せている。会話がちゃんと成立してた。私みたいに無視されたりしない。
吐く息が震えた。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだ。……馬鹿みたいだ。
下駄箱に力なく拳を当てて、ずるずるしゃがみこむ。そのままうずくまって、もう行かない、と呟いた。
無責任とか松永くんに思われてもいい。もうどうでもいい。テーマだかなんだか知らないけど、あんなに楽しそうに喋ってたんならあの子を描けばいい。むしろ絵なんか完成しなければいいんだ。
文化祭まで、あと一ヶ月を切っている。まだ着色を始めたばかりで、松永くんの絵は見ていないけどとても完成品とは呼べないだろう。今からほかの絵なんか描き始めてもうまくいくはずない。
「……痛」
爪が手のひらに食い込んでいた。
一度引き受けたことは何があっても最後までやり遂げるべき。そんなこと分かってるけど、次からどんな顔で松永くんの前に座ればいいのか全然分からなくて。きっともううまく笑えないし、ぎくしゃくしてしまう。
泣くのはなんだか違う気がして、必死で我慢した。
◆
あれ以来、美術室には行ってない。松永くんのほうから私に何かアクションがあるわけでもない。
松永くんは絵が完成しなくてもいいのかな。来なくなった私には興味がないのかな。
松永くんが自発的に何かしていたのなんて、最初に絵のモデルを頼まれたことくらいしか思いつかない。会話も受け身だったし、絵に没頭していて私の話なんかそもそも聞いてなさそうだったし。
つまり私が美術室に行かないと、何もないんだ。何も。
ある日の放課後中庭を通ると、松永くんがベンチに座っていた。気まずい、と思って思わず隠れて様子をうかがう。
「何してるの?」
「静かにして!」
一緒にいた友達に不審がられるのも気にせず、私は迂回経路を取ろうとした。すると、友達が言った。
「変人松永、寝てやがる」
「……」
そうっと見ると、たしかに眼鏡と前髪のせいで目が閉じているのは分からないけど、あの首の動きは寝ている。前傾姿勢でぐっと沈んだかと思えばびくっと動く。
寝てるなら、通っても平気かな。
というか、友達がそのまま通ろうとしているので私だけ迂回経路を通るわけにもいかず、すごすごとついていく。
友達が通り過ぎたところで、松永くんの隣に置いてあったスケッチブックがばさっと地面に落ちた。すっかり夢の中なのか、松永くんは起きる気配がない。
いつも大事にしているものが起きた時に地面に落ちていたら嫌だろうな。そう思って、そっと近寄ってスケッチブックを拾った。
「……え?」
何気なくスケッチブックを拾ってその開いたページを見て、驚いた。
「私……?」
前のページをめくり、その前のページもめくる。中庭のデッサンやほかの何かのデッサンに混じって、時折描かれている人物画は、全部私の横顔だった。じょうず。と的外れた感想を抱く。
松永くんはぐっすり眠っている。その白い肌を閉じた目を縁どるまつげを、戸惑いでじっと見つめる。
「何してるのー? 早くー」
「……ん」
「……!」
友達の呼ぶ声に、松永くんがぴくりと反応した。それに慌てて我に返って、私は松永くんの隣にスケッチブックを置いて急いで先に行ってしまっている友達のほうへ向かう。
松永くんが起きたかどうかは確かめられなかった。振り向いて目が合ったら怖いから。
でも、引っかかる。松永くんが私の前であのスケッチブックを開いたことはない。いったい、あのスケッチはいつ描かれたものなのだろう。
心が揺れる。松永くんに聞いてみたい気持ちがふつふつとわき上がってくる。でも、聞けない。私は松永くんをあんなふうに笑わせられない。
久しぶりに近くで見た松永くんは、やっぱり細くてどこか頼りない感じがして、なんだかとても苦しかった。
◆
「看板はもうちょっと右かなー」
「うい」
クラスの出し物準備も大詰めを迎えている。連日居残りして、私たちはベニヤ板にペンキを塗ったり内装作業をしたりしていた。うちのクラスは二つ教室を使った巨大迷路だ。ゴールすると駄菓子がもらえる。
松永くんのことを考えるとなんだかたまらない気持ちになる。ちゃんと話せばよかった、と思うけど、もう今更な時間が経ってしまった気がする。最近私はぐじぐじしてばっかりだ。
ぼんやりと物思いに沈みながら、資材が入った段ボール箱を両腕で抱えて廊下を歩いていると、向こうから美術の先生が歩いてきた。素朴な性格で大柄でずんぐりむっくりした体型だから、皆からクマ先生と呼ばれている。私はそんなにかかわりがある先生ではないので、本名は知らない。
「おっ、速水」
「こんにちは」
目礼で通り過ぎるつもりがなぜか声をかけられた。声をかけられたことももちろんだが、選択科目で美術なんか取っていない一生徒の私の名前を覚えられていたのにも驚いた。
先生はにこにこしながら近づいてきて言った。
「松永の作品は進んでるか?」
ああ、そっか。この人美術部の顧問だった。
なんて答えたらいいのか分からなくてうつむいたけど、先生はそんなことを意に介する様子もなく人のよさそうな笑みを浮かべて話し続ける。
「松永が人物画を描くって聞いた時は驚いたなあ。普段奴は静物画しか描かないから」
「……そうですか」
「好きなものだから、てっきり奴は林檎でも描くと思ってたんだが」
……。好きなもの?
「松永くん林檎好きなんですか」
「うん、好きだよ」
「ていうか、テーマって好きなものだったんですか?」
「……俺、まずいこと言ったな」
先生は私がテーマを知ってると思って話していたんだろう。今そんなことどうでもいいけど。
一気に気まずい顔になってぽりぽりと無精ひげのある頬を掻く先生に段ボール箱を押しつける。
「おっ?」
「これ職員室まで運んどいてくれますか」
「うん……。どこ行くの?」
「美術室!」
「……」
ぽかんとしているクマ先生を放って、私は美術室に走り出す。
――テーマに合ってると思ったから。
どういう意味で、松永くんはそれを言ったんだろう。低い声で早口で、松永くんは私の目を見ようとしなかった。
ほんとうに?
見ようとしていなかったのは、私のほうなんじゃないの。
勝手に松永くんの気持ちを分かったつもりになって、勝手に期待して失望して諦めて、それで今度はまた勝手に確かめようとしている。
走る私を、廊下にいた数人の生徒たちが好奇の目で見ている。でもそんなの、今だけは気にならない。
美術室のドアの前で、私は乱れた呼吸のまま一度目を閉じて深呼吸して、まぶたを上げるのと一緒にドアを開けた。
「……」
松永くんは、いつも通り窓際に座っていた。ドアが開いた音を聞いて、ぼんやりと窓の外を見ていた顔をこちらに向けて、松永くんはちょっと驚いたように目を見開いた。その顔は差し込む夕陽に照らされて明るい。
「松永くん」
「……」
震える足を叱咤して、少しずつ近づいていく。松永くんの座る机の前にたどり着くと、彼は机の上にスケッチブックを広げていた。そこには、描きかけのデッサン──やっぱり私の横顔が描かれていた。
「……なんで、速水さんが来なくなったのか考えてみた」
松永くんが、珍しく自発的に話し出す。私は黙っている。
「俺があんまり喋らないのが癇に障ったのかと思うんだけど」
「……」
「もともとあんまり喋るのじょうずじゃないし、人を楽しませるようなことは言えないし」
違うって口を挟みたかったけど、喉がからからで言葉が出なかった。
「……入学式の日に」
松永くんが、急に話題を変えた。
「俺、人混み苦手で、だから入学式で気分悪くなったんだ。吐き気して、立ちくらみして。抜け出して廊下でうずくまってたら、速水さんが来た」
「……」
「覚えてないよな。速水さんトイレのついでみたいだったし」
覚えてないわけない。入学式が終わって教室に移動する途中、出来立ての友達と抜け出したら廊下に人がうずくまっていたのだ。でも顔をまじまじ見たわけじゃないから、あれが松永くんだったことは知らなかった。
「大丈夫? って聞いたんだよ、速水さん。人に酔ってうずくまってたのに人に声かけられるの苦痛だったんだけど、速水さん俺にハンカチ貸してくれた」
「……あっ」
たしかにそうだ。それは忘れてた。
そういえば、忘れていた身が言うのもなんだが、あのハンカチが今手元にないということは……。
「返せなかったんだ。速水さんはいつも人と一緒にいたから」
「……」
「俺、変人とか言われてたから、話しかけたら速水さんに迷惑かかるかと思って」
「そんなの気にしなくてよかったのに」
よく喋る松永くんに若干気圧されながら、私はやっとそれだけ言う。
松永くんはゆるゆると首を横に振って、それで、と言った。
「それで、いつ返そうかって速水さんを目で追ってるうちに、気付いたら描いてた」
「……私、この間、見た」
「……何を?」
「松永くんのスケッチブック。ごめん」
「……」
松永くんが少し沈黙して、それから頬を赤くしてうつむいた。
「気持ち悪いよな。知らない奴が追っかけて絵まで描いてるとか」
「……」
松永くんをよく知る前なら、たしかにそう思ったかもしれない。
でも、知っていたから。松永くんを知っていたから、私は気持ち悪いとか、そういうことは思わなかった。都合がいいとか言われるかもしれないけど。
「モデルを頼んだ日も、ほんとうはハンカチ返そうとしてたんだ」
「……あのさ」
「……」
「なんで、私が来なくなったか、教えようか」
ぱっと顔を上げた松永くんの顔には珍しく表情があって、知りたい、と書いてあるようだった。
ああ、ほんとうに分からないんだな、と思う。私はあんなにあからさまに逃げたのに。
「一年生の、美術部の子いるでしょ」
「……」
「長い黒髪の、小さくて可愛い子」
「可愛いかどうかは知らないけど、
「名前は知らない。あの日、松永くんと一緒にいて、それで松永くんはあの子の話に笑ってた」
「……」
「それがショックで、来なくなった」
「なんで?」
そこまで言わないと、分からないのか。愕然として、それから顔が赤くなる。
「私の話には、全然興味なさそうだったくせに……」
「あれは……だって」
松永くんが不自然に目をそらした。それから、頬を人差し指で掻いてしばらく押し黙って、観念したように話し出す。
「速水さんが目の前にいるだけで、俺緊張するから、それを表に出さないように精一杯で。無愛想だった自覚は全然ないんだ」
松永くんの顔が赤いのが夕焼けのせいなのかそれとも違う要因があるのか分からなかったけど。
私は、一歩松永くんのほうに踏み出して、手を伸ばした。
「前髪、切らない?」
「え?」
「松永くんの顔、よく見えないんだ」
そっと眼鏡を外すと、戸惑った顔の松永くんが現れた。そうっと顔を近づける。
「……」
顔を離すと、松永くんは火がついたような真っ赤な顔で、それはもう夕陽のせいと言い訳はできないくらいで。
松永くんの目はやっぱり濡れたように黒くてまっすぐで、それから、近づくと石鹸の匂いがして、なんだか心臓がくすぐったい。
手に持ったままの眼鏡をかけてみる。
「うわっ、すごい度強い」
「返せよ」
「松永くん、すごく目悪いんだね」
「返せってば」
松永くんはそう言うけど、奪い返そうと手を伸ばしてくることはない。
私は眼鏡をかけたまま、もう一度顔を近づけてみた。
「……眼鏡、あるとやっぱり邪魔だね」
「……」
度の強い眼鏡をかけて視界が揺れていて、うまくできなくて私が唇を尖らせると、松永くんは私の眼鏡を取り上げ自分の顔に戻してふいっと横を向いた。
その横顔の耳まで赤いのを私が笑うと、松永くんは困ったように私を横目で睨んだ。
◆
文化祭当日、美術部の展示室まで行くと松永くんが不機嫌そうに入口に座ってカウンターを持っていた。
「ご機嫌斜めだね」
「こういうお祭り騒ぎは嫌いなんだ」
「でも、ばっくれずに真面目にやってる」
「人混みよりはこっちがマシ」
私をカウントして、松永くんが一緒に入ってくる。
「カウント係が持ち場を離れていいの?」
「滅多に人来ないし、少しくらいいいよ」
松永くんの作品を、私はまだ見ていない。完成させた、とは聞いていたけど。
探すまでもなく、それは見つかった。作品は展示室の一番目立つところに飾ってあった。
「……きれい」
思わずそう呟いた。別に、私がモデルだからそう言ったわけじゃない。私は私だったのだけど、その色使いが神秘的で、なんだかまるで私じゃないみたいで。
「……別に、こんなものだろ」
「……」
隣に立った松永くんが、なんてことなさそうにそう言う。
「それってつまり、松永くんから見た私はいつもこうってこと?」
「……」
黙る。そして、徐々に顔が赤く染まっていく。
ちょっと調子乗ったな。と思いながら、壁に掛けてある作品の下にあった机の上で備え付けの感想用付箋に「松永くんから見た私です」と書く。それを作品の下に貼りつけた瞬間、松永くんがそれをもぎ取った。
「あっ」
「やめろよ」
くちゃくちゃと手の中で付箋を潰しながら、松永くんがもごもごと何か言った。
「何?」
「……別に」
顔を真っ赤にした松永くんの手を握ると、彼は肩をびくっと浮き上がらせて、それから弱い力で握り返してきた。
それがとてもうれしくて、苦しくて、私はもっともっと握る手に力を込めた。
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