アムロフィリアは眠らない

 しんと静まり返った室内に、呼吸する音とエアコンの稼働音だけが響いている。しっかりと遮光されたこの部屋は、自分の指先も見えないほどに暗い。ベッドに転がされた身体は、褥瘡を起こさないよう定期的に寝返りを打たねばならず、億劫である。

 自由に動かない腕を駆使して、どうにか起き上がる。はめられた手枷の擦れる音がことさら大きく部屋に反響したような気がした。

 起き上がっても、部屋が明るくなるわけでもないため、ほんとうに自分は起き上がったのか、まだ寝転がっているのではないか、と疑ってしまう。五感のひとつが奪われるとほかの感覚が鋭くなる、とはよく聞くが、平衡感覚などそういったものに関しては効果がないらしい。そして、聴覚や嗅覚が敏感になっている気も、またしないのであった。

 ただ、こうなってから、だいたいの時間に関してはとても鋭敏になった。腹時計、というやつ。

 部屋のドアが開く音がした。真っ暗なまま、まなうらがぼんやりと赤くなって明るさというものの名残を感じる。それから、鼻孔をくすぐるどこかなつかしいにおい。

「起きていたの」

 鈴を転がすような可憐な声が響いて、硬いもの同士が接触した音。たぶん、テーブルのようなものに皿のようなものが置かれた。

 視界を奪われると、その他の感覚は鋭くはならないが、想像力は豊かになった。

「今日はビーフシチューにしてみたの」

 最後に見た彼女の顔は、狂気を孕んだ笑顔だった。黒いあでやかな髪の毛を揺らすときにふわりとつくりものの花のような香りをさせるあどけない少女は、愛らしい微笑みを浮かべて目をぎらぎらと輝かせ、ねえしあわせでしょう、とその椿のように赤いくちびるで言った。


 ねえしあわせでしょう、さいごにめにするのがわたしのかおで。


 なつかしい、と思ったのはたぶん、秋の夕暮れを思い出したのだ。秋が深まりかける頃、六時過ぎの住宅街はもうとっぷりと日が暮れて暗い。街灯がちらつく中家路を急ぎながら、ふとただよってくるにおいがある。周囲の家の夕飯のにおいだ。煮詰まった醤油とか、焦がされた魚とか、この家はカレーであるとか、そういったにおいの記憶が、なぜかビーフシチューのにおいで刺激された。

 昔から視覚に無頓着で、記憶は何らかの音やにおい、質感や味で覚えている。最初から視覚なんて必要なかったのかもしれなかった。見たものを記憶するというのが苦手だった。初対面ではないそう親しくない人の顔を、覚えていられなかったのに、かれらの声だけは覚えていた。

「おくちを開けて」

 おままごとの延長にも思える、そんな声色で細い指が頤に触れて開かせる。緩く顎の力を抜くと、慎重な動作で金属製のスプーンが差し込まれた。口腔内に広がる、じわりとあたたかいビーフシチューの味。こっくりと濃い中にわずかな酸味があって、これは、母親のつくるものと同じ味がする、そう思った。

「誰がつくったの?」

「わたしよ、どうして?」

 不思議そうに聞かれて、答えに窮する。二十をとうに過ぎた男が、年端もいかない少女に向かって、このシチューは母親のつくるものと同じ味がするのだ、と言うのは少し格好がつかない。今更何をと思っても、そういったものが捨てきれないでいる。彼女にすべての世話を任せるようになって、恥じらいもプライドも捨てたと思っていたのに。大きなことを許せても、小さなことに引っかかるのだ。

「……いや。なつかしい味がした」

 母親が特別料理上手だったわけではなく、同じルウを使えば当然味は似通う。そんな当たり前のことに気づいて愕然とした。母親のビーフシチューは好物のひとつだった。それをきっと、記憶ごと塗り替えられる。そんな気がして。

 この部屋にある調度品を俺は知らない。ベッドの大きさや毛布の質感くらいしか。テーブルがあってそれはどんな大きさをしているのか、壁の色は、扉は外開きか内開きか、ドアノブはバーなのか丸いのか、そしてこの部屋に灯りは存在するのか。何ひとつとして、知らないのだ。

「そう……」

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。頬を打たれた、そう気づいたのと口の内側にじわりと血の味が滲んだのは、同時だった。暗いはずの視界に、星が散る。痛い頬をかばって手で覆うこともできないまま、呼吸だけで問う。なぜ。

「そうね、なつかしいわね。でも、もう忘れて。必要のないことだから」

 噛んで含めるように幼子に言い聞かせるように猫撫で声でささやき、打った頬をひやりと指先が撫でていく。もう忘れて、必要のないことだから。

「……うん」

 記憶がひとつずつ抜け落ちていく。そしてぽっかりと空いた場所に、新しいこのうつくしい少女との記憶がはめこまれていく。母親のシチューの味を忘れ、少女のシチューの味になる。そんなことをもう幾度繰り返しただろうか。

「痛い? ごめんね? わたしの手も痛いわ」

 気遣わしげにじんじんと痛む頬を撫でながら、少女はうたうようにつぶやく。そうだ、打った彼女のてのひらも、あのやわい生まれたてのようなかわいいてのひらも痛いのだ。不用意なことを言って心配させてしまってはならない。

「だいじょうぶ、ごめん」

「謝らなくていいの。でも、少しずつ穢れた世界のことは忘れてゆかなくちゃ」

「うん」

 穢れた世界、と彼女が言う場所を、なんとなく思い浮かべてみる。そんなときにロールプレイする主役は決まって小学生の頃の自分だった。大きくなってからのことは、近しい時期なのにもうあまり思い出せない。高校時代をどう過ごしたか、大学時代にどんな女の子と付き合ったか、そしてそれから先はずっとここにいるため、穢れた世界との接触がないためにレールが途切れている。小学生の自分は、友達と外を走り回り、はやっていたポータブルゲームに熱中し、そしてとっくに過ぎた門限を公園の時計で気づき慌てて帰り道を走っている。夕飯のにおい。

 記憶がどんどん曖昧になってゆく。そしてそのうちすっかり、きっと忘れきってしまう。彼女の言う通りに、忘れてゆかなくてはならないから。

 金属のひやりとした感触と、あたたかいシチューが同時に口元に当たる。餌を待ちわびた雛のように口を開けて、それを含んだ。

 永遠にうしなわれた世界を、ときどき夢でなつかしむ。いけないことだと思っても、だんだん記憶が薄れても。


 でも、瞳で記憶したものわずかなものたちだけは、どれだけ時間が経っても塗り替えることも、曖昧にすることもできない。

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