先輩にはナイショ

 春を告げる、まだ少しだけ冷たい風が吹いた。陽だまりはたっぷりとあたたかくてぼんやりしていたら眠りに足を引きずられてしまいそうだ。ふわりと吹いた風が散った桜の花の残片を舞い上がらせた。 

 彼女はぼんやりとしている。夢をみているようなまなざしでじっと俺を見ている。

 遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、俺は立ち上がった。しゃがみこんで膝をついていたからスラックスが汚れていて、俺はそれを手で払い、桜の木の根元に座り込んでいる彼女を見ないまま背中を向けた。

 ざくざくと歩くたびに砂利の擦れる音がして、上履きだからその細かい感触も足裏に伝わる。

 そっと唇に指で触れた。乾いた自分の唇はひんやりと冷たく、触れた指が少し熱いと感じるくらいだった。とても信じられなかった。


 俺は彼女とキスをした。



 くるくるとよく表情の変わる人、と思った。笑顔でしゃべっていたかと思えばふと考えるように唇を尖らせたりして、しまいにはあたしの顔を心配そうに覗き込んで、聞いてる、と問いかける。


「聞いてる」

「そう?」


 ほんとうは聞いてなかったけれど、でも、別に覚えておかなくちゃいけなさそうな内容でもないし、きっと彼も明日にはあたしにしゃべったことを忘れているような些細な内容でありそうなことは分かる。

 それに、覚えていなくちゃいけないような内容だったとしても、別にいい。

 ふわふわのパーマがかかった自分の髪の毛の先を見つめて、触ってみる。少しだけ傷んでいて、色も抜けている。でも色が抜けてよりいっそうふわふわに見えるから、先輩は、いいと思うよと言った。

 先輩の表情の変化のほうが彼がしゃべっている内容よりもずっとおもしろいと言ったら、どんな顔をするのだろう。

 だって、しゃべる内容と言ったら授業中にクラスの男の子がおもしろいことを言ったとか、昨日見たテレビの話とか、こまごまとは覚えていないけれどそんなのばっかりなのだもの。

 もうすぐ春は終わってしまうけれど、未だに風はひんやりしている。今年は雨もあまり降らなくて風の吹かない温厚な気候が続いたから、桜の花も長持ちした。

 でも、あたしにはそんなことはどうでもよかった。桜の花がきれいだって思ったことがない。それはたぶん、ちょっとした劣等感のせい。


「なずなちゃん」


 名前を呼ばれると、なんとなくおもしろくない気持ちになってしまう。なんでママとパパは、あたしに雑草の名前なんかつけたのだろう。それも、ぺんぺん草なんていう可愛くない二つ名のあるような雑草の。

 もしかしたらなずなは雑草じゃないかもしれなくて、春の七草のひとつだから高尚なものかもしれない。でも、あんなふうにどこにでも生えていてありがたみのない草になんか、なりたくはなかった。

 桜はいいな、と思う。皆に見上げてもらえて、写真を撮ってもらえてきれいだとか言われて咲くのを今か今かと待たれて散るのを惜しまれて。あたしなんか、その桜のために皆に踏みつけられている。

 名前を呼ばれたので先輩のほうを見ると、彼ははにかんでいた。


「なんですか?」

「手をつながない?」

「……」


 差し出すと、ぎゅっと大きな手のひらに包まれる。そのたしかな温度を実感しながら、どうでもいいなあ、と思う。

 先輩と手をつなぐことも、先輩がそれを提案するのにどれくらいの勇気を使ったのだろうかとかも、どうでもいいなあと思う。

 春休みの前の委員会の帰り道、彼はあたしにそっと好意を告げた。その時の顔は真っ赤で握り締めた手は少し震えていて、ああこの人はあたしにそんなことを言うためだけに寿命を縮めているんだと思った。

 それがなんだかおかしくて、どうしてそんなに必死なのだろうと不思議で、あたしは知りたくなった。先輩が見ている世界はどんなものなのか、気になって。それで一緒にいればその世界を少しでも垣間見ることができるんだろうかと思って、頷いた。

 その時の先輩の顔と言えば、その名前にぴったりの、繊細できれいなものだった。

 そして結局、一ヶ月も一緒にいるけれど先輩の見ている世界を覗き見ることはできていない。


「なずなちゃん、土曜日暇?」

「……暇です」

「じゃあ、デートしない?」

あおい先輩、予備校は?」

「今度の土曜はないんだ」


 ふうん、と頷く。

 先輩があたしに提案することで、嫌だなと思うことはひとつもない。全てが控えめで、押しつけがましくなくて、それでいて期待を込めていて、いったい彼はあたしに何を望んでいるんだろうと思ってしまうくらい、きらびやかだ。

 そんな先輩のきれいな一面にぶつかるたびに、この人には汚い面はないのだろうかと勘ぐってしまうあたしは、たぶんあまりいい子じゃない。

 学校の最寄駅で、あたしと先輩は乗る路線が違うから別れる。土曜のこと、また連絡する、と言って先輩は駅のホームに続く階段を下りていく。その細い背中は少し頼りなくて、いまどきの男の子みたいにベルトの位置を下げたりしていないスラックスに包まれた足もきっと細くて。

 そこにほんの少し立ち止まってぼうっとしたあと、あたしは自分の乗る電車がやってくるホームへと向かう。

ぽつぽつと並んでいる人の後ろに並ぶと、背後に人の立つ気配がして、そのすぐあとに肩を叩かれた。


「……桜井さくらいくん」

「やっぱり寺岡てらおかだった」


 振り返ると、きれいな茶髪を短く切り揃えた背の高い男の子が立っていた。左耳にだけピアスの穴が開いていて、そこには銀色の十字架のようなものがある。

 イヤホンを外しながら、桜井くんがあたしの隣に並ぶ。大きな体、と思った。

 桜井くんはイヤホンのコードを指に巻きつけて小さくしながら、ちらりとあたしのほうを見る。鋭い目だ、と思う。


「先輩は?」

「向こうのホームだから」

「ああ、そうなん」


 ちらと桜井くんが向こう側のホームに目をやった。電車を待っている先輩の姿がそこにある。ホームドアのせいで上半身しか見えないけれど、たしかにいる。あたしの姿を見つけると、先輩が少し笑って手を振った。振り返すと同時に向こう側に電車が来て、先輩の姿は見えなくなった。


「いいね」

「え?」

「なんか、今の、青春っぽい」


 桜井くんの言う言葉の意味がよく分からなくて首をかしげると、彼は空気を漏らすような笑い方をした。

 じっと見る。彫刻刀で削ったような荒々しい輪郭や薄い唇や切れ長の目は、すべてが先輩と違って凛々しい。

 電車はこない。あたしは桜井くんと特に話すこともなくて、じっと立っている。ふと、桜井くんが鞄をごそごそとあさって棒付きのキャンディを取り出した。その包装フィルムを破いて口に入れるまでの一連の動作を見ていると、その視線に気づいた桜井くんが少し笑った。


「ほしい?」

「くれるの?」

「いい子してたら」

「え?」


 自分でも驚くくらいに怪訝そうな声が出た。桜井くんは、半透明のピンク色のキャンディをすっぽり咥えながら鞄を掻き回す。そして、もう一つ同じような包装の棒付きキャンディを出した。


「いい子って?」

「言ってみただけ」


 はい、と手渡されたキャンディには、プリン味と書いてある。イチゴがよかったな、と思いながらそのフィルムを剥がす。口に入れると、なんだかとても甘ったるかった。

 黙々と舐めて舌が疲れてきたころに、ホームに電車が滑り込んできてあたしの制服のスカートを揺らした。


 ◆


 学校に、猫が棲みついている。トラのような縞模様でずんぐりむっくりな、ふてぶてしい猫だ。人が近寄ると食べ物をくれるものとでも思っているのか、ふてぶてしく口を開ける。それはあくびにも見えて、つまりあたしはあんまりあの猫が好きじゃない。人を小馬鹿にしたような態度だからだ。

 中庭を歩いていると、高確率でその猫を目にする。今日も女子生徒たちがそれを取り囲んで可愛い、と言っている。

 女の子の可愛いほどあてにならないものはないと思っている。だって、今あの猫を取り囲んでいる三人のリーダー的存在の彼女は、似合わないお化粧をしているにもかかわらず、皆から今日のメイク可愛いね、とか褒められている。

 女の子の可愛いは、挨拶だ。あたしは、言われたことないけれど。そんな社交辞令を交わし合う友達なんかいないし、きっと陰で彼女たちはあたしのことを悪く言っている。

 彼女たちに、性格が悪いとか調子に乗ってるとか、そういうふうに思われても構わないしどんな噂を流されても気にしないけれど。

 ずっとそうしてきたので、女の子たちとうまくやってこれなかったので、あたしはどこか麻痺しているような気がする。彼女たちは、ほんとうに可愛いものを恐れて、作り物の可愛さに熱狂する。


「よう」


 顔を上げると、二階の窓から桜井くんが顔を出している。よう、があたしに向けられたものなのか猫を囲む彼女たちに向けられたものなのか判別できずにじっと桜井くんを見ていると、彼はほんの少し笑った。


「いい子してたら、いいモンやるよ」

「いいもの?」


 桜井くんの手から、何か小さなものが放たれて、小さな放物線を描いた。たぶんあたしの受け止め方が上手だったのではなくて桜井くんのコントロールがよかったのだ、それは落ちることなくあたしの手にしっかりとおさまった。そっと手の中を覗き込むと、キャンディの小袋があった。イチゴミルク。


「昨日、俺の見てうらやましそうな顔した」

「……」


 していない、とは絶対に言えなかったのであたしは黙る。ふと見れば、猫を囲んでいた女子生徒たちとその猫はどこかに行ってしまっていた。

 桜井くんは、あまり人のことを気にしていないようでよく見ているのだなと思う。たぶん先輩だったら、あたしがイチゴ味をうらやましがったことに気付かない。それ以前に彼ならきっと、あたしに二種類のキャンディを見せて選択をさせる。先輩の優しさは、そういうものだ。桜井くんのものとは違う。

 桜井くんをぼんやりと見つめていると、彼の背後から彼を呼ぶほかの男子の声がして、彼はあたしに軽く手を振って窓から離れていった。キャンディの小袋を開く。中から出てきたころんと角の丸い三角形のそれを、あたしはそっと口に含む。甘い味がした。


「なずなちゃん」


 突っ立ってキャンディを舐めていた。後ろから誰かが歩いてきていることには気付いていた。そして、声をかけられてその人が誰だったのかを知る。


「何食べてるの?」

「……イチゴの飴」


 先輩は、学校指定のジャージを着ている。午後の授業は体育なのだろう。柔らかい笑みを顔に乗せていて、細い髪が風になびいている。垂れ目が甘ったるい。


「もぐもぐしてる」


 先輩の指があたしの頬をくすぐった。それから、はっとしたようにその指は離れていってあたしの頬の代わりに先輩の頬を掻いた。彼はあたしに触れることに慣れないでいる。

 だけど、また手が伸びてくる。そして、今度は指ではなく手のひらがあたしの頬を包んだ。

 誰もいない中庭のすみっこ、キャンディを舐めているあたし、風にさざめく木の葉、いつの間にか戻ってきていたふてぶてしい猫、緊張した顔の先輩。

 いろんなものが混在して、そして混じり気のない空気ができた。そっと先輩があたしから離れていく。


「ごめん、いきなり」

「……」


 黙って首を横に振った。別にいきなりでも、予告をしても、することには変わりないから。


「いや、だった?」

「え?」


 心配そうな顔をする先輩にまた首を振って、ちらりと横目で校舎を見た。視線を、感じた。

 突き刺さるような力で、でも静かに、桜井くんがこちらを見ていた。さっき開いていた窓は閉まっているから、もしかしたら風が強くて閉めにやってきたのかもしれない。

 目をそらす。そして先輩をじっと見る。先輩はまだ、あたしが嫌だったのではないかと気にしていた。どうでもいいなあ、と思う。先輩が何を思っても、結局あたしにはどうしようもないことなのだ。

 目を少し伏せると中庭の花壇が目に入る。チューリップが植わっていて、その土の隙間を縫うようにちらほらとなずなが生えている。品のない草。


「なずなちゃん?」


 先輩の声に顔を上げて、あたしは少し笑ってみせた。微笑むくらいの力を口の端に込める。先輩は少し赤くなって、俺もう行くね、と言って足早に体育館のほうへ向かった。その細い背中を少しだけ見送って、再び校舎をちらと見る。

 桜井くんは、まだそこにいてあたしをじっと見つめていた。



 土曜日は意外とあっけなく終わった。待ち合わせをしてお昼ごはんを食べて、街をぶらぶらして疲れたからカフェで休憩して、その時あたしはできたてのワッフルにアイスクリームが乗ったお菓子を食べて、駅まで送ってもらって、おしまいだ。

 ワッフルはふわふわしていた。そんなことを考えながら電車に乗り込んだ。それから先輩があたしの私服を見て、想像してたとおりだ、とはにかんだのを思い出した。

 自分の姿を見下ろす。ふわふわしたホワイトのチュールスカートに、ベビーピンクの薄手のニット。想像されていたんだなあ、と思って、そしてあたしは期待に沿えたんだろうなあ、とも思う。

 先輩は手を握ったけれど、それ以上のことはしなかった。別にされたかったわけではないけれど、されてもいいやとは思っていた。味の抜けたガムみたいなしょんぼりしたホテルにさえ連れ込まれなければ、お城のような外観ならたぶんどこでもよかったし。

 でも先輩はきっとそういうことに時間をかけるタイプなのだ。女の子よりもそういうことに敏感で、もしかしたら何回デートしたら、とか付き合って何か月経ったら、とか決めているのかもしれなかった。

 先輩の私服をあたしは想像していなかったけれど、違和感がなかったということはもしかして無意識に空想していたのかもしれなかった。細身のジーンズに、青いチェックのシャツ。鶴首が目立ってすっきりとしていた。


「寺岡」


 不意に、背後から声をかけられた。振り向くと、桜井くんが手すりにも吊革にも掴まらずに立っていた。


「遊びの帰り?」

「うん」


 桜井くんに向き直るように体を回して、そっと手すりを握り直す。桜井くんも当たり前に制服ではなかったので、遊びの帰りかな、と思う。だぼだぼでもないけれど、細くもないジーンズを腰ではいて、長袖のTシャツの上に軽い素材のジャケットをはおっている。


「あ、もしかしてデートとか」

「そうだよ」


 なんでそんな、邪推しています、みたいな顔でデートと言うのかよく分からないけれど、その通りなので頷く。桜井くんがふうんと言った直後にアナウンスが車内に響いて駅に停車する。人の出入りがある。そこで、あたしは手首を握られて腕を引かれた。


「ここ空いた」


 桜井くんは、ひとつ空いたシートにあたしを座らせて、自分はその手前に立った。吊革が垂れている銀色のバーを両手で握り締めた桜井くんは、にっと笑う。あたしの身長ではあのバーには届かない。


「足」

「え?」

「靴擦れしてるだろ」


 思わず瞠目した。先輩は気付かなかったのに桜井くんが気付くなんて、変なのと思った。あたしはまったく完全にそれを隠せていると思っていたから。大した靴擦れでもなかったし、痛いと言っても先輩が傷を治せるわけではないので。

 少しだけ恨めしい。桜井くんは、粗野な外見に反してこまやかな気配りができる人だということが。

 電車は、混んでもいないし空いてもいない。立っている人はそう多くなくて、でもほぼ満席だ。またアナウンスが流れる。各駅列車なので、こまごまとしている。


「なんかさ」


 不意に桜井くんが呟いた。顔を上げると、彼はじっとあたしを見ていた。


「寺岡っぽい服着てるよな」

「……」

「あざとい感じ」


 あたしはあんまり頭がよくはなくて、あざといという言葉の意味が分からなかったけれど、あまりいい感じの単語ではないことが、桜井くんの表情で分かった。笑っているから。


「あざといって、どういう意味?」

「計算ずくってこと」


 意味を聞いても、意図が分からない。なぜならあたしは計算をした記憶がないからだ。あたしは何を計算しているのだろう。


「まあ、わざとじゃないと思うけど」


 桜井くんがポケットに手を入れた。きっと、と想像した通り、出てきた桜井くんの手にはキャンディの小袋が握られている。


「食う?」

「……桜井くんはいつも飴持ってるの?」

「まあ、大抵」


 受け取った袋には、はちみつレモンと書いてある。ぺり、と袋を破いて口に入れると、甘ったるい。レモンの酸っぱさがかけらもなくて、甘いものは好きだけれどレモンは酸っぱくあるべきで、ととりとめもないことを考えた。

 ふと見ると、桜井くんも同じキャンディを舐めていた。頬をもごもごさせながら、桜井くんは言う。


「喉が乾燥するから、よく舐めてる」


 あたしは頷いて相槌を打った。次の駅であたしは降りて、乗り換えをする。アナウンスが流れて、あたしは立ち上がる。すると、桜井くんとの距離がひどく近くなって、あたしはその時に気付く。桜井くんから、はちみつレモンの匂いがすること。

 たぶんあたしも、同じ匂いをさせている。



 昼休みに男の子たちが、少し時期が早いような気がしないでもないけれど、上半身裸になってホースの水を掛け合っていた。つめてえ、と笑いながらスラックスが濡れるのも気にしないで遊ぶ彼らの中には、桜井くんの姿もある。

 ぼんやりと窓からその光景を見ていると、遊ぶ男の子たちの一人があたしのほうに向かって手を振った。後ろを振り返るけれど誰もいないのでまた首を元の位置に戻すと、その男の子は笑って大声を張り上げた。


「寺岡さんに振ったんだよ!」


 目をしばたくと、男の子たちが皆あたしを見ていることに気が付いた。桜井くんも。

 仕方がないので手を振ってにこりと笑いかけると、彼らは一斉に手を大きく振った。


「風邪、引くよ」


 そう言うと、彼らは自分が持っているホースをちらりと見てますますおもしろそうに水の勢いを強くした。男の子たちは、天邪鬼な子供だった。

 あたしが窓から離れて教室のほうに向き直ると、女の子たちの好意的じゃない視線がなんとなく絡みつくのが分かった。ホースで遊んでいた桜井くんやその友達は、女の子たちにわりと人気のあるグループで、あたしは彼らとクラスが一緒になったことはないのによく挨拶をされる。そうやって、人当たりがいいから人気があるのだろうと思う。

 自分たちだって挨拶をされるくせに、女の子たちはあたしが彼らに挨拶をされると途端におもしろくなさそうな顔をする。

 今更気にしたりはしないけれど、あたしはそんな時なぜか彼女たちを不幸に思う。

 窓の外からは、まだ男の子たちが騒ぎ立てる声がさざめいている。そこへ、駆けつけてきたのだろう教師の怒鳴り声がして、彼らの騒いだ声が遠ざかった。たぶん、教師が来たから地面に放り出していたシャツを拾い上げて逃げていったのだ。彼らにとってはきっと、そうやって教師に怒られることすら楽しいのだ。

 そのまま教室を出る。入口に固まっていた女の子たちの横を通り過ぎる時にちらりと見ると、あからさまに目をそらされた。そらすなら、最初から見なければいいのに。

 どこに行こうというあてがあるわけではないけれど、なんとなく校舎をうろうろする。そのまま昇降口から外に出る。水飲み場には、もう男の子たちはいなかったし教師もいなかった。中庭を通って体育館の横にある園芸部の活動場所らしい空き地に出る。

 中庭よりも花壇がたくさんあって、色とりどりの花が咲いている。その一番奥まった場所にどっしりと桜の木が植わっていて、その下には散った桜の花弁が落ちていた。

 桜の木に近づいて気付く。たくさんのなずなが花を咲かせている。あたしはそれを踏みつけて桜の木の根元に座り込んだ。葉桜から透ける日の光が目に優しい。うっかりすると、ここで寝てしまいそうになる。そんなふうに思うくらい、柔らかな光だった。

 目を閉じるといろんな感覚が鋭敏になる気がした。さわさわと吹く風が運ぶむせ返るような緑の匂いや、背中に当たるごつごつとした桜の幹の感触、そしてざくざくという誰かがこちらに向かってくる足音。ふっと目を開ける。


「何してんの」

「ひなたぼっこ」


 シャツは着ていて、でも髪の毛は濡れたままの桜井くんは、スラックスの裾を何度か折り返してくるぶしを見せている。暑くなるとこぞって男の子たちがそうするように、桜井くんもそうしている。

 桜井くんが近づいてきて、その大きな足がなずなを踏みにじる。暗いよろこびが胸を覆った。

 そして、彼はしゃがみこんであたしの表情を覗き込んでくる。


「なんか、元気ない?」

「別に」


 ぽたんと桜井くんの髪の毛から落ちた雫が、あたしのスカートに染みをつくった。スカートの布地を伝って、ほんのりと太腿が冷たくなる。

 ざあっと風が吹いて桜の枝が揺れた。強い風だった。思わず目を閉じた。

 それは、一瞬のことだったのだ。

 そして昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、桜井くんがすっと体を引いて立ち上がる。膝についた砂ぼこりや花弁のかけらを手で払い落とした彼は、あたしのほうを見ずに背を向けて歩いていってしまう。

 あたしはしばらくそこでぼんやりして、唇に指で触れた。乾いていた。

 木漏れ日に照らされる、あたしと桜井くんが踏みにじったなずなは、しんなりとしていて茎がどす黒く変色している部分があった。白い花も、潰されている。

 折れたなずなを一本手に取って、あたしはそっと微笑んだ。

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干物男 宮崎笑子 @castone

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