花火
となりの席では、OLっぽい四人組が楽しそうにわいわいと話しているし、前の席ではおっさん二人がほがらかに笑って鉄板の上のお好み焼きをつついている。
四日前、俺は三年付き合っていた彼女にフラれた。
お互い違う大学に入って、時間のすれ違いとかで会えてなくて、いつのまにか、彼女が入っているサークルだか部活だかの男に寝取られていた。
事実を知っても彼女を怒る気にもなれなかったのは、まだ、現実感がわかないせいだと思う。だから、俺はこうして
ほんとうは飲んで全部忘れたかったんだけど、あいにく俺は未成年で、しかも新野に至ってはまだ高校生なので、当然最近規制が厳しい居酒屋なんかに入れるわけもなく。
「先輩、これ美味しいですよ」
「……うん」
「ソース、私の分だけかけますね」
「うん」
「先輩はそのまま食べたいんですよね」
「うん」
普段物静かな新野が、俺のことを慰めようと無理して明るい声を出しているのが丸分かりで、なんだか逆に申し訳なくなる。
童顔のその大きな瞳がちらちらと俺の様子をうかがっている。ああ、俺参ってんな、と思う。
「新野、俺の分食っていいよ」
「えっでも」
「なんか食う気分じゃない」
「あ……すみません、無理にこんなところに連れてきてしまって」
「あー……」
三年間、高校生活を象徴する恋人だった。高校のころ経験したキラキラした何かとか、どろどろしたあれこれとか、そういうのが全部、彼女と一緒にあって、そう簡単に捨て切れるような思いじゃないんだ。
大好きだったし、それなりに愛してた。
四日前の冷たい彼女の声が、まだ全然リアルに頭の中で反響していて、正直あまり眠れてないし、おとといなんか、目は真っ赤に腫れていた。
「……先輩」
「何」
「これ、食べたら出ましょうか」
「うん」
「花火とか、ちょっと季節外れだけど、やりません? たぶんホームセンターで今激安」
「うん……」
「今日は、先輩を慰める会なので、会費は全部私持ちです」
「え」
いや、それは男としてなんか駄目だろ。
「そういうわけには……」
慌てて言葉を入れると、新野は目を細めて笑った。
「バイト代入ったばっかりだし、受験生は遊べないからお金、使わないんですよ?」
貧乏学生の先輩と一緒にしないでください、と言われ、返す言葉をなくす。
もちろん、新野が俺を蔑んだりそういう意図でそう言ったわけじゃないのはすぐに分かって、なんだか気を遣わせてしまったな、と思う。
お好み焼き屋を出て、近所のホームセンターで、新野が言った通り激安で売られていた花火の袋を買う。二人だから、小さめの。
新野は、吹奏楽部の後輩だった。あまり人数が多くなく、吹奏楽部って言うと大所帯なイメージがあるけど実際は廃部寸前で、と言うか新野の代では彼女しか入ってこなかったため、もう次の年からは新入部員を取らない、事実上の廃部が決まっていた。
当然コンクールにも出れないし、顧問も不真面目で、でも新野は楽しそうに、自前のコルネットを吹いて笑っていた。時々、音楽室のピアノも弾いた。
「朝夕はすっかり寒くなりましたねえ」
「うん」
誰もいない夜の公園で、俺と新野はしゃがみこんで花火に火をつけていた。
「わっ、すごい」
「……」
「実は私、今年初花火です」
「え?」
「夏は、皆なんだかんだ忙しくて集まれなくて」
そうだよな。こいつらの代は、今年受験だもんな。
しゅば、と勢いよく火花が散るんだけど、新野も俺も、はしゃいだりしないでじいっとそれを見てた。
吹奏楽部の俺たちの代には、彼女がいた。三年間、俺と彼女は音楽室で楽器を演奏していた。だからだろうか、余計に、高校時代の思い出には彼女が色濃い。
「ああ、もうなくなっちゃった」
新野が声を上げる。その手元を見ると、そこにはもう線香花火しか残っていなかった。
百円のライターで、線香花火の先端に火をつけて、新野と一緒にしゃがみこんで見守る。
「あっ」
「……」
「ああっ」
「……」
「セーフ……」
「……新野、うるさい」
ふは、と思わず笑ってしまって、その拍子にぽとっと落ちる。新野がそれを笑った瞬間、彼女の線香花火も風に吹かれて落ちる。
「あ……」
「人のことを笑うからだ」
「先に笑ったのは先輩なんですけど」
新野が軽く俺の肩を押す。二人で、大笑いってわけじゃないけど軽く笑ったあとで、無性に泣きたくなった。
冷たい秋の風が吹いて、線香花火が落ちて、遠くの街灯しか明かりがない暗い公園で、新野と二人で。
新野とこうしている理由が、フラれたからだって、風が服の隙間から肌に沁み込むみたいに分かってしまって、どうしようもなくなってしまう。
しゃがみこんだ体勢のまま腕に顔をうずめると、新野の心配そうな声が降ってきた。
「先輩……?」
「……」
「泣いてるの?」
「……泣いてない」
鼻声だった。そんなの、発した自分が一番分かってる。
ふと、肩に温かいものが触れた。
「……?」
「あの」
「……」
ちょっと顔を上げると、新野の頭が俺の肩に乗っていた。甘えるみたいなそのしぐさで、新野はとんでもないことを言う。
「今日は、先輩を慰める会なので」
「……」
「慰めてあげましょうか」
「……」
今発せられた「慰める」が、それなりに性的な意味で使われているのくらい、俺にも分かった。
新野って、そんなこと平気で言えちゃうような奴だったっけ、と思う。
思い出そうとしても、新野の顔が思い浮かばなかった。新野はいつも、どんな顔で俺を見たっけ?
新野の呼吸は静かで、言葉の響きはとても軽くて、まるでそんなことくらいなんでもない、みたいな感じだった。
「や……やめろよ、変な冗談」
「冗談じゃないですよ」
「……」
「先輩、今一人暮らしでしたよね?」
俺の両親は、大阪にいる。俺の大学進学と一緒に父親の転勤が決まって、俺は狭いアパートでの一人暮らしを余儀なくされているのだ。
でもだからと言って、それがそうなる理由にはならない。
「先輩は、今日ひとつも、弱音を吐かないので」
「……」
「お酒の力を借りようかと思ってます」
「は」
「コンビニ行きますか?」
新野が立ち上がる。そのまま花火の後片付けを始めた新野に、もしかして俺の自意識過剰だったのか、と思う。
すっかり片づけてしまった新野は、にっこり笑って、行きましょう、と言う。
ふらふら立ち上がって、俺は新野についていく。深夜のコンビニのレジバイトは、暇そうだった。
新野は迷うことなくチューハイやビールの缶をかごに放り込み、おつまみらしきものも突っ込んで、レジに向かった。年齢確認されたらアウトじゃん、と思っていたけど、バイトは眠くてそんなことまで頭が回らなかったらしく、童顔な新野が確認ボタンを押すのを何も咎めなかった。大丈夫かこいつ。
帰り道、俺はコンビニの袋を提げて、少し前を歩く新野をぼんやりと見た。
しゃんと通った背筋に、細い肩。ふわっとしたゆるいウェーブを描くこげ茶色の髪の毛がカラーもパーマもしていない地毛なのは知っている。
でも、こんな新野は知らない。
「先輩のおうち、ここですか?」
「あ、うん」
「思ってたよりきれいですね」
「失礼なこと言うな」
少し笑って、普通にドアを開けて新野を中に入れる。通してしまってから、入れてよかったのか、と少しだけ思うけど。
部屋の電気をつけて、狭い、靴やら傘やらで足の踏み場のない玄関に二人で立つ。
新野は、ベッドの横にあるローテーブルに買った酒とかを並べて俺を待っていた。それを見て、ああ、もしかして飲むだけなのか、と変な安堵感と、ほんの少し残念な気持ちがわき上がる。
「先輩、飲めますか?」
「一応ね」
ぷしっとプルタブを起こしてぐいっといくと、新野は目を細めて笑い、さきいかを口にした。
おつまみばかり口にしている新野に、酒、飲めないのかな……と思いながらも、そのまま俺は延々と飲み続け、程よく酔っ払ってきた辺りで俺はぽつりと言った。
「……ほんとに好きだったんだ」
「……」
「三年だぜ? それが一瞬でなかったことになるんだぜ?」
「……」
はあ、とため息をついて顔を手で覆う。
「別に遠距離でもなかったのに、会えなくてさみしくなって、ほかの男とって……意味分かんねぇ」
「……先輩」
「……所詮その程度の気持ちだったんかな」
「先輩」
新野が、そっと俺に手を伸ばしてきた。
「慰めてあげましょうか」
「……」
あくまでも、軽い口調で、なんでもない風を装っていたけど、俺は気づいた。
俺の頬に触れた新野の指が、小刻みに震えていたことに。
「……馬鹿じゃねーの」
「さみしいなら、私を使ってもいいですよ」
「……」
「ずっと、好きでした」
瞠目する。
ずっと? ずっとっていつから?
新野が、俺のことを好きだったなんて、そんなの、想像もしていなかった。だって、新野が入部してきたとき俺はすでに彼女と付き合っていて、でも新野は昔から俺のいい相談相手で、プレゼントとかデートプランとか、彼女とケンカしたりしたときは必ず、女心とやらを相談していて。
「ずっと、好きだったから。先輩は、私に何してもいいし、私は何されてもいいんですよ」
新野は、いつもどんな顔で俺の話を聞いてた?
もうすぐあいつの誕生日なんだけど、今年はやっぱ指輪とかがいいのかな?
記念日デートっていつもと違うほうがいいよな?
なんか怒らせたっぽいんだけど、何が悪かったんだろ?
新野は、いつもどんな顔で俺の話を聞いてた?
先輩は、先輩のままでいいんですよ。
「馬鹿か」
「馬鹿ですよ」
「そういうのは、俺がこういう状況じゃないときに……言えよ」
「こういうときじゃないと、言えるものじゃないでしょ」
ああ、そっか。
新野は、俺の知らないところで、ずっと泣いてたんだ。
今にも泣き出しそうな顔をして笑う新野に、胸がぎゅっと締めつけられる。俺が能天気に彼女のことを話すたびに、彼女に触れたりするたびに、新野はずっと泣いてたんだ。
震える新野の指に触れて、手首を軽く握る。俺の指が一周してまだ有り余る、細い手首は、ほんのりと冷たくて、どこか温かかった。
「俺、今かなり傷心だよ」
「……知ってますよ。ずっと見てたから」
「たぶん新野にひどいことするよ」
「いいんですよ」
ずっと見てたから。
どんな気持ちでその言葉を、どんな表情でその言葉を、言うんだろう。
酒を入れすぎたのか頭がふわふわして、新野の顔がよく見えない。ぼやける。
そっと、新野のもう片方の手が伸びてきて、俺の頬をぐいっと拭った。やっぱり、震えてる。
違うだろ、泣いていいのは、新野のほうだよ。
それでも俺は、鼻をすすって、新野の頬に触れた。
◆
早朝、目が覚める。ベッドの横の窓から、日の光がうっすら差し込んでいる。
新野は俺のとなりでどっぷりと眠っていた。泥みたいに、死んだみたいに、ぐずぐずで眠っていた。
あんなことを言うくらいだから、緊張はするんだろうけど経験はあるのかな、と思っていたけど。新野は初めてだった。
馬鹿じゃないのか、と思う。女にとって初めてっていうのは、本当に好きな奴と、心を通わせて、とびきりロマンチックな、とか、いろいろ理想とかあるんだろ。間違っても、駄目な先輩の傷心を慰めるために消費するものじゃない。
でも、俺は利用した。
「……ごめんな」
罪悪感しか、わかない。
こんなことになってもまだ彼女のことが好きだし、新野の気持ちにはたぶん応えてあげられないし、そんな自分に腹が立つ。
ふと、新野が身じろぎして寝返りを打った。光に照らされて、頬にまつげの影ができる。途端に、苦しくなる。
何をしてるんだろう、俺は。
何度も何度も、新野は俺の頬に触れた。泣かないで、と声に出さずに伝えてきた。だから、泣いていいのは新野だよ、と返すつもりで、俺も頬に触れた。
白い首筋から肩にかけてのラインが、なんだかやけに子供っぽい。骨っぽくて、少しなで肩だ。
のそりと起き上がり、新野の寝顔をじっと見つめる。どんなつもりで、俺に揺られていたんだろう。
軽く開いた唇に指をかけてみる。何度もキスをしたその小さい唇は、少しだけ乾いている。
馬鹿だよ、慰めるなんて。こんなどうしようもない俺のことを好きだなんて、馬鹿だよ。なあ、新野、お前可愛いんだから、好きだって言ってくる男もいるだろ。お前のこと幸せにできる奴は、世界にいっぱいいるだろ。
新野の寝顔が、ぼやける。だから、泣いていいのは俺じゃないんだって。
「……せんぱい?」
新野がふっと目を開けた。それから少しぼうっとして、俺の顔に視線の照準を合わせる。それから、困ったように笑った。
「また泣いてる」
「ごめ……」
どうしようもなく自分が情けなくて、未練たらたらなのがみっともなくて、それで、新野にすがった自分が一番格好悪くて、どうしようもない。
それでも新野は笑うんだ。俺のために、笑う。
その笑顔をつくるのに、どれだけたくさんの悲しいを押し潰しているのか、と思う。
だけど俺はその悲しいに応えられないし、新野をそういう風にしか笑わせることができない。そんな自分に、吐き気すらする。なのに新野は俺を好きだって言うんだ。
そっと新野の指が、俺の頬に触れる。
「泣かないで」
新野の指は、声は、やっぱりどこか、震えていた。
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