干物男

宮崎笑子

干物男

 どう頑張っても、敗北しかないのである。


 じりじりと、いっそ凍るんではないかと思うほどの灼熱が俺の首筋を焼いている。人間、暑さも寒さもどうせ同じところで感じるんだろう! 知らんけどな!

 本日の最高気温は三十八度、平熱を越えているどころか学校や会社を休んでもいい案件の温度である。そんな中なぜ俺はこのアスファルトという人が人を焼くために作ったとしか思えないような鉄板みたいなものの上を延々と歩いているかというとつまりこういうことだ。

「カノンがダウンしたので今日は冷房が入れられないわ」

 カノンというのは、我が家の電気系統システムを統率している元締めのようなAIだ。カノンが、部屋の温度を適切に管理して、グリルやオーブンの火加減を調節し、面白そうなテレビがあれば紹介してくれて、風呂を入れて、エトセトラエトセトラ。我々の生活と電気は、切っても切れない仲にあるのだ。

 そんなカノンがダウンしたとなれば、我が家は崩壊の一途をたどるほかない。すべて、目覚めのアラームから携帯の充電までカノンに頼りきりなのだから。

 異変は、この土曜という大事な休日の朝にはじまった。アラームなんぞ休日なのでもちろんかけていないのに、寝苦しくてぐだぐだベッドの中でだらだらしていられずにとうとう起き出したのが午前九時。冷房が切れていることに気付いたのがその直後。同じく寝苦しく寝床から抜け出してきた母がハローカノンと天井に向かって呼びかけるも応答なし。そこでカノンが設置されているリビングに向かうと、マッシュルーム型の間接照明みたいなナリをしたカノンはいつものように静かにそこに佇み、マッシュルームの根元にある黒いパネルがエラー503の赤い文字を映し出していた。

 そして、管理会社に連絡して母が言い放ったのが、先の死刑宣告にも似たそれである。

 かくして俺は今、蒸し風呂のようになっている我が家をほうほうの体で抜け出して、鉄板……おや間違えた、アスファルトの上を太陽の恵みを存分に受けながら歩いているのである。

 目的地は近所のスーパーだ。あそこならきっと冷房が効いている上になんか美味い飲み物も売っているに違いない。ただし近所と言えども徒歩二十分。ニ十分もこんな鉄板の上……失礼、。アスファルトの上を歩き続けたらどうなるか。もう上からは容赦ない太陽光、そして下からこみ上げますはむわりと湿った蒸気のように放出されているこのどうとも形容しがたい放射熱。

 お分かりいただけるだろうか、俺はたかだか徒歩二十分のスーパーにたどり着くまでに、アジの干物になってしまいそうなのである。これは比喩でもなんでもない。俺は今干物になりつつある。

 頭の先がふんわりと尖りだす。背骨からはひらりと鰭が躍り出て、頬のあたりで呼吸をはじめた。もはやこうなってしまっては肺呼吸をしている意味はない。口をぱくぱくさせながらもつれそうになる足を必死でスーパーの方角に向けるが、これでは俺がアジの干物になるのが先か、スーパーに着いて間一髪人間の姿を取り戻すが先か……。

 足は徐々に徐々に順調に、魚の尻尾になりつつある。もはやこうなってしまっては歩くのさえも困難だ。しかし俺は歩かねばならない。こんなところでくたばってしまえば、次に雨が降って水分を含むまで人間に戻れない。そして天気予報では次の雨は一週間後。さてさてその一週間のうちに何があるか! そう! 夏の聖戦、コミケである!

 コミケに行かないなんてありえない、皆が、俺が新刊を手にして喜び勇んで帰途につく姿を見るのを心待ちにしている!

 だから俺がここでアジの干物なんぞになるわけにはいかないのである。俺は何が何でもスーパーに着いて涼まなければならない。ああ、すぐそこに見える、見えるぞ赤い鳩の看板が……勝利は近い……。


 三分後……。

 間一髪でアジの干物化を回避した俺は、ラムネをがっついていた。

 身体の管を通る小気味よい炭酸の喉越し、舌の上で弾ける爽やかな甘み、ああ、生きてスーパーにたどり着けてよかった!

 ほくほくしながら、余裕の顔つきで昨夜充電しておいた携帯を見ると、母からの連絡あり。

「カノン直ったから帰っておいで、お昼ご飯そうめんだよ」

 さあと血の気が引いた。

 この炎天下を今再び舞い戻れと申すのか。そして、スーパーから家までの道のりは上り坂である。

 どう歩けば無事に家までアジの干物にならずに帰っていけよう。気温は今もなお上昇中だというのに。

 先ほどよりも高い場所にある太陽をスーパーのガラス戸の内側から睨みつける。


 どう頑張っても、敗北しかないのである。

 俺は聖戦を諦めて、空のラムネのペットボトルをぐしゃりと握りしめた。

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