これっぽちの勇気が足りない
雨がちらついている。コートにまとわりつくように降る霧雨が、行き交う人の吐く白い息と入り混じって、その混雑をよりいっそうぼんやりとさせてわたしひとりだけが浮いているかのような錯覚に陥る。人々の顔はすりガラス越しに見るように分かりづらくて、なんだかまるで、異界の地に降り立ってしまったかのようだ。
予報では雨なんて一言も言っていなかったような気がする。朝のお天気お姉さんの、「今夜はイルミネーションがきれいに見られそうです」、なんていう言葉を信じたわたしがばかだったのだ。イルミネーションなんか、どんなに天気がよくて空気が澄んでいても、ひとりで見たって面白くもなんともないのに。
イルミネーション、親友に、見に行こうよって言ったら断られた。だからひとりで来てるけれど、周りはカップルや家族連ればっかりで、ひとりなのなんて、本格的な三脚を持ち出してカメラを構えているおじさんくらいで。ランドマークタワーとコスモクロックの奏でる夜景を横目に、わたしは、携帯のカメラで記念撮影する気も起きなくて早々に立ち去ろうとしていた。
なんでわたしこんなところ来ちゃったんだろう。
予報違いの霧雨のせいで心の奥底から震えるほど寒いし、そのせいでライトアップは少し滲んで見えるし、明日はクリスマスなもんだからイルミネーションも最高潮で人だらけだし。
イヴにひとりで桜木町とか、マジ、どんだけ。
だいたい、みなとみらいの夜景は最高だって誰かが言うんだけれど、これだけはほんとうに言ってやりたい。
ランドマークタワーが満開の輝きを放っているの、広告の写真以外で見たことない。電気がついている窓とそうでない窓がまばらで、全然きれいじゃない。
コレットマーレの前の広場でしばらく夜景をぼうっと眺めて、赤レンガ倉庫のほうまで行ったらけっこういいものが見られるかも、と思ったけれどそんな気力はもちろんなくて。タイツに包まれた足を掻くと、そこにも霧雨がまとわりついていたらしく、指先が濡れる。せめてスタバでなにか温まるものでも、と思い大枚をはたく決意をして踵を返す。
「……ミホ」
声にもならずに溶けて消えた吐息が、誰かに拾われることはなかった。ミホ本人にも。
JR桜木町の北改札の前に立っているその後ろ姿は、絶対に間違うことのない親友の姿だった。茶色く染めた背中まで伸びた髪の毛の毛先だけ赤くしていて、お洒落な鞄を持って、制服のスカートから伸びるすらりとした足を包んでいるのはタイツじゃなくて短いソックスだ。
人混みの中でもひときわ存在感を放つその子に、いつも朝おはようって言うみたいに話しかけようとして、思いとどまった。彼女はわたしの誘いを断ったのにここにいるんだぞ? 頭の中で、そう誰かが囁いたのだ。それはあまりにもリアルな声色で、一瞬わたしは辺りを見回してしまう。でも誰も、わたしに注意を払っている人なんかいない。相変わらず人の顔はモザイクがかかっているような不透明度でわたしの視界に入ってくる。
声をかけようとして思いとどまったわたしの目に、不意にとある人物が映る。彼女のもとに駆けてくる男の子だ。
「ねえ、ユカリは好きな人いないの」
「……そうだなあ、あ、坂口先輩とか、かっこいいと思う」
ミホに好きな人のことを聞かれたときに、わたしはとっさにこう答えていた。好きな人を答えられないのは、まずいと思ったから適当に挙げた名前だ。もちろん、かっこいいとは思うけれど、それは好きでもなんでもない。
けれどわたしの本心はどうあれ、ミホに彼をかっこいいと言ったことは事実だ。なのになんで。
ふたりがこちらに向かって歩いてきて、わたしは慌てて自分もふたりの進行方向を同じほう、つまり今まで歩いていたほうを向いて、歩きだす。
ミホの行為は明らかな裏切りだ。わたしがかっこいい、気になっている、そんなそぶりを見せた人と、イヴにこんなところに来ている。
でも、心のどこかでほっとしていた。ミホの甘ったるい視線に、優しく丁寧に触れる手に、ユカリと呼ぶ切なく淡い声に、わたしは応えることができないのだから。
ミホのそんな好意をうれしいともちろん感じるけれど、どこか怖いとも思っていた。その視線を絡ませたら、手を握り返したら、ミホと同じトーンで呼び返したら、戻れない気がしていたから。
スタバの予定を急遽、取りやめた。のろのろ歩いて、ミホと坂口先輩の背中を見送って、雑踏に紛れる。ああよかった、こんなに人がたくさんいて、気づかれなくて、よかった。
コートのポケットに入れた手は、信じられないくらい強く固く握りしめられていて、それに気づいたのは、パレタスでアイスを買うために財布を取り出すときだった。なんでわたし、こんなに動揺しているの。
ケーキのスポンジとかフルーツとかが入っているアイスバーを齧りながらもう一度ランドマークタワーを見上げる。
霧雨はいつの間にか止んでいて、いびつな光を放つランドマークタワーは、なのにじんわりと滲んでいた。
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