マカロンとホットチョコレート
赤坂 パトリシア
マカロンとホットチョコレート
「マドモアゼル・モンクレーヌがお越しです」
執事の知らせに、ギャレット・スターウェルは首を傾げた。
「はて」
モンクレーヌ嬢とは何度か会ったことがある。透けるように白い肌と華奢な体格とは裏腹に、しっかりとした水色の目が印象的な——16歳の少女だ。
初めての出会いはそう前ではないはずだが、記憶にはない。それはおそらくその後に、ずっと印象的な出会いがあったからだろう。
いつだったか、公園の木によじ登っているのを見たことがある。落とした帽子を池から拾ってやれば、幼さの残る目元をくしゃくしゃにして、それはそれは嬉しそうに「
田舎からパリに来たばかりだと言うのはその後知った。
なかなかやり手の実業家の父を持ち、そして——ひそひそ声で語られる言葉を
ギャレットは軽く息を吐く。少女は好ましく記憶していたが、その父親も兄達も、あまり付き合いたい人種ではなかった。
「お父上か、兄上と一緒かな」
みなさんを客間にお通しして、と指示を出そうとすると、執事が首を横に振る。
「お一人でお越しです——いかがいたしましょうか。歩いていらしたようですので、今は小さな客室でお待ちいただいていますが」
「一人で——歩いて?」
自分の耳が信じられずギャレットは思わず執事のセリフを繰り返した。自分より30も年下の、うら若い良家の娘が、わざわざ供も連れず、パリの雑踏を歩いて来たというのか。そもそも彼女が異邦人である自分を訪ねてくる理由など全く思いつかない。
「——メインの客間にお通ししてくれ。すぐ行く」
異国の風習には戸惑うことも多々あったが、これだけはイングランドとフランスの間に大した違いはないはずだ。未婚の良家の娘が、親と子ほどの歳の差があるとはいえ、寡夫の——すなわち独身男性の——家を一人で訪ねるなど一歩間違えばスキャンダルだということに。
田舎でのびのび育ったという噂の少女だったが、それでも、その程度の常識を知らないとは思えなかった。普段は温厚で慌てることのない男だったが、さすがに眉を寄せて、ギャレットは再び首を傾げる。
ジュヌヴィエーヴ・モンクレーヌは光の
美しい少女だ。
一瞬言葉もなく、ギャレットは見惚れる。
「マドモワゼル……?」
声をかけると少女はビクッと肩を震わせ、それからギャレットの顔に視線を合わせてぎこちない微笑を浮かべた。
「ムッシュ・スターウェル」
立ち上がり、軽く膝を曲げてお辞儀をする。優雅な仕草だった。
ただ、頬は紅潮しており、興奮しているのは明らかだった。
それから少女は潤んだ目でギャレットを見上げると非常な早口で何かを言った。
「え……」
ギャレットは戸惑って少女を見下ろす。
子供の頃から叩き込まれたとはいえ、フランス語は母語ではない。今、耳にした言葉はおそらく何かの間違いなのだろうと思ったのだ。
そんなギャレットの表情をじれったそうに見つめていたジュヌヴィエーヴは、突然言語を英語に切り替えた。
あちらこちらにフランス語のなまりの残った舌ったらずの英語は、しかし——さすがにそこは母語だけあって——ギャレットの脳を直撃した。
「ムッシュ・スターウェル。私と寝てくださる? 私の処女をあなたにあげる」
こよなく愛したはずの女性が――いざ妻にしてみれば、想像もつかないほど金遣いがあらく、借金をこしらえた挙句の果に、自分より若い男性と駆け落ちをする、という散々な形でギャレットの結婚が終わってから20年以上の時がたつ。
そこそこに地位も財産もあるギャレットには再婚の話もあったし、50歳が実感として近寄ってきた今でも秋波を送ってくる女性はそれなりにいた。
友人たちに言わせれば自分は「大きな図体をして実直一辺倒の朴念仁」であって、秋波を送ってくる女性の数は「それなりに」どころの数ではないというのだが、それはさすがに
何よりも最初の結婚の失敗は彼を臆病にしていた。少なくとも「この人を癒やしてあげたい」と言いたげな視線を寄せてくる女性たちに、礼儀正しく、しかしはっきりとした一線を引くくらいには。
それにしても。
ギャレットはいつの間にか小さな両手で自分の袖口をぎゅっと握りしめている少女を大いなる困惑を込めて見下ろした。
調子が狂う。
こういうのは恋のお誘いとは言わない。——子守り、と言う。
「うむ」
何と言っていいのかわからずに思わず口ごもったギャレットだったが、思いつめた表情の少女を見下ろしているうちにやがて何だかおかしくなってしまい、小さく笑いをこぼした。自分が言っている言葉の半分も意味がわかっていないに違いないのだ。この少女は。
「まあ、落ち着いて、マドモアゼル」
そっと肩に手を添えて
「あなたは、もう少しご自分を大切になさった方がいい。すべての男性がこういったからかいに紳士的に対応するとは限らないのだよ」
「からかってなんか、いません。いたって本気です」
ジュヌヴィエーヴは怒ったように紅潮した頬のまま、ギャレットを見据えた。
「それならば」
ギャレットは息を吸うと静かに言う。
「残念ながら期待に応えることはできない。あなたは非常に魅力的なお嬢さんだが、30も年下のご婦人とそのようなことに及ぶ趣味はあいにくないのでね」
ギャレットのセリフを聞くとジュヌヴィエーヴは蒼白になった。
「そう……」
沈黙。
やがて彼女は大きく肩で息をすると「ひどい気分だわ」とうめいた。
「——すまない」
「どうしてあなたが謝るの。……あなたの身体はあなたのものだし、あなたの情熱もあなたのものだわ、ムッシュ」
ジュヌヴィエーヴは生真面目な口調で結論づける。
「私にはあなたにお誘いをかけることはできるけれど、強制をすることはできないわ。——違っていて?」
「……」
ギャレットは無言で頷く。違わない。いたって正しい。
ただ、今までの言動から直情的に見えたこの少女の、形の良い唇からそんな言葉が流れ出てきたのが意外だった。
少女は半ば自分に話しかけるかのように左手首をさすりながら言葉を続ける。
「問題は、私の身体と、私の情熱が、私のものではないということだわ」
その左手首に、赤い手跡を見つけて、年かさの紳士は、ふと自分が置かれている事態への見方を変える。
——明らかに手荒に扱われた痕跡だった。誰かが、何か、この少女に無理強いをしようとしたのだろうか。
「……少し、落ち着いた方がいい。——ホットチョコレートでもどうかね」
「あまりにもみじめで、ショコラなんて喉を通らないわ」
「……」
ギャレットは少女のドラマチックな反応に軽く肩をすくめる。
「マドモアゼル。あなたには二つ選択肢がある。ホットチョコレートを飲みながら気分を落ち着かせて私に状況を説明するのか、ホットチョコレートなしで気分を落ち着かせて私に状況を説明するのか、だよ」
「三つ目の選択肢っていうのはどうかしら? あなたが突然私への情熱につき動かれて、私を主寝室へ連れて行ってくれるの」
拒絶に負けず果敢にジュヌヴィエーヴは言葉を継いだが、ギャレットのたしなめるような穏やかな視線に途中で口をつぐみ——真っ赤になって俯いた。
「……ショコラ、お願いするわ」
「それだけで良いのかね?」
水でも? と言おうとすると、少女は顔を真っ赤にしたまま「あの……」と、口を開いた。
「マカロンも、つけてくださる?」
子供じみたリクエストに、ギャレットは思わず微笑む。
「
穏やかにそう言って立ち上がるとジュヌヴィエーヴは泣きそうな顔をして「嘘ばっかり」と小さな声で呟いた。
自分が引き取られたのは、政略結婚の駒にされるためなのだ、とジュヌヴィエーヴは説明した。プロヴァンスに帰りたいわ! 私はお嬢様になんてならなくてよかったの! パリなんてもう飽き飽き。
今日は「婚約者」のエスコートで散歩に出たのだけれど……
「それでその左手かね」
ギャレットは呆れて尋ねる。仮にもエスコートしているご婦人に——しかもこんなに若い淑女に——無体をはたらくとは。
「お父上に話しておこうか」
少なくともやんわりと忠告をしておけば結婚まではそんなことも起きないだろうと考えて口を開くと、ジュヌヴィエーヴは肩をすくめた。
「本当に心配しているんだったら、そもそも付き添いもつけずにあんな男と二人で街になんて行かせないわ」
——それはそうなのだった。
「いいのよ。それに、逃げたから」
「手首を
跡が残るほどだ。よほど痛かっただろう。
「蹴ったら外れたわ」
蹴ったって、どこを? と思わず聞きそうになって、ギャレットはわずかに目を泳がせた。なぜかはわからないが、聞かない方が良いような気がする。
あたかも小さな音がしそうな正確さで、少女はマカロンをほんのひとかけらかじる。
「……おいしい」
「……それは良かった」
「この縁談は破談にしてみせる」
思いつめたような表情で少女は宣言する。
勇ましいお嬢さんだ。
「私の体も、私の情熱も、私のものよ」
そして、少女の視線はまっすぐにギャレットを射抜く。
そして、わたしはわたしのあげたいひとに、それをあげるの。
「……落ち着いたのなら、家までお送りしよう」
男は立ち上がり、左手を淑女へ差し出した。
「疲れた」
執事にブランデーを手渡されて、ほろりと本音が出た。
あの後、ジュヌヴィエーヴを自宅まで送り届けたのだが、予想通り、説明には細心の注意が必要で——むっつりと機嫌の悪い少女をそれに輪をかけて機嫌の悪い長兄に引き渡した後は胸が騒いだ。ひどい叱られ方をしなければいいのだが。
「つむじ風のような子だったな。……そう思わないか?」
忠実な執事は、主人の問いかけに首肯する。
「でも、まだ子供だ。お菓子につられるくらいの」
ふふと笑うと、執事も釣られたように笑った。
「お前の細君も菓子につられるようなことはないだろう?」
冗談めかして尋ねると、ふと、執事は真顔になる。
「そうですね。時々、菓子を買ってくるように言いつけられますがね」
「言いつける?」
「どうやら、謝るタイミングを探すときに口実にするようですよ」
珍しく含み笑いをしながら執事は肩をすくめた。
「気まずい時に所望するようです。きっと許してあげるよ、とでも言っているつもりなんでしょう」
——マカロンも、つけてくださる?
唐突に少女の涼しげな薄青の両目を思い出した。
「まさか……な」
奇妙に動揺して、ギャレットは、パイプに火をつける。
47歳の誕生日が近づいていた。
マカロンとホットチョコレート 赤坂 パトリシア @patricia_giddens
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