第一章_3





 賀茂祭。別名葵祭の人出は、毎年増えている。

 行列を見物しようとみち沿いに集まったみやこびとをはじめ、ずらりと並んだぎつしやそうかんだ。牛車の主は貴族のひめや北の方などで、それぞれに後ろすだれからのぞかせるいだしぎぬらしており、目にもあざやかなその色合いは都人にとって行列と並ぶ楽しみであるのだった。

 牛車をめる位置にも身分やいえがらが大きく関係してくるので、並びを見ていれば上下関係がわかってくるものだ。

 ふじわら家の牛車は美しくかざり立てられ、からのぞく出衣も大層見事だった。

 ごった返すひとみを、岦斎は足取りも軽く、晴明はろうした様子で、それぞれ歩いていた。

 岦斎の故郷は人がさほど多くなかったそうで、晴明にとってはへきえき以外の何ものでもない人混みも、彼にはものめずらしく映るらしい。

「すごい人だなぁ、晴明」

 かんたんする岦斎に、晴明はかたを落としながら返した。

「そうだな。人混みもたんのうしたし、もう私は帰る」

 よくようのない語調なのは、昼までにそろえるため、一刻程度しかねむっていないからである。

 護符を作成するに当たり、うしの刻はけるべき時間帯だ。じやが入ったための刻だけではとうてい終わらず、とらの刻から書きはじめた護符は、夜が明けて日が高くなったころにようやく枚数が揃い、たおれこむようにしてしとねに入った。

 そして、うまの刻少し前、晴明は岦斎の声に起こされた。

 正面のつまが閉まっていたので、庭伝いにやってきた岦斎は、妻戸をたたいて晴明を呼んだのである。

 最初はもくさつしていたが、がんがんと叩く音にまぎれておーいおーいと呼ばれることしばらく。

 どうにもえ切れなくなり、わった目で起き上がった晴明は、妻戸をばすようにして開け放つとぶつそううなった。

「うるさい……っ!」

 こめかみに青筋を立てている晴明を見た岦斎は、目をしばたたかせて言った。

「おや、起こしたか。すまん」

 そのしゆんかん、胸の中で「殺す…!」と決意した晴明を、いったいだれが責められるだろうか。

 そして、らい者に護符を届けた晴明は、そのまま岦斎に引きずられるようにして賀茂祭見物に連れてこられたのである。

 これまで晴明にここまでぼうじやくじんった者はいない。

「おお、牛車が並んでいる。すごいすごい。聞いていたとおりだなぁ」

 はずんだ口調できょろきょろしている岦斎とは対照的に、晴明はげんを絵にいたような顔をしていた。

 何が悲しくて、こんな人混みにろうちくせきされた身で来なければならないのか。

 わあっとかんせいが上がり、人々が目を輝かせる。沿道に集まった見物客たちは、できるだけ前へ出ようと押し合いになっていた。

 きよを取ってそれをながめていた岦斎は、並んでいる牛車のが動く様を指差した。

「あ、ほら、いまあの牛車の御簾が動いたぞ」

 ほらほら、と示されて、晴明は興味のない様子でいつしゆんだけ目を向ける。

 見覚えのある牛車だった。

「……ふじわら家の車だな」

「そうなのか? へぇ。北の方かひめぎみだろうか」

「さてな。こんなときでもない限り、深窓の姫君は外出などできないからな」

 居並ぶ牛車をこうしてながめるのは数年ぶりだ。物心ついた頃には父とふたりきりだった。

 葵祭を見物したのも数えるほどだ。初めての祭見物は、どれくらい前だったろうか。

 手を引かれて人混みに押されながら歩いていたどうを、やがて父はき上げて、ほらと牛車を指差した。

 数え切れない人、ずらりと並んだ牛車。そして、ごうしやな衣装をまとった祭礼の行列。

 あつとうされた子どもはれいだと感じるよりも、見慣れない人の波におそれを抱いた。

 そうして、誰もが笑っていることをいぶかった。あんなふうにどうして笑えるのだろうかとしんに思い、それは胸の奥深くにいまもしずんだままだ。

「……藤原だというだけで一番いい場所で見物できるんだから、実にめぐまれたものだ」

 冷めたこわで言い捨てる。

 大貴族の家に生まれたという、ただそれだけで。何ひとつなすことのない身でありながら、せいのものよりもずっとゆうに生きているのだ。

 生まれひとつで、人はここまで差ができる。それは、大いなる天のさだめたもので、人の手では動かせない。

 岦斎は、晴明をり返った。まじまじと見られて、晴明はろんまゆを寄せる。

「……なんだ」

「いや…」

 言い差して、岦斎はまばたきをした。

「お前でも、そういうことを言うんだなぁと、思った」

 彼の意図が読めない晴明は、けんのしわを深くする。

 その額を軽くはじいて、岦斎は歯を見せて笑った。

「あまりにもばなれしているからなぁ、晴明は。たまにはこういうぞくもどってきて人間らしいことを言ってみるのも、気分てんかんになるんじゃないのか?」

 けろりとして言ってのける男を、晴明はまったく別次元の生き物を見るような目で眺めた。

 その視線に気づき、さしもの岦斎も半眼になる。

「なんだ、その、ひとをまるで異次元生物でも見るかのような目は」

 晴明は無表情のまま瞬きをひとつした。

 そこまですんぶんたがわずに読むとは、こいつなかなかできる。

 おんみようりようの官人は、いなだいだいに出仕している者たちのほとんどは、晴明を遠巻きにして決して近づいてはこない。

 かかわったら何が起こるかわからないから。

 心にやましいことのあるものは特にそうだ。

 政敵をとしたいと願うもの、実際に手を下したもの、自らは動かずとも力のある術者にじゆをかけさせたもの。

 さがせばいくらでも出てくるだろう。──大内裏は、ひやつぎよううごめふく殿でんだ。

 晴明は息をついた。

 にぎやかで楽しそうなたくさんの顔がある。祭見物の群衆は、自分のことだけにいそがしく、ここにぎようの血を半分持っている、しようとも人間とも知れない不確かな存在があることなど知りもしない。

 もしここで晴明のじようを明かしたら、彼はどういうあつかいを受けるのだろうか。

 きつねの子。たんの存在。自分たちとちがうものを、人はきらきよぜつする。

「………出仕など、したくなかったんだがな…」

 だが、父が願って、師がすすめた。

 断れなかった。

 父はもちろんだが、忠行は晴明をごくごくつうの子どもとして扱った。

 幼いころに母を失った晴明は、その出自も相まって、ほかの子どもよりずっと冷めており、またおそろしいほどにそうめいだった。それを知ってなお、忠行は彼に、分別を知らない幼子にするように接した。あなどっていたわけではない。晴明をひとりの子どもとして扱い、彼がほかの子どもにするのと同じように扱っただけだ。

 そこには裏表がなくうそいつわりもなく。かたくなだった心は、少しずつとけた。

「晴明」

 呼び声が、晴明を現実に引きもどす。

「焼き魚を売っているぞ、食べないか」

 見れば、はなれた場所にいる岦斎が指差している。

 複雑な思いで目を細めた。

 晴明。その名とて、呼ばれるようになってからまだ五年と少しだ。

 彼は、げんぷくするまでずっと、どう、もしくは安倍の若君と呼ばれていた。

 忠行ですら、子どものうちは彼を「晴明」とは呼ばなかった。

 師は、晴明の父と旧知の仲だった。母のことも知っているようだった。

 母であるくずおもかげは、いまでもほんのわずかだけ、晴明の中に残っている。だがそれは本当におぼろで、はっきりとしたりんかくを見せることはない。

 晴明にはささやかな願いがある。ささやかだけれども、とても重く、難しい願いだ。

 一生口にすることはないし、かなうこともないだろう願いは、いつも彼の心の一番奥で、まるで水底にしずんでいるすいしよう欠片かけらのように、ごくたまにきらりと光って存在を主張するのだった。

「晴明、ほら」

 ふいに、目の前に湯気の立つあゆの塩焼きがき出された。

 晴明は少しのけぞって、横目で岦斎をにらむ。

「危ない」

「そんな目くじらを立てるなよ。うん、うまいぞ」

 鮎の腹にかぶりついた岦斎がにんまりと笑う。

 晴明は息をつき、鮎のくしを受け取った。

 かじると確かにうまかった。焼きたてで塩加減も丁度良く、食べて初めて、空腹だったことに思い至った。

 考えてみると、朝から水しか口にしていない。を書くときは、なるべくしようじんけつさいしなければならないからだ。

 ものも言わずに鮎を平らげる晴明を、岦斎は満足そうにながめていた。

 視線を感じてごこが悪い。だれかに見られているということに、晴明はあまり慣れていないのだ。

「……なんだ」

「足りないならまだあっちで焼いていたぞ。それと、もちとかちまきもあったな」

 甘味が見あたらないのが残念だが、まぁいいか。

 そうからりと笑って歩き出す岦斎の背を見て、晴明は息をついた。

 どうにも、この男が相手だと調子がくるって仕方がない。へきえきして、必要以上にろうさせられる。

 だが何よりも晴明をうんざりさせているのは、調子を狂わされているにもかかわらず、最終的には岦斎を許している自分自身なのだった。

 ざつたちに言わせれば、二十歳はたちえてあの安倍童子も少しは丸くなったよな、ということだ。

 自覚はない。雑鬼たちの言に納得もいっていない。しかし、事実としてそうなっていることは、腹立たしいことこの上ないが、理解できてもいるのだった。

 誰かと深くかかわることは、危険だ。この身は人とあやかしはざのもの。人でも妖でも、かかわりが深まれば、ぎりぎりのところで保っているきんこうくずされる。

 ひめぜんとかかわりすぎているいま、晴明はがんに近い場所に立っている。妖の領域にみ込みつつある。

 生者は彼岸にわたれない。渡るときは、命を失ったとき。

 そして妖は、人の命をうばうのだ。

 それが、彼が生まれながらに負った命宿。

 行列見物のひとみは、じよじよに数を増していく。そろそろ本気で帰ろうと心に決め、晴明は岦斎をさがした。

 勝手にいなくなったら、あとで何を言われるかわかったものではない。形だけでも一声かけておかなければ。

「岦さ……?」

 晴明の足が止まった。

 うなじに、ぴりぴりとしたものがれたような気がした。

「………」

 首に手をやって、周囲に視線を走らせる。

 何もいない。だが、自分の直感に何かが引っかかった。

 ぴりぴりとしたものはやまず、背筋にすべり落ちていく。全身が自然ときんちようして、晴明の表情がするどく変わった。

「なんだ……?」

 一方、あちらこちらを見ていた岦斎は、当然ついてきているものとばかり思っていた晴明の姿が見えないことに気づき、あわてていた。

「晴明はどこだー?」

 きょろきょろと人波をわたしていた岦斎の視界に、見慣れた横顔がかすった。

「ああ、いたいた」

 ほっとしてそちらに歩き出したとき、岦斎の背筋を冷たいものがけ下りた。

「これは……」

 反射的に周囲を見回し、けいかい態勢を取る。自分の持つ直感が、けいしようを鳴らしている。

 注意深く視線をめぐらせていた岦斎は、晴明もまたけんのんおもちをしていることに気がついた。

「あいつも、感づいたか」

 だが、察知したのは確実に岦斎より晴明のほうが早かっただろう。

 彼の持つれいりよくは、岦斎よりも強い。

 おんみよう術をなりわいとする者の集落で生まれた岦斎は、そのじように見合った技量を持っているのだが、感知能力も退たい調ちようぶくの力も、すべて晴明におよばない。

 それは、努力やしゆぎようでは決してめることのできない、生まれ持った才能の差だ。

 才能ばかりはどうしようもないので、あまり考えないことにしているが、ひとつくらい晴明よりけたものを持てたら、胸を張って相対できるような気もしていた。

 岦斎とて人の子なので、せんぼうしようそうを感じる。ひとつでもすぐれた術、優れたわざを得たいと、晴明と接するようになってからずっと考えているのだった。

 雑多な人混みを泳ぐようにして進みながら、岦斎は手をあげた。

「おい、晴明……」

 しゆんかんほうごうとどろいた。





 居並ぶぎつしやの中でもかくてき質素な様相の車につながれていた牛が、とつじよとして暴れだした。

 ほうこうしながら身をよじり、いらったように前足をみ鳴らす。首のくびきくくったひもを引きちぎるような激しさで暴れていた牛は、やがて血走った目をしてえると狂ったように走り出した。

 とつぜんの事態に、見物客たちはとつの反応ができない。

 目の前に牛のひづめがせまってきたのを見て、ようやく危険を感じまどう。

 かんせいがざわめきに、そして悲鳴へと変化するのにそれほど時間はかからない。

 走り出した牛車は行列からはなれるようにななめを向き、観客たちをらしながらとつしんしていく。

 暴走牛車がせまってくるのを感じ、咄嗟に下がって難をのがれようとした晴明は、ね上がったまえすだれの向こうにひとかげを見た。

 乗車していたのはたおやかなぜいとしわかい女。少女の域を出かけ、ではないが品のよいうちぎをまとった女が、青ざめて牛車の方立てにしがみついている。

 救いを求める視線が、晴明のそれにからんだ。

「──────」

 視線をわしたのはいつしゆんだ。目が合ったと思ったのは、ただのさつかくだったかもしれない。

 だが、晴明の足は反射的に動いていた。

 一方、じんじようならざる事態のなか、混乱をきたしてきようこうする群衆の波にまれかけた岦斎は、その中からかろうじてだつした。

「えらいことに……」

 悲鳴があちらこちらで上がっている。その中で、ひときわせつぱくしたさけびが聞こえた。

ひめ様───…っ!」

 岦斎は、しつそうしていく暴走牛車をぎようした。

 撥ね上がる後ろ簾の向こうにかろうじて見えるころもきやしやな人影。ひかえ目だが品のよい合わせの色だった。あの牛車の主は、いずこかの貴族の姫か。

 叫んだのは、撥ね飛ばされて起き上がれない牛飼いわらわだった。

 あわててけ寄った岦斎が手を貸そうとすると、牛飼い童は悲痛な声でこんがんしてきた。

「お願いです…! 姫様を、どうか姫様をお救いください…!」

 苦痛をこらえながら、そうはくになった牛飼い童は、牛車をさしてり返す。

「お願いです、どうか…!」

 岦斎はうなずくと、牛飼い童を置いて駆け出した。

 牛車を引いているとはいえ、本気でしつそうする牛は相当に速い。人間がいくら全力疾走しても、きよは開いていくばかりだ。

「くそ…っ!」

 みした岦斎は、牛がとつぜんおびえたように悲鳴を上げ、たたらを踏む様を見た。

「なに?」

 はっとして視線をすべらせれば、自分と同じように駆けている晴明が、口元にとういんを当てて何かを唱えている。

 岦斎は目をらした。

 牛の足元だ。

 徒人ただびとには見えない小さな動物が、牛の足にからみ付いている。牛はおのれの足に絡む見えない何かに怯えて、まるでおどっているように足をばたつかせているのだった。

「晴明!」

 晴明は岦斎をいちべつし、そのまま無言で駆けて行く。会話をしているいとまはない。足止めが効いている間に牛をなんとかしなければ。

 はらわれたら、我を忘れた牛は今度こそ止まらないだろう。

 遠巻きになった見物客たちが青ざめて見守る中、晴明は牛車の前に回り込んだ。

れつ!」

 刀印を振りかざし、れつぱくの気合いとともにけに切り下ろす。

 不可視のやいばが牛と牛車をつなぐ軛を両断した。

 反動で大きくふるえた牛車がかたむいてたおれそうになる。だが、ぎりぎりできんこうを保ち、元の位置にもどった。

 車体の重量すべてがかかった輪がごうおんを上げ、何度かはずんで動かなくなる。

 一方の牛は、何度も何度も前足をりつけ、よだれをき散らしながら血走った目をくうえていた。

 そこまできようにおののいている理由はなんだ。

「ナウマクサンマンダ、バサラダン、センダマカロシャダ……」

 平常心を取りもどさせようと真言を唱えながら、晴明はけんのんまゆを寄せた。

 おかしい。これほどに怯えているのはなぜだ。いったい何が牛をここまで追いめているのだ。

 印を組んだまま牛をへいげいしていた晴明は、牛の背に、おぼろかげが見えかくれしていることに気がついた。

 暴れる牛の背にかぶさるような、黒い影がある。

 それを知覚したしゆんかん、晴明の背筋にせんりつが滑り落ちた。

 ざっと全身が総毛だつ。

 ね上がった心臓が全力疾走をはじめ、冷たいあせき出した。

「あれは、なんだ…?」

 がくぜんつぶやく晴明の目に、得体の知れない黒い影が少しずつあざやかさを得て映し出されていく。

 しばらく目をらしていた晴明は、はっと息をんでこうちよくした。

 黒いのは、それが放つおぞましい気配だ。黒に見えるそれを絶えず身にまとったたいが、牛の背にまたがってづなにぎっているではないか。

「……っ!」

 ぼうぜんと立ちすくむ晴明のもとにようやくたどり着いた岦斎は、彼と同じく牛をかえりみてぎょっとした。

「な……っ!」

 相手の力が強いからか、何もせずにここまではっきりとえることは本当にまれだ。

 晴明はぐっとくちびるむと、印を組み変えて息を吸い込んだ。

 呼吸は息吹いぶき

「ナウマクサンマンダ、バサラタセンダ、マカロシャナタヤソワタラヤ、ウンタラタカンマン…!」

 しゆくしていた晴明のれいりよくが噴き上がる。

 牛をあやつったその影は、それを見て無造作に手綱を引いた。

「! ま…っ」

 反射的に叫ぼうとした晴明と岦斎を、すさまじいたつまきのようなしようげきおそう。

「く…っ!」

 巻き上がるじんが視界をおおう。ふたりはうでを交差させてその衝撃をやり過ごした。

 同時に、口からあわを飛ばしながら前足をり上げた牛が、そのまま白目をいてぐらりとかたむく。

 どうと音を立ててよこだおしになった牛の背に、もうあの影はいだせなかった。

 晴明はこぶしにぎめた。

「………くそ…っ」

 まるで地の底のような冷え冷えとしたあの目にかれて、晴明も岦斎も、完全に吞まれていた。

 出会いがしらだったとか、予想外だったとか、とつぱつ的な事態だったとか、いくらでも言い訳はできる。しかし、事実としてふたりはぎようの放つに吞まれてすくんだのである。

 衝撃が去ると同時に、すさまじいふんげきがわき上がってきた。

 それは、自分自身に対するいかりといきどおりだ。

 足を引きずった牛飼い童と、ずいじゆうおぼしき者たちがいく人か、ふらふらとぎつしやけ寄った。

ひめ…!」

「姫様、姫様、ご無事ですか?」

「姫様!」

 の下からは、乱れたころものぞいている。

 乗車していたはずの姫の安否はどうなのか。

 さすがにそれが気にかかり、晴明はかぶりを振って牛車に近づいた。

ひめぎみは、ご無事か」

 随従のひとりに問うと、彼はそうはくおもちで首を振った。

「返事がありません。気を失っておられるようで…」

「本当に気を失っているだけか? もしそうでない場合は、取り返しがつかなくなる」

 晴明の言葉に、随従の顔からさらに血の気が引いていく。

 いまにも泣き出さんばかりの随従を岦斎に任せ、晴明は牛車の後方に回り込んだ。

「姫君、無礼を許されよ」

 見物客には見えないように気を配りながらそっと御簾を上げ、中を覗く。

 正体なく横たわった姫君は、ずいぶん細身だった。

 年のころは十五か、六か。青ざめて色を失った面差しはたよりなく、りんかくふちくろかみはつややかで美しい。

「姫、姫、しっかり……」

 少しためらったあとでかたれ、軽くさぶると、かすかなうめきがうすい唇からもれた。

「………う……」

 白いまぶたふるえ、かすみのかかったひとみがのぞく。あてどもなく彷徨さまよった視線は、やがて晴明をとらえた。

「……あ…」

 おびえたような瞳が大きく揺れる。彼女は白く細い指をのばそうとしたが、ふいに瞼を落としてそのまま動かなくなった。

 ぱたりと落ちた手は、晴明のひざにもう少しで届こうとしていた。

 すがるようなまなしだった。無理もないだろう。あのまま牛が暴走しつづけたら、どうなっていたか。

 それから晴明は、小さな肩に手をかざし、れいりよくをもって、体になんらかのを負っていないかどうかを視た。

「………よかった」

 晴明はほっとした。命に別状はないようだ。心身を同時におそったあまりの衝撃に、気を失っただけだろう。

「あの、姫様は……」

 おどおどとたずねてきた随従に無事を伝えると、彼は怯えた目を晴明に向けてきた。

「あの、あなたさまは……」

 晴明はいつしゆんこわり、やや置いてから名を告げた。

「……安倍晴明」

「あべの……?」

 つぶやいた随従は、思い当たったのか、はっとした様子で目をみはった。

「まさか、あの……」

 どの「あの」なのかは、しようさいを聞かなくてもわかる。

 晴明は無言でうなずくと、そのまま軽く一礼して随従のとなりをすりけた。

「岦斎」

 岦斎は、たおれた牛の前に膝をついて、印を組んでいた。正気づかせようというのだ。

「ひふみよいむなやここのたり…」

 牛の足がぴくりと動き、頭から首がけいれんする。瞼を開いた牛が、少したよりない足取りであるものの立ち上がる様を見て、牛飼いわらわは心からあんしたようだった。

 正気を取りもどした牛は、怯えたように周囲を見回してから、いつも世話をしてくれる牛飼い童に鼻づらをこすりつける。牛飼い童は半泣きでその首筋をでた。

 たんそくした岦斎は、晴明の目配せに気づいた。さわぎを聞きつけたきようしき使が来る前に立ち去ったほうがめんどうがない。

 ふたりはそのまま群衆にまぎれてそこからのがれた。

 せつかくものまつりだったのにと、岦斎は大層残念そうだった。しかし、余計なことにかかわって、またみような風聞が立つのは好ましくない。

 晴明のそういう心情もわかるので、結局彼は来年に望みをかけることにした。

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