第一章_3
賀茂祭。別名葵祭の人出は、毎年増えている。
行列を見物しようと
牛車を
ごった返す
岦斎の故郷は人がさほど多くなかったそうで、晴明にとっては
「すごい人だなぁ、晴明」
「そうだな。人混みも
護符を作成するに当たり、
そして、
正面の
最初は
どうにも
「うるさい……っ!」
こめかみに青筋を立てている晴明を見た岦斎は、目をしばたたかせて言った。
「おや、起こしたか。すまん」
その
そして、
これまで晴明にここまで
「おお、牛車が並んでいる。すごいすごい。聞いていたとおりだなぁ」
何が悲しくて、こんな人混みに
わあっと
「あ、ほら、いまあの牛車の御簾が動いたぞ」
ほらほら、と示されて、晴明は興味のない様子で
見覚えのある牛車だった。
「……
「そうなのか? へぇ。北の方か
「さてな。こんなときでもない限り、深窓の姫君は外出などできないからな」
居並ぶ牛車をこうして
葵祭を見物したのも数えるほどだ。初めての祭見物は、どれくらい前だったろうか。
手を引かれて人混みに押されながら歩いていた
数え切れない人、ずらりと並んだ牛車。そして、
そうして、誰もが笑っていることを
「……藤原だというだけで一番いい場所で見物できるんだから、実に
冷めた
大貴族の家に生まれたという、ただそれだけで。何ひとつなすことのない身でありながら、
生まれひとつで、人はここまで差ができる。それは、大いなる天のさだめたもので、人の手では動かせない。
岦斎は、晴明を
「……なんだ」
「いや…」
言い差して、岦斎は
「お前でも、そういうことを言うんだなぁと、思った」
彼の意図が読めない晴明は、
その額を軽く
「あまりにも
けろりとして言ってのける男を、晴明はまったく別次元の生き物を見るような目で眺めた。
その視線に気づき、さしもの岦斎も半眼になる。
「なんだ、その、ひとをまるで異次元生物でも見るかのような目は」
晴明は無表情のまま瞬きをひとつした。
そこまで
かかわったら何が起こるかわからないから。
心にやましいことのあるものは特にそうだ。
政敵を
晴明は息をついた。
にぎやかで楽しそうなたくさんの顔がある。祭見物の群衆は、自分のことだけに
もしここで晴明の
「………出仕など、したくなかったんだがな…」
だが、父が願って、師が
断れなかった。
父はもちろんだが、忠行は晴明をごくごく
幼い
そこには裏表がなく
「晴明」
呼び声が、晴明を現実に引き
「焼き魚を売っているぞ、食べないか」
見れば、
複雑な思いで目を細めた。
晴明。その名とて、呼ばれるようになってからまだ五年と少しだ。
彼は、
忠行ですら、子どものうちは彼を「晴明」とは呼ばなかった。
師は、晴明の父と旧知の仲だった。母のことも知っているようだった。
母である
晴明にはささやかな願いがある。ささやかだけれども、とても重く、難しい願いだ。
一生口にすることはないし、かなうこともないだろう願いは、いつも彼の心の一番奥で、まるで水底に
「晴明、ほら」
ふいに、目の前に湯気の立つ
晴明は少しのけぞって、横目で岦斎を
「危ない」
「そんな目くじらを立てるなよ。うん、うまいぞ」
鮎の腹にかぶりついた岦斎がにんまりと笑う。
晴明は息をつき、鮎の
かじると確かに
考えてみると、朝から水しか口にしていない。
ものも言わずに鮎を平らげる晴明を、岦斎は満足そうに
視線を感じて
「……なんだ」
「足りないならまだあっちで焼いていたぞ。それと、
甘味が見あたらないのが残念だが、まぁいいか。
そうからりと笑って歩き出す岦斎の背を見て、晴明は息をついた。
どうにも、この男が相手だと調子が
だが何よりも晴明をうんざりさせているのは、調子を狂わされているにもかかわらず、最終的には岦斎を許している自分自身なのだった。
自覚はない。雑鬼たちの言に納得もいっていない。しかし、事実としてそうなっていることは、腹立たしいことこの上ないが、理解できてもいるのだった。
誰かと深くかかわることは、危険だ。この身は人と
生者は彼岸に
そして妖は、人の命を
それが、彼が生まれながらに負った命宿。
行列見物の
勝手にいなくなったら、あとで何を言われるかわかったものではない。形だけでも一声かけておかなければ。
「岦さ……?」
晴明の足が止まった。
うなじに、ぴりぴりとしたものが
「………」
首に手をやって、周囲に視線を走らせる。
何もいない。だが、自分の直感に何かが引っかかった。
ぴりぴりとしたものはやまず、背筋に
「なんだ……?」
一方、あちらこちらを見ていた岦斎は、当然ついてきているものとばかり思っていた晴明の姿が見えないことに気づき、
「晴明はどこだー?」
きょろきょろと人波を
「ああ、いたいた」
ほっとしてそちらに歩き出したとき、岦斎の背筋を冷たいものが
「これは……」
反射的に周囲を見回し、
注意深く視線をめぐらせていた岦斎は、晴明もまた
「あいつも、感づいたか」
だが、察知したのは確実に岦斎より晴明のほうが早かっただろう。
彼の持つ
それは、努力や
才能ばかりはどうしようもないので、あまり考えないことにしているが、ひとつくらい晴明より
岦斎とて人の子なので、
雑多な人混みを泳ぐようにして進みながら、岦斎は手をあげた。
「おい、晴明……」
居並ぶ
目の前に牛のひづめが
走り出した牛車は行列から
暴走牛車が
乗車していたのはたおやかな
救いを求める視線が、晴明のそれに
「──────」
視線を
だが、晴明の足は反射的に動いていた。
一方、
「えらいことに……」
悲鳴があちらこちらで上がっている。その中で、ひときわ
「
岦斎は、
撥ね上がる後ろ簾の向こうにかろうじて見える
叫んだのは、撥ね飛ばされて起き上がれない牛飼い
「お願いです…! 姫様を、どうか姫様をお救いください…!」
苦痛を
「お願いです、どうか…!」
岦斎は
牛車を引いているとはいえ、本気で
「くそ…っ!」
「なに?」
はっとして視線を
岦斎は目を
牛の足元だ。
「晴明!」
晴明は岦斎を
遠巻きになった見物客たちが青ざめて見守る中、晴明は牛車の前に回り込んだ。
「
刀印を振りかざし、
不可視の
反動で大きく
車体の重量すべてがかかった輪が
一方の牛は、何度も何度も前足を
そこまで
「ナウマクサンマンダ、バサラダン、センダマカロシャダ……」
平常心を取り
おかしい。これほどに怯えているのはなぜだ。いったい何が牛をここまで追い
印を組んだまま牛を
暴れる牛の背にかぶさるような、黒い影がある。
それを知覚した
ざっと全身が総毛だつ。
「あれは、なんだ…?」
しばらく目を
黒いのは、それが放つおぞましい気配だ。黒に見えるそれを絶えず身にまとった
「……っ!」
「な……っ!」
相手の力が強いからか、何もせずにここまではっきりと
晴明はぐっと
呼吸は
「ナウマクサンマンダ、バサラタセンダ、マカロシャナタヤソワタラヤ、ウンタラタカンマン…!」
牛を
「! ま…っ」
反射的に叫ぼうとした晴明と岦斎を、
「く…っ!」
巻き上がる
同時に、口から
どうと音を立てて
晴明は
「………くそ…っ」
まるで地の底のような冷え冷えとしたあの目に
出会い
衝撃が去ると同時に、
それは、自分自身に対する
足を引きずった牛飼い童と、
「
「姫様、姫様、ご無事ですか?」
「姫様!」
乗車していたはずの姫の安否はどうなのか。
さすがにそれが気にかかり、晴明は
「
随従のひとりに問うと、彼は
「返事がありません。気を失っておられるようで…」
「本当に気を失っているだけか? もしそうでない場合は、取り返しがつかなくなる」
晴明の言葉に、随従の顔からさらに血の気が引いていく。
いまにも泣き出さんばかりの随従を岦斎に任せ、晴明は牛車の後方に回り込んだ。
「姫君、無礼を許されよ」
見物客には見えないように気を配りながらそっと御簾を上げ、中を覗く。
正体なく横たわった姫君は、
年の
「姫、姫、しっかり……」
少しためらったあとで
「………う……」
白い
「……あ…」
ぱたりと落ちた手は、晴明の
すがるような
それから晴明は、小さな肩に手をかざし、
「………よかった」
晴明はほっとした。命に別状はないようだ。心身を同時に
「あの、姫様は……」
おどおどと
「あの、あなたさまは……」
晴明は
「……安倍晴明」
「あべの……?」
「まさか、あの……」
どの「あの」なのかは、
晴明は無言で
「岦斎」
岦斎は、
「ひふみよいむなやここのたり…」
牛の足がぴくりと動き、頭から首が
正気を取り
ふたりはそのまま群衆に
晴明のそういう心情もわかるので、結局彼は来年に望みをかけることにした。
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