第一章_2





 あれか。

 ああ、あの男だ。

 ぎようの血を引いているのだそうだ。

 異形とは。

 きつねだという話だ。

 狐。

 だが、どう見てもただの人間だ。

 見た目はそうだが、中身もそうかはわからん。

 人のふりをしているのではないか。

 狐なら、化けるくらいわけはない。

 気をつけろ。

 気をつけろ。

 べのせいめい

 あれは、化け物の子だ────。





 だいだいから安倍のやしきまで、さほどきよはない。ゆっくり歩いても一刻もかからない。

 手にした布の包みの中身は料紙と、たけづつに入った水。水は、都のこうがいまでみに行ったき水で、これがないと今日の作業が立ち行かない。

 のぼらぬうちに起き出して、ねむっている様子の女をそのままにしてたくを整え、邸を出た。どうせ帰邸のころには消えている。

 水をんだのが明け方で、そのまま出仕したので、本日の彼はそくだった。くわえて、昨晩の情事がを引いて、体が重い。じよじよにだが、回復がしづらくなっているようだった。

 それを気力で持たせてぬりごめの中で仕事をしていたときに、かべの向こうからだれかが話す声が聞こえたのだった。

 誰のものかはわからないいくつかの声が交わしていた言葉が思い出されて、彼は冷えびえとき捨てた。

「……何をいまさら」

 化け物なのは、百も承知だ。

 何しろ自分は、半分だけ狐の血を引いた、まったき人外のものである。

 門前で立ち止まり、彼はたんそくした。

 かげぐちたたかれて傷ついたかというと、実はそうではない。どちらかといえば、うんざりしているといったほうが合っている。

 物心ついてからというもの、言われつづけて早十何年。いい加減慣れるというものだ。

 それに、彼が赤子の頃にとつぜん姿を消してしまったという母は真実異形であったから、否定もできないし、しようとも思わなかった。

 どんな人だったのか、幼い頃は父にたずねて、そのたびにひどく悲しそうな顔をされた。あんまり悲しげだったので、これはいてはいけないのだとそのうちにさとった。

 その父はといえば、いまではの地にいおりを結んで暮らしている。

 晴明が十五でげんぷくしたとき、何やら熟考したそうだ。

 ──私はひとりで暮らすから、お前もひとりでがんってみなさい

 そう言い残して阿倍野に向かった父を、彼は半ばぜんと見送った。

 愛されていないわけではない。それどころか、父は彼をとても大事に育ててくれた。

 年に何度かは邸にもどってくる。さきれもなしにふらっとやってきて、何日かたいざいしてふらっと阿倍野に帰っていく。

 つい先日もふらっとやってきて、三日ほど滞在して帰っていったばかりだった。

 ひとり住まいになって、五年ほどった。当初からさびしさはあまり感じることなく、それなりになんとかやっている。

 父はどうやら、それを確かめるために顔を出すようだった。気にかけてくれているのだろう。ならばなぜ自分をひとり残して阿倍野に移り住んだのかと時折考えるが、だからといってそれを問うたことはない。聞いても何にもならない。ならば、あえてする必要もないだろう。

 門をくぐってまがきける。無人の邸はいつも静かに彼をむかえてくれる。

 しかし、今日はちがった。

 ろうを進んで、一番奥にある自室のつまを開けると、出がけに上げたままのじとみからし込む陽射しに室内は照らされていた。

 晴明は立ち止まった。

 部屋のはしかれたしとねひとがたに盛り上がったうちぎ。長いくろかみがうねるように流れている。

『……ああ、晴明』

 ゆるゆるとがえりを打って流し目をよこすぼうの女に、彼はまゆひとつ動かさずに言った。

「まだいたか」

 女は口元に手を当てて面白そうに笑う。

『つれないことを…。昨夜限りのえんのつもりか?』

「そのつもりだ。せろ」

 すげなくあしらわれた女は、んだままひとみに険を宿らせた。

『……寂しいひとなぐさめてやった恩を、なんと思っているのやら』

 彼はかたをすくめた。

「慰めてやったのはどちらかな。人のなりをした異形の女と知ってひるまないのは、私くらいのものだとわかっていて、ここへ来るのだろうに」

 女のおもちから笑みが消えた。

 すっと立ち上がり、はだけていたひとえむなもとを合わせると、すそを大きくひるがえす。れたような黒絹の髪があざやかだ。

『言葉をつつしめ。身のほどをわきまえよ』

 開け放たれていた妻戸からすのに出るとふわりとい上がり、女はゆうやみに消えた。

 険のある顔でそれを見送っていると、蔀のかげから幾つかのかげがひょこひょこと出てきた。

「……まったく、えらいのとともしてるもんだなぁ、晴明」

「よく取り殺されないもんだ」

「いっくら同属でも、俺たちだってひめぜんはちょっとこわいぜ?」

 口々に言いつのざつたちを冷めた目で見下ろして、彼は短く言った。

「お前たちも失せろ」

 雑鬼たちは顔を見合わせて、ぱたぱたと出て行った。

 しんと静まり返った邸に、ようやく彼はひとりだけとなった。

 安倍晴明は、異形の血を引いている。

 だからなのか、異形のものたちがこの邸には多く出入りするのだった。

 出入りするだけならいいが、時々相談事を持ち込まれてみたり、言いがかりをつけられてみたり、一夜限りの情夫になってみたりと、なかなかにせわしない。

 中でもあのひめぜんは、忘れた頃にやってきては茵の中にすべり込んでくる。

 彼女は異形だが、りようたぐいではない。どちらかといえば、神に近い存在らしい。雑鬼たちは多くを語らないが、ぽつぽつと出てきた言葉をつなぎ合わせると、そんな予測が成り立つ。

 あの女にれんじようがあるわけでも愛情があるわけでもない。いていうなら、れんじようあいじようといったところか。

 何しろ、姫御前は決して口を割らないが、自分は確実に誰かの身代わりだ。

 熱にかされた彼女の目が自分ではない誰かを見ているのは明白で、だからといってそれをその場できつけるほど彼はこくはくではない。それだけの話である。

 情はあるが、人間らしいあたたかさや思いやりとはかけはなれており、そんな冷たさがにじみ出ているからだろう。彼に近づいてくる人間は、いなかった。

 いままでは。





 適当なゆうを済ませて、とらの刻まで少し休もうかと思っていたとき、門から声が聞こえた。

じやをするぞー」

 料紙で作った式に手伝わせて直衣のうしごうとしていた晴明は、ぴたりと止まってけんにしわを作った。

 ひとかげがぱっと消えて、ひとがたに切られた料紙がはらりと落ちる。

 彼がうんともすんとも言わない間に、来客はぱたぱたと軽快な足音を立てて廊を進んでくる。

「おお、いたいた」

 舌打ちしながらころもを整えた晴明は、り返って低く言い放った。

「……勝手に上がるなと、言っているだろう」

「返事が聞こえたから上がったんだが」

「私は返事などしていない」

「そんなことはない。俺には聞こえたぞ、晴明」

 晴明は、思わずくずれ落ちそうになった。

「………それをなんと呼ぶか知っているか、りゆうさい

 肩をふるわせている晴明の言葉に、えのき岦斎は首をかしげた。

「なんだ?」

 がばっと顔を上げて立ち直った晴明は、岦斎をにらんだ。

「思い込みだ空耳だげんちようかんちがいだっ! 私以外いないこのやしきで、ほかのだれかが返事をするわけがないだろうっ!」

「いやいや、確かに聞こえたぞ。こんなふうに」

 口の横に両手をえて、岦斎はつづけた。

たのもう、ここは安倍殿どののお邸かー。いかにもー。晴明殿はおるかー。おるぞー。入ってもよろしいかー。どうぞどうぞー。じやをするぞー。と、こんなふうに」

 晴明は額を押さえて低くうなった。

「……お前、全部自分で言っただろう」

「俺ではない。この邸にいる何かか誰かの声を、心を込めて代弁したんだ」

 何もいないし誰もいない、とりそうになったのを、晴明は理性を総動員してこらえた。このままでは岦斎の調子にまれてしまう。

 気持ちをしずめるために努めてゆっくりと深呼吸をし、岦斎の横をけて廊に出る。

「あっ、おい、晴明?」

 だかだかと進みながら、晴明はげんそうに言った。

「仕方がないから、酒のひとつも出してやる。飲んだらさっさと帰れよ」

 この男は、どれほどれいたんに接してもまるでこたえない。を見せても動じない。まつわりつかれるようになってから数ヶ月、いまでは半ばあきらめの境地に達している。

 晴明のあとを追ってきた岦斎は、にやりと笑って手にしていたものをかかげて見せた。

「安心しろ、さかなは持ってきた」

 晴明はあきれ顔で岦斎をいちべつし、うんざりした様子で盛大なため息をついた。





 だいだいおんみようりように出仕している晴明は、実はまだおんみようせいにもなっていない。

 何度か候補には挙がっているのだが、そのたびに理由をつけて断っている。

 師のものただゆきは大層残念がっているのだが、へたに学んで色々なことを覚えてしまうと、後に引けなくなるではないか。

 いまも独学で学んではいる。安倍家には必要な書物が必要なだけある。それに、父が賀茂氏と交流があったため、幼少のころから忠行に師事していたので、はもうほとんど頭の中にあった。

 持参のしたいわしを肴に、土器かわらけに酒をいでひとり酒をまんきつしている岦斎を横目に、晴明はづくえに向かってすみをすっていた。

「なあ晴明、お前もやらないか」

「いい。仕事がある」

 墨をするのに使っているのは、朝方入手してきたき水だ。

 二、三日前、を用意してほしいと、とある貴族にたのまれた。もしあったらこういうもの、という貴族の希望を並べたところ、護符の種類は十数種類になっていた。

 それも、身につけたり持ち歩ける程度の小さいものが望ましく、家人全員分、とのことだ。

 その貴族には妻が何人もいて、子どもも何人もいる。両親も健在、さらにはにようぼうずいしんぞうしきまでふくまれる。

 相当な量だが、受けてしまったからには作らなければならない。期限は明日あしたの昼。それまでに何十枚もの護符を作るには、酒を飲んでいるひまはないのだった。

 晴明が作る護符はれいげんあらたかだと評判だ。彼がぎようの血を引いているという話と同じくらい、貴族社会に広まっている。

 晴明のうわさこわいが、彼の作る護符はほしい。そういった者たちがこっそりと使いをよこし、枚数に見合った礼を持たせてくる。

 晴明とても、正当なほうしゆうをもらえるのだから断る必要もないので、頼まれれば用意する。

 それがまた噂になって、毎日のように護符を作る生活になっていた。

 さらさらと筆を走らせながら、横に積んである書物をいちべつする。

 すべておんみよう術に関するものだ。

 忠行は晴明に大層目をかけてくれている。自分の持つ異能の力を持て余していた晴明に、その使い方を教えてくれたのが忠行だ。そのことには本当に感謝している。

 だが、彼はそれほどおんみようになりたいわけではない。

 こしえて身を入れて陰陽道にまいしんするべきかもしれないが、彼は自分が持っている力をきらっていたので、それを有効利用しようというよくが、実はさほどない。

 それは勤務態度にも表れている。やらなければならないことはこなすものの、それ以上はやらない。

 いつもひとりで過ごし、退出時刻にはさっさと帰る。

 きつねの子だという彼を、官人たちは常に遠巻きにしている。見た目はまったくの人間だが、果たしてその実体はどうなのか。そんなけをおもしろ半分にしている者たちもいて、それがまた晴明のかんさわる。

 おかげで晴明はひとぎらいになった。

 そんな中、人嫌いの晴明に、平然と近づいてきた者がいた。それが、のんきな顔で土器に酒を注いでいるこの男だった。

「おおい、晴明。酒がだめなら白湯さゆでも飲むか。ずっと書き物をしているとつかれるだろう。いききをしようじゃないか」

「…………」

 筆をにぎる手に余計な力が入り、護符の印がつぶれてしまう。

 晴明は大きく深呼吸をした。

 平常心、平常心。

「いらないと言っただろう。勝手に飲んで気が済んだらさっさと帰れ、岦斎」

 土器をゆかに置いて晴明の横に立った岦斎は、うでみをして感心したぜいを見せた。

「さすがだなぁ。資料も見ずにそれだけの種類を書き分けられるとは。俺も見習わねば」

 この春、年明けとともになんかいどうとおのくにからやってきた榎岦斎は、晴明と同年だ。

 にゆうりようした者たちをかんげいするうたげの席で、いつものように官人たちからはなれてひとりで飲んでいた晴明のところに、しゆひんのひとりであるはずの岦斎が、席をけ出してやってきた。

 安倍晴明は、ずば抜けた力を持っているのに、まともにしゆぎようをしない変わり者。母親は異形で、父親はむすげんぷくと同時に邸を残してせつつのくにに移り住んだ。

 酒が入ってじようぜつになった官人たちの話を聞き、彼は晴明に興味を持ったのだ。

 異形の子だというが、見た目はつうだった。もくもくさかずきあおっている姿は、退たいくつをやり過ごして早く時がつのを待っているようにしか見えなかった。

 だが、嫌な感じはしなかったから、声をかけたのだということだ。

 あとになってから、あの時どうしてさっさと席を立ってしまわなかったのかと、晴明はやんだ。

 そうしていれば、こんなにめんどうくさいことにはならなかったのに。

 気を取り直して護符製作をつづけている晴明に、岦斎はめげずにひざを折って視線の高さを合わせながら言った。

「なあ晴明、明日は確か休みだろう」

「────」

 晴明は構わず、さらさらと筆を走らせる。

「明日はものまつりだそうだな。お前はずっとこの都で育ったんだから、見たことくらいはあるだろう?」

「────」

 さらさらさら。

「というわけで、案内してくれ」

「───は?」

 それまでずっと流れるように動いていた筆先が、ぴたりと止まる。

 思わずぜんと顔を上げた晴明に、岦斎は楽しそうにつづけた。

「いやー、楽しみだなぁものまつり。故郷では賀茂祭のような大規模な祭礼なんてなかったから、いまいち想像がつかないが、さぞかし見事にちがいない」

「待て。私は行くとは言っていないぞ」

 げんそうに口をはさむ晴明である。

明日あしたまでにこれをすべて作り終えて、先方に届けなければならない。それに、祭に行ったからといって、特にどうということはない。きらびやかな行列が延々つづくだけだ」

 けんにしわを刻んだ晴明に、岦斎は首をかしげてたずねた。

「それは、明日いっぱいかかるのか?」

 作業に専念するべく手元をぎようしている晴明は、ぶっきらぼうに返す。

「明日の昼には届けないといけない。それ以外にもやるべきことがある。遊んでいるひまはない」

 すると岦斎は、こともなげに言った。

「なんだ。じゃあ終わってから祭り見物にり出せばじゆうぶんじゃないか。いやー、本当に楽しみだなぁ」

 じようげんになった岦斎は、そのままろうに出て行こうとする。そのえりを、晴明はがしっとつかんだ。

「ぐぇっ」

 目を白黒させている岦斎のを、はうようなうなりがたたいた。

「待て」

 けほけほとき込みながらり返る男に、晴明は半眼を向けた。

「いま私がなんと言ったか聞いたか? 聞いていたか? 聞こえていたか?」

 首をでながら青年はけろりと答える。

「明日の昼に届ければいいんだろう。そのあとだったら問題ないじゃないか」

「私は『それ以外にもやるべきことがある。遊んでいる暇はない』とも言ったぞ。お前の耳はかざりか、それともただの穴か」

 と、岦斎はおおぎようりで両手を広げた。

「晴明。考えてもみろ。一年に一度の賀茂祭の日に、何が悲しくてやしきにこもっていん作りにいそしむんだ。あのさんさんと降り注ぐ太陽のもとで、きらびやかな行列を見て目の保養をしたほうが、よほど健全かつ建設的じゃないか! ついでにとても楽しいぞ!」

 目をかがやかせて演説する岦斎に、晴明はろんまなしを向けた。

「……楽しいか?」

 岦斎はこぶしにぎめる。

「楽しいに決まっている! たぶん!」

 見たことがないくせに自信満々である。

 期待に胸をふくらませて目を星のように輝かせているどうりようを見ていると、付き合わなかったら後々までうらみ節を聞かされそうな気がしてくる晴明だった。

 幼少時に父に連れられて何度かあおいまつりの見物をしたことはある。だから、どういうものか晴明は知っている。

 正直言って、あまり行きたいものではない。

 見るだけだったられいだ。見るだけだったら。

「よし、明日昼になったらむかえに来るから、それまでに終わらせておくんだぞ、晴明」

 びしっと指を差されて命じられた晴明は、半眼になった。

「…………好きにしろ」

 反論したとてどうせだ。この男は実にじようぜつで、口論している内に気がつけばまるめこまれていることがほとんどだ。

 ようようと去っていく青年の後ろ姿を半ばあきれて見送りながら、晴明は深々と息をき出した。





  ◇ ◇ ◇

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