第一章_2
あれか。
ああ、あの男だ。
異形とは。
狐。
だが、どう見てもただの人間だ。
見た目はそうだが、中身もそうかはわからん。
人のふりをしているのではないか。
狐なら、化けるくらいわけはない。
気をつけろ。
気をつけろ。
あれは、化け物の子だ────。
手にした布の包みの中身は料紙と、
水を
それを気力で持たせて
誰のものかはわからない
「……何をいまさら」
化け物なのは、百も承知だ。
何しろ自分は、半分だけ狐の血を引いた、まったき人外のものである。
門前で立ち止まり、彼は
物心ついてからというもの、言われつづけて早十何年。いい加減慣れるというものだ。
それに、彼が赤子の頃に
どんな人だったのか、幼い頃は父に
その父はといえば、いまでは
晴明が十五で
──私はひとりで暮らすから、お前もひとりで
そう言い残して阿倍野に向かった父を、彼は半ば
愛されていないわけではない。それどころか、父は彼をとても大事に育ててくれた。
年に何度かは邸に
つい先日もふらっとやってきて、三日ほど滞在して帰っていったばかりだった。
ひとり住まいになって、五年ほど
父はどうやら、それを確かめるために顔を出すようだった。気にかけてくれているのだろう。ならばなぜ自分をひとり残して阿倍野に移り住んだのかと時折考えるが、だからといってそれを問うたことはない。聞いても何にもならない。ならば、あえてする必要もないだろう。
門をくぐって
しかし、今日は
晴明は立ち止まった。
部屋の
『……ああ、晴明』
ゆるゆると
「まだいたか」
女は口元に手を当てて面白そうに笑う。
『つれないことを…。昨夜限りの
「そのつもりだ。
すげなくあしらわれた女は、
『……寂しい
彼は
「慰めてやったのはどちらかな。人の
女の
すっと立ち上がり、はだけていた
『言葉を
開け放たれていた妻戸から
険のある顔でそれを見送っていると、蔀の
「……まったく、えらいのと
「よく取り殺されないもんだ」
「いっくら同属でも、俺たちだって
口々に言い
「お前たちも失せろ」
雑鬼たちは顔を見合わせて、ぱたぱたと出て行った。
しんと静まり返った邸に、ようやく彼はひとりだけとなった。
安倍晴明は、異形の血を引いている。
だからなのか、異形のものたちがこの邸には多く出入りするのだった。
出入りするだけならいいが、時々相談事を持ち込まれてみたり、言いがかりをつけられてみたり、一夜限りの情夫になってみたりと、なかなかにせわしない。
中でもあの
彼女は異形だが、
あの女に
何しろ、姫御前は決して口を割らないが、自分は確実に誰かの身代わりだ。
熱に
情はあるが、人間らしいあたたかさや思いやりとはかけ
いままでは。
適当な
「
料紙で作った式に手伝わせて
彼がうんともすんとも言わない間に、来客はぱたぱたと軽快な足音を立てて廊を進んでくる。
「おお、いたいた」
舌打ちしながら
「……勝手に上がるなと、言っているだろう」
「返事が聞こえたから上がったんだが」
「私は返事などしていない」
「そんなことはない。俺には聞こえたぞ、晴明」
晴明は、思わず
「………それをなんと呼ぶか知っているか、
肩を
「なんだ?」
がばっと顔を上げて立ち直った晴明は、岦斎を
「思い込みだ空耳だ
「いやいや、確かに聞こえたぞ。こんなふうに」
口の横に両手を
「
晴明は額を押さえて低く
「……お前、全部自分で言っただろう」
「俺ではない。この邸にいる何かか誰かの声を、心を込めて代弁したんだ」
何もいないし誰もいない、と
気持ちを
「あっ、おい、晴明?」
だかだかと進みながら、晴明は
「仕方がないから、酒のひとつも出してやる。飲んだらさっさと帰れよ」
この男は、どれほど
晴明のあとを追ってきた岦斎は、にやりと笑って手にしていたものを
「安心しろ、
晴明は
何度か候補には挙がっているのだが、そのたびに理由をつけて断っている。
師の
いまも独学で学んではいる。安倍家には必要な書物が必要なだけある。それに、父が賀茂氏と交流があったため、幼少の
持参の
「なあ晴明、お前もやらないか」
「いい。仕事がある」
墨をするのに使っているのは、朝方入手してきた
二、三日前、
それも、身につけたり持ち歩ける程度の小さいものが望ましく、家人全員分、とのことだ。
その貴族には妻が何人もいて、子どもも何人もいる。両親も健在、さらには
相当な量だが、受けてしまったからには作らなければならない。期限は
晴明が作る護符は
晴明の
晴明とても、正当な
それがまた噂になって、毎日のように護符を作る生活になっていた。
さらさらと筆を走らせながら、横に積んである書物を
すべて
忠行は晴明に大層目をかけてくれている。自分の持つ異能の力を持て余していた晴明に、その使い方を教えてくれたのが忠行だ。そのことには本当に感謝している。
だが、彼はそれほど
それは勤務態度にも表れている。やらなければならないことはこなすものの、それ以上はやらない。
いつもひとりで過ごし、退出時刻にはさっさと帰る。
おかげで晴明は
そんな中、人嫌いの晴明に、平然と近づいてきた者がいた。それが、のんきな顔で土器に酒を注いでいるこの男だった。
「おおい、晴明。酒がだめなら
「…………」
筆を
晴明は大きく深呼吸をした。
平常心、平常心。
「いらないと言っただろう。勝手に飲んで気が済んだらさっさと帰れ、岦斎」
土器を
「さすがだなぁ。資料も見ずにそれだけの種類を書き分けられるとは。俺も見習わねば」
この春、年明けとともに
安倍晴明は、ずば抜けた力を持っているのに、まともに
酒が入って
異形の子だというが、見た目は
だが、嫌な感じはしなかったから、声をかけたのだということだ。
あとになってから、あの時どうしてさっさと席を立ってしまわなかったのかと、晴明は
そうしていれば、こんなに
気を取り直して護符製作をつづけている晴明に、岦斎はめげずに
「なあ晴明、明日は確か休みだろう」
「────」
晴明は構わず、さらさらと筆を走らせる。
「明日は
「────」
さらさらさら。
「というわけで、案内してくれ」
「───は?」
それまでずっと流れるように動いていた筆先が、ぴたりと止まる。
思わず
「いやー、楽しみだなぁ
「待て。私は行くとは言っていないぞ」
「
「それは、明日いっぱいかかるのか?」
作業に専念するべく手元を
「明日の昼には届けないといけない。それ以外にもやるべきことがある。遊んでいる
すると岦斎は、こともなげに言った。
「なんだ。じゃあ終わってから祭り見物に
「ぐぇっ」
目を白黒させている岦斎の
「待て」
けほけほと
「いま私がなんと言ったか聞いたか? 聞いていたか? 聞こえていたか?」
首を
「明日の昼に届ければいいんだろう。そのあとだったら問題ないじゃないか」
「私は『それ以外にもやるべきことがある。遊んでいる暇はない』とも言ったぞ。お前の耳は
と、岦斎は
「晴明。考えてもみろ。一年に一度の賀茂祭の日に、何が悲しくて
目を
「……楽しいか?」
岦斎は
「楽しいに決まっている! たぶん!」
見たことがないくせに自信満々である。
期待に胸をふくらませて目を星のように輝かせている
幼少時に父に連れられて何度か
正直言って、あまり行きたいものではない。
見るだけだったら
「よし、明日昼になったら
びしっと指を差されて命じられた晴明は、半眼になった。
「…………好きにしろ」
反論したとてどうせ
◇ ◇ ◇
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