【無料試し読み】結城光流『我、天命を覆す 陰陽師・安倍晴明』

KADOKAWA文芸

第一章_1

 


 生者のわたれない川がある。

 命きたのちに渡る川がある。

 それは境界の川。

 あちらはがん、こちらはがん

 川の彼方かなたに在るのはめい

 転生の輪に再びもどるため、たましいが向かう場所。

 人はいつか、この川を必ず渡るのだ。




 ならば。

 人としようはざに在る者は、果たして川を渡れるか。

 それとも。

 人にあらずとこばまれて、化生のようにえいごうやみ彷徨さまようか。






    一





 さして高くはない身分相応の小さなやしきには、ではないが品のよい調度品がそろっている。

 それらを横目に見ながら、そのきんだちは口を開いた。

ひめ。私の心にうそいつわりなどありません。必ずやあなたを、この国……いいえ、この世でもっとも幸せにして差し上げましょう」

 部屋を仕切るふたつのちよう。帳の向こうにともされたとうだいの明かりがゆらゆらとれて、かくれた姫のかげもまたかべおどる。

 ずっとかれているこうのしみついた部屋には、その甘いかおりがただよっていた。

「おこたえいただけませぬか、姫よ…」

 言い差して、公達はふと微笑ほほえんだ。

「それでも、私がおくったその香は、焚いてくださっている。……私の気持ちを、少しでも受け入れてくださっていると思っても、よろしいか」

 返答はない。

 公達は構わずにつづけた。

「もうじきあおいまつり。邸にこもっていては体に毒というもの。ともに祭見物に参りましょうぞ」

 公達はそう言って、目を細める。

「さぞかし美しいでしょう。姫もはなやかなよそおいで出かけるのがよろしい。……もし、私とともにがおいやでしたら、おひとりでも行かれませ。美しいものをご覧になれば心も華やいで、思いの向きも変わるやもしれませぬゆえ」

 ひと呼吸置いて、公達は言いえた。

「あるいは、姫ご自身のさだめに、気づかれるやもしれませぬ」

 几帳の向こうで、かすかなきぬれがした。

「……さだめ……?」

 弱々しいこわが帳の向こうから発される。公達はうれしそうにうなずいた。

「左様。この世に生まれる以前に、姫が選ばれたさだめ」

「そのような、ものは……」

 か細い言葉をさえぎって、公達は断言した。

「あるのです。決してたがえぬと天にちかい、その命に刻んでこられた」

 細められた目の奥で、深い色のひとみあやしくかがやいた。

「そう、それは。まさに天命と呼ぶべきものなのですよ、姫」

 公達はそのまま、几帳に手をかけようとした。しかし、足音が近づいてくるのに気づいてやめる。

 辞去のむねを告げ、公達は立ち上がった。

 彼が去ってからようようして、弱々しいつぶやきが落ちた。

「……天命…………」

 両の手で顔をおおい、力なくかぶりる。

 とうに、知っている。天命は、さだまっている。

 だから決して、あの公達のもととつぐことはない。

「…私は……もう……」

 さだまっている。げることは、できないと。





  ◆ ◆ ◆





 ふと、風とともに、花のかおりがき込んできた。

『───せいめい

 音もなく開いたつまの向こうから、すずを転がすようなひびきの、ようえんな声がしのび込んでくる。

 呼ばれた名は確かにおのれのものだが、応えることにていこうがある。

 聞こえなかったふりをして、とうだいの明かりをたよりに手にした書物をっていると、ふっとほのおき消えた。

 彼は舌打ちした。花の香をまとったころもがするするとすべって、彼のかたわらに止まる。

 花はきらいではないが、取り立てて好きでもない。ほのかなかぐわしさはそれなりに好ましくはあるが、毒々しさをふくんだ香りは、どちらかといえばけんに近い感情をいだかせる。

 明かりの消えたくらやみの中、花の香りをまとった細いたいが、しなだれかかってきた。

 衣を通しても伝わる体温。熱いいきが首筋にかかる。

 晴明は息をつき、女のあごに手をえた。





 体と心はうんざりするほど別物だなと胸の中でつぶやきながら、額に手を当てる。

 明かりはないが、闇に慣れた目は物のりんかく程度は判別できるようになっていた。

 女のたけより長いかみが、あせばんだうでむなもとにまとわりついて、それがうつとうしい。

 気だるさを覚えながら、ちらと視線をすべらせる。

 情事の最中もそうだが、こうして身を横たえているときも、会話らしい会話はろくにわさない。女はこちらに背を向けて、首筋や背に張りつくうねる髪をそのままにしている。

 しんえんの底と呼ぶのが相応ふさわしいほどのくらやみの中にあって、女のはだみようき立つほど白いのだった。

 晴明は、ちよう気味にくちびるを片側だけつりあげた。

 だるく、体が重い。この女と肌を合わせたあとはいつもだが、回を重ねるごとにそれがひどくなっていく。

 彼はその理由を知っている。女の性はいん。体を重ねればいやおうなしに生気をうばわれるのだ。

 しかし彼は、こばむことをしなかった。拒む理由もなかったからだ。

 生にさしたるしゆうちやくはない。このまま吸いくされて命尽きても、それもまた一興。

 だが、思いに反して自分はまだ生きている。奪い尽くされる気配もない。存外この身はしぶといようだ。残念なことに。

 死ぬほど奪われるとは、どのようなものか。興味がないと言えば、それはうそになる。だからといってすぐさまためしたいわけでもない。機会があればそのときでいい。

 その程度だ。

「……吸い尽くされる、か……」

 ひっそりと呟いた晴明ののうに、ふと異国の伝承がよみがえった。

 海をえた大陸の、さらに奥深く。果てしない道の彼方かなたに、命を吸い尽くすものがいるという。それは想像できないほどのおそろしさを持っており、なまなかな手段ではたおすことはできないと聞いた。それ以上はわからない。果たして本当に存在しているのか。いや、伝承があるということはその元になった何かがいるはずだ。この世に不死の存在はない。人も、あやかしも、神ですらそれからのがれることはできない。ならば、その魔物にも何か有効な手立てがあるはずだ。

「…………」

 しかし晴明は、そこで考えるのをやめた。

 倒す手段を講じてなんになる。時間のだ。

 ねむりに落ちるのか、意識を失っていくのか、その判別すらつかない。

 かたわらの女は身じろぎひとつせず、呼吸する気配も感じられない。聞こえるのは己れの心音と息づかいのみ。

 いっそ女が氷のような肌であれば多少はおもしろいかもしれないが、さすがにそれはない。少し低めの体温は、はだを夜気にさらしているからだろう。

 つきの夜ははだざむいほどでもない。

 づかってやる義理もないので、晴明はそのまま目を閉じる。まぶたの裏もしんえんやみだ。

 明日あしたは早い。急な来訪で予定がくるった。

 さんだい前にしなければいけないことがあるのだ。めんどうだが、仕方がない。

 出仕も面倒だが、これも仕方がない。

 仕事より面倒な男がいるのだが、あれはどうにかできないものか。

 さんまんな思考は、やがて暗い水底のような場所にしずんでいった。





  ◇ ◇ ◇

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