十五センチの距離の差で、この握手を十秒続けてしまったら、僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに一年間考えた上での、やや気恥ずかしい結論のようなもの

糾縄カフク

逢坂48

「私、須野凛々子すのりりこは、アイドルとしてではなく、一人の人間として結婚します! ……皆さん、今まで応援してくれて、本当にありがとうございました!」


 壇上で朗らかに語られる少女の言葉に、多分ほんの少しだけ僕は狼狽し、それから暫くの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。スローモーションで流れる映像が、どこか他人事めいて漫然と流れ、会話を振ったアナウンサーは焦燥し、慌てふためく周囲のスタッフが、どうしたものかと顔を見合わせている。掲げられた幾千のペンライトは行き場を失い千々ちじに乱れ、それらは僕ひとりを空洞の中心に取り残して、反響し呪詛の様に辺りを埋めた。


 おかしい。ここは、ここ難波は、僕たちにとってはホームだった筈だ。年に幾度と無く通い、観劇し、お金を落とし、アイドルの卵たちを見守って、そして育んだ聖なる場所。関西はお笑いだけじゃないのだ。ここにだって天使はいるのだ。それが分かった時、やっと僕たちだけの箱庭ができた時、言い知れぬ高揚感に包まれたあの瞬間を、僕はまだ覚えている。だから、だから、こんな――。


 無論。現実の非情はとうに知っている。彼女たちが一人の人間であること。きっと彼氏だってちゃんといて、世間の女の子かそれ以上に、清純でなんかあり得ないこと。そんな事は分かっている。いい年こいた大人が、誰がサンタクロースを信じて、ミッキーマウスが実在するなどと真顔で宣うだろうか。だけれども、それでもお互いに幻想である事を了承した上で、エクスキューズを取った上で、目の前のショーを、一種のロールプレイングを楽しもうというのでは無いのか。だってそうだろう? パレードの最後に、被り物を取るミッキーマウスがどこにいるっていうんだ。そんな事をしてしまえば、あの夢の王国は、一夜にして星の屑と化し崩れ去るだろう。


 だからとどのつまり、畢竟ひっきょうするに。いま目の前で起きているのはそういう事だ。万雷の喝采のなか執り行われる、グループの一位を決める神性な儀式。彼女を応援し、その為に私財を投じ、一つでも順位を押し上げるべく奮闘する数多のファンと、それに応える四十八人のアイドル。これはそういう真剣なゲームだ。少しでも嘘偽りを感じてしまえば一瞬で興ざめする、馬鹿馬鹿しくも熱い大人のゲームだ。だから没頭するファンたちも、応援されるアイドルも、皆が皆、本気になってまっすぐに天辺てっぺんを目指す。忘我の中ペンライトを掲げ、かくあれかしと大声で叫ぶ。


 だけれど彼女は、壇上の彼女は、そのロールを自ら脱ぎ捨てて微笑んでいる。パレードの最後に、興奮の絶頂に被り物を外して、それで平然と佇んでいる。いったい何が起こったのか。こめかみを鈍器で殴られたような衝撃から立ち直る術もなく、ふらふらと僕はよろめいて崩れ落ちる。


 ああ。いつからこんなになったのだ。いつから。どの時から。はじまりはほんの十五センチだった。僕と君とを隔てる距離は、僅かそれだけの――。それがいつから、こんな。手の届かない何かになって、幻想すらも打ち砕かれ終幕を迎えてしまうのか。必死で買い集めたCD、握りしめる彼女の手。汗ばんだ温もり。そして人波に流され分かたれる刹那に、ほんの一瞬だけ、僕だけに向けられる、満面の笑み。あれにひたすらに僕は恋焦がれて、ほんのたった三秒を買う為だけに、馬車馬の様に働いてきた。それが、それが今はなんだ。結婚、脱退? ――いやそれはいい。分かっている。そんなものだ。誰だっていずれアイドルを辞め、然るべく人と結ばれる。それでいい。そうあれかしと切に願う。でもなんだってそれが今なのだ。今この時でなければならないのだ。一位には届かないにせよ、大健闘の二十位。確かにそれは、天辺てっぺんを目指す彼女にとっては不服かも知れないが、それでもいい。せめてプロとして、プロとして最後まで幻想を見せて欲しい。少なくともそう願っていいぐらいの出費は重ねてきた。だのに、だのに――。


 走馬灯の様に巡る思い出が、これまでの軌跡を呼び起こす。――僕が初めて彼女と出会った暑い夏の日の、それ以上に熱い地下ライブの一幕を。




*          *




 ――逢坂ASK48

 秋葉原の地下アイドルを母体とし、その爆発的な人気が地方に飛び火し生み出された姉妹グループは、府内の坂に因み「逢坂」と名付けられ、巷ではASKとして親しまれていた。往年のモー娘よろしく、数多のオーディションを経て集う珠玉の原石。斯くて赫奕かくやくたる成功を夢見踊るアイドルたちのその姿は、枯れ朽ちかけた僕の瞳には、文字通りの天使に映った。


 その中でもひときわ心惹かれたのが須野凛々子。当時高校生になったばかりの、ショートカットの少女だった。ロングヘアが鉄板のアイドル界にあって、短髪の我を貫く確固たる意志。そんなものが実際にあったかどうかは分からないが、とにかく僕は、幾重にも煌めくスポットライトの中で、それ以上に輝いている須野凛々子に、心奪われたのだ。


 キャッチコピーは須野凛々子をもじってFalling Snow。だから真夏に降る純白の雪スノーハレーションと題され、彼女の歌は壇上に響いた。たどたどしいながらも透き通った声。燦然と咲くひまわりの野に、キラキラと降り注ぐ真夏の雪。それは少女自身の白い柔肌が見せる時折の冷淡と、その冷淡で以てしては押し隠せない若さのたぎりが、互いに綯い交ぜになりながら昇華する瞬きにも見えた。


 いっときペンライトを振る事すら忘れ、呆然と佇んだ僕は。次には思い出したかの様に大声で彼女の名を叫び、忘れていた分のライトを一斉に掲げた。ああこれがアイドルか。いやアイドルを目指そうとする少女の、心底からの情熱なのかと内心でむせびながら。




 ――僕の役職はコンビニの雇われ店長。うだつの上がらない中年を絵に書いた様な男で、腹は肥え太り、頭は禿げ、身体からは加齢臭が漂っている。大食漢という訳では無いのだが、食費を切り詰めてアイドルのおっかけに使っている手前、炭水化物の過多と仕事の不規則で、どうしても体型は崩れていく。おまけに輪を掛けて独身とも来ているから、バイトのJKのみならず、奥さんがたご近所の、周囲全般の陰口は当然の如く承知している。だがそれらを承知の上で、なお僕は、僕の趣味(最も生活を圧迫している以上、健全なものとは言い難いのだが)を、止めるに止められないでいた。


 人曰く、そんなに女の子と仲良くなりたいのなら、ジムに行って痩せるなり自分磨きでもすればいいじゃないかとはしたり顔だ。だが冷静に考えて欲しい。そもそもが並以下のスペックの僕が、必死にジムで体を鍛えた所でどうなるだろう。頑張って背伸びしても所詮は並以下、世の一般女性ですら振り向いてくれるかは一向に怪しい。おまけにここに育毛やらデオドラントに割く費用も加味すれば、到底雇われ店長の収入では立ち行かない。つまり要するに、そもそもが何もかも絶望的に手遅れなのだ。ここからどう足掻いた所で、恋人として僕が美少女と手を繋げる瞬間は、たぶん一生おとずれる事はない。


 しかして、だ。アイドルの握手会ともなれば話は別腹。CDを買って券を手に入れさえすれば、僕のようなオッサンだって、合法的に彼女たちの側に立つ事ができる。――それも確実に、絶対に、一切の選外なく。それなら風俗で金を使えばヤれるだろうと宣う輩もいるだろうが、連中まったく何も分かっていない。確かに嬢ともなれば密接に肌と肌で触れ合えるし、お金を積めばそれ以上の事だって出来もする。だけれど彼女たちは飽くまでも夜の街の、名も知れぬ月下の蝶である訳で、一度お店を離れてしまえば、その先どうなったかなんて一向に分からないのだ。


 その点アイドルはどうだろう。彼女たちは太陽の下で咲きそよぐ繚乱りょうらんたる花々で、だから僕たちの犠牲がきっと糧になるのだと信仰し得る。応援した成果が人気投票に反映され、推した子が徐々にセンターに寄って行くのは感極まる至上の歓喜。それらは差し詰め、我ら糞尿の肥やしが産む肥沃なる大地。いわんや美しきミューズたちの礎となり、僕らの醜悪なる死体の上に美しい花が芽吹くなればそれで結構と、かくなる決意で以てアイドルのおっかけに参じている狂信者フリークスだ。今更一般人のごもっともなクソ正論を耳にした所で、そんなものは馬耳東風の空理空論に過ぎない。


 だから僕は昼夜勤を問わず業務に勤しみ、ただ週末に訪れるASKのライブだけを楽しみに生きている。週の六日殺し続けた瀕死の心を、僅か一日に集約して解放する。或いは花に集うミツバチが蜜を啜る様に、アイドルから発せられるエネルギーを噛み締めて明日の糧へと変えている訳だから、これは最早世のバンピにとっての旅行だとか、デートだとか、そういうものに類する精神安定剤の一種なのだ。


 そりゃあ勿論。夢の中でイフの物語を想像しない訳では無い。理想と妄想をつまびらかにすれば、アイドルたちの様な美少女と結ばれ、幸せな家庭を築きたいと切に願うのは至極道理だ。だけれど現実はかび臭い六畳間。カップ麺の残りかすやそれに群がるゴキブリが這うボロアパートに、天使の舞い降りる隙間は一ミリも無い。


 豚だキモいと後ろ指を刺され、俯く様に生きてきた四十余年。愛される手段も方法も一向に分からないが、働いて金を稼ぎ、CDを買えばアイドルたちと同じ空間を共有できるという事実だけは辛うじて分かる。そうなれば無心になって業務に励み、諭吉を積んで推しの子を応援しようというのは、悲しいかなされど尚、今の僕に取り得る唯一の方策だろう。なにせ逢坂48は、人生で何もなし得なかった僕の代わりに、何かを為すであろう少女たちが駆け上る、シンデレラの階段なのだから。




 そうしてやってくる地下ライブ。臭気と熱気に塗れた空間で、共に汗を流し歌うASKの面々。モー娘の時代から徐々に距離が離れてしまったアイドルと、もう一度ファンとの距離を縮めようというコンセプトの元に生まれた地下アイドル。だから彼女たちと僕らの距離は、手を伸ばそうと思えば届く程に近い。加えて武道館の様に広く開かれた会場では無い、狭く暗い地下の一室で、同じ空気を共有しているという密な実感。この親密感こそ、一度は下火になったアイドルブームを、もう一度社会現象にまで引き戻した要因と言えるだろう。


「S! N! O! W 凛々子ー!!!」

 ペンライトを掲げたファンたちが一斉にウェーブを作り、一瞬だけセンターに躍り出た凛々子に続く。勿論その輪の中には僕も含まれている訳で、事前に打ち合わせた通りの見事な曲線が列をなす。一時的な忘我、すなわちトランス状態に陥る事で、日常のストレスを発散させるという行為は、かつては祝祭という形で日本に根付いていたとは言う。だとすればこれは、僕にとっての心の洗濯、ソレそのものなのだろう。こちらに視線を送った凛々子も、また満足げにターンして後列に戻っていく。


 若さ、そして美貌によって裏打ちされた確固たる自信。この時期の少年少女が持つ輝きの中で、ひときわ光る才能を選り直ぐって集められたASKのメンバー。僕にはそれが羨ましく眩しくて、或いは自身の遺志を託す様に手をかざす。もしかしたらその輝きは、数年後には諦めに色あせてしまうのかも知れない。現実に打ちのめされ、羽ばたく事なく地に落ちてしまうのかも知れない。だけれども、最初の輝きすら持つ事の出来なかった僕にとっては、卵から孵り、今まさに空へ発とうと藻掻く彼女たちの有り様は、やはりどうしようも無く尊いものの様に思えた。


 やがてアンコールの拍手と共に、舞台へ出てお辞儀をするメンバーたち。ここからステージは握手会へと移り、CDの購入と引き換えに得た握手券を片手に、僕たちは列に並ぶ。商品一枚につき、一回の握手。制限時間は三秒間。長蛇の列をさばくため、ほとんどが流れ作業の様にスタッフの警備のもと執り行われる。当然やんごとなき事件を警戒し、手荷物は一時的に預けられ、アイドルに語りかける時間など露程もない。少しでも引き延ばそうと画策するものなら、スーツを着て待ち構えるアルバイトたちに「立ち止まらずにお進み下さい」と叱責を受けるのだ。ブラックリストに入れられたくない僕は、代わりに十枚のCDを買う事で複数回の握手権を得るように心がけていた。


 ――複数回、というのは文字通りで、要するに一巡した後、さらにもう一巡、輪をかけてもう一巡と、枚数のある限りアイドルたちとの握手ができるというものだ。しかも十枚ならチェキ権も付くから、最後に推しメンの写真も貰える、だから長い言葉を投げかけて警戒されるよりも、さも紳士然と振る舞いつつ彼女たちとの時間を作ろうなる浅はかな画策も、あるにはあった。


 そうこうするうちに高鳴る鼓動、脂ぎった肌から滴り落ちる汗。徐々に近づくSNOWとの距離。一歩、一歩。肩と肩が触れ合うような、もう僅か十五センチの排他域。本来なら家族か恋人でなければ侵入できないプライベートゾーンに、僕は足を踏み入れ凛々子との握手を待つ。実際には待つという程の時間すら無く、一瞬で過ぎ去る走馬灯の様な刹那に過ぎない訳だが、幾度繰り返したとて変わる事の無い緊張と高揚感に、我ながら内心で苦笑する。


「いつも応援ありがとうございます!」

 屈託のない凛々子の笑みに促されるように、彼女の小さく細い指の、数倍は太ましい僕の指が、いっときだが絡み合い温もりを交わす。もう先に並ぶ何人もの握手を経たそれは、じっとりと汗ばんではいたが、それでも不思議と、僕の薄汚い汗なんかより格段に綺麗に思えた。いわんや恋い焦がれる人の体液ともなれば、人は喜んで愛するものなのだろう。


「が、がんばって」

 ところがせいぜい掛けられる言葉はそのくらいだ。汗でびっしりと肌に張り付いた、LLサイズのSNOWのTシャツに、身につけた凛々子グッズの数々。流石に月に数度は顔を合わせるとあって、向こうも向こうで多少は覚えていてくれる筈と不相応なポジティブシンキングを発揮しながら、僕は僕の脳裏で描いた数十分の一も格好いい言葉を口にできず、それどころか噛みさえして、俯いたまま押し寄せる人波に流されていく。差し詰めそれは、応援ライブで上京した東京の、有無を言わせぬ山手線の通勤ラッシュだ。「あ、あ」と呟いたままスタッフに荷物を手渡された僕は、次の握手でと頷き直し、徐々に少なくなっていく複数回の列に並ぶ。


 こうして握手会は巡る様に繰り返され、その度に人影は減っていく。これこそが複数枚購入者の特権でもある訳で、だからというべきか、社会的に見れば実に低いカーストの中で、それでも僕らは、同じ穴の狢からは羨望の眼差しを向けられる立場にあるのだった。


「また会いましたね! ふふ」

 疲れなど微塵も滲ませずに、満面の笑みを振りまいてくれる凛々子。こんなことは普段の日常ではあり得ない。客どころかバイトのJKにすら汚物を見る様に蔑まれる陰惨な日々。この空間で仮初の肯定をされたからと言って、何が変わる訳でもないのだが、この特別感に酔いしれて足繁く通うようになるファンたちも、少なからずいる事は確かだ。それはそう、例えばここに立つ僕の様に。


「う、うん!」

 自分では精一杯のつもりの、だけれど慣れていない所為で酷くぎこちない、いうなれば気持ち悪い薄ら笑いを僕は返し、この輪廻がもっと長く続けばいいのにとささやかな願いを込めて終わりまでの時を過ごす。


 或いはそれが、僕と彼女を取り巻く関係性の全てだった。握手の時の十五センチ――。ただそれだけの繋がり。純愛かどうかも分からないし、恋愛かどうかも分からない。だけれど単にのめり込んでしまった僕は、だからか唐突に糸を切られた哀れな人形の様に、床に崩れ落ち、突きつけられた現実と対峙する他はなかった。




 凛々子が結婚を発表してすぐ。ファン以上に激怒したと思しき元メンバーたちの反応を始め、界隈は暫く炎上の様相を呈していた。ファンを小馬鹿にする凛々子の、大昔の映像が発掘されアップされ、それを見た仲間たちは憤懣ふんまんやるかたないといった風に肩をすくめた。ネットでも賛否両論は拮抗し、案の定と言うべきか、僕らアイドルヲタをキモいと揶揄する市井しせいの声も、聞き慣れた論調で耳に入る。


 勿論ファンたちの反応も様々だ。憤って発狂する者もいれば、諦観と共に凛々子の幸せを祈る者。僕はと言うとどうだったろう。仕事も手につかなくなり、遂にバイトの子たちにすら心配される顛末と相成った。だが逆に考えるのなら、普段は僕を小馬鹿にしていた女子高生も、存外に根は優しく、僕が決めつけていた程の悪意の塊ではなかった事が僅かながらに分かり、それだけは辛うじての収穫とも言えた。


 これまで仕事を休む事はなかった僕だが、しばしば体調不良を理由に早退を繰り返し、空いた時間でネットサーフィンに身を投じた。目を瞑って見ようとしなかった凛々子の裏話。スキャンダル。掲示板の落書き。アイドルを悪く言う人間はどこにだっているから、敢えて耳を塞ぎ、応援に没頭する事で忘れようとしてきた不都合な真実。いやいや、煽ってビュー数を稼ごうとするアフィブログの百パーセントが真実だなどと誰も思わないが、それでも何か握りしめる糸が欲しくて、僕は日々の数時間をPCの前で過ごしていた。


 ――そんな時、ふと。

 検索結果に並ぶ凛々子の写真の中に、見慣れた、懐かしい、だけれども鮮烈な、そんな風に記憶に残る一枚が、ふと目に留まった。それはスノーハレーションを発表した直後のライブ。初めて任されたソロソングを、歌い終えたあと泣き崩れる凛々子の姿だった。


「嬉しくて、嬉しくて」

 あの時彼女がそう反芻した事を覚えている。普段はそっけない表情で、どこか冷淡さすら漂わせていた彼女の、それが多分、公の場で流した初めての涙。


 ああ、自分はなんでこんな事も忘れていたんだろうと頬をつねる。あの時の彼女の「嬉しい」が、嘘偽りだった訳が無い。心の奥底からの本音で、だから滾々こんこんと、あんなにも美しい涙が溢れ出たのだ。


 ――結局、真相なんて分からないか。

 分かる訳なんて全然ない。なにせ一握りのスタッフしか知らなかったという彼女の交際だ。それをなぜ、あの場面で問題になると分かっていて公言するのか。そんな事、たかが一ファンでしかない自分に、分かり得る筈もない。


 そう思った時、なぜだかふと急に肩の力が抜けて、僕は椅子にぐでんと身体を預けてしまった。こんな事をして何になるのか。分かりもしない真実を無闇に探して、いったいどんな結論なら、お前は顛末に納得するのか。自問自答を幾度か繰り返し、そうして問いの不毛に気づいた僕は、乾いた笑い声を部屋に響かせ、次に大きな溜息をついて項垂れた。


 しょせん自分は、凛々子にとっては蚊帳の外の存在でしかないのだ。数十万はたこうが、数百万を積もうが、そんなものは彼女の人生に何らの影響も及ぼさなかった。小汚い部屋の真ん中で、僕は僕の余りの虚しさにたまらなくなって、それでPCの電源を落とした。




*          *




 それから一年。凛々子は芸能界を引退し、しめやかに結婚式を挙げたらしい。あれだけの騒ぎを起こした後で、それも相手は一般人との事だから、本人の意志はどうあれ、もう復帰はありえないのだろう。或いはかくなる覚悟を決めた上での、本人としては熟慮に熟慮を重ねた報告だったのかも知れない。


 ともあれ相変わらず真相は闇の中だ。一時は週刊誌も騒ぎ立てたゴシップも、すぐに次の醜聞に上書きされて、騒動から一週間もする頃には、世間のニュースから凛々子の名は消えていた。やがて芸能界からも、ファンの記憶からも、彼女の存在は徐々にだが忘れ去られていった。


 かつてのファンたちは今は別の子をおっかけていて、僕はというと劇場からは足が遠ざかり、特段の趣味も無いまま、相変わらずコンビニの店長を続けている。まったくおかしな事だが、職務の復帰を促してくれたのは、他ならぬJKバイトの女の子で「アンタがおらんなったら、ウチら仕事なくなるやん」と毒づかれ、さんざんケツを蹴られた挙句、元鞘に収まっている。


「ふああ、んじゃウチ、休憩入るわ〜」

 気がつけば欠伸と背伸びを繰り返すJKバイトは、手を振ると詰め所に向かっていく。まあ都合のいい店長なのだという事は重々承知の上だが、この彼女も、秋には受験で店をやめるのだそうだ。上京してアイドルを目指すというのだが、うっかり趣味を看破されたのかと僕は身震いし口を閉ざしていた。


「お疲れ様。長めにとっていいよ。どうせ暇な時間だから」

 まあこんなサービスでもしないと、僕の居る店で働きたがる女の子も居ないだろうと頭を振り、僕はちょうど誰もいなくなった店内に目を向ける。ずいぶんと勝ち気な女の子だが、裏表が無い所為か、あれはあれで存外に客の人気を得ているのだ。


「はあ。あの子やめちゃったら、お客さん減るだろうなあ」

 思えば良い子だったのだと今更ながらに思い直し、隠れてファンでもやってやろうかと朧げに画策する。いやいやそんな姿を見られた日にはドン引きされるのも分かっている訳だから、妄想にと止めおき、僕はやっとやってきた一人の客に「いらっしゃいませ」と棒読みの挨拶を投げる。




 ――あれ?

 だが一瞬だが、どこかで見た様な既視感に囚われ、僕はもう一度かぶりを振る。或いは寝ぼけているのかも知れない。あんな綺麗な知り合いは、どう足掻いても僕の人生からは見つけられない。夏の暑さを感じさせない、麦わら帽子に白地のワンピース。それは或いは、真夏の野に咲くひまわりと、季節外れの白雪のコントラストにも見えた。


 喉元まで出かかった何かを思い出せないまま、僕はなんとなくその女性、いや少女といったほうがいいのだろうか。白い柔肌にショートカットを揺らす、懐かしくも見知らぬ誰かの背中を目で追っていた。向こうはこちらに気づかず、こちらだけが不審な視線をホーミングミサイルの様にひっつけている。


 ふと、彼女が足を止め、手にしていたペットボトルを床に落とす。どうしたのだろうと訝しむ僕の耳には、もう何度も聞いた歌が飛び込んでくる。


 ――スノーハレーション。

 たった一枚だけ、かつて応援していたアイドルが世に出したシングルの、そのイントロ。いい加減古いからやめーやと突っ込んでくるJKバイトを他所に、これだけは譲らずにかけていた音楽だった。そう、須野凛々子の……須野???


「凛々……子?」

 ぼそりとついて出た言葉に、びくりと背中を震わせた少女は、落としてしまった商品を屈んで拾い、麦わら帽を目深に被ると、表情を隠しながらレジまで歩いてきた。


 ああそうだ。

 一歩ずつ縮まる僕と少女の距離に、僕は僕の、既に過ぎ去った時の一幕を鮮烈に脳裏に描く。


 この身長、雰囲気、体型も何も変わっていない。須野凛々子だ。あの日結婚を告げ、そうして逢坂を、ASKを、芸能界を去っていった須野凛々子だ。SNOW、スノーハレーション……


 押し込められていた記憶が、堰を切った様に一瞬で溢れ出し、刹那にスローモーションに姿を変える周囲の時間に、戸惑いながらも思考を巡らす。


 ――お久しぶりです。いやおかしい。そもそも人違いかも知れないし、よしんばその通りだったとして、向こうが僕を覚えているとは限らない。一般人になった元芸能人に、寄ってたかる迷惑千万な人間にはなりたくないとせめてもの理性を働かせ、僕は辛うじて無言を保ったまま、眼前に立つ少女の、差し出された商品に目を落とす。


「ごめんなさい。それ、落としちゃって」

 たどたどしいながらも透き通った声、ああこれだ。何度も何度も聴いて焦がれた、あの声だ。


「お会計は158円になります」

 高鳴る鼓動を抑えながら、僕は小さな声でやっとのこと値段だけを口にする。


「それじゃ、カードで」

「はい、タッチをお願いします」


 淡々と交わされる極めて事務的なやりとりに、耐えきれない程に心臓だけがバクバクと鳴る。そうだこの距離、あの時と同じ十五センチ。だけれど今は、誰に急かされるでもない二人だけの時間。目の前の、恐らくは凛々子であろう少女に心だけを奪われたまま、僕は努めて冷静であろうと自らに言い聞かせる。


「スノー……ハレーション、ですね」

「は、はい」


 だけれど意外にも、先に口を開いたのは少女のほうだった。おどろいでまごつく僕は、何とか相槌を返したきり、一瞬硬直して何をすべきか忘れてしまう。


「……ありがとう、ございます……」

 ぼそりと少女の口をついて出る言葉は、心なしか潤んでいる様にも思える。


「は、はい……」

 掛ければいい言葉も分からぬまま、同じ相づちを返す僕の手に、俄に温かい何かが、ぽとぽとと滴り落ちる。


「いつも……いつも応援してくれて……」

 もうこうなれば確信でしかなかった。この少女は間違いなく須野凛々子で、僕は今、かつて憧れていた少女と同じ空間に立っている。ペンライトも音源も何もない、コンビニエンスの真ん中で、一人の店員と、一人の客として。


「が、がんばって……」

 ああ、やっぱりそれしか言えないのかと思う間もなく、ついてでた言葉は呆れ返るほどにあの頃と一緒だった。刹那にぎゅっと僕の手を握る彼女の手に、じわりと力が篭って僕はたじろぐ。


 ……

 …………

 ………………




 それが一瞬の出来事だったのか、或いは数十秒には及んだのか。少なくとも僕にとっては静止した時の中でスノーハレーションは止み、隣では怪訝そうな表情のJKバイトが、肘でこちらを小突きながら毒づく。


「なんや店長。またぼけーっとして」

「え?」


 はっとして辺りを見回す僕だったが、さっきまで居たはずの凛々子の影は形も無く、後には微かなひだまりの香りだけが残っていた。


「可愛い女の子来とったもんなあ。それで鼻の下伸ばして、アホちゃうか。あーキモ」

 やれやれと頭を振るJKバイトに、ふと僕は思った事をそのまま告げる。


「そういえば、アイドル目指すんだっけ?」

「なんや突然。せやで。上京して一山あてたる」


 予期せぬ僕の返しに驚いたのか、それでも鼻の下をこすりながら、えへんと胸を張ってバイトは応える。


「せやたら僕が、ファン一号になったろうか?」

「は? お手つきか? キモッ。 まあでもええで。長年の付き合いに免じ、一号になる事を許したらんでもない。せやから頭の毛が抜けきるぐらいにようさん貢ぐように」


 仕方がないなあと肩をすくめながら、JKバイトは僕の肩を叩いてくる。


「いやあ店長には、何から何まで世話になりっぱなしやなあ。あっはっは、でもアレや。ファンやって言われるの、なんだか妙に嬉しいわあ」


 ケラケラと屈託なく笑う彼女。ああそうだったなと思い返す。この笑顔が見たくて僕は、僕はアイドルのおっかけをやってたんだったなと。負ける事なんて微塵も考えずに、まっすぐに前だけを見れる若き日の、選ばれた者にだけ許される特権。眩しくて羨ましくて、だから心から愛おしくて、それで僕は、空を目指す雛たちの、せめて巣になれればと思ったんだっけ。


 音楽が止んだ店内に、一斉に外で鳴くひぐらしの合唱が聞こえて。そうだな、もう一度アイドルを追っかけてみるのも悪くないかなと、僕は天井を仰いでそう思った。気の所為か、振り返る事なく立ち去った凛々子の影が、こちらを向いて微笑んでくれた様な、そんな気が少しだけした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十五センチの距離の差で、この握手を十秒続けてしまったら、僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに一年間考えた上での、やや気恥ずかしい結論のようなもの 糾縄カフク @238undieu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ