血に濡れた土 火を散らす女体

しゃくさんしん

血に濡れた土 火を散らす女体


   一


 昨夜の雨で道端に沼のように広い水たまりができてそこに鼠の死骸が転がっているから蠅が気が狂ったように群がっていた。土と鼠の血とが混じって澱んだ水面に夏の太陽が激しく降り注いで毒々しいきらめきが散らばっている。

 その横を通り過ぎる村長は汗のじっとり滲む皺だらけの顔を掌で拭いながら、自分と鼠の死骸とを間違えているように頭の辺りを飛び回る蠅を手で追い払った。低い羽音がいくつも重なって聞こえてくるのが息苦しいほどの暑さをより一層濃くするようで彼は走り去りたいのであったが枯れ木のように痩せこけた脚と醜く折れ曲がった腰のせいで遅々と歩みを進めるしかなかった。それにこの村は生きているものよりも死んでいるものの方が多いほどに飢えている有様で蠅が飛び回っていない場所などないに等しく、村長がとぼとぼ歩いてそこを過ぎそれからまたしばらく歩き漸く目的の場所についても彼の周りに蠅が飛び交っていた。

 数匹くらいの蠅が近くを飛び回っているのは慣れたことなので村長は追い払おうともせずに、たどり着いた小屋のなかに入っていき疲弊で荒ぶる息を整えてから「おおい、犬次郎やあ」と大きな声をあげる。「はあい」と奥から高い声がして出て来たのはこの家の嫁のトメである。「あらあ、大じじ」村長を見て小さく会釈をして「どないしたんじゃ、こんな朝はように」と不安そうな眼をする。

 村長はトメの後ろに視線をやりながら「犬次郎はおらんのか」と尋ねる。「まだ涼しいうちに仕事済ますんじゃ言うてもう田圃行った」とトメが答える。村長は巨大ないぼのある鼻でふんと笑って「こないな日に朝も昼もあらんで、ずっと骨まで溶けそうな暑さじゃのに」「そや。あれは阿呆やからね。朝やったらそれだけで涼しい思うとる」トメはそう言って笑い牛のような肥えた腹を揺らした。

 この家は貧しいこの村のなかでもひときわ苦しいはずなのによくもまあこんなに肥え太っとると村長は軽蔑を感じ、この家ではこの女が食い物を独り占めするのじゃろう、だからこれの夫の犬次郎や娘のシホは痩せこけているんじゃろうとも思い、そう考えてやっと村長は今ここに来ているわけを思い出した。

「ああ、そうじゃ」と話し始める。「今晩な、人柱出すんじゃだ」するとトメも笑いをおさめながら「ああ」と頷いて、「もうそんな時期かね」「おう、そうじゃ」「なんやいっつもより早くないかん」「そうや。今年の竜神さんはいつ川荒らすや分かったもんやあらへんてミヤノババが恐ろしがるで、早いうちにするんじゃ」「ほう、そうかい。ミヤノババがなあ」トメはミヤノババという言葉をそれを口にするだけでお守りになると信じてありがたがるようにゆっくりと呟く。

 村長も同じような口ぶりで「おう。ミヤノババが、そう言いよる」と言い、それから少し言い辛そうに息をのんだ。そして意を決したようにひとり頷き口を開く。

「それでな、こんどの人柱にシホが選ばれたんじゃ」

 気まずさから弱々しい笑みに唇を歪めて言う村長に、トメは目を丸くして「ほお。そうかいな」と洩らし、「うちのでええんかいな」とかえって罰が悪そうに眉を下げた。娘が人柱に選ばれて涙を流さんかった母親はこいつだけじゃと村長は尊敬よりも再び軽蔑を覚えながら、それでもけろりとしている母親に向かって娘のために泣いてやらんかなどと他人の自分が怒鳴るのも可笑しいように思われ、淡々と事を運ぶのが良いと考えて「悪いわけないじゃろの。村の生娘ならええんじゃから。ほれに、ミヤノババが選んどんじゃからそれでええんじゃろ」と乾いた口調で言った。

 トメも悲しみを堪える様子すら見せずに「そんなら、うちのんでもええね。もうすぐ十六になるいうても、生娘には変わりないし。ああ、やっとあの子が人様の役に立つわ」と肉の重なっているのが衣の上からでも分かる腹を掻きながら言う。そしてあっと思い出したような声をあげて「あの子連れてこうか」と言うのを村長は「いらん、いらん」と慌てて止める。「別に今は連れて来んでええ、祭礼の時に連れて来てくれたらええんじゃ」

 トメは村長の慌てぶりを不思議そうに眺めて「せやけど祭礼て今晩じゃろ? 大じじが今もう連れてってくれて構わんのに」「いやあ、ええんじゃ。わしも今から色んなこと準備せんならんから忙しいんじゃ、シホの面倒見てられん」

 トメは村長の言うことには納得しても早々に帰ろうとする様子にはなにか裏を感じるのか訝しむような眼をしたが、村長はそれに気付くと尚慌てて、「ほな、犬次郎にもよう言うといてくれな」とだけ言い残し小屋を出た。

 呼び止められぬように慌てた素振りを装って村長は歩いた。土を不自由な足で掻くようにひょこひょこと進む、村長の急いだ時に特有の忙しない歩き方を彼は見せつけるようにやった。村長がかくも狼狽えるのは彼の秘密のせいであり、それがシホを前にしてトメに露見するのを怖れるのだった。

 村長はしばらく歩いて振り返りもう小屋が点ほどに小さいのを確認すると路傍の岩に腰を下ろして息をついた。そうして遠い小屋を眺めていると水が枯れた土に沁み込んでいくようにじわじわと胸に秘密が蘇ってきた。シホの身体の女らしいやわらかさがまるでそこにあるかのような生々しさで感じられ、その肌の月暈のような縹渺たる白さがまるで蜃気楼のごとく眼前に揺らめく。

 なにもかもを知らずに一日を小屋の庭で虫を眺めて過ごす娘を犯した。そのことも他人に知られるわけにはいかないが、その娘をミヤノババが生娘にしか任じられないはずの人柱に選んだこともまた秘密であると村長は思った。夫がおらずなおかつ白痴のシホを生娘だとミヤノババが当然のように考えるのは無理もないが、当然の考えしか抱けないのであればミヤノババは村で唯一の巫女などではないということになる。神の声を聞き取れずに俗の声に従う者がどうして神と同様に崇拝されようか。村長はそう思いながらもしかし、生娘ではないシホを人柱に選ぶミヤノババは神の声を聞く者ではない、などと村中に触れて回る気は起きなかった。人柱は生娘でなければならないというしきたりを知る者は、トメのさっきの反応を見ても分かるようにそれほど多くはないのであろうが、しかし老人のなかにはそのしきたりを深く信奉する者も多い。だからこそ村長は告発などできないのだった。老いぼれた胸に村の慣わしを破壊する熱はなく、なにより、それを叫ぶことは自分がシホを犯したことの自白になるのだから。

 村長は腰を上げて再び歩き出しながら、犯されてなお生娘として死なねばならず白痴ゆえに抗うことも母に悲しんでもらうこともないシホを想った。ただただ憐れむにはあまりにも自分の罪が重く、彼は胸の底から暗いかなしみが広がるのを感じた。そして、かなしみが深まるほど記憶のなかでシホは清らかに輝きはじめた。なにもしらない表情で自分のなにもかもをゆるしてくれているようだった。勝手な救済を拵えているように思って自嘲が口元に浮かんだが、それでもシホの無垢な姿は胸のなかでぼうっと明かりを放ち続けた。


   二


 犬次郎が田圃から小屋に帰ると嫁のトメが昼飯を作って待っていた。これまでトメがそのような嫁らしい行いをしたことはなかったので、犬次郎は無邪気に喜んで破顔した。「どうしたんじゃお前、昼飯なんか作りよって」犬次郎がトメの肩を叩きながら言うと、トメは陰険な笑みを口元に浮かべて「ええことあったんじゃ、嬉しいて昼飯つくったじゃで」すぐになにか裏があるのに気が付いた犬次郎の顔からふっと喜びが消えて、代わりに不安と懐疑の翳りが差した。トメはそんな犬次郎をにやにやと見つめながら「なんじゃと思う、ええこと」と言う。「なんじゃ」犬次郎が腰を下ろしながらぶっきらぼうに聞くと、トメは肌と肌が吸い付き合うほど犬次郎のすぐ傍に座って「当ててみい」と甘い声を出す。犬次郎はこんなトメは見たことがないと気味が悪く「ああ、鬱陶しいのお」と身を離し「ええからはよ言わんかい」とさっきよりも鋭い声で言った。

「シホが人柱に選ばれたんじゃ」

 トメが薄汚れた歯を剥き出しにして笑いながら「あの子もようやっと役に立つじゃで」と言う。役に立つというのは、人柱が出た家には次の祭礼まで村から特別に食糧の施しが与えられることを言っているのだろうと犬次郎は思い、シホが村のためとはいえ散らねばならないこともそうだがトメの態度も心臓を素手で荒く掴まれるように苛立たしく、わざと大きな音をさせて唾を吐いた。それを見てトメはますます声を弾ませて「なにを怒るんね。あの子はこのままおっても穀潰しじゃが、それが竜神さんの気持ちも和ませてうちらに楽までさせてくれるんじゃ。宝が空から降るような話じゃで」「そやけどの」犬次郎が抗おうとするが言葉が浮かばず口ごもるとトメは勢いづいて「なにが気に入らんか言うてみい、おい」と犬次郎の骨ばった肩を乱暴に押しさえする。元来臆病な性質の犬次郎はこうなるともうなにも言えないで項垂れてしまう。そして、トメがこうまで嬉々としているのは、シホが白痴であるのに加えてそのシホと自分の爛れた関係がありそれを嗅ぎ取っているからでもあろうと思うと、なおさらなにも言えずに、ただシホが消えてしまうことを唇を噛んで堪えるしかないと、悔しくて涙さえ目に浮かぶのだった。

 そうやってじっと俯いて黙り込んでしまった犬次郎に、トメはざまあ見ろというように高慢な笑い声を浴びせてから、村の中心を流れる洗濯場に行ってくると言って鼻歌さえうたいながら颯爽と歩き去った。犬次郎はその大きな背中を殴りかかりたいほどの怒りに震えながら見送り、姿が見えなくなるとなんだか気が抜けて怒りの疲れがこみ上げてくるようで深く溜息をついた。

 それから犬次郎は今更のように、今日がシホとの別れになるのなら少しでも長くその肌に触れてその甘い匂いを嗅ぎたいと、慌てて立ち上がり焦燥で震える足を縺らせながら小屋の裏の庭に飛び出した。

 陽ざしが照り輝いて光と影の濃い庭で、シホは座り込んで地を這う虫をぼうっと眺めていた。犬次郎はそれを見つけると倒れ込むようにしてシホへ飛びついた。なにが起こったのか分からずに澄んだ目を力いっぱい見開いているシホに、犬次郎は覆いかぶさって獣じみた荒い息を吐きながら唾液のこぼれそうなほど弛緩した唇でシホの唇を吸いその瑞々しさに全身を震わせた。

 シホのほっそりした首に舌を這わせながら、このまま噛み千切りたいと欲情するほどに肉体の底から昏い熱が吹き荒れるのを感じる。犬次郎は首に噛みついてシホが死体になるのが恐ろしく、かわりに彼女の掌の可憐な丸みを噛み、それからごつごつとして罪人のそれのような自分の掌をも噛んだ。シホの白く小さな掌からたらたらとあざやかな血が流れそこに陽の光が降ってきらめくのに犬次郎はうっとりして、自分の血に濡れた掌と彼女の掌とを繋いだ。掌が火を掴むように熱く鋭い痛みもその熱のなかへ溶けていく。自分の掌とシホの掌とがぬるぬると絡む狂わしい感触に犬次郎は酔いしれながら、シホのなかに流れる自分の血が自分のなかに還るように感じ、自分の血がシホのなかに飲みこまれていくようにも感じた。溶け合って一つの血だまりになる幻がまざまざと浮かび犬次郎は恍惚に沈んだ。今晩この女が死ぬのならば自分もこの世から滅びると思った。

 昨夜の嵐でまだ微かに湿っている土でシホの長い黒髪とぼろ衣が汚れているのを犬次郎は見た。また、手の痛みのせいかシホが赤ん坊のようなあどけない顔で涙を流しているのを見た。その涙を啜ろうとしたが、唇を寄せてすぐそばで見ると陽ざしで生命の露のように清らかに輝いているのに気付くと、犬次郎は夢から醒めたようにシホから離れた。彼は怯えた眼で辺りを見回すと、俊敏な動きでその場を走り去った。親子であれ二つの肉体が溶け合えぬという当然のことに犬次郎は涙を浮かべながら、白昼の太陽の光があまりに烈しいのを不意に感じた。彼ははたと立ち止まって空を仰いだ。夏の虚しいような青空に、太陽が赤ん坊のひたむきな泣き声のように輝いている。わしを駆り立てるのはお前か、と犬次郎は叫んでみたいような気がした。


   三


 シホが今度の人柱になると洗濯場でトメが誇らしげに言った時、それを耳にした女房たちが「白痴の女のくせに」という軽蔑に似た思いを胸深くに秘めたような面持ちを浮かべながら「ありがたいなあ、ありがたいなあ」と口々に言うなかに、一人ぽかんとして物言わぬ女があった。

「どうしたんじゃツル、ぼうっとして」と他の女房に肩を揺られたその女は、はっとして慌てて口を開き「シホが人柱て、おかしな感じがしよんじゃ。子供ん時はよう遊んだからの」と誤魔化すように笑みを浮かべた。

 それを聞いてトメが「そうじゃのお。ツルはよう面倒見てくれとったのお」と懐かしむように目を細める。面倒を見てくれとったという言い方がツルは気に入らず眉を顰めそうになるのをなんとか堪えて、夫の衣を川の流れに浸しながら昔からトメはこうやってシホを軽く扱うと憎々しく思った。そういえば幼い頃シホと遊んでから家まで送り届けると、トメがきまって申し訳なさそうに「すまんなあ、いっつも遊んでもろて、その上こうやって送ってまでもろて」と言い「あんたもお礼せんか」とシホの頭を掴んで下げさせていたことをツルは思い出した。あの頃はそのたびに「うちは好きで遊んで、好きで送るんじゃ、可哀想でとちゃうわい」と怒鳴ってトメに変わった子だと困惑されたものだが、いつの間にかそうやって怒りを爆発させられなくなった今の自分を想ってツルはかなしくなった。

 祭礼の準備についてあれこれ話し合う女房たちにツルは愛想笑いを送りながら、嫁となり母となった今ではほとんど会うことのなくなったシホに心を巡らせた。最後に会ったのは三人いる子供の一人目が産まれた時だった。

 どこからともなく噂を聞いてシホはツルの家まで祝いにやって来たのだった。赤ん坊が産まれたばかりで布団から起き上がる気力もまだない頃、夫も田圃から帰って家にいる夕暮れ時のことだった。シホは一匹のツマキ蝶を両手で大切そうに包んで訪れた。

 ツルは夫の腕に支えられて身体を起こし、布団の傍に満面の笑みで座るシホの手のなかの蝶を眺めた。シホの白い掌と蝶の雪を纏ったような羽が疲弊をやわらげるようでツルは自然と微笑んだ。ツマキ蝶はツルが子供の頃に最も好んだ蝶で、それをシホが覚えていてくれたことも温かかった。

 しかし反面、胸に鈍い痛みも広がっているのをツルは確かに感じていた。子を産み疲れ果てているからこそシホの昔となんら変わらぬ輝きはあまりに眩かった。シホの掌が少女の潤いを放っているのがなにか恐ろしさを感じるのとともに悔しかった。ツマキ蝶が、その清廉な羽が、心の底から好きだったこともツルは今の今まで忘れていたのだった。シホがそれを覚えていたことにツルは頬を綻ばせながら一方で自分への失望も強いられた。

 シホのやわらかそうな掌のなかで蝶が舞う夢のような光景にツルは耐えきれず目を上げると、シホの視線が自分の後ろに真っ直ぐ注がれているのに気付いた。そこには竹かごのなかに赤ん坊が置かれていた。ツルは夫に言って赤ん坊を籠から出してもらって自分の腕に抱き、その小さな顔をシホに見せてあげた。するとシホは珍しい動物を見るように赤ん坊を見つめてその頬に恐る恐る触れてみたりした。ツルには赤ん坊が二人でじゃれ合うように見えて安らぎを感じた。

 少しして赤ん坊が泣きだしたので、ツルは慣れぬ手つきで襟元をはだけさせて張った乳房を放り出し赤ん坊の口に含ませた。そうするとシホはますます好奇心に目をきらめかせて赤ん坊とツルとを食い入るように見つめた。

「かわいいじゃろ。うちらもこんなやった思たら嘘みたいじゃね」

 ツルがそう言いながら乳を飲ませ我が子を慈しんでいると、シホは突然ツルの肩をゆすりなにかをねだって駄々をこねる幼子のような顔をしたかと思うと、彼女も襟を開いて乳房を放り出した。ツルが驚いて物も言えないでいるのをよそにシホは赤ん坊に自分の乳房を寄せた。シホの乳房は赤ん坊が口に含むには相応しくないような清潔さで、齢と細い身体のわりに豊かでありながら、なおかつ若い力に漲っていた。

 母の本能からかツルは咄嗟にシホから赤ん坊を遠ざけて身をよじり、その拍子に夫の顔が目に入った。夫は赤ん坊の顔でもツルの身体でもなくシホの乳房を見つめていた。ツルはその眼のなかに驚愕と欲情の色を見て取った。夫とシホへの憎悪が湧き、そしてそれよりもはるかに巨大に今のこの自分への嫌悪が胸のなかにうねりをあげた。この浅ましい男の嫁でありその子を産み母になってしまったことが情けなくて声をあげて泣きたいようであったがそんな力もなかった。ツルは自分の乳房とシホの乳房とを見比べて自分の乳房が早くも母性で崩れつつあるのを知った。それきり黙り込んでしまったツルのかなしみを鋭く察したのか、シホは自分まで泣き出しそうな顔をしてとぼとぼと家を去った。

 それきりツルはシホと会わずにいるのだった。どちらも互いに訪ねることなくあれから三年ほど過ぎたが今でもあの時のシホの乳房があざやかに思い出せると思いツルは秘かに頬を染めた。

 様々な感情が渦を巻いて蘇るのに疲れてツルは洗濯物を浸している川に目をやったが、その水の透明なのにもシホの眼差しが思い出されてしまい、ツルはもう諦めてシホのことを心のままに想った。

 ツルは白昼の陽ざしを浴びて光の粒を散らす水面を見ながら、この歳で嫁にいかず母にもならず神への供物として命を散らすシホを胸がじりじりと焦がれるほど羨ましく思い、またシホはその運命に相応しいとも思い、崇拝する心すら沸き上がってシホの住む方角へ向かってそっと合掌した。


   四


 今晩の祭礼でシホが人柱になると、唯一の家族である祖母のヨシから聞いた文蔵はすぐに家を飛び出した。村の悪童のなかでもひときわ暴虐な文蔵はいつもは子分に花を摘ませるのであるが今日だけは自らの手で路傍の花を幾本も摘みそれを紐で束にして握り締めシホのもとへと駆けた。

 小屋まで来ると文蔵はいつものようにまず周囲に誰もいないか視線を巡らせ、それからシホの家族がいないかを気配で探り、そうしてシホしかいないことを確かめて漸く小屋の裏に足を踏み入れた。

 そこに座り込み佇んでいるシホを見るなり、文蔵の悪童らしい鋭利な眼差しが少しだけ微睡むように穏やかになる。「おい」と文蔵が短く呼ぶと、シホは振り返って彼を見るなり破顔して立ち上がり駆け寄った。文蔵はシホの顔を見上げてそれからふっと恥ずかしさがこみ上げて目を逸らしなにも言わずに花束を差し出す。

 色彩豊かなその花束をシホは受け取り胸に抱き鼻を寄せて匂いを吸い込んで、驚きと愉楽とを表情に露わにして文蔵の鼻の前に花束を突き出す。「ええ匂いじゃねえ」と言って文蔵が頷くとシホも頷いて文蔵の小さな頭を撫でる。「なにしよんじゃ」と文蔵は言うがその声はやわらかく頭の手を払い除けもしない。そうしてシホの口元に浮かんでいる静かな笑みを文蔵は見ながら胸の底が明るむような安堵を感じた。文蔵には自分がまだもっと幼かった頃に死んだ母親の病床に臥してか細い息を洩らしていた姿がもはや生きながらにして死骸のように見えたのが思い出されて、それと比べていつもと変わらず生命の感じに溢れているシホはきっと死なないと信じられるのだった。祖母の言ったことも祭礼があるということさえもまるで幻のようであり今目の前で微笑んでいるシホだけが心臓の鼓動のように生々しかった。

 そうやってされるがままに頭を撫でられているとシホの手が湿っているのに文蔵は気付いた。何気なく頭上の手を掴み見てみると裂けたようなむごたらしい傷があった。血は流れていないが熟れた果実のように爛れて傷口とその周りに湿った土がこびり付いている。

 文蔵は血なまぐさい掌に美しい野生を感じてすっかり見惚れてしまった。これほど恥もなく生命があらわになっている光景を文蔵は生まれてはじめて見るように思った。見てはいけないとこちらの頬が染まりそうなほどあけひろげだった。

 暗い桃色の傷口を見つめていると、文蔵はふとシホの肉体の濃く甘い匂いとすべてを溶かしてしまいそうな熱とを感じて、なにかに突き動かされるような乱れた動きでシホに抱きついた。衣を盛り上がらせる豊かな乳房に顔を埋めると、花の匂いが移っているのか草原のような野蛮な香りと女体の香りが混じり合ってむせかえりそうな芳香が鼻腔いっぱいに膨らんで全身に熱情が駆け巡る。

 突然飛びついてきた文蔵をシホはいつものようにやわらかい腕で花束を抱くのと同じように抱擁した。


   五


 太陽が没して残照の紫が大空に広がるのを半兵衛は路傍に寝転んで眺めながら、いよいよ夜が来ると思い雄叫びを上げたいほど昂ぶるのだった。祭礼のはじまりを告げる太鼓の音が夜更けの空に響くのを彼は夢想した。

 その低い音を合図にシホは村の広場に連れて来られる。松明が円環にならんで灯り、夜闇が赤々と照らされる、その中心に彼女は裸体で仰向けに寝かされる。その時のシホの死を前にしても揺らがない無心の面持ちを半兵衛は思い描いた。

 やがて、祭礼の折にのみ村民の前に姿を見せるミヤノババが現れて祈祷をする。それが済むと半兵衛のような賤しい身分の者をのぞくすべての村民が祈りの舞を踊りながら松明の円の外をぐるぐると回る。シホの肉体は、巨大な獣の舌のように揺らめく炎に染められて全身から血を噴きだすように輝くだろう。そしてその凄絶な肌に、少年から老人まで村の男のほとんどはシホとの秘密を想い息を荒くして神に捧ぐ舞に没頭してゆく。半兵衛は自分が彼らのように秘密を持たぬ代わりに、いつも影のようにシホを覗き見てきたがゆえに彼らの秘密を知り尽くして、その蜜のような味を彼らと同じように舐めまわし貪れるのだと思うとますます祭礼が待ち遠しく身悶えさえした。夥しい数の秘密の眼差しに曝されて天女のようにそれを飲みこむシホの肉体は脳天が痺れるように美しい。

 舞が終わると、村長がシホの身体に油をかけ、そして遂にミヤノババが松明の一つを持ちその炎をシホの豊麗なる髪に燃え移らせる。瞬く間にシホは一つの炎の塊となる。彼女の澄んだ叫びがまるで雷光の一閃のように夏の澱んだ夜を裂く。舞い散る炎が生命そのものの光輝のようにきらめきを弾けさせる。その瞬間にいよいよシホの生は天にまで高まりその肉体は神聖な光を放つだろう。死の影を微塵も漂わせずにむしろ生命が誕生するかのような清らかさで炎は燃え上がる。

 シホが煙とともに天へ昇った朝、火が消失して静謐な地の上には彼女の残り香のように灰が残る。ミヤノババはそれを掌にすくい高く掲げて川へと歩いていく。その後ろを村民は列になって歩く。

 そして、それから、と半兵衛は目を血走らせて想像する。川に辿り着くと自分は手足を固く縛られ灰を飲まされて、急流のなかへ放り込まれる。川を司る竜神のもとへシホを運び届ける舟として透徹した水へと沈んでいく。

 息が苦しくなり世界から遠のいてゆくなか、シホのすべてをゆるす清純な肉体が全身を包み込む。その時はじめて肌にまざまざとシホの温かさとやわらかさとを感じて法悦に自分を失い彼女にすべてをゆだねる。

 半兵衛は薄闇の広がりつつある空を仰ぎながらその瞬間を待ち望んだ。



                                  完

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