ソーディリアンfemale

藍上央理

ソーディリアンfemale

 朝日の照る庭を抜けて、娘は馬小屋へこそこそと入って行った。母親は母屋の自分の部屋で糸をよっている。父親は夜明け前に町へ行ってしまった。兄はどこかでぶらぶらしている。今のうちしかないと思って、娘は飼い葉桶の中に隠しておいた短剣を取り出し、砥石で研ぎ始めた。父や母、ましてや兄でさえ馬が短剣を食べやしないと、考えたこともないのだろう。

 それにしても、なぜ女が短剣を持ったりしてはいけないのだろうか。数多くのおとぎ話の中にだって女剣士の話はあるではないか。娘はそのことを思い、自分の夢を壊そうとする家族に対して腹を立てていた。

 娘はきれいな金髪を持っていて、母親はそれが自慢の種だった。器量が好くて、田舎住まいがもったいないほどだっ

た。けれど、なにがどうしたのか、鼻っ柱は男顔負けで、それを知っている村の少年などはよほどの物好きでなけば、娘のそばには寄らなかった。

 兄の気が狂ったように娘を呼ぶ声が近づいて来た。娘は飼い葉桶に短剣を突っ込み、素知らぬふりをして馬小屋を出た。

「何してたんだ」

「馬の毛づくろいよ、兄さん」

「馬小屋に入りびたるな、毛づくろいなんかしてなかったくせに」

 娘の兄は気に入らない様子で娘をねめまわしていたが、

「母さんが呼んでる。おれに呼ばれるまえに一度くらい自分から行ったらどうだ」

 兄は乱暴な素振りで妹を追い立てた。娘は心の中で兄の粗暴さに舌を突き出した。兄は妹を思いどおりにできないのでいらついているのだ。そのことくらい娘にはお見通しだった。しかし、思いどおりになったらなったで、それもまた気にくわないに違いないのだ。娘は母屋の戸を開け、母親の部屋へ入った。はたの前で母親が物憂げに糸をよっている。娘に気づいて母親は顔を上げた。

「ちょうどよかった……町へ行って布を問屋さんに持って行って頂戴よ」

 娘は布を二反預かり、それを編み駕籠に入れて町へ降りて行った。娘は油紙に包んである布を盗み見て、母親と自分は明らかに違うと確信するのだった。なぜかと言えば、娘ははた織りよりも兄が得意がって見せてくれる剣技のほうがおもしろいと思うし、自分の性に合っていると思うからだ。

しかし、ずっと昔隠れて兄のまねをして楽しんでいたら、兄がやってきてしこたま殴られた後、父母に告げ口されてしまったのだ。もうあの三人の目の届く所では木の棒だって振り回せやしない。唯一娘を慰めてくれるのは飼い葉桶の底の短剣だけだった。娘は鬼の目を盗んで、道すがら

木の棒を持って、やっやぁと振り回しながら歩いて行った。

「お行儀が悪いぞ」

 ふいに声をかけられ、娘は慌てて木の棒を後ろに隠した。声を掛けて来たのは、この間娘に手作りの鈴をプレゼントしてくれた少年だった。ふたりはすっかり打ち解け合っていた。あばたもえくぼだったに違いない。少年にとって娘の奇癖は愛敬にしか見えなかったのだから。ふたりはぺちゃくちゃと話しながら町へ降りて行った。問屋まで付き合ってもらい、その後少年と別れた。娘はうきうきとした足取りで家路に着いた。

 秋祭りは特別な日なのだ。何しろ自分で結婚相手を選べるのだ。娘は母親のおさがりのドレスを仕立て直してもらっている間中、足首に結び付けた鈴を鳴らしていた。手作りなので音色は少し悪い。けれど、他の少年達のように町の職人から買って来たようなどこにでもある代物ではないのだ。この鈴はこの世にたったひとつ。自分しか持っていないのだ。自分用のドレスだって、友達が新しく買ってもらうのだとはしゃいでいるのを見ると、自分は母親のおふるがいいのだというあまのじゃくな気持ちになってしまった。母親は呆れ返って、娘のおかしな癖をたしなめるように言った。

「おまえはとてつもなく幸せになるか、不幸のどん底に落ちるか、どっちかしかないよ」

 娘にとってそれはそれでいいのだ。自分が幸せだと感じていれば、どんなものであろうとそれは幸せなのだから。






 祭りの当日になり、娘は鈴が目立つように裸足になって村の広場に出掛けた。夕暮れて辺りは肌寒かったが、すぐに踊りで体が火照ってくることだろう。娘を待ち受けていた少年の腕にすがりつき、娘はつかの間自分はなんて幸せな人間なのだろうかと満足のため息をついた。踊りに踊って息が切れたので、ふたりは木陰に寄り添ってうずくまった。

 かがり火がふたりの見つめる世界をオレンジ色に染めている。ふたりは幸せそうに自分達の世界に浸り、お喋りもしなかった。娘は踊り狂う男女を眺めて思った。

 この中には鈴がもらえなかった娘や渡せなかった少年がいるのだわ。けれど、わたしはその中のひとりじゃない、と。

手作りの鈴をプレゼントしてくれると約束された後、鈴が欲しいかと尋ねて来た少年が二、三人いた。彼らは全員同じ音色の鈴を手に持っていた。娘はぷいとそっぽを向き、わたしには手作りの鈴をくれるひとがいるのよ、とまぬけな少年達を鼻で笑ってやったのだった。






 秋祭りが終わり、娘は婚約した。すると、突然娘はつまらなくなってきた。とても退屈してきた。みんなと違うことをしてやるつもりで選んで来たはずだったのに、何やらまんまと同じ道を歩まされているようなのだ。それに気付いた時から娘は憂鬱を感じ始めた。こんなつもりじゃなかった。もっとうまく、もっと素晴らしく人生を送るつもりでいたのに、自分の先を歩くくたびれた女達と寸分変わらない道を歩こうとしているではないか。

 次第に、憂鬱は腹立ちに変わっていった。少年から、新しく作る馬小屋の話を聞いても、新しく買い込む家畜の話を聞いても、裏の林を開いて作る畑の話を聞いても、子供は男がいいだの女がいいだのという話を聞いても、娘は腹を立ててヒステリーを起こすだけだった。

「うるさいわ、うるさいわよ! わかってるわよ!」

 これからの取り決めは自分でなくても、別の誰かがやっても同じことなのだ。心配しなくても今までのように物事は丸く収まり、みんなと同じ人生を楽しく愉快に過ごして行けばいいのだ。自分の意志など全く無関係なのだ。だけど、こんなことは全て間違っているんだわ、と娘は思い込んだ。

 ひとりきりになりたくて、よく娘は裏の林に隠れた。誰が呼ぼうと返事だってしてやらないのだ。そんな反抗的な態度を取っているうちに月日が経ち、遠い都で戦が始まってしまった。婚約者の少年は行かないと言う。ひとり息子だからだ。家を守らなければならないのだという。娘はその話を聞いて胸が悪くなった。このひとの気がきいていると思えたのは、鈴の時だけ。あの時だけ、このひとは誰よりも素敵に見えたのに、今では他のつまらない少年とそんなに変わらない。戦が始まったのなら、自分が行ってみたいと娘は思った。女剣士になってもいいじゃないかと思った。飼い葉桶から持って来て、今では婚約者の家の自分の部屋の戸棚に隠してある短剣を、寝る前に取り出して眺めて見るのだ。窓を開いて月の光で眺めていると、その短剣がふいにこの両手に余るような大きな剣になり、自分の自在になるのだ、と夢想するのだった。

 ある晩、おやと気付くと、窓の下をひとりの少年が通り過ぎて行くではないか。夜中にどこへ行こうというのだろうか。娘は好奇心にかられて外に出ると、後をつけて行った。その少年は、秋祭りの前に娘に鈴をプレゼントしようとして断られた、あの哀れなつまらない少年のうちのひとりだった。こんな夜中にひとりで雑木林の中へ入って行って何をするつもりなのだろうかと、娘はわくわくしながら付いて行った。少年は茂みをかき分けて、月の影とこずえの映る淀んだ池のほとりに佇んだ。チリチリと音をさせて、少年は懐から鈴を取り出した。そして、それをおもむろに池に落としたのだ。娘があっと思う前に少年は駆け出して、娘の目に映るのは波紋の広がる水面と風にあおられて揺れ動く茂みだけだった。

 娘は不思議な思いで池に近づいた。あの少年は池に魔法をかけたのだろうか。にごった水底には鈴の跡形すらなかった。多分淀みの底にうずもれてしまったのだろう。

 なぜだか娘の心はときめいていた。沈んでいった鈴が娘の心の中でチリチリと鳴り響き出したのだ。娘は目が覚めたように感じた。自分は選びそこなったのだ。あの時選ぶのでなくて、今さっきここで選ばなくてはいけなかったのだ、と。娘は少年の後を追おうかと考えた。しかし、思い直して池のほとりに少年と同じように佇んで水面を見つめた。紺色にくすんだ金髪が水面に垂れ下がった。娘は自分の顔の奥に映る鈴を探した。見つからないので、池の底を木の枝でつついてみた。枝の先には何も当たらないけれど、水はますますにごっていくだけだけれど、娘の耳には涼やかな鈴の音が聞こえて来るのだ。娘はにっこりと微笑んだ。正しい答えがわかった時のように満足げな笑みを浮かべたまま、家へ帰ってベッドに潜り込んだ。

 次の日は朝から騒がしかった。娘は朝一番にベッドから跳び起きると家事を手伝い、家畜に水をやるために村の井戸へ水を汲みに行った。井戸の回りにひとだかりが出来ている。娘は背伸びしながらそのひとだかりをかき分けて行った。あの少年が旅支度をしてみんなに別れを告げているではないか。娘はかすかに胸が締め付けられる思いがした。思わず手を差し伸べると、少年は娘の手を握り返しにっこりと笑って言った。

「出世するんだ」

 娘はぼんやりと少年を見送った。なぜだか娘は心にぽっかりと穴があいたように感じて、涙が込み上げてきた。少年に握り返された手の指先がじんじんと痺れて来て、その手を片方の手で押さえ込んだ。やっぱり自分が間違っていたのだ。どこから間違ってしまったのか娘にはわからなかったけれど、ただ悲しくて、娘は水も汲まずに桶を放り出すと雑木林へ向かって駆け出した。

 娘が池のほとりに立つと、水面にくたびれた帽子が浮いていた。水草にまみれ、垢で汚れたつばのある帽子だった。よく兵隊が被っている斜に構えた帽子に似ていて、それが長い年月を経てよれよれになっていた。濃い緑色の帽子で、いつもなら被ってみようという気にすら起こらないのに、この時だけはいつもと心持ちが違っていた。娘は水面から帽子を拾い上げると、深々と被ってみせた。ヤニと油じみた男臭い匂いがこびりついていた。誰か知らない兵隊の物なんだわ、と娘はひとりごちた。娘は手を池の中へ突っ込んだ。淀みの底を指先ですくい取った。水は凍りつくように冷たくて、あっと言う間に体から熱が奪われて行った。しまいには腕がぎりぎりと痛みだした。しかし、娘は丹念に淀みの底を探った。

 淀みは指先ではその深さを図れないほど深かった。娘はもっとよく探れるように、鼻先が水面につくくらい身を乗り出した。どろどろの池の水は濁りきり、手探りではさっぱりわからなかった。娘はようやく諦めて体を起こそうとした。その拍子に帽子がツイと水面へ飛んで行った。慌ててそれをつかもうとして、娘は足を滑らせて池に落ちてしまった。






 気がつくと、娘は知らない土地にひとりで立っていた。穏やかな田園風景が四方に広がっていて、初夏のような日差しがさんさんと緑の丘に降り注いでいる。ずぶぬれのはずなのに、娘はからりと乾いたこざっぱりとした服を着ていた。まるで軍から支給されたような白い木綿のシャツにうす茶色の短い丈のズボン。生まれてこのかた履いたこともない靴下と革靴。木靴の固い窮屈な感じが全く無くて、しっくりと足に収まっている。腰元に目をやると、見たこともない剣がサッシュに結わえ付けられていた。焦げ茶のサッシュは光沢を帯び、新品同様だった。頭には濃い緑の帽子を被っており、それは古ぼけてヤニ臭かった。

「こんにちは」

 娘ははっとして顔を上げた。目の前に馬にまたがった立派な身なりの人間がいた。金髪の巻毛を真紅のリボンで結び、娘よりももっと豪奢な格好をしている。しかし、武人の胸のふたつの膨らみで、そのひとが女であると知ることができた。

「今日から従軍するの?」

 女は穏やかに尋ねた。娘はまごついてしまって黙っていた。何がなんだか思い出せなかったのだ。こんな服を着てこんなところにいるのだから、なぜこんなことになってしまったのか覚えていてもおかしくないはずなのに、と困惑する娘を見て、女は意味ありげに微笑んだ。女はとても美しかった。白皙のおもてにばら色の頬。唇は愛らしい苺のようで、女である娘がうっとりと見惚れてしまうほどだった。

「冗談よ、さぁ、何をしてるの。しなくてはならないことがあるはずでしょう? しっかりして頂戴」

 女にそう言われて、娘は何となくそうだったような気がしてきた。そして、落ち着くと改めて女の身なりをじっくりと見てみた。女はふんわりとした白い水鳥の羽飾りのついた真紅の帽子を被っていた。不思議な色の混じった石の飾りが帽子についている。大きな翼のような襟には黒真珠の粒が垂れており、女が喋ったり動いたりするたびにゆらゆらと揺れた。ベストはベージュ色で、鹿のなめし革で出来ている。胸飾りには細かいひだと、金糸銀糸の刺繍が縫い取ってあった。女はどこかの貴族の生まれなのだろうか。娘がそう尋ねると、女は気安げに答えてくれた。

「出世したのよ、そうしたらこんな服が着られるようになったの。いくつかの試練を試されてわたしはふたつの選択を強いられたの。そして選んだのよ。どちらを選んでも幸せだったろうけど、わたしは今のままでも十分幸せだわ」

 娘は自分の間違ってしまった選択を思い出した。娘の苦い面持ちを見て、女は又言った。

「まぁ、なんて顔をしてるの……おまえの選択はこれからじゃないの。すでにおまえは試練のひとつを越えて来たのよ? どうしてそんな辛そうな顔をする必要があるの?」

 心を見透かされた娘は驚いて女を見上げた。そして気付いた。

「お腰の剣は? お忘れになったの?」

 女はそれを聞いて軽やかに笑った。

「まぁ、おかしなことを。わたしには剣は必要でないのよ。これから先、剣が必要になるのはおまえのほうじゃないの」

 娘は女の言葉に気の抜けた相槌を打った。それから又思い返して女の言った選択について尋ねた。

「おまえはただ自分を信じてまっすぐ歩いて行けばいいのよ。そうやってまっすぐ行くと、台座に剣が刺さっているのが見え始めるわ。台座の前には鏡があるわ。剣を取る前に鏡を覗いて見るのもいいわね、そこにおまえの生涯の男の姿が映るから。その剣もその男もおまえのものになるのよ。別に悪い話じゃないでしょう?」

 娘がうなずくと、女は唐突に別れを告げた。

「試練はおまえひとりが受けて意味があるのだから。わたしはただおまえにことづてがあってここに来ただけ。それに剣とか服とかこれから入り用になるものを渡すためにね」

 馬は前足で地面を蹴り上げ、軽やかにギャロップで娘の前から去って行った。娘はそれを見送った後、とぼとぼと何の変哲もない田園の小道を歩き始めた。道の両脇には小高いポプラの並木があり、時折道のはたに小さな泉がいくつも沸き出している。泉を隠すように柳が長い枝をしなだれ、黄緑に水面がきらきらと輝いている。泉のほとりには必ずと言っていいほど黒すぐりの茂みがあり、取れ頃のすぐりがおいしそうにたわわに実っている。穏やかな午後の日差し。どこの領主がこの田園を支配しているのだろうか。つぐみのさえずりがポプラのこずえを揺らし、風に揺れているかのように次々と木々が揺れてざわめきだした。

 娘がああと叫ぶまもなく、黒つぐみの群れが並木の間から飛び立った。それは黒いうんかのように空を覆い尽くした。娘は驚きに立ちすくみ、その光景を眺めるばかりだった。つぐみの黒い雲が田園の裾に消えてしまうと、並木道の向こう側から馬車がからからとやってきた。車輪の大きな、豪華な宮廷馬車のようだった。表面は桜色のビロード張りで真珠のようなガラス玉で縁取られている小窓が付いていた。馬車は娘の鼻さきで急停車して、おもむろに小窓が開いた。小窓から二重顎の貴人が顔を覗かせて、かん高い声で娘に言った。

「これは旅人どの、どうかね、今からわたしの屋敷に来られては」

 突然の招かれに娘は戸惑った。そうこうしていると、一羽の黒つぐみが舞い降りて来て、軽やかにさえずった。


  美しい田園、田園領主。領民は忠誠を尽くして娘を差し出す。

  晴れやかな田園、田園領主。領民はかしこみ敬い息子を差し出す。


 ひゅんと鞭がどこからともなく打たれ、さえずっていた黒つぐみは死んだ。もう一羽、愛らしいつぐみが舞い降りて来た。


  差し出された黒つぐみ、黒すぐり、おいしいパイにされてしまった。


 ぴゅんと鞭がうなり、その黒つぐみも死んだ。娘は怪しみだして、一歩退いた。馬車がカラコロと娘に近づいて来る。

 またポプラの木から黒つぐみが舞い降りて来て歌う。


  領主の午後のお茶を賑わす黒つぐみのパイ、黒すぐりのパイ。

  真っ赤なベリーソースにまみれた領主の口。


 娘は後ずさりながら、小窓から目と鼻と口だけ覗かせる領主に尋ねた。領主は何の問題もないと言ってのけ、娘ににじり寄りながら言った。

「ここの黒つぐみは冗談が好きでね、聞く者の耳を楽しませるが、嘘が多いのだよ、こうやって」

 びゅんと鞭がしなり、黒つぐみが又一羽死んだ。

「たまには罰を与えねばね」

 ポプラの枝葉の間で黒つぐみが騒ぎだした。


  黒すぐりは働き盛り、可愛いつぐみと昼も夜も楽しく暮らす。

  摘み取られてパイにされた黒すぐり、

  黒つぐみの悲しみがおいしいパイを作るコツ。

  一羽の黒つぐみに一房のの黒すぐり。おいしいパイを作るコツ。

  だけどもう黒つぐみも黒すぐりも残り少ない。

  愛らしくて食べごろのつぐみ。肉厚で汁気たっぷりのすぐり。

  他の田園からいただこう。ほん少しばかし、失敬しよう。


 鞭はうなり声を上げたけれど、小鳥達の小枝までは届かなかった。娘は小窓の領主の顔を見やった。領主の顔は醜い黒い猪の顔に変わっていた。娘は驚いて又一歩下がった。つぐみが一斉に泣きわめき出す。


  黒い領主は呪いをかけた、美しい田園そのものに。

  醜い姿を隠すために、鏡という鏡を嫌う。

  鏡の奥底の醜い己の魂を見ないがために。


 娘はスラリと剣を抜いた。剣の刃がつややかに鏡のように田園の風景を映し出していた。貴人の顔の領主が呆れた様子で忠告した。

「おお、旅人どのよ、嘘つむぐつぐみの言うことを本気になさるつもりなのか? 呪いをかけられたのはわたしのほうなのだ、さぁ、その剣を鞘にしまいなさいよ」

 娘の剣の刃が道ばたに転がる黒つぐみの姿を捕らえた。きらきらと太陽の光が黒つぐみの血に濡れた羽に照り返り、次の瞬間、そこには年老いた女が横たわっていた。領主が豚の声でわめきだした。鞭をぴゅんぴゅんしならせて、馬車ごと娘に突進してきた。黒つぐみが一斉にポプラの枝から飛び立った。コツコツと馬車に体当たりして、鞭が娘をかすらないように守ってくれた。娘は剣の刃を馬車を操る黒い猪の領主に向けた。ギラギラと太陽が容赦なく領主の体に火をつけた。領主は悲鳴をあげて車輪をまわした。馬車はあっというまに焦げつき、それが領主自身の体だったと後で知ることが出来た。娘がただ恐ろしげな思いで猪の死体を見下ろしていると、いつのまにか領民に戻った黒つぐみと黒すぐり達が娘を囲んで口々にお礼を言った。

「ありがとうございます、旅のかた。なんとお礼を言っていいかわかりません。どうか、ここに留まってわたくしどもの領主になってください。ぜひぜひわたくしどもの田園をあなたさまの手で守ってください」

 娘は仰天して、断ろうとした。すると、老婆達は泣き崩れ老人達は手を揉み合わせて、娘に頼み込み始めた。

「お願いします、お願いでございます。どうかわたくしどもの領主になってくださいませ。なんでもいたしましょう、なんでも差し上げます。あなたさまが望めば、わたくしどもの中で一番美しく若い娘をあなたさまに差し出しましょう」

 娘は目を白黒させて老人達を見つめた。どういうわけか、この老人達は娘のことを若い男だと勘違いしているのだ。しかし、これでは成り行きのままに有無も言わさない勢いで、領主にさせられてしまうだろう。よくよく考えてみれば、もしかして先ほどの黒い猪の呪いもこの老人達が自ら招いた災いだったのではないだろうか。そう考えてみると、今まで感じていた老人達への同情の念がさぁと薄らいでとてつもなく鬱陶しくなり始めた。しかし、しがみついてくる老人達を足蹴にもできず、娘は困惑して立ちすくんだ。

 老人達はずるずると娘の服にしがみつき、髪を引っ張り、剣の鞘を握り締めた。しまいには頭にまで覆い被さって来て、娘は老人達の重みに危うく押し潰されそうになった。老人達の山の下から這い出してみると、老人達はもはや娘には目もくれず、あの濃い緑の男臭い帽子にひれ伏して、若い娘をあてがっているではないか。娘は呆れ返って愚かな老人達に背を向けると道をまっすぐ歩きだした。






 あれほど明るかった田園の風景がいつのまにか暗くなり、太陽が沈んだかのように濃い紺色に辺りは包まれてしまった。娘は不安げにきょろきょろと回りを見渡した。どうやら狭い通路を歩いているようだ。それではあの田園での出来事は全て夢か幻だったのだろうか。娘は不思議に思いながら歩を進めた。

 道の果てがきらきらと輝いている。娘が目を凝らして見てみると、美しい剣と美しい鏡があった。娘はそれらのあまりの美しさに息を飲んだ。鏡は薄い水晶を幾重にも貼り合わせて造ってあった。どこから差し込んでいるのかもわからない光に鏡の面がきらめき、細かな光の粒を辺りに散らしている。鏡水晶の縁を象っているのは黄水晶や紫水晶で、星を生み出す黒い水晶もちりばめられている。薄い小さな水晶の花びらが重ねられ、愛らしい花のつぼみを造っていた。ばら色の水晶が大輪の花を咲かせ、水色の水晶は儚げな百合の冠を垂らしている。娘はチリチリと音を立てそうな薄氷めいた鏡を覗き込んだ。

 しかし、思いもよらず、鏡の中にはひとりの男が映し出されではないか。娘は驚きに息を飲んだ。あの冬の夜に林の池に鈴を捨てた少年。なぜこんなにも年を取ってしまったのだろう。娘は身を固くして、息を詰めた。男は娘には気付かず、鏡に映る剣を先に手に取った。その手首には銀色の鈴がチリチリと揺れていた。娘はじっと目もそらさず男を見つめていた。ふと男が顔を上げ、鏡を覗いた。その顔に浮かんだ笑顔。娘は心に暖かな花が咲いたように感じて、微笑みを返した。娘が見守る中、あっというまに男は煙になって、鏡の中の剣に吸い込まれてしまった。何とも言えない満ち足りた幸せな思いに、娘の心はのぼせていた。そして、剣に目をやり、何げなくその柄を握り締めた。

 その瞬間、娘は何もかも悟ってしまった。立派な身なりの女が選んだもののこと、自分が選んだもののこと、そして、鏡の中の男が永遠に自分とともに人生を歩むことを。

 剣の柄頭に結わえ付けられたあの鏡の中で見た鈴が、チリチリと娘の思いに応えるように鳴り響いていた。

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ソーディリアンfemale 藍上央理 @aiueourioxo

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